カテゴリー: 読書

田中角栄が遺したもの

総理・総裁に立候補した時に掲げたスローガンは、『決断と実行』だった。簡潔にして明瞭。「国民が待ち望んでいるものは決断と実行である。政治家は優柔不断ではダメだッ。政治家が優柔不断だと国民が迷い、国家経済が停滞し、延いては国際社会に大きな迷惑をかける。それが政治家のしかも総理大臣たる者の責務である」 「諸君、共に働こう! 国家、国民のために。それが真の政治家だ」
田中角栄は「日本列島改造論」を唐突に打ち出したわけではない。昭和42年、東京一極集中がもたらす日本の産業・経済構造の弊害(交通渋滞とそれに伴う公害、事故の多発、通勤ラッシュ、住宅難)を解消し、富の分散、地方経済の均等、人口の分散を考える発想から生まれたものである。昭和43年に発表された「都市政策大綱」で、全国に20万人から50万人前後の都市をすう銃作り、そこにすべての産業を分散し、全都市を高速道路で結ぶことによって東京一極集中を緩和し、通勤地獄を緩和し、住宅難を解消し、快適な生活環境都市を全国に出現させようとするもの。そこには日本人の食糧確保のための「永久農地」が組み込まれていたことも忘れてはなるまい。
60%の支持率をバックに、今この時に成し遂げなくては、今後数十年は国交断絶が続く。日本の長い歴史は中国と共にあった。アジアの一員としてそれはあってはならぬことである。国交を正常化させてこそ国際国家だ!
中国と国交を回復するには、必然的に台湾との国交を断絶せざるを得ない。日本の国益を考えたら大国を取るほうが賢明ではある。
確かにこれは勇気ある決断と素晴らしい相場観。
宮沢には昔から酒乱の癖があり、酒が入ると、日頃、快く思わない人間を猛烈に皮肉るところがある。これは東京大学法学部卒、大蔵省入省、総理大臣秘書官、衆議院議員とエリート街道を歩いてきた人間の「東大法学部卒以外は民」と国民を見下す傲岸不遜な気質の象徴でもある。
ここで疑問なんだが、この台詞を東大構内で発言したらどうなるんだ?
理Ⅲの連中が「へー、そうなんだぁ」と冷笑しそうな感じがする。
旧東京佐川急便5億円不正献金で罰金、脱税70億円で逮捕、晩節を汚した金丸信
懐かしいな、罰金20万円だったかな。ワリコーがっつりためこんでたな、あの狸は。
「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」 小沢一郎が公明党と合体した新進党を設立し、幹事長当時に吐いた名台詞。 
羽田、海部意識。
外交の真髄「国の外交とは力対力」
これ、良い写真なんで載せておく。
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1973年10月ソ連でブレジネフ書記長との会談の席に臨んだ田中角栄の第一声が、「日ソ間の諸問題の中には、四つの島(北方領土)の返還問題が含まれているか、どうか。まず、それをお聞きしたい!その返答が先に聞きたいであった。北方四島を占領したソ連としては何としても避けたい問題であり、ブレジネフ書記長はなんとか話を反らそうとするが、田中はテーブルを叩いて、「北方領土の話をしに来たんだッ! 他の話はそのあとッ。これは日本国民の悲願であるッ」と詰め寄った。この剣幕に驚いたブレジネフ書記長は、「ヤ・ズナーニ(そう理解する)」と小さく答えた。田中角栄は、「それでは弱い!含まれるのか、含まれないのかッ。ご返事をいただきたい!」と追い込んだ。ついにブレジネフ書記長は「ダー(イエス)」と答えざるを得なかった。こうして日ソ共同声明が発表され、北方領土は継続交渉となったのである。
ブレジネフとの会談のことを角栄本人が話している貴重なYoutube動画。

田中角栄が遺したもの―日本再生の活路を角栄流国富政治に探る 田中角栄が遺したもの―日本再生の活路を角栄流国富政治に探る
渡辺 正次郎

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【角栄伝説】
2011.02.15: 田中角栄 その巨善と巨悪 ~新潟の角栄
2010.12.03: 田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~官僚掌握の布石
2010.06.24: 政商 昭和闇の支配者 ~叩き上げ人生
2010.05.11: ロッキード事件 葬られた真実
2010.04.08: 野中広務 差別と権力 ~伝説の男 
2010.01.26: 黒幕―昭和闇の支配者 
2009.11.17: 巨額暗黒資金 全日空M資金スキャンダル2
2009.10.19: 世界の大学ランキング 
2009.08.07: 角栄の逃税学3 ~遺産相続の落とし穴 
2009.07.31: 角栄の逃税学2 ~逆さ合併 
2009.07.24: 角栄の逃税学 
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争 
2009.06.08: 魂の教育 
2009.03.23: 闇将軍 
2009.03.13: 裏支配 
2008.11.11: ユダヤが解ると世界が見えてくる


「少年A」 この子を生んで 2/2~子供の怖さ

Aが小学校3年生のときのことです。兄弟3人が、三つ巴で取っ組み合いの喧嘩をしているところに帰ってきた夫が、長男のAに手を上げ、怒鳴りつけました。するとAは、急に目を剥くというか変に虚ろな目になり、宙を指さして、「前の家(多分、北区の社宅のこと)の炊事場が見える、団地に帰りたい、帰りたい」とうわ言のようにしゃべりました。その様子がとても普通ではなくおびえたようにガタガタと震えだしました。わたしは驚いて駆け寄り、「A、大丈夫やから。お母さんが全部、ちゃんと守ったるから。大丈夫やからね」と震えているAをしばらく抱いていました。
「直感像素質者」としての才能が覚醒した瞬間だったのだろうか?
「直感像素質者」:パッと一瞬見た映像がまるで目の前にあるかのように鮮明に思い出すことができる能力がある人のこと。しかし、一度見たものが、数年後でも原色で色鮮やかに再現されるので、その残像に苦しむケースもある。
Aは粘土でテレビで見た怪獣や読んでいる漫画のキャラクターを器用に作るのを眺めていました。しかしAはいつまでも怪獣ばかり作っていたわけではありませんでした。学校の図工の時間に、Aが赤色を塗った粘土の固まりに、剃刀の刃をいくつも刺した不気味な作品を作ったのは小学校6年生のときでした。「粘土の固まりは人間の脳です」と説明し、聞いた担任の先生がびっくりして夜7時ごろに家を訪ねてこられたのです。私はその実物は見ていませんが、先生から大体の説明を聞き、剃刀の刃をいくつも刺していたことに驚きました。なぜ、そんな危険なものを作ったのだろうか、と。しかし、先生はAが「脳」を作ったことの方が気になる様子でしたので、工作を作るちょっと前、脳の機能について樹木希林と学者が解説するという内容のNHKの教育番組をAが私と一緒に見たことを話し、その影響ではないかと先生に説明しました。
ぎょっとする作品だね。
「念のためMRIを撮ってください」通常は問診と性格テストぐらいだそうですが、思いきってお願いしました。その結果、脳に異常はありませんし、IQも70で普通です、と言われました。
いや、普通じゃねーだろ。一応下方2σだぜ。IQは通常ならば100を中心に1σ=15で分布している。
「母さん、これ」Aが中学2年(1996年)の5月11日、母の日のプレゼントに花嫁姿の私を描いてくれました。Aは他人に良く思われようとする小細工のできない不器用な子でした。私に絵を手渡すと、トトーッと二階に上がっていきました。「母さん、何か欲しい?」前の日に尋ねられたので、「気持さえこもっていたら別になんでもええよ。無理せんで」 するとAは私たちの結婚式の時の写真を押入れから探し出してきました。Aは私の若いころの写真を見て、不思議そうに、 「母さん、この女の人、誰や?」 「母さんなんやけど」 「へえー」 私は出産後にずいぶん太ったので、Aや子供たちにはわからなかったようです。Aはその写真を見た後、漫画用の画用紙の裏に一気に描き上げてくれました。Aが私にプレゼントらしいプレゼントをくれたのはこれが初めてのことでした。私は嬉しくて嬉しくて、その絵を炊事場にずっと貼っていました。そして引っ越しした今でも、この絵だけは大切に持っています。
ヒトラーについてはあの子と一緒にNHKの『ヒトラーの野望』というドキュメンタリー番組を一緒に見た後、『わが闘争』を買って欲しいとせがまれて文庫本を買いました。「へー、すごいな」 Aは、ヒトラーに感銘を受けたようでした。
「自分の好きな本を5冊上げてください」と鑑定医に尋ねられて、Aは『果てしない物語』(映画ネバーエンディングストーリーの原作本)、わが闘争の上下、ゲーム理論の思考法、推理脳を鍛える本 を挙げていました。Aの考え方には私が不用意に買い与えたわが闘争の影響もあったのかもしれません。
10代前半で発禁本に関心ありか。やはり、頭の悪い子の発想じゃないな。

「少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記 (文春文庫) 「少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記 (文春文庫)
「少年A」の父母

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【本当にあった?怖い話】
2011.09.12: シグルイ 山口貴由1/2 ~駿河城御前試合
2011.07.21: 死刑囚 最後の一時間 1/2 ~死刑の実態
2010.12.20: 快楽殺人の心理
2010.04.26: あなたの知らない精子競争 ~精子の数の決定要因
2010.03.19: 実在上のヤンデレとその発生起源 ヤンデレの研究
2010.02.03: 彼氏を不安にさせる行動パターン
2009.10.16: 華麗なる投資一族 明るい家族計画
2009.07.23: タイ旅行 スローライフと?な習慣


