オデュッセイアが成立した前後の、ギリシア人の西方への進出について、簡単に述べておこう。紀元前8世紀中頃から2世紀間は、ギリシア人の植民活動の時代であり、西方にも多くの植民市が建設された。たとえば、シケリア(シチリア)島のシュラクサイは734年に建設され、マッサリア(今日のマルセイユ)は600年に建設されている。「オデュッセイア」が成立したのは、この植民時代の初期の頃であったであろう。ヘロドトス(「歴史」第4巻152)によれば、サモス島の商人コライオスは、エジプトへ航行する途中で大嵐に遭い漂流して、はからずも「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡)を越えて、タルテッソスへ到着した。これは今日のスペイン南西部に当たり、古くから通商の要地であったらしい。そこからコライオスは多量の銀を積んで帰ったため、長者として有名になったという。この事件は紀元前638年頃のことと考えられるが、その頃でも西方への航海がきわめてまれであったことを示している。
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ロートス常食人 ペロポネソス南端のマレイア岬を越えて、西部地中海へ入りこむのであるが、その最初の漂流地「ロートス常食人」の国の位置については、古代から現代までの意見が一致している。すなわち、アフリカの北岸チュニジアの辺りである。
キュクロプスの国 シケリア(シチリア)ということが古代以来の支配的な意見である。すでにツキュティデスがこの島の最古の伝説的住民として、キュクロプスたちとライストリュゴネス人とを挙げている。
アイオロスの島 風神アイオロスの浮島へ漂着するが、これこそまったく空想的な島であろう。
キルケの島 ラティウムのケルケイの岬をその地だと比定していた。この比定では島が岬にされてしまっているのである。
メッシナ海峡 カリュプディスとスキュレとに挟まれた海峡は、潮流が規則的に渦巻く難所だとされている。このような海峡は地中海では、ただ一つメッシナ海峡(イタリア半島のシチリア島の間)があるのみである。
日輪の神の島 ヘリオス(日輪の神)の領地トリナキエ島へ着くが、これは古代では一般にシケリア島だとされていた。しかし、この島にはヘリオス神の家畜以外には食物がなかったらしいから小さな無人島であり、それゆえ実際のシケリアではあり得ない。つぎの漂着地、カリュプソの住むオギュギエ島は、海の真ん中にあり絶海の孤島だとされている。ベラールはジブラルタル海峡のアフリカ岸に比定している。
パイエケス人の島 ケルキュラ、今日のコルフ島。しかしこの島はまったく空想的な色調を帯びているから、それを実際にケルキュラと比定してみてもあまり意味がない。
イタケ島 古典期にも同名の島があったが、「オデュッセイア」に記されたイタケ島の位置や地形は漠然としており、しかも古典期のイタケ島とかならずしも合致していないのである。古典期のイタケ島はコリントス湾の出口に近い小さな島であるが、ドイツの学者デルベルトは、その北のレウカス島こそがホメロスのイタケ島だと主張した。今日では古典期のイタケがホメロスのイタケにほかならないという説が有力になっている。いずれにしてもホメロスは、イオニア地方の人らしいからギリシア本土の西側の地理には精通していなかったらしい。