新興経済人の勃興
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大戦景気に対して経済界は全体として反応が鈍かった。その中で千載一遇の好機と見てとって一気に勝負に出る野心的な実業家もいた。代表的な人物は神戸の貿易商、鈴木商店の支配人の金子直吉である。金子は一代で鈴木商店を三井や三菱と並ぶ総合商社に育て上げた。昭和2年の金融恐慌で経営が破綻し、挫折を余儀なくされることになる。が、それ以前は一時、50数社を傘下に置く一大企業群を作り上げ、「財界の風雲児」と呼ばれた。
石井定七事件
高橋内閣がスタートして三ヶ月余過ぎた11年2月28日、大阪の材木商の石井商店の経営破綻が明らかになった。石井定七は材木商というよりも大阪で1,2を争う相場師として知られた。本業の材木だけでなく、株、米、綿糸などの取引に乗り出した。反動不況の後の中間景気が訪れた10年夏、再び米の取引で大勝負に出た。堂島の市場で大々的に買占めを行う。期米の相場は10年8月頃は一石当たり35円前後だった。強気の石井は11限月の受渡を建値45円55銭で566,200石分、代金総額2300万円余を取引所に積み上げた。大阪以外の市場でも米の買占めを展開する。全部で93万石の米を買った。並行して株の買占めも行った。狙いをつけたのは鐘淵紡績の新株である。鐘紡新株の相発行株数は16万株だった。石井は長期清算取引による空買いも含めて21万株も買った。株価は5月まで200円台だったが、石井の買占めで一時は417円まで暴騰した。だが米取引で敗北を喫した。株式受渡資金に窮した。翌日、堂島米穀取引所に対する追証の納入も不可能となる。
石井事件の影響はそれだけではなかった。資金を提供してきた機関銀行の経営破たんを招いた。高知市に本店を置く高知商業銀行だった。臨時休業、高知県下の銀行で取り付け騒ぎが多発した。石井の負債は総額8437万円。銀行からの借り入れは2933万円余。もっとも貸し込んだのは高知商業銀行で850万円、この銀行は総資産が1700万円、総貸出金が1000万円程度だった。問題は石井の借り入れの手口である。石井は架空の借り入れ証書を利用した。まず自分の手形を高知商業銀行に持ち込んで、架空の預金証書をつくらせる。これを他の銀行に提出して融資を受けた。同時に一部をその銀行に預金した。預金が増えるからと言って、銀行はどこでも喜んで話に乗った。銀行の預金獲得競争と貸し出し競争が背景にあったのだ。石井はこれに乗じてあちこちの銀行から次々と融資を引っ張り出した。
女帝・尾上縫
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この事件は69年後1991年に発覚した尾上縫事件とそっくりである。尾上は大阪の料亭の女将だった。その数年前から大阪と東京の株式市場で3000億円の資金を動かす女相場師として知られた。尾上は株取引の資金を東洋信用金庫の架空預金証書によって調達した。東洋信金の支店長と共謀し、総額3500億円に上る架空の預金証書を作らせた。それを使って、日本興業銀行など東西の銀行やノンバンクから4000億円以上の金を引き出した。債券は預金保険機構からの贈与などで穴埋めされた。が、興銀など大口債券者は結局、穴埋めできなかった残りの1200億円の債券を放棄させられた。
機関銀行
日本に初めて銀行業が導入されたのは、明治2年1869年、為替会社の設立が認められたときである。5年に伊藤博文の進言に基づいて国立銀行の制度ができた。10年から11年にかけて国立銀行設立ブームが起こった。だが後の財閥は国立銀行の設立には消極的で独自の普通銀行の新設を目指した。日清戦争後の28-9年頃、起業勃興を背景に銀行新設ブームが起こった。国立銀行の大部分は、30年前後に普通銀行に転換する。企業金融を活発に行った。34年には全国の銀行の数は約2400に上った。うち普通銀行は1867行に達した。ところが33年から34年にかけて金融危機が起こった。その結果、大正2年1913年までに374行が消滅した。日本の銀行界は明治初年の銀行制度スタートの時から構造的な問題を抱えている。それは「機関銀行」という体質だった。機関銀行は、事業家が自分の事業経営に必要な資金を調達するために便宜上、経営する銀行のことである。欧米よりも遅れてスタートした日本の資本主義は最初から資本不足に悩まされた。後の財閥も含めて、事業家たちは事業を興す一方、自分で銀行を持ち、集めた預金を事業資金に回した。機関銀行では同一人物が事業と銀行の両方を経営する。銀行の貸し出しがもう一方の事業に集中するのは当然の成行であった。貸し出しは放漫になる。銀行経営の健全性も歪められる。政府は明治26年、銀行条例を制定して、大口融資の規制と貸付の分散を図ろうとした。だが、銀行側の抵抗にあった頓挫する。機関銀行は温存される。大正バブル崩壊の際も、銀行の破綻が相次いだ背景に、明治以来の機関銀行の問題が横たわっていたのである。
大正時代に入って金融不安が起こるたびに問題になったのが、機関銀行という金融機関の体質である。経営危機が表面化すると預金者の取り付け騒ぎが起こった。それが連鎖的に広がって全国的な金融不安を引き起こした。政府も大正9年、反動不況に遭遇した頃から、預金者の保護を考え始めた。機関銀行の性格を取り除く方向に動き出した。第一に中小銀行の合併を促進させようとした。9年7月銀行条例を改正する。銀行の合併条件を緩和した。その結果9年から11年にかけて、各地で合併が進み、普通銀行が129行、貯蓄銀行の合併も57行に上った。第二に政府は貯蓄銀行の体質改善を図ろうとした。普通銀行は「証券の割引をなし、または為替事業をなし、または諸預り及び貸付を合わせなす」という金融機関である。
それに対して貯蓄銀行は「複利の方法をもって公衆のために預金事業を営む」という特殊性がある。実態を見ると多くの貯蓄銀行は普通銀行と親子の関係にあった。親銀行である普通銀行は機関銀行という役割を担っている。機関銀行たる親銀行は貯蓄銀行が受け入れた預貯金を不健全な貸し出しに投じるという図式が出来上がっていたのだ。10年4月、貯蓄銀行の普通銀行業務の兼営を禁止する。資本金も従来の3万円から50万円以上に引き上げた。組織形態も全て株式会社として、規模の拡大を図った。預貯金お払い戻しの担保として、受入額の3分の1以上に相当する国債を供託させることにした。銀行の債務について各取締役は連帯して弁償の責任を負うと決めた。その結果、貯蓄銀行の経営内容と体質が改善され、金融不安の原因が取り除かれたかというとそうはならなかった。条件が厳しくなったため、多くの弱小貯蓄銀行は規制を逃れるために普通銀行への転換を図ったのだ。貯蓄銀行法が施行された11年1月1日、貯蓄銀行636行、普通銀行1327行、1年後、貯蓄銀行140行、普通銀行1794行。経営内容の悪い貯蓄銀行の経営者は責任を回避しようとして、いっせいに普通銀行への逃げ込みを計った。逃げ込んだ銀行や親銀行は、大正9年の反動不況以後、抱え込んだ不良資産や欠損を隠し続けることに成功した。不良銀行の経営者達は過去の失敗を隠したまま、口を拭って生き延びようとした。こうして銀行が抱える不良債権は先々まで持ち越されていくのである。

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