「少年A」 この子を生んで 1/2~普通の家庭

私は子供たちの世話をするために、結婚してからずっと専業主婦できました。働くよりも節約をし、その分子供が帰ってくる時間にはなるべく家にいてあげよう。勉強なんか出来なくてもいい(実際Aは昔から勉強嫌いで成績には無頓着でした)。今まで親として何をやっていたのか?息子の何を見たいたのか? 私も自分が当事者ではなく、一般の人と同じ立場で、テレビや新聞でニュースとして見ていたら同じように考えたと思います。親のくせに、気付かないなんて絶対おかしい。親の不注意で、子供がこうなったに違いないと。あるいは、子供に無関心でほったらかしていたか、今時の親らしく、きっと教育ママで、スケジュールを一杯詰め込んで遊ぶ暇も与えず、子供をがんじがらめにしていたか、そのどちらかの結果、こんな事件が起こったのだ。そんな環境の家庭なら無理もない、と - きっとテレビを見ながら、そう考えていたでしょう。でも私はどちらのケースにも当てはまらない、と自分では思っていました。3人の息子のことをいつも考えているつもりでした。人一倍、子供のことについては気をつけているつもりでした。次男のPTAの役員とかもしていましたし、Aのことでよく学校から呼び出され、お詫びなどをしに走り回り、学校の先生とも話す機会が多かったと思います。子供が何かしたら、全部一緒にフォローできる態勢はいつも取っておこうと常に考え、そうしてきたつもりでもいました。
この本を読んで思うのが、この家庭が特別に問題があったようには思えないこと。事件後、少年院でも、その中にいる少年たちから王のような扱いを受けていたと聞いています。この少年Aの特異性は、家庭環境によるものではないと思えること。凡庸な両親が少年Aを感じ、抑えるのは難しかったのではないかとも思えます。
起こってみるまで、本当に自分の子供が分かりませんでした。恥ずかしい話かもしれませんが、表に感情が現れず態度に出ない子は、分からないというのが今の気持ちです。例えば、茶髪にピアスとか、暴走族のグループに入るとか、集団でさぼったり喧嘩をしたりとか表面から見えることで発散してくれたなら、その方が逆に親からも判別がつくし、いいかもしれません。私の知っていたAは、親バカかもしれませんが、人に必要以上に気を使うなど繊細でやさしいところのある子でした。すぐ人を信じて傷つきやすく、臆病で純粋すぎる。
「私はずっと子供見ていたつもりですけど、騙され続けていたのでしょうか?あの年頃で子供が親を完全に騙す、そんなことができるのでしょうか?」
お子さんの成績が悪くてお悩みのご両親!! 良いじゃないっすか。頭悪い方が平和で安心ですよ。どうせなにもできやしません。頭が良い子は”リスク”が高いですから。先天性のものだとは思いますが、思い当たるなぁ。例えば、赤ちゃんが言葉を覚える過程において「明らかに言葉は理解しているのに、自分の口からは言葉を発しない」とか、こういう傾向だと思うのですよ。その子が小学生になって知に対する好奇心が旺盛で、よく学習し、多くの本を積極的に読んでいて、こちらよりも深い知識と洞察力を持っていて、話す時はウカウカしていられないくらいに成長していたらどうします? 親としての責任と緊迫を肌で感じると思いますよ。
私は別れ際に、透明な藤色のプラッスチックの数珠を、Aに差し入れました。Aに「数珠にいる?」と尋ねると「うん」と行ってくれました。本当は手渡したハンカチも、Aがほしいと家裁の係官に言ったので、それも一緒に差し入れようと思ったのですが、ハンカチは自殺の道具になる恐れがあるからダメと言われ、「わかりました。じゃ、数珠だけお願いします」と手渡したのです。それは干支の飾りがついたもので、深い意味もなく、持っていると多少でもAの気が落ち着くかもしれないし、お守り代わりになると思い、あの子の生まれた干支の犬の飾り付の数珠をあらかじめ買っておき、ハンドバッグに入れて持っていったのです。なぜ数珠にしたのかと言いますと、Aが不登校を起こすゴールデンウィーク前、急に、「おばあちゃんのお墓参りに行きたい。数珠が欲しい」と珍しく自分から言い出したのを思い出したからでした。数珠なんて珍しいものをほしがるな、そんなモノが今、学校でも流行っているのかしら、などと思いつつ、「近いうちに一緒にお墓参りに行こうな」と、Aと話していました。
うーん、俺も数珠が好きだ。宗教的な理由は無い。ここにでてくる「透明の藤色の数珠」しかも干支のデザイン付。わかる。俺は現在、黒数珠だが、透明もお洒落だなとは思っていた。
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インドネシア 多民族国家という宿命 3/3 ~国際的位置づけ

非同盟から反共へ
インドネシアの外務省のエリートコースは国際機関が本部を置いているニューヨークやジュネーヴの大使館勤務だといわれている。日本が得意とする二国間外交とは違って、インドネシアは伝統的に多元的外交(多国間強調主義)を原則として、東西冷戦下ではどちらの陣営にも距離を置くことで国家主権の維持と国益の獲得を目指してきたからだ。インドネシアの外交官は自らの国の立場について胸を張りながら「南の代表」「穏健派イスラムの代表」「ASEANの盟主」「非同盟諸国の雄」などと表現する。マルティも最初、ニューヨークの国連本部で勤務した。スカルノが「インドネシア共和国」の独立を宣言するのは1945年8月17日。オランダの独立戦争を経て、実際にインドネシアが国際社会に登場するのは50年8月からである。米ソの冷戦はすでに本格化しており、スカルノは東西いずれの陣営にも属さない反植民地主義を掲げた。その外交原則の頂点が55年4月のバンドン会議だった。この会議は後に新たな外交潮流となる非同盟運動の原型となった。しかし非同盟運動の中心国としてインドネシアの国際的地位を向上させたスカルノ自身は、議会制民主主義の失敗から次第に社会主義に傾斜、反米・親中国路線を強めていく。インドネシアは65年1月、対立していたマレーシアが国連安保理非常任理事国に選ばれたことを理由に国連を脱退。米国や国際通貨基金(IMF)は経済援助を停止し、経済は破綻(インフレ率500%)の危機にさらされた。ちなみにインドネシアの国連脱退は、国連創設以来唯一の脱退例となっている。欧米への過度の経済的な依存は、国民に露出されないことも重要だった。アジア通貨危機がインドネシアを直撃した97年10月、暴落する通貨ルピアに対してインドネシアはIMFに緊急要請した。IMFは翌98年1月、融資の条件として経済構造改革に関する協定をインドネシアと締結するが、その際、スハルトが協定書に署名している横でIMFのカムドシュ専務理事が腕組みをして見下ろしている写真が報道された。
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国民は「屈辱的だ」と反発し、威信を失ったスハルトはその4ヵ月後に辞任に追い込まれた。インドネシア中央銀行によれば2000年末の時点での政府と国営企業の対外債務残高は約800億ドルに達していた。
 97年7月、社会主義国のヴェドナムがASEANに正式加盟した。これはASEANの成り立ちの要素だった「反共同盟」からの脱皮を意味し、97年にラオスとミャンマーがそれぞれ加盟、内戦が勃発していたカンボジアの加盟も時間の問題となる。(正式加盟は99年)07年に発足30年を迎えたASEANは、東南アジア域内10ヶ国を包括する「ASEAN10」を事実上完成させ、「東アジアの奇跡」は永遠に拡大していくかのように思われた。しかし、このとき、タイではすでに通貨バーツの下落が始まっていた。そして通貨危機は瞬く間にマレーシア、インドネシアに波及していった。
 手持ち通貨の価値が半分になったことを庶民が実際に体感するのにはしばらく時間を要する。インドネシアの通貨は1997年10月の時点で1ドル3200ルピアだったが、半月後に6000ルピアに下落する。食料品や日用品など主要消費物資の価格は約一ヵ月後、二倍以上に高騰し、市場は殺到する人々でパニック状態に陥った。政府が同年11月に不良債権を抱える16銀行を一斉に閉鎖したことで、社会不安をいっそう助長させた。危機は各国政府に対して。市場のグローバル化に対応するためには世界基準の自由化と民主主義が不可欠なことを認識させ、国家と企業に「良い統治」を求めた。市場による形のない圧力はスハルトにとって想定外の干渉だったに違いない。
 通貨危機はインドネシア外務省にとっても最大の試練となった。スハルトが最も警戒した外部からの自由や民主主義の要求が99年の東ティモール住民投票と騒乱事件をきっかけに具体的な形となって現れてきたからだ。オランダのラジオ局記者がメガワティ政権のユスリル法務・人権相にインドネシア国内の人権侵害状況を質して、怒鳴られているのをかたわらで聞いたことがある。ユスリルの主張はこうだ。「人権、人権というが、オランダがインドネシアを植民地支配していた300年の間、言葉にできないほどの人権侵害が行われてきた。あなたたちの指摘する『人権』とはいったい何を意味しているのか」米同時テロはイスラム勢力を刺激する危機でもあり、対米関係修復のチャンスでもあった。しかしインドネシアは、大国が武力で主権国家を攻撃する行為はどうしても容認できなかった。「われわれにつくか、それともテロリスト側につくか」(ブッシュ大統領)という考えからは独立宣言して以来、主権を維持するために掲げてきた多国間強調主義の否定となるからだ。米国は02年に入って東南アジアを「対テロ戦の第二戦線」とみなし、フィリピンで米比合同軍事訓練を開始する。隣国マレーシアは早々に国内のイスラム過激派の取締りに乗り出していたが、インドネシアは国内の不安定化を恐れて手をこまねいていた。ブッシュは同年2月の一般教書演説で、北朝鮮、イラン、イラクの三国を「悪の枢軸」と名指しし、同年6月、テロとの戦いで米国民や自由を守るため、先制攻撃を容認するというドクトリンを発表した。同年のバリ島爆弾テロ事件の200人以上の犠牲者のうち、88人がオーストラリア人だった。ハッサン外相の首席秘書官ウマル・ハディは執務室を訪ねた筆者に苦い表情を見せて「インドネシアは悪の枢軸の少し下ぐらいに位置づけられた次の標的かもしれない」と漏らした。
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2008.03.24: アジア通貨を考える ~2つのタイバーツ
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2008.02.12: アジア通貨を考える ~アジア最大の中国(CNY)
2008.02.11: 通貨制度 ~Free Floatを探せ
2007.12.19: 円保有のリスクって? イギリスで学者街道を進む後輩より


インドネシア 多民族国家という宿命 2/3~紛争の火種

紛争地アチェ
04年12月26日にスマトラ島沖で地震が発生した。スマトラ島沖地震・津波の最大の被災地に世界中が同情を寄せたが、この地域で約30年にわたってインドネシアからの独立紛争が続いていたことには、あまり関心が払われてこなかった。インドネシア政府がアチェの抵抗の歴史を「内政問題」として封じ込め、外界に触れないようにしてきたためだ。政府は震災発生当初、アチェ州で独立派ゲリラ掃討の軍事作戦が展開されていることを理由にメディアの被災地入りを許可しなかった。規制はなし崩しになっていったが、各国が緊急救援活動のために派遣した部隊の受け入れも躊躇している。政府がこの時最も懸念したのはアチェの独立紛争が国際問題化され、過去に行われてきた人権侵害の責任も問われることであり、十数万人に上った被災者のことではなかった。
多民族国家の苦悩
東西約5100km、南北約1900kmという空間を占めるインドネシアには最大民族ジャワ人(人口の約45%)をはじめとして、大なり小なりの民族集団が約300あり、「インドネシア語」という国語以外に母語として身につけている民族言語は200から400も存在する。多くの日本人観光客が訪れるバリ島は、バリ人(250万人)の暮らしの場であり、バリ語とヒンドゥー教の文化圏で、ジャワ島のイスラム社会とはまったく違う生活空間なのである。また、宗教で分類するとイスラム教(87%)、キリスト教(10%)、ヒンドゥー教(2%)、仏教(0.3%)などに分かれるが、これまで見てきたように同じイスラム教徒でも政治的には民族主義とイスラム主義に分かれている。スマトラ島北端のアチェ州のイスラム教徒は厳格だが、ミナンカバウ族は母系制を維持し、ジャワのイスラム教徒は古来の土着信仰を融合した独特の宗教観を持っている。メガワティ政権時代に燃料補助金が削減され。ガソリンの値段とともに運賃が跳ね上がった・一番苦しいのはタクシーで、ある時、運転手から「我々が悪いわけではないよ。すべてジャワ人のやったことだ」と愚痴をこぼされたことがある。そういうあなたはどこの出身なのかと尋ねてみると、「オラン、アチェ(アチェ人)だ」というう答えが返ってきた。それぞれの民族と社会集団は中央との距離や歴史的背景、文化、取り巻く政治社会環境によって全く異なった存在となっている。しかしそれでもインドネシアに暮らす人はみな等しく「インドネシア人」でなければならない。これこそが、「多様性の中の統一」を実現するインドネシア共和国の為政者の存在原則と苦悩だった。1998年5月のスハルト政権崩壊で、もっとも深刻な危機として指摘されたのは、地方の分離独立運動の高まりと、民族や宗教の色彩を帯びた抗争の発展によってインドネシアが解体される可能性だった。翌99年に東ティモールが事実上独立し、マルク州では宗教抗争が激化、アチェ州やイリアンジャヤ州(現パプア、西イリアンジャヤ両州)でも独立要求が強まった。民主化による地方分権の推進と治安維持システムの弱体化が統合を脅かしている一因とされているが、多様な民族と社会集団がひとつの理想の下に結束して誕生したインドネシア共和国は最初からさまざまな問題と矛盾を抱えていた。しかもそれらは、国づくりの過程で克服されるどころか、スハルト時代の抑圧と弾圧が憎悪の病根となって国家を蝕んでいった。
「インド群島」の過去と現在
インドネシアという名前はもともとギリシャ語のindo(インド)とnesos(群島)に由来した学術用語だった。ただ、「インド群島」は東南アジアからポリネシアにかけてのオーストロネシア語族の言語を話す人々が住む地域を指したもので、現在のインドネシアの領域はオランダが植民地支配をしていた「オランダ領東インド」という政治単位をほぼ継承したものだ。やがて植民地支配に対する抵抗運動のなかから、独立指導者たちは植民地領域を指す新しい概念として「インドネシア」という言葉を用いるようになった。この領域には2006年現在、17000以上の島が散在しており、このうち人が定住する島は6000。主要五島は西からスマトラ、ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、パプアの順となる。インドネシア最古のイスラム王国とみられているのは、13世紀末にスマトラ島北部(現在のアチェ州)にあったサムドゥラ・パサイ王国とされる。イスラム化の波はマラッカ王国を経由してジャワ島にも伝播し、15世紀後半ごろにジャワで最初のイスラム王国デマック王国が誕生した。定説によればデマック王国はマジャパヒト王国を滅ぼし、16-18世紀のマタラム・イスラム王国に引き継がれる。マジャパヒト王国の王族と貴族はバリ島に逃れ、パリの王国と融合してパリ・ヒンドゥー文化を形成していった。一方、インドや中国の大文明を独自の文化と融合させて受け入れてきたジャワ人はイスラム化に際してもシンクレディズム(諸教混淆)を発揮し、イスラム以前の宗教行事や慣習を存続させて汎神論的な世界観を確立している。オランダ艦隊がジャワ島に姿を現すのは1596年である。スペイン、ポルトガル、英国との覇権争いで勝利を収めたオランダは、1602年にアジア貿易を独占する特許会社「オランダ東インド会社」を設立し、1619年、ジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)に拠点を置いた。オランダはその後マルク諸島などで香辛料貿易を独占し、マラッカ王国も支配する。オランダの領土的な植民地支配が本格化するのは、1799年に東インド会社が経営破綻してオランダ政府が直接統治に乗り出してからだ。オランダは1824年に英国とロンドン条約を締結して勢力圏を確定し、マレー半島のマラッカを英国に割譲する代わりにスマトラ島の全権益を独占。
【戦争・内戦・紛争】
2011.08.22: 実録アヘン戦争 4/4 ~そして戦争へ
2011.03.24: ガンダム1年戦争 ~新兵器 3/4
2010.07.16: ドイツの傑作兵器・駄作兵器
2010.05.26: インド対パキスタン
2010.03.16: イランの核問題
2009.06.05: 現代ドイツ史入門
2009.05.05: 民族浄化を裁く ~ボスニア
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海


