第2章 シュリーヴィジャヤおよびシャイレーンドラ時代(7~9世紀)
2世紀間の空白 前章では最古の資料によってヒンドゥー・インドネシア諸王国についてみた。その後の歴史を秩序付けてただることができるようになるのは、ずっと後代である。それどころか、当時既に乏しかった資料は、その後スマトラについては約1世紀、ジャワについては2世紀にわたって全く見出せなくなり7世紀の半ばにいたって再び現れ始める。こうした資料の空隙は、主として中国人のこの地域に対する関心の希薄化に起因するが、7世紀の初め頃、歴史に姿を現した唐王朝(618-907年)が再び関心を示し始め、この地域の歴史にある程度の光明が投ぜられることになる。多少まとまった資料を利用できた3つの地域即ちボルネオ(カリマンタン)のクタイ、西ジャワおよびスマトラを再び取り上げると、ボルネオは極めて消極的な成り行きを示す。ムーファヴァルマンの奉献柱も、カプアス河流域の仏教の金言もまた、以後の消息は見出せない。わずかにクタイの年代記が、独特の非ジャワ的なヒンドゥー・アダット(慣習法)および明らかにヒンドゥー音を示す国王名を掲げる「ムアラ・カマン王国」について物語るのみである。この王国はマジャパイト王朝期にジャワを経由してヒンドゥー化されたクタイによって征服され、17世紀にイスラム化することになる王朝であったのかもしれない。西ボルネオもまた漠然としている。669年、後のブルネイに比定される婆羅(Po-lo)からの使節が中国を訪問し、1406年にいたるまで通交しているが、当時この国がヒンドゥー化されていたかどうかは全く明らかでない。ボルネオかバリかそれともまた別の地域に比定すべきか不明な婆利(Po-li)も西ボルネオのヒンドゥー文化を確認する手がかりとはならない。というのは、ジャワおよびスマトラが中国史料に再び取り上げられるようになる時期からこの婆利についての情報が全く杜絶えてしまうからである。これに対し、中国史料が452年以降沈黙し640年から再び取り上げ始める(門+者)婆、つまり「ジャヴァ」(Djawa)がジャワであることに疑問はない。このジャヴァがジャワかスマトラか、またはこれらの双方を意味するかが確かでなく、そのためジャヴァ(門+者)婆に位置するとされる。
インドネシア古代史 3/9~石碑から読み解く古代史
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