インドネシア 多民族国家という宿命 1/3~歴代大統領

バリ島爆弾テロ 2002年10月12日深夜 爆発による死者は、日本人観光客2人を含む202人。負傷者は200人以上に達した
治安当局は事前に実行組織の不審な動きを察知していたようだった。実行組織とは東南アジアのイスラム系テロ組織ジェマ・イスラミア(JI)を指す。しかし、インドネシアのメガワティ大統領は事件直後、「国際テロはいつでも、どこの国でも起こりうることだ」と強調し、国際テロ組織アルカイダが欧米人を狙って一過性的に、たまたま、バリ島でテロを仕掛けたかのように訴えた。メガワティが「自分たちも被害者だ」と強弁せざるを得なかった背景には、インドネシア人テロ組織の存在を認めた場合、対テロ戦で米国から標的にされるかもしれないという恐怖感があった。また、そのテロ組織を容易に取り締まることができないことも十分わかっていた。なぜならJIは歴代政権が過去に扇動・弾圧を加えてきた国内のイスラム過激組織が国際化したものであり、その存在を審かにすることは封じ込めてきた負の歴史を蒸し返し、裁きを下す作業になりかねないからだ。世論調査によれば、一番多くの人が実行組織として名前を挙げたのは米中央情報局(CIA)で、次に政権の不安定化を狙ったスハルト元大統領のグループ、三番目が国際テロ組織アルカイダだった。インドネシア人の大半が、JIなどという組織は存在しないとかたくなに信じていた。JIの二人の創設者はアブ・バカル・バシルとアブドラ・スンカル。インドネシアは独立の際、イスラム教に立脚した政教不可分の「イスラム国家」ではなく、近代的な法体系と社会制度を持つ「世俗国家」の道を選択した。スカルノもイスラム教徒だが、ナショナリズムに基づいて独立を志向し、政教分離と民主的な選挙を容認する。両者は憲法の前文に「イスラム教徒はイスラム法を遵守する」と「大統領はイスラム教を信仰するもの」を明記するかどうかで激しく対立する。しかし、スカルノを委員長とする独立準備委員会は土壇場でこれらの条項を削除し、独立を宣言した翌日の8月18日に憲法を公布してしまう。バシルとスンカルは弁護士をつけることも許されないまま四年刊拘置され、その間過酷な取り調べを受けた。二人は85年、最高裁の判決が出る直前、マレーシアに脱出することを決心した。99年、スハルト政権崩壊を受けて帰国を決断する。
スハルト
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インドネシア正史が今後、スハルトをどのように評価するのかで同国が取り組む民主化の方向性と深度が決まってくるかもしれない。32年間にわたる独裁体制を敷き、1998年5月、民主化のうねりの中で最高権力者の座を追われ、いったんは刑事被告人となった元大統領のことである。スハルトは福祉目的の財団を使って資金を不正蓄財し、その金で一族の企業に便宜を図るなどして国家に600億円余相当の損害を与えた。欧米メディアは不正蓄財の総額を推定150憶ドルと報じた。65年9月30日に発生した共産党勢力によるとされるクーデター未遂事件がスハルトの運命を決めた。この時、陸軍戦略予備軍司令官の地位に就いていたスハルトは反乱部隊を迅速に制圧し、スカルノ初代大統領sukaruno.jpgに代わって実権を掌握する。66年、スハルトが行った共産党非合法化とその後の弾圧で、数十万人が殺害されたとされている。「9月30日事件」はスハルトを代表する国軍右派による事実上のクーデターという解釈や左傾化するスカルノに見切りをつけた米情報機関の関与説など、現在でも真相は闇に包まれたままだ。共産党の弾圧に米国から資金が流れていたことが最近、米国務省の機密文書から判明している。スハルトの評価が一筋縄でいかないのは、積極的に外資を導入し、開発経済に力を入れたという成果があるからだ。コメの自給を達成し、ことあるごとに数字を挙げて成果を強調した。一人当たりの国民総生産は70ドルの最貧国から1000ドル(97年通貨危機以前)へと上昇。外交面ではスカルノの新共産党政策から西側傾斜路線に転じ、スカルノ時代に脱退した国連に再加盟。67年の東南アジア諸国連合(ASEAN)の設立に参加し、域内の盟主として君臨した。
メガワティ
Megawati.jpg
国会で目立った発言や活動もないメガワティがシンボル化する背景には、スハルト体制に対する息苦しさが若い世代に蔓延し、メガワティの存在が「スカルノ神話」を想起させたことにあるかもしれない。スハルトの経済的な実績はスカルノをはるかに凌駕し、国家も安定していた。それでも国民は世代を超えてスカルノに敬意を払い、親しみ続けた。スカルノのカリスマ性と人気は、スハルトがどうしても手に入れられないものであった。危機感を強めたスハルトは96年、メガワティが共産党に関与しているとの疑惑を浮上させて民主党の内部抗争を煽っていく。さらに同年6月、スマトラ島の都市メダンで開かれた党大会でスルヤディが委員長に返り咲くように働きかけ、メガワティを正解から事実上追放してしまう。メガワティが熱狂的な支持者を得るのは、この局面で徹底抗戦に出たからだ。
ヨドヨノ
ヨドヨノはテレビカメラの前でこう切り出した。「これは国民の勝利だ。神に、そしてメガワティ大統領に感謝したい」
メガワティに示した「感謝」とは、直接大統領選を実施する礎を築いたことに対するものだ。最後に選ばれたインドネシアの新指導者は「国民の勝利」と「感謝」というふたつのキーワードによって、ハビビ、ワヒド、メガワティと続いた激動の時代の終わりを宣言したのである。おそらくこれらのせりふもメディアを意識して周到に用意されたものであった。メガワティに近い国軍出身のヘンドロプリオノ率いる国家情報庁(BIN)がガルーダ航空の非番の操縦士を使って人権活動家のムニールを飛行機内で毒殺したのは、政権交代の起きた同じ月の6日のことだった。

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【愛国者・民族主義者】
2011.08.31: マハティール アジアの世紀を作る男4/4 ~がんばれアジア
2011.07.12: 父親の条件2/4 ~フランス人の高慢ちきな態度はここから
2011.05.10: 日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中
2011.02.17: 田中角栄 その巨善と巨悪 ~議員立法
2010.12.06: 田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~カネの使い道
2010.07.13: 日本帰国 第一幕 靖国参拝
2010.05.25: 靖国で泣け
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男


ザ・総会屋

現行の監査役制度は、いわゆるクソの役にも立たない代物の制度であるといってよい。どこに問題点があるのか、それは一口に言って、監査役人選の人事権が社長にあるからである。なるほど法律上は株主総会の決議で選任されることとなっているがこれはあくまで建前であって、株主総会で社長が提案した監査役候補が否決されることなど、今だかつてなく、社長が人選した者が、当然のように監査役となるのが現実の姿なのである。
確かに、ガバナンスもクソもないんだよね。株主によって選ばれるなんて意識がある社長居る?
昭和57年の商法改正の主たる目的は、それまで株主総会が、いわゆる総会屋に蹂躙され一般の善良な株主が、年一回しか開かれない会社の最高の決議機関である株主総会で質問したくても、とてもじゃないが質問などできる雰囲気ではなく、残念ながら株主総会は総会屋の活躍の場であった。その一方策として、総会屋を排除すべく、利益を与えた会社側にも罪を問う利益供与の禁止と、従来一株所有であっても堂々と株主総会に出席できたのを1000株(単位株)以上所有しないと出席できない制度とし、これで総会屋は消滅し、株主総会が活性化するだろうと当初は思われていた。商法改正16年余を経過した今日でも総会屋は脈々と生き続けているのである。何故か、それには理由がある。昭和57年の商法大改正の主旨である株主総会の活性化が皮肉にも今では逆に非活性化をもたらした。その大きな現象の一つが決算期の三月集中化である。経営陣は、国の会計年度と合わせるのが統計数字を比較するのに好都合であるとか、その他いろいろ薄弱な理屈をつけて三月決算に変更したため、いまでは上場会社のなんと約90%の会社が三月決算となり、しかも株主総会は一斉に6月末の一定日の午前十時開催という誠に異様な状況となってしまったのである。
昭和37年頃は、総会屋はせいぜい数百人程度であった。それが高度成長に乗った部分もあるがみるみるうちに6000人前後に膨れ上がったのである。何故か、その主な原因は銀行が総会屋に対してお金をあたかも湯水のごとく出し、大手銀行では年間数億円も総会屋に出していたと言われていたのである。この銀行の安易なお金のばらまきにより、総会業を目指すものが急激に増加したのである。大手銀行では毎日早朝から数百人の総会屋が集金と称して押しかけ、対応に苦慮した銀行は順番を守らせるため、整理券を発行していたほどなのである。
銀行が取り扱っている商品は、「信用」だからねぇ。頭の中にしか存在しないモロイ商品を扱ってる都合上、色々大変なんだよ。
平成9年、総会屋・小池隆一が、野村、大和、日興、山一の四大証券会社から巨額の利益供与を受けていたことが発覚し、世間を騒がせた大事件があったことを覚えている方も多いと思う。おおかたの国民は「なぜあんないち総会屋に億という大金をむしり取られて黙っているのか。」と思ったに違いない。一口に言ってしまえば株主総会で会社の恥部をネタにして、社長が追及されるのが怖かったからなのである。
ぇっ? 総会屋の本で小池隆一に対する言及はこれだけ?
上場後の株式事務代行会社などのアドバイスを得て、今後株式上場後の株主総会のスムーズな運営について指導をいただく大物総会屋を選定し、社長自ら総会屋の事務所へ出向きお願いするのが普通であった。上場会社として一般株主、投資家に公開が義務付けられている決算発表、増資発表等の重要な事項について、証券取引所で記者発表する前に、幹事総会屋を高級料亭に招き会食をもち、事前に説明を行っていたのである。謝礼金は世間相場を参考にトップ同士で決定していた。
小物の総会屋は、賛助開始を図る手口として、嫌がらせをすることがあった。昭和57年の商法改正まではたとえ一株の所有であっても総会に出席できた。株主平等の原則により、その権利は保護されており、会社はわずか一株の株主に対しても召集通知、決議通知、事業報告書、配当金領収証、増資割当書等、すべて一様に扱わなければならない。この定めをよりことにかけだしの総会屋だとか新聞ゴロに過ぎない者だと考え、粗末な扱いをすると彼らは端株券100株を買ってきて、一株づつ、百人に分割要求してくるなどの嫌がらせの手段を取ることもあった。実際これをされると今まで一通でよかったものが百通になるので召集通知など前に挙げた生類の印刷代、郵送代、代行手数料など経費がかさむのである。株式の分割自体は法律違反ではないにしても、実務上は困ったことになるのだ。
東京港区に事務所がある情報会社が長時間となった株主総会の一部始終を記事にした刊行誌を週間で発行していたのだ。
ぉっ、これ良いじゃない。

ザ・総会屋―総会担当30年の経験者が本音で語る ザ・総会屋―総会担当30年の経験者が本音で語る
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【金融ヤクザのお仕事】
2011.09.07: 投資詐欺 2/3 手法
2011.01.07: イトマン・住銀事件 ~イトマンをめぐる様々な疑惑
2010.10.05: マネー・ロンダリング入門 ~実際に起きた事件
2009.08.31: Madoff’s Other Secret 愛、金、バーニー そして わ・た・し
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2009.02.06: Madoff続報 (号外)
2008.12.16: 5兆円詐欺事件に含まれるDerivativesの追跡
2008.08.18: 8868 スワップ契約についての考察
2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損




日本中枢の崩壊 2/2 霞が関

現在の霞が関の最大の問題は、官僚が本当に国民のために働く仕組みになっていない点である。一生お世話になる組織の利益のために働く。民間であれば組織に貢献した社員が高く評価されてしかるべきであるしかし、公共のために働く公務員の役割は、利潤追求を最大の目的とする企業の従業員のそれとは根本から違う。公務員は、国民から徴収した血税を使ってどのような施策を立案すれば国民生活が向上するかを第一義に考えるのが仕事だ。
官僚や公務員が何人いると思っているのだ? 民間、株式会社の存在意義は株主利益最大化だろうが、それはCEOが責任持って遂行することである。一般の従業員が考えていることは、自分の給料のことだけである。公務員だって同じで、国民の利益?なんていうのを追求できる人間がそんな多くの人数いるわけ無かろうが。公務員だろうが、民間企業戦士だろうが、民は民らしく、私利私欲を追求し、給料だ年収だというのをしきりに気にして、消費でもしていればよい。私は民に与えてやる。
何を与えるというのだ!
支配されるという特権をだ!
財務省の絶対的な二つの行動原理
財務省パワーの源泉の一つが予算編成権だ。国民から集めた税金など国家の収入を再分配する権限。ある意味、国家の存在意義そのものである。家庭でもそうだが、もっとも力を持っている人は家計を預かる人だ。たとえばご主人が稼いできたお金をいったん財布のヒモを握る奥さんの懐に収め、それの使い道を決める過程ではどうしても奥さんの権限が強くなる。ご主人は奥さんの許可がないと、小遣いも上げてもらえない。それと一緒で、財務省に予算をつけてもらえないと、公益法人一つ作れないので、他省庁は自然と財務省の顔色をうかがうようになる。
ははは、良い例えだな。財務省が持っているもう一つの権限は言うまでもない”徴税権”を持つ最高権力機関の国税局だ。
日本の独禁法9条では「純粋持ち株会社の禁止」が定められていた。純粋持ち株会社とは自分では事業を行わず、もっぱら子会社の株を持って支配し、その子会社を通じて事業を行う会社のことだ。戦前の日本では、少数の財閥が独占的な地位を利用して経済、そして社会全体を牛耳っていたことが戦争の一つの原因だ。そう考えたGHQは、戦後財閥解体を実施した「経済民主化」の柱の一つである。大蔵省が首を縦に振らない理由が二つあった。連結決算は読み解くのが難解で大蔵省にはそれがわかる人間が3人しかおらず、人材育成も大変だし、税の徴収も面倒になるという理由がひとつ。二つ目は連結納税を認めると実質減税になってしまうという理由である。
これ、この著者の唯一の功績のようなので書いてあげます。
>連結納税を認めると実質減税になってしまう
これをデリバティブ的に簡単に説明しよう。税金というのは利益に対してかかる。つまりコストX、売上SとしたCall Option、税収=法人税率 × Max(S-X,0)に過ぎない。で、単体決算の場合は、Option Basketとなるが、連結決算はBasket Optionとなる。以前書いたExotic Parityを思い出せば、ΣMax(Si-Xi,0)>Max(ΣSi-ΣXi,0) だからである。
日本人は「組織力が強みだ」と自画自賛することが多い。政府にはとりわけその傾向が強い。個人で戦うことに自信がないのでチームワークをことさら強調する。しかし、日本の強みはチームワークの「和」ないし「協調性」の部分であり、組織としての決断力、俊敏性、行動力などにおいては、欧米の政府や企業に比べて明らかに劣っているということをあまり自覚していない。とりわけ、大企業や政府においてその傾向が強い。この組織力の弱さは福島原発事故の対応でもはっきりと証明されてしまった。政権中枢や担当省庁、主体となる企業はただ右往左往するばかりで組織としてまったく機能できなかった。難しい決断や迅速な判断は、いずれも組織の命運がかかる重大事項だ。日本の政官すべてがそうした面で、比較劣位にあることを十分認識すべきだろう。
いやー、こりゃ正しいね。小沢さんも言ってた通り、多数決でなく全会一致に民主性を感じる民族。総理・社長を頂点とするヒエラルキーを構築し、集団として動くのが苦手な民族なんだな。
【愚民の欲】
2011.07.22: 死刑囚 最後の一時間 2/2 ~死刑囚
2011.03.01: アジア発展の構図 ~出遅れた国々 4/4
2011.01.20: 項羽と劉邦 ~広大なる中国大陸
2010.11.25: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~割に合わない犯罪
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
2009.05.07: 幸福感と欲の関係


日本中枢の崩壊 1/2 東電

読んではみたが、この著者とは話が合わなさそうだよ。
私が最も驚いたのは震災が起きるやいなや信じられないことに、これを増税のための千載一遇のチャンスととらえる一群の人たちが即座に動き始めたことだ。震災対応よりもはるかにスピーディな反応。驚くというより悲しかった。
なんで? 民を黙らせるのに最も有効なのは恐怖による恫喝だ。戦争でもテロでも天災でもいい。それを利用して一気に持って行くというのは当然の動きだと思うし、安心なんだが。スピーディとか言ってるけど、消費税は上がらなかったねぇ。俺だったら即座に上げたけどね。
「東電は自分達が日本で一番偉いと思い込んでいる」という話を何回か聞いたことがある。その理由は主に東電が経済界ではダントツの力を持つ日本最大の調達機関であること、他の電力と共に自民党の有力な政治家をほぼその影響下に置いていること、全国電力関連産業労働組合総連合(電力総連)という組合を動かせば民主党もいうことをきくという自信をもっていること、巨額の広告料でテレビ局や新聞などに対する支配を確立していること、学界に対しても直接間接の研究支援などで絶大な影響力を持っていること、などによるものである。
そうだね。だから逆に今回はここぞとばかりに反旗を翻す勢力が東電をたたいてみた。
電力業界には競争がない。ここに競争を導入して電力コストを下げることは、消費者にとっても産業界にとっても望ましい。自由化の議論のもっとも先鋭的なものが、発電会社と送電会社を分離する発想電分離
ぐぐぐ。これは東電の独占体質のコア部分だ。生産、物流、地域独占販売を一社提供しているのだから、ここがまさに収益の本丸。だが良いか?電力に競争を取り入れたらどうなるか? 常識的に考えれば、電気料金は市場価値によって大きく変動することになるぞぉ。石油の備蓄なんか3か月分しかないんだぞぉ。原油が上がったり円安になると即座に電力価格に反映される。それでもOK? 電力会社がヘッジしろ? ダメだね。できない。なぜか。原油が上がった時に電気料金が変わらないということは、下がった時にも変わらない。一方、消費者が自由に電力会社を選べるならば、原油が下がった時に消費者が一気にアンヘッジの業者、つまり安く電力を供給してくれる会社に流れて、ヘッジしている会社の原油は供給過多になってしまうからだ。それが嫌なら、おう、国民がいやがる原子力の比率を上げた方がより安定的だなぁ。日本でWTI意識しながら生活しているヤツいるか? 居ないのは独占による安定供給の賜物だろうが。日本国民は市場性の変動を嫌がる。どっちを選ぶか決めさせてみれば良い。

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【国家権力による搾取】
2011.08.05: 金賢姫全告白 いま、女として2/6 ~今、君が嘘をついた
2010.10.14: 道路の権力1
2010.08.24: 中国の家計に約117兆円の隠れ収入、GDPの3割
2010.07.05: 警視庁ウラ金担当
2010.05.20: 秘録 華人財閥 ~独占権、その大いなる可能性
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性


外資ファンド利回り20%超のからくり

利回り20%超を目指すファンド
例えば、ライブドアによるニッポン放送の買収劇では「村上ファンド」の動向が・・・、官製の「企業再生ファンド」とも言える産業再生機構がカネボウやダイエーの・・・、さらに新生銀行や宮崎シーガイアを買収したリップルウッドも「投資ファンド」だし・・・、「投資ファンド」を運用する日本人のサラリーマン・ファンド・マネージャーが100億円の給与所得で、2004年度の長者番付トップになり世間を驚かせた。
村上ファンドは利回りで記述されるファンドなんだ・・・。そもそもファンドで利回りってのが、不思議な言葉遣いですよねぇ。年率リターンって言わないか? 普通。
「投資ファンド」の4類型
企業に投資するタイプのファンド。村上ファンドのようにM&Aの手法を取り入れながら企業価値の向上を目指す「企業買収ファンド」や、経営が思わしくない企業に資金や経営資源を投入して再生することで投資リターンを狙う「企業再生ファンド」などがある。
不動産投資ファンド、幅広い資産(株、債券、為替、商品等)を対象にデリバティブなどを用いて絶対リターンを追及するヘッジファンドと呼ばれるタイプもある。
ぇぇっ? なんすか? この分類方法。投資信託、国内・国外、ミューチュアルファンド、私募、こういう観点での分類は一般読者にはあまり関心ないだろうから良いだろうが、普通、分類って言ったら アセットクラス(株、債券、商品、それに付随するデリバティブ含む等)×地域×戦略名 だと思う。
市場の歪み
「ニッポン放送とフジテレビ」に見られたような親子逆転により、親会社の「市場価値」が「解散価値」を下回る例は他にもある。これらの会社については、「投資ファンド」の投資対象となったり、敵対的買収のターゲットとなったりする可能性が高いとも考えられるが、こうした状況は日本特有の現象で、アメリカなど主要先進国では起こりえないことなのだ。つまり、フジテレビと、その連結子会社である日本放送の両方が上場する、あるいは非上場会社の国土計画の連結子会社である西武鉄道が上場する、といったようなことは、アメリカなどでは許されておらず、こうした「歪み」が生じる可能性は、そもそもないのだ。
親子上場はライブドア事件後も残る市場の「問題点」だとは思うね。
今となっては信じられないかもしれないが、わが国では1980年代まで「不動産は必ず上がる」という”土地神話”があった。不動産投資も何もしなくても上昇を続ける地価をベースに、キャピタルゲインのみに目が向き、「不動産はまさかの時の担保になる」、「不動産投資には節税効果がある」といった点が重視されていた。1980年代後半、プラザ合意後の資金余剰を背景に日本企業は土地神話を海外不動産にまで持ち込み、アメリカなどの不動産を買いあさっていた。筆者がニューヨークで米国の投資銀行の同僚から日本の不動産の価格形成について説明を求められたのは三菱地所によるロックフェラーセンター買収の頃である。彼らの関心事は「日本企業はどうしてあのような高値で不動産を買うことができるのか」「日本では不動産価格はどうやって決まっているのか」ということだった。筆者は、日本における不動産価格の鑑定方法を説明した。当時日本で一般的だったのは、「取引事例比較法」。近隣で売買された条件の近い不動産の取引事例から価格を導き出すというものだった。さらに国が毎年1月1日に土地の価格を公示価格という形で公表していること、これが土地取引の際の価格目安とされたり、鑑定評価や公共用地の取得価格などを決める際のよりどころとなったりしていること、さらには相続税、贈与税の評価の基準になる路線価という別の不動産の”公定価格”があり、それは公示価格のおおよそ8割であることなど、筆者は日本人には当たり前の説明を行ったが、彼らは理解不能と言わんばかりにかぶりを振り、まるで”違う天体の上の陸地の価値”の話を聞くような表情で聞いていた
旧大蔵省広報誌「ファイナンス」1999年7月号「ヘッジファンドと国際金融市場」という論文に「ヘッジファンドを正確に定義することは困難である。通常、この言葉は、証券、通貨、商品等に対する積極的な投資・裁定取引を行っている私的な投資会社・パートナーシップの総称として使われている。」
まー、そうだね。だが、よく言われている、「相場の上げ下げに関係ない絶対リターンを目指す」はないね。完全なるロングバイアスだ。さらに裁定取引をやっているヘッジファンドは見たことがない。ま、本人達がArbitrageだと思い込んでやってるのは自由だがね。
現在、中国は世界最大の対米貿易黒字国であり、中長期的には少なくとも30%程度の人民元の切り上げが必要というのがマーケットコンセンサスである。さらに1ドル=3.9人民元、すなわり現状比100%以上の切り上げが金融理論から導き出される「理論価格」であるという試算(野村證券金融経済研究所)すらある。
どんな理論だよ(笑
そもそも企業は何のために株式を一般に公開し、上場しているのであろうか? 一般的には「株式市場からの資金調達のため」、「知名度向上による採用面、営業面でのメリットを期待して」などという答えが考えられる。しかしこのような教科書的な回答とは別に「上場してこそ一人前」、「上場企業というステイタス確保のため」といった理由で株式を上場している企業も多い。つまり、日本には”上場神話”が根強くあるのだ。わが国ではこれまで、企業間や銀行との株式持合いが盛んで、いわゆる安定株主比率が高く、企業が一般株主のことを意識する必要性に乏しかった。
いやー、これ、ホント、困ったもんで、経済合理性や市場原理を阻む主要因ね。日本人お得意の「本音と建前」を株式市場に持ち込んじゃって、持ち合い仲良しクラブ=狭い村社会を形成し、資本市場のルールを無効化してきたわけなんだが、市場がグローバル化しちゃってるもんだから、外から「なんだあれは?」って思われてる。外圧には弱いけど、内弁慶だぞー。逮捕しちゃうからね。
我々日本人は自分達の知らないことに出くわすと、急にその壁を自分の周りに立て始める。特に英語やカタカナ語に出会った時にその拒否反応が強く表れる。「欧米ではともかく日本には日本のやり方がある」「理屈はそうかもしれないが現実は違う」こうした物言いで議論を打ち切ろうとする人も多い。
おっさんだけだろ。若い人でこれはないと思うけどね。さすがに。じいさんだけじゃなくて現役のおっさんがまだこの考えだから企業成長が難しいんだがな。

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ダイヤモンドの話5/5 ~錬金術、人工ダイヤ

ダイヤモンドと石墨
ダイヤモンドが純粋な炭素だけでできている結晶体であることがわかったのはそれほど昔のことではない。1797年スコットランドの科学者テナントが酸化条件下でダイヤモンドの結晶を加熱したところ、ひとかけらの残りかすも残さず完全に燃焼してしまい、生成物として炭素ガスを発生した。このことからダイヤモンドが炭素のみからなる結晶体であることがわかり、同時に、安価な炭素から高価なダイヤモンドをつくりだそうというダイヤモンドの人工合成の試みが始められたのである。結晶の中で原子が規則正しく配列していることは、ドイツの物理学者ラウエがX線を使ってはじめて実証し、その後、X線を使って物質の結晶構造を決定する学問が急速に発達した。ダイヤモンドの結晶構造はイギリスの結晶学者ブラッグ父子が1926年に決定し、石墨の結晶構造はフルが1917年に決定している。
劈開
ダイヤモンドの結晶に、ある特定の方向(8面体面に平行な方向)に沿って力を加えると容易に割れる。つまりダイヤモンドは八面体面に並行な方向に劈開するという特性をもっている。この特性に最初に気づいたのは、おそらくインドの宝石職工たちであったろう。不規則な形を持った原石を劈開すると、規則正しい八面体の石を作ることができる。
外から加えられた刺戟で着色中心にあるエレクトロンが励起されて起こすもう一つの現象として蛍光とか燐光などの現象がある。ダイヤモンドは暗闇の中でも光ると古くから言われている。この現象やダイヤモンドの中で最高価とされている青白い色をもった石のその青白さの原因などは。いずれもこの蛍光、あるいは燐光によるものである。太陽光線中の紫外線のエネルギーがエレクトロンを励起して燐光が発生する。ダイヤモンドには紫外線をよく通すものと、通しにくいものと二つのタイプがある。99.9%のダイヤモンドは3000Åまでの波長の紫外線に対して透明で、一方は2200Å以下ではじめて不透明になる。前者をⅠ型、後者をⅡ型と呼ぶ。さらにⅡ型のなかのまた1/1000くらいのⅡb型は普通ブルーの色をしており、かつ電気的に半導体である点が他のダイヤモンドと著しく違っている。ダイヤモンドのほとんど全てが電気的に絶縁体であるからである。ダイヤモンドが工業の分野で珍重される理由には、その以上な硬さの他に高い耐酸性と特異な熱的性質があげられる。ほとんどの酸やアルカリに犯されない。加熱弗酸でも犯すことはできない。ただ硝酸カリウムのような強い酸化剤の中で摂氏550度ぐらいで加熱すると腐食されるだけである。そのため厳しい作業条件の中でも犯されないで十分使用ができるわけである。ダイヤモンドは電気的には絶縁体であるが、熱的にはアルミニウムと同じくらい良い導体である。熱膨張係数は異常に低く、印バール(不変銅)よりも50%も良い値をもっている。作業中によって出る熱によって変化しないから、厳密な精密さが保たれるわけである。
ダイヤモンド合成
1955年春、ゼネラル・エレクトリック社、石墨のチューブの中に種子のダイヤモンドの結晶、炭素、硫化鉄を入れ、両端をタンタルの金属板で押さえたカプセルを超高圧ベルトの中に入れ、95,000気圧、1600度で数分間加熱加圧した後取り出してみると、タンタル板上に透明な三角形の面を持った微細な結晶が無数にできているではないか!GE社はダイヤモンドを人工的に合成する方法に関する広範な特許を世界の主要国で申請したり獲得したりした。その特許範囲は原理特許とも言えるほど広範なもので、その後のほとんどの人工ダイヤモンド合成の仕事がそれに抵触する可能性があるほどである。一方、デトロイト近傍に量産工場を作って、年間2~300万カラットを1959年頃から作り出した。GE社に続いて、スエェーデン、南ア連邦、イギリス、オランダ、日本、ソ連においてもダイヤモンドの合成に成功した。なかでも注目されるのは南ア連邦で、1960年には実験的に成功し、1961年には量産工場がヨハネスブルグ近くに設立され、ただちに操業に入った。現在はすでにGEと同じくらいの生産量をあげているだろう。さらにエール共和国に新しい工場を建設中であるという(GEはこの国には特許を出願していなかった)。彼らの合成方法に対してGEが特許権侵害の提訴を行うのは明らかである。それにもかかわらず南ア連邦のダイヤモンド・シンジゲートでは、人工ダイヤモンド生産を強行している。つまり天然ダイヤモンドの地位を保持するための対抗策であり、ダイヤモンド・シンジケートが事故のダイヤモンド販売の機構や系統を守るためにいかに激しい闘志と積極さとをもっているか如実に示しているものだといえよう。
天然と人工の違い
天然のダイヤモンド結晶には急速な成長を示しているような樹枝状の結晶とか、結晶状の面などは今まで全く発見されていない。結晶はほとんど全て完成された結晶面と外形とを持っている。ところが人工の結晶を顕微鏡下で調べてみると、まだ完成されていないような結晶がたくさん存在する。また結晶面上の模様は、天然の八面体の面上に必ず存在する三角形の成長丘とかトライゴンがある。しかし大部分の人工ダイアモンドにみられる模様はこれとは似てもにつかぬ珊瑚の枝のような模様である。両者の違いはX線的にも認められる。X線回析の反射点のうち、人工のものには天然のものにあらわれてこない反射があり、その上、多くの反射点に衛星状の反射点をともなっているという点である。人工ダイヤモンドはじつは純粋なダイヤモンドだけで構成されているのではなく、ダイヤモンドの結晶格子の一部を置き換えて同じような結晶構造をもった他の物質が同じ方位をもって存在しているのだろうと考えた。その物質として面心立方格子をもったニッケル金属、ニッケルの炭化物、あるいは他のニッケルの化合物を考えたのである。実際人工ダイヤモンドを分析してみると最大3%近くのニッケルが含まれている。そしてこのニッケルをは触媒として使ったニッケルがもとになって入ったものであろうということは賢明な読者のことであるから、すでにご推察になられたことであろう。
ダイヤモンド鑑定の手引き
特別の器械を使わないで鑑定するといってもまったく無手勝流というわけにはゆかない。せめて10倍ぐらいのルーペと高度を比較するための人口のルビーかサファイアの小片は用意しておきたい。ルビー、サファイアといっても人工のものは決して高価ではない。石だけなら100円以下で買えるであろう。またできうれば沃化エチレンの液を少々用意しておきたい。屈折率の違いを利用して類似の宝石と区別するためである。
 まず目で見た特徴。ダイヤモンド特有の金剛光沢とカットした石に見られる虹色にきらめくファイアーである。似たようなファイアーを出すものに、白色ジルコン、ルチル、チタン酸ストロンチウムなどがあるが、一般にこれらのファイアーはダイヤモンドのものより強すぎて(色が多く出る)品がない。ダイヤモンドをみなれた人ならファイアーの違いは人目で見破るだろう。それからカットした面のみがきが非常によく、鏡のようで、石を少し動かしながら窓枠のさんや電灯などをうつしてみると、鏡のゆがみが非常に少ないのもダイヤモンドの特徴で、これはその高い硬度に原因する現象である。またブリリアント・カットした石の上部の面(クラウンの部分)を通して、石の下にあるものをのぞいてみると、何にも見えないし、逆に下の方(バビリューム側)から電燈をのぞいてみると、ピンのように小さな唯一点の光がみえるだけである。これはブリリアント・カットすると、結晶の中で光の全反射が起こり、クラウン側から入射した光はすべてもとへ帰っていって、バビリューム側の外までつきぬけないからである。クラウン側からのぞきこんだとき、実際の石の高さよりも薄い感じがするのもダイヤモンドの一つの特徴で、これはその高い屈折率に原因する減少である。決定的に判定を下せる方法は硬度を調べる方法である。カットした試供品のガードル部分をだし、人工のルビーあるいはサファイアの研磨した面にあて、少し圧力を加えながら引っかいてみる。もしルビーの方にひっかき傷ができ、試供品が今まで述べたような特徴を持っていれば、まずダイヤモンドと考えて間違いない。ガラスにはルーペで泡が見える。ただ注意しなければならないのは、これらの類似品が主として使われるのは、主宝石のまわりにつけた小粒の石の部分である点である。粒が小さいので余り注意を払わないし、またちょっと肉眼で見たばかりでは区別が困難だからである。
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ダイヤモンドの話4/5 ~研磨とカット

研磨
第二次世界大戦以前には、ダイヤモンドの研磨工業の中心はベルギーのアントワープとオランダのアムステルダムであった。しかし、大戦中にこの地の研磨職工たちの多くが、アメリカに疎開して住みついてしまったので、現在ではニューヨーク周辺、アントワープ、アムステルダム、およびイスラエル、ドイツ、イギリス、南ア連邦など世界各地に研磨工場が散らばっている。日本にも山梨県の菲崎に東洋第一のダイヤモンド研磨工場があるが、これはドイツ系の会社で原石をドイツのバイヤーが持参し、ここで研磨させ、そのままもって帰るという方法をとっておりいわばダイヤモンド研磨の下請工場である。またそれぞれの工場で研磨する原石の大きさが専門化されており、たとえばニューヨークやアンドワープ、アムステルダムでは大粒の石をドイツではメレー、サンドなどの小粒の石の研磨を専門にしている。
カットの変遷
ダイヤモンドのカットのデザインは、今でこそ複雑で虹色のきらめきのいちじるしいブリリアント・カットが過半数を占めているが、研磨の技術が生まれてきた最初からこのような複雑なカットが考え出されていたわけではない。ダイヤモンドのカットのデザインの移り変わりは、そのまま、人間がダイヤモンドの持っている秘密のベールを一枚一枚はがしていった歴史でもあった。ダイヤモンドの結晶体の中で硬さが方向によって違う。人間が考え出した最初の幾何学的なカットはダイヤモンドの結晶の中でもっとも軟らかい方向の発見から始まったのである。つまり、テーブル・カットという方式で、八面体の結晶の頂点からすりだして、だんだんとふかくすっていきかなりの大きさの四角形の面が現れるまで研磨したもので、この方向がダイヤモンドの結晶の中で一番軟らかい方向である。ついでバラのつぼみのような形をしたローズ・カットである。このカットが発見されたのが1520年頃で、底が平らで、上が12ないし、36個の三角形のファセットで取り囲まれた形のカットである。ダイヤモンドは8面体のほかに12面体とか6面体の結晶としても産する。12面体の結晶からテーブルやローゼンツカットをすると損失が多い。12面体の結晶を生かすためにローズ・カットが考え出されたとも考えられる。
文字で説明するよりも絵で見た方がわかりやすいので、ご参考。
ダイアモンドカットの種類
http://www.ops.dti.ne.jp/~elphin/jewcutkinds.html
ブリリアント・カットの発明
17世紀の末期、ブリリアント・カットがベニスの宝石商ベルッジーによって考え出された。カットの歴史の中で革命的な発明であり、ダイヤモンドの美しさも、ファイヤーと呼ばれるあの虹色のきらめきも、このカットの発明によってはじめて本格的にダイヤモンドのなかからひきだされたのである。この効果は従来のカットに比べて圧倒的に違うので、当時の人々は争って自分達のもっていたブリリアントカットにカットしなおした。再カットによる目方の損失も、ブリリアント・カットの怪しい美しさには到底勝てなかったのだろう。
ファイアーの原因
カットしたダイヤモンドがもっているファイアーという名で呼ばれる虹色のきらめきはダイヤモンド宝石の生命であるが、これはダイヤモンドのもつ特殊な光学的性質からくる現象である。ダイヤモンドは天然に産する鉱物の中でももっとも高い屈折率(2.42)を持つものの一つである。屈折率が高いと物体の反射率も高くなる。そのためダイヤモンドの結晶は、磨かないままでも特有のよい光沢を持っている。しかしダイヤモンドの真のきらめきがでてくるのは、ブリリアント・カットした場合で、これはこのカットによってはじめてダイヤモンドの結晶の中で光の全反射が起こるからである。ブリリアント・カットのファセットは全反射が起こるような角度でカットされている。そのため入ってきた光は屈折してカットの底や側面に辺り反射して再び上の面から抜け出していく。一方、屈折率は光の波長によって違うから光の分散が起こる。入射した白色光を作っている紫から赤までの光の波長は、光がダイヤモンドの中を通る間に分散し、そのため出て来るときは虹色に分離してあらわれてくる。

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ダイヤモンドの話3/5 ~怪しい商取引慣習

1725年にブラジルにおいてダイヤモンド鉱床が発見されるまで、2300~2400年ぐらいもの長い間にわたって、インドが唯一のダイヤモンド産出国であり、ヨーロッパの輸出国でもあった。1630年から1668年の間、数度にわたってインドを訪問したフランスの宝石蒐集家ダベルニエの記録を見ると、どの産地も漂砂鉱床であったようである。漂砂鉱床とはダイヤモンドの原石が風化浸蝕され川の流れによって運搬される途中で、川岸に堆積してできた鉱床である。彼の訪れた4地区のうちのひとつ、ゴルコンダの町の東、コウロウの鉱山には当時6万人の老若男女が立ち働いていたということである。ダイヤモンドの売買価格の2%が税金として王族に納められていたという。政府は一定の区域の採掘権を商人に与える。商人は労働者を雇い、その地域内で働かせる。鉱夫頭がその日に集めたダイヤモンドを取りまとめて鉱区の主であるところへ持参する。そこでその日の取り高に応じて、金や食料品などの手当が支払われる。あるいは商人の子供たちが、採掘所の周りを歩いて買い入れを行い、夕方、その日の仲買をして集めたダイヤモンドを商人のところに運んで分け前を得る方法もあったことを書き記している。このように集積されたダイヤモンドが市場に出されてどのように売買されるか、その模様をふたたびダルベニエの記録から引用してみよう。
「ダイヤモンドの売買は完全な沈黙のうちに行われる。売り手と買い手が市場の中で向かい合って座り、売り手が自分の帯を開け買い手の右手を取って自分の帯でその手を隠す。この帯の中で両方の手をさぐりあうだけで売買が行われる。周りに何人いてもいくらで売買されているか絶対にわからない。この帯の下で、売り手が買い手の腕全部を一回握ると1000ルピー。二回握ると2000ルピー。5本の指を握れば500ルピー、1本の指では100ルピーというわけである。中指の真ん中の間接まで握れば50ルピー、第一関節まででは10ルピーというふうにきめられている。」
まるで関西で今でも行われている牛の売買の模様そのままである。なおダイヤモンドのカラット数は政府の官吏が測っていたようで、ダイヤモンドの価格も同質のダイヤモンドの場合、カラット数の二乗をかけた値で取引されていたという。この評価基準は現在でもほぼ通用する基準である。
南ア連邦でダイヤモンドの大鉱床が発見される以前は世界のダイヤモンド鉱床は全て漂砂鉱床であり、したがって採掘方法も原始的、個人企業的だった。ダイヤモンドの母石が発見され、企業が大規模になるにしたがって事態は急速に変わっていたのである。穴が深いものなっていくにつれて、鉱区境界の道路が崩落したり、地下水の湧出や天水のため、作業はますます困難になっていった。あちこちにたくさんの穴が掘られ、穴の底から鉱石を地表に運ぶための滑車やケーブルの線が乱雑に入り乱れていて、全く無統一な状態であった。個人での操業が困難になるに従い何人かの鉱区所有者が共同して操業するようになる。しかしそれでも操業は困難になっていくばかりであった。そうした情勢に応じて、一人最高10鉱区までしかもてないという法律が廃止され、それにともなって個人での鉱区所有は消失し、十分な資本を有する会社がダイヤモンド鉱業を行うように変わってきたのは、当然な時の流れといえよう。
この集中化、大企業化への過程で二人の優れた人物が現れた。一方は、青色の岩石まで掘り下げて、そこにダイヤモンドが含まれていることを見つけ出したバーネー・バルナト、他方は有名なセシル・ローズである。セシルローズは17歳で南アフリカに渡り、ナタールで綿の栽培をしていた兄を手伝っていたが、1871年に3つのダイヤモンド鉱区を購入した。途中オックスフォードへ勉学に帰ったりしたが、1880年には、デ・ビアス鉱山会社を設立し、また代議士にでたりしていた。彼は一種の理想家肌であり、南ア連邦のダイヤモンド資源を南ア連邦の発展に、いいかえれば大英帝国に発展に使うべきであるという信念を抱いていた。やがて年月が経つにつれ、諸所の小鉱区はこの2つの会社に併合されていき、二大会社の激しい争いになっていく。セシル・ローズは銀行家ロスチャイルドなどの資金面で後援を受けて、ついにバルナトの会社を併合して、デ・ビアス・コンソリデーテッド鉱山会社をつくり、大半のダイヤモンド鉱山をその傘下におさめるにいたった。ローズはその後、この会社の利益をアフリカの発展(植民地的な)に注ぎ込んでゆく。ローデシアの金鉱床の開発、植民地化のためにいいかえれば大英帝国主義の前進のために注ぎ込んでいく。こうしてダイヤモンド鉱業は個人経営から会社組織へ、さらに独占的な企業から帝国主義的な色彩を帯びる組織にまで変革していったのである。
ダイヤモンドの販売機構
近代的な方法で回収されたダイヤモンドも選別の段階になると、完全に前近代的となり、機械をほとんど使わず、たよりにするのはエクスパートの目と手だけとなる。第一段階は、宝石用と工業用とをわけることである。この間にははっきりとした区別があるわけではない。ただ、色や品質が悪く研磨しても宝石用として使えないものを工業用にまわすだけである。量的に見ると工業用が8割、宝石用が2割。ただし価格の面では宝石用が7割、工業用が3割と比率が逆転してくる。選別された宝石用原石は、目方をはかり、各種の級別のものをまとめてロンドンに送られる。
南ア連邦においてダイヤモンドが発見されてから2,30年の間、ダイヤモンドの販売は自由競争による価格で行われていた。しかし1892年の恐慌の際、ダイヤモンドの値下がりは激しく、大量のストックをかかえたダイヤモンド商人たちは苦境に陥ってしまった。その打開のため、一定価格で販売する共同販売購入機構を1893年に設立した。しかし全てのダイヤモンド鉱山がこの機構に最初から加入していたわけではなかった。たとえば当時のプレミア鉱山では独自のルートを通して販売しており、これが当然共同販売購入機構に脅威を与えていたわけで、特に1907年の不況の際には、ダイヤモンド価格の暴落をきたす原因になった。しかし、やがて協定が成立し、プレミア鉱山産のダイヤモンドもすべてこの機構を通して販売されるようになる。同様の経過が南アフリカ各地で起こった。しかしこの機構も1929年の大恐慌により、独占的なダイヤモンド購入資金を調達できなくなり破綻をきたした。このとき、セシルローズの事業を引き継いでいたデ・ビアスのオッペンハイマーは、危殆に瀕したダイヤモンド販売機構を手中に収め、ダイヤモンド・コーポレーションを設立した。この機構はデ・ビアス社を中心とするこれに加盟した鉱山会社の出資によって運営されており、約200億円の留保金を持っている。そのため生産者はつねに生産制限することなく生産でき、生産過剰の場合にはこのコーポレーションでプールされ、需要が増大するとプールから放出される。こうして価格は安定し、鉱業業者の事業も安定化する方式が取られている。現在ではソ連圏も含めて全世界の95%のダイヤモンドの産額が、このダイヤモンド・シンジケートの手中に収められている。ダイヤモンドの販売はこのように独占的な機構で行われているので、こういう独占機構をもっていない銅鉱業の場合の価格の激しい浮動と較べてみると、ダイヤモンドの価格がいかに安定しているかがよくわかる。
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ダイヤモンドの話2/5 ~持つべき者

王族専有のダイヤモンド
時代が降って近世に近づくにつれて護身符としてのみ使われていたダイヤモンドは再び装身具として登場することになる。これは14世紀後半頃からダイヤモンドの研磨技術がヨーロッパに発達しはじめ、原石をテーブルカットやローゼンツ・カットすることによって美しい輝きを増すことができるようになったためであった。また、当時唯一のダイヤモンド産出国であるインドとの交易が漸増し、ヨーロッパへの輸入量が増えてきたことにもよるのである。もっとも輸入量が増えたとはいっても、当時ダイヤモンドは決して大衆の持ち物にはなっていなかった。もっぱら王族貴族の専有物であり、その所有は高貴の人々にだけ許されることが法律で決められていた。例えば、イギリスでは1283年に、宝石(ダイヤモンドに限らない)の着用は、高貴の生まれの者のみに許されるという法律が制定された。1363年に改正されたこの法律によると騎士さえ宝石の着用は認められないようになった。同じような法律がフランスでもスペインでも発布されている。16,7世紀まではダイヤモンドは宝石の中心的位置を占めていなかった。当時多く使われていた宝石は真珠であり、ルビーであった。インドから輸入されてくるダイヤモンドの絶対量が圧倒的に少なく、東洋から入る真珠の方が遥かに多かったこと、研磨技術が十分に発達せず、原石のまま使われていたダイヤモンドの美しさは、赤や青の宝石であるルビーやサファイヤの美しさより一見劣っていたことなどがその原因だろう。ダイヤモンドが宝石の中心的位置を占めるようになるのは、インドとの交易がさらに伸び、一方、ブリリアントカットが発明された17世紀末の頃からである。
女性とダイヤモンド
男性の専有物であったダイヤモンドを何時ごろから女性が使い始めたのだろうか。フランスのシャルル7世の情婦アニェス・ソレルが最初にダイヤモンドを使った女性であり、それは1444年頃からのようである。この話は広く信じられているようであるが、実際にはアニェス・ソレル以前にも王族の女性がダイヤモンドを着用していたという証拠がある。たとえば、1319年づけのフランス王室所蔵のプリンセス用の宝石目録の中や、1369年、イギリスのリチャード2世が、フランスのイザベルと結婚した時贈った首飾りなどにダイヤモンドが使われている。1300年代のはじめからダイヤモンドは女性の装身具に使われていたとはいえ、1500~1600頃までは依然として、主として男性によって使われていた。やがてエリザベス女王(1世)があらわれ、一方ブリリアント・カットが発明されるようになるとこの関係は徐々に逆転して、ダイヤモンドは主として女性の持ち物へと変わっていくのである。
革命とダイヤモンド
産業ブルジョアジーが出現する以前には、王侯貴族以外には高価な宝石を持つだけの財力のある階層が存在しなかったので、革命が起こるたびに宝石の使用量は激減していたようである。例えば、クロムウェルがおこなったイギリス革命後、王制が復帰するまでの間は宝石の使用は完全に衰退してしまったし、フランスの革命では宝石類は王制の象徴として投げ捨てられたり盗まれたりして、まったくかえりみられなかった。フランス革命の際、1792年に有名なブルー色のダイヤモンド「ホープ」(ルイ14世が1668年にタベルニエから購入した。当時112カラット)は盗まれ、その後長い間にわたって完全に陰をひそめてしまった。1830年にロンドンのダイヤモンド市場に重さ44.5カラットのブルー色のダイヤモンドがあらわれた。さらに降って1874年にブランスウィック公爵所蔵の宝石が売りに出された時、そのなかに同じブルー色の小粒のダイヤモンドがあった。ブルー色のダイヤモンドは元来非常に珍しいものであり、ことにこのような大粒の石はほとんど存在しないからおそらくこれらのダイヤモンドは「ホープ」が再カットされたものではないかと想像されているが確証はない。同じような大粒のダイヤモンドにまつわる話はたくさんある。あるものは盗難にあり、殺人を引き起こし、革命を巻き起こす原因ともなった。その一つの例としてマリー・アントワネットのネックレスの話を紹介しておきたい。ルイ15世は高価なダイヤモンドのネックレスを宝石業者に注文したまま死んでしまったが、その後を受けたルイ16世も皇后のマリーアントワネットも宝石業者からこれを受け取ろうとしなかった。一方、マダム・ラモットはこのネックレスを無償で手中に収めようとして奸計をたくらみ、当時、不興を蒙り引退していたローアンの枢機卿に近づき、皇后が秘密裏にこのネックレスを買い入れようとしていると信じ込ませてしまった。この嘘を信じ込んだ枢機卿は宝石業者を信用させてネックレスを提出させ、マダム・ラモットに差し出した。彼女はネックレスを入手すると直ちにイギリスに逃げ、売却しまったのである。このことを知らない宝石業者は皇后に代金を請求して、はじめてペテンにかかったことがわかった。ルイ16世も女王も代金の支払いを拒否したのはもちろんである。時に1786年だった。このスキャンダルはマリー・アントワネットのネックレス事件として有名で、ちょうどそのころ勃発したフランス革命の発生にも。マリー・アントワネットがギロチンにかけられてはなかい一生を終わるのにも何らかの影響を及ぼすもとになったのではないかと言われている。革命に伴ってフランス王室に所蔵されていた数多くのダイヤモンドは盗まれ散逸してしまった。ナポレオンが王制を復活してから、そのうちの多くがふたたび王室に帰ったとはいえ、「ホープ」のように完全に姿を消してしまったものも多い。やがてウォータールーの敗戦に伴い、フランスにおける宝石の使用はいちじるしく減退していくが、一方イギリスでは、産業革命に応じて宝石の着用が逆に増え、それまで高貴のものの専有物であったダイヤモンドはブルジョア階級の間にも染み渡っていくようになる。
ダイヤモンドの大衆化
1866年、南アフリカにおいてダイヤモンドの大鉱床が発見されてこの傾向にいっそうの拍車をかけた。オレンジ川流域に住む一農童が大粒のダイヤモンドを発見したという噂がひとたび広がると、ゴールドラッシュならぬダイヤモンド・ラッシュがこの地に出現した。数年のうち、ジャガースフォンテイン、デュトイッスパン、ブルフォンテイン、キンバレーなどの大鉱床が発見されていきダイヤモンドの産額は急カーブに上昇して市場に氾濫していった。さらに時がたつにしたがって個々に行われていた採掘も順次統一されて大企業による近代的な採掘法に変わり、それまで最も珍しい宝石であったダイヤモンドは一般的な宝石へと姿を変えていく大量の産出による値下がりを防ぐために、南アフリカのダイヤモンド鉱業会社が中心となって全世界のダイヤモンド鉱業者を組織して作った統一販売機関であるダイヤモンド・シンジケートが設立され、価格を安定化すると共に、世界的な規模での宣伝を始めたことが、ダイヤモンド宝石の大衆化をうながす契機になった。「ダイヤモンドは乙女の最高の友」というキャッチフレーズによってダイヤモンドの需要を促進したのも、エンゲージ・リングはダイヤモンドに限るという空気を一般大衆の間にしみこませたのもダイヤモンド・シンジケートが仕組んだことである。と同時に一般的な宝石になるほど大量に算出しているにもかかわらず、その価格が長い間安定し、値上がりこそすれ決して価格の暴落が見られないようになっているのも、またこのダイヤモンドシンジケーションによる独占的・統一的な生産販売の結果である。
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ダイヤモンドの話1/5 ~宗教がかったその魅力

私が宗教上の理由で買えない三つの小品 富くじ、ワラント、ダイヤモンドである。それぞれに理由があり、そしてそれなりの敬意と感心、愛がある。それゆえに嫌いという感情論を超えた憎しみに近い、不買の信念があるのだ。
富くじ:夢を買うな、高すぎるVolatilityは不当なまでに期待値を下げる。
ワラント:売買の非対称性、それゆえの不公平性。
ダイヤモンド:これはもっとも理由が複雑でまた歴史が長く、そして悪魔的である。
この本はBookoffで105円で買ったものだが、定価130円1964年発行。筆者は私と方向性は違うものの、ダイヤモンドに対する愛があると言う意味では私と同じだ。
ダイヤモンドは、常日頃身につけて愛用したり、一旦緩急の際の財産として蓄えてくものとしては今までの私たちの生活にとってやや縁遠い存在だったようである。同じような状態は100年足らず昔のヨーロッパやアメリカにおいてもみられた。しかし現在欧米人の生活の中でダイヤモンドの占める地位は昔とすっかり変わり、完全に大衆化してしまっているのである。僅か100年前には、王侯貴族などの一握りのハイ・ソサイアティだけの専有物でしかなかったダイヤモンドも、今では婚約指輪はダイヤモンドに限られるという慣習が一般化しているため、欧米の大多数の女性にとって、少なくとも一生に一度は、自分の指にはめることのできる存在となっているのである。このような大衆化が起こった原因の一つはいうまでもないことだが、1866年の南アフリカにおけるダイヤモンドの大鉱床の発見であった。また度重なる大戦争によって財宝を宝石に変えておくという風習が生まれてきたことも大衆化を促進させた動機であろう。ところで多くの人はダイヤモンドと言えばきらめく宝石のことだけをまず頭に思い浮かべるようだが、今日ダイヤモンドの用途はじつに広くなっている。例えば、電蓄用のレコード針。ダイヤモンド針はサファイヤの針よりも高価ではあるが、寿命が格段に永く、しかも長期間の使用に耐え、かつ良い音質を保つことを音楽愛好家ならよく知っていることであろう。歯医者の使う小型の研磨砥石。虫歯を削る砥石がダイヤモンドの粉を埋め込んだダイヤモンド砥石となっている。さらに建築石材やコンクリートブロックの切断・研磨などにもダイヤモンドを埋め込んだ鋸や砥石がさかんに使われ始めている。航空機や自動車産業、電子工業などの近代精密工業の分野において、超硬合金、セラミックス、プラスチックスなどがさかんに使われる。超硬合金より硬い物質といえばダイヤモンド以外にはないので、超硬合金の工具をつくるにはダイヤモンド工具が不可欠の存在である。したがって今日、工業用ダイヤモンドの使用量は、一国の近代工業の発展程度のバロメーターといっても良いほどである。
第二次世界大戦中、日本政府は家庭にある宝石用ダイヤモンドにいたるまで強制的に供出させて軍需工業用に使った。また政府は多くの地質学者を動員して、ボルネオにおいてダイヤモンドの探鉱を行ったことがある。またドイツ軍が大戦初期オランダに侵入を開始する直前のこと、イギリス海軍が軍艦をアムステルダムに派遣して、工業用ダイヤモンドのストックを回収し、ダイヤモンド商人達もこれに協力を惜しまなかったという有名なアムステルダム作戦の例もある。最近では朝鮮戦争の勃発と同時に、イギリス、アメリカ、ソ連などが激しい勢いでダイヤモンドの買占めを始めたことがある。さらに自国内にダイヤモンドをまったく産しなかったアメリカとソ連が前者は人口ダイヤモンドの研究に、後者はダイヤモンドの新鉱床の探査に莫大な国費を投じたことはよく知られている。
聖書の中のダイヤモンド
人類がダイヤモンドを最初に発見し、使い始めたのはいつごろのことか、正確にはわからないがおそらくインド人であろうと言われている。しかし、文献上ではじめてダイヤモンドの名がでてくるのは、バイブルのようである。バイブルの中にダイヤモンドという言葉が最初に出てくるのは、「出エジプト記」28章と39章の箇所である。ここでは祭司の胸当ての作り方と胸当てにちりばめる12個の宝石のことが書かれている。ところで問題は宝石の訳語である。キリスト教研究所の加納政弘氏の好意によって調べていただいたこの12の宝石に対するヘブライ語とその音訳、英語、古い訳の日本語訳、新しい訳の日本語を表示してみよう。
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ヘブライ語のyahalomには第一に宝石という意味があり、第二に古くからダイヤモンドと訳されていたという。しかしその後、学者の間で色々異なった見解があらわれ、人によってjasper、onyx、sardonyxなどと訳されている。訳語がこのように変わってきた理由は、一つにはヘブライ語のもっとも古いギリシャ語訳(yaspis)の解釈の違いによるものであり、もう一つの理由は、当時ダイヤモンドのような硬い物質を磨いたりけずったりする技術はなかったであろうという推論からダイヤモンドと訳すのは当たらないということのようである。後ろの方の理由に対しては、鉱物学者として反論することができる。天然のダイヤモンドの結晶の表面にはダイヤモンドの結晶が成長する過程にできたか、あるいはその後、河川で運ばれる間に作られたいろいろな模様が見られるのが普通である。これらの模様の中には三角形や、四角形、丸や折れ釘のような形など、古代ヘブライ語のアルファベットの形に大変よく似た模様が多い。このような模様を持った天然ダイヤモンドをそのまま使ったと考えることは十分に可能なことである。たとえ100歩譲ってアルファベットを刻み込んだと仮定しても私は当時その技術はありえたように思われる。ダイヤモンドはたしかに地上においてもっとも硬い物質ではあるが、一つの結晶の中で方向によって硬さが著しく違っている。ダイヤモンドの平らな面に結晶のとがった部分を当てて根気よく叩いていけばその面の上に字を刻み込むことは可能なことである。
ダイヤモンド批判の最中ではあるが、聖書の怪しさを垣間見ることができたと思うので、ついでに聖書批判もしておこう。子供の頃、おたたさまが、家に来る宗教の勧誘員に向かっておっしゃった。「さっきから聖書聖書って言っておるが、聖書の原典を読んだことはあるのかね?誰も読めない古代ヘブライ語で書かれた聖書を現代の科学と知識で再解釈し、内容が変わる聖書を拠り所にするとは…、笑止…。10年後にはあなたの崇める聖書の内容がまた変わるかもしれないが、その時あなたはどちらの聖書を信じるのか?」と追求され、ほとんどの下級勧誘員は撤退し、うちには口の上手い上級勧誘員しか来なくなった。私もおたたさまと同意見というか、そういう教育をされているからなんだろうが。私も今なら子供達の前で、こう言うだろう。「かのマハトマガンディが言った・・・。『歴史に記録されている世の中で最も極悪で残酷な罪は、宗教という名の下に行われている』とな・・・」
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エエブイ女優2 2/2 ~いや家庭環境?

4.夢破れる系(大体が芸能志望)
学校でよく、大きくなったら何になりたいかって先生に訊かれるでしょ。私は迷わず、歌手って答えてました。でもそれは、なりたい、じゃなくて、なるもんだって感じ。勉強のできる人が理屈抜きに自分は大学に行くもんだって思うのと同じ。そして、歌手になんかなりたくないと初めて思った時には、周りの状況がもう後戻りできなくなっていたんです・・・」
これカッコイイね。「なりたいではなく、なるものだ。」 このまま死ぬまで突き通せばよかったのに。
5.変な家
具体的にどうのこうのというより、全てがなんとなく他の家庭と違う。西洋的な個人主義って言うんですか。一人一人が意識として独立しすぎてた。日本の家庭ってお互い助け合ったりしますよね。うちはそういうことは一切ないんです。家族であっても人のことには干渉しない。一人、一人、好きなことをやればいいって感じ。家族の間に凄い隔たりがありました。
家に問題があったから、そうなりました・・・という世論を作りたいんだろうけど、「問題のない家庭はあるの?」 外から見たら問題ない家庭というはあると思うんだわ。だが、実際、複数の人間が住んでいて、そんな家庭あるわけねー。変な家とか言うけど、どこの家庭も変なの。一人のリーダーがいて、往々にして母という存在だが、そいつの独裁政治がまかり通る最小の社会集合体で、ガバナンスなんかないんだから。家の中は、治外法権というよりは自由立法領域。意味のわからねールールが各家庭にあるだろう? 誰が作ったの? 立法権をめぐる権力闘争が嫁姑問題なんだな。家を一歩でも出たら全く通じない“法律”の作成に一生を費やすとは、俺には理解しがたい感覚だな。
6.文句しか言わない女、ただし、その事実を指摘すると怒る
- 大学生活は楽しいですか?
「楽しくないです。そう言いきると話が終わっちゃうけど、はっきり言って楽しくないです。うちの学生って馬鹿ばっか。でも文句言ってる自分って嫌いなんで、書かないで下さいね。」
- どういうところが馬鹿なの?
「話してて、この人としゃべってても私は成長しないなって思わせる馬鹿。相手も私に対してそう思ってるかもしれないけど、とりあえず、私はあの人たちは馬鹿だと思っている。」
「三重ってなんか中途半端、名古屋弁と京都弁と大阪弁が混じり合って、言葉にしても何にしても三重県人っていう輪郭がないの」
うーん、シンガポールって、中国語普通話・福建語・マレー語・英語が混じり合って・・・、これ以上言うのやめてやるよ。
7.オヤジの哀愁
- お父さんの部屋・・・・どんな部屋でした?
「狭かったけど、ちゃんときれいに掃除してましたよ」
そうなんである。娘を持ちながらも離婚をし、アパートで独り暮らしをしている中年男の部屋というのは妙にこざっぱりしているんである。
- ト、トンボの絵は?
「ああ、壁に貼ってありましたねぇ」
- じゃ、赤羽の部屋には、今、秋田のトンボがとまってるんだねぇ・・・。家具なんか何にもなくてもさ、けど、お父さんの部屋には娘のトンボの絵があるわけだ・・・。
荷物の大きさは欲の大きさ。離婚して、疲れた中年親父は無欲な傾向にあるのかもしれないねぇ。
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エエブイ女優2 1/2 ~家庭環境

沢山の女優がインタビュー形式で答えるんだが、話が台本でもアレンジしているのかというくらい似通っていた。
1.家が貧乏系・DV系
「三人姉妹の末っ子だったんです。一番上のお姉ちゃんは七歳違いで、二番目のお姉ちゃんは4つ上。お父さんはどうしても息子が欲しくて頑張ったらしいんだけど、私が生まれて男の子は諦めたみたい。」その父親は建築業に従事していた。
- いいお父さん?
「・・・」
- あなたのこと可愛がってくれた?
「・・・」
- もしかして、お酒を飲んで暴れたりしたの?
「それはないけど、三日で一升瓶を空けてました。ご飯をあまり食べずにおかずを魚にして延々と飲んで、いつの間にか寝ちゃう。外で飲んでる時は帰りに交通事故を起こす。」 子供が一番経営するタイプの父親である。
「うちは貧乏でしたよ。小学校のころ、給食費が払えなくて、いつも先生に怒られていた。」
娘を持つ男の友人に話を聞くと、皆、異口同音に「子供が女だと知った瞬間、『ああ、この子もいずれどっかの男にやられちゃうんだなあ』って思ったよ」とおっしゃる。
こういう人多いねぇ。ぜーんぜん気持ちがわからない。そこのお父さん、なんで俺がそう思わないか教えてやろうか? そんなにみんなやましい気持ちで女コマしてるのかな? 強引・無理強いの記憶でもおありか? そんなに望まれてない相手とばかり経験してきたのですか?
2.家庭不和・望まれなかった系
3歳か4歳のころ一緒に住んでいた父方のおばあちゃんに殺されそうになったの。近所の公園の砂場で頭まで埋められて、上から足で踏みつけられたりして。わたし、できちゃいけない子供だったんだって。「パパにはちゃんと立派な婚約者がいたのに、あんたのママが勝手にあんたを産んだんだ」っておばあちゃんによく言われた。要するにできちゃった結婚だったわけよ。公園の池にもよく落とされたよ。それで何とか這い上がると、おばあちゃんは「母親に似て根性だけはあるのね」と言って、わたしをいつまでもぶつの。子供のころの記憶って、そんなものしかない。
 両親はユニークな教育方針の持ち主だった。バイオリンは買ってくれるが、ランドセルは絶対に買ってくれなかった。「みんなと同じ格好するもんじゃない!!」って怒るの。
3.女にありがちな、私利私欲に負ける貯蓄計画
- なぜそんなに働くのですか?
AVの仕事は確かに楽しいけど、先を考えるとやはり安定した収入がないと不安になるんですよ。それに将来、自分が本当にやりたいことができたら、まずお金が必要じゃないですか、その時のために今はお金を貯めようと思ってるんです。
見張りを頼んだ友達がおせっかいにも彼に彼女の想いを伝えた。答えは「俺は年下の女に興味がない」だった。「私が可愛かったら、答えは違っていたと思うんです。私ってその頃、パンパンにDBだったからなあ・・・」
そうじゃねぇよ。中学校の頃を思い出してみろよ。一個年が下なだけで限りなく小学生に近づくのよ。色気がねータダの猿じゃねぇか。それだけのことだ。

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投資詐欺 3/3 本職

第二次大戦戦略物資が存在した
GHQの労働課長などを務めたセオドア・コーエンによる「日本占領革命」という本がある。それによると1945年秋に日本の内務省がGHQに対して、大阪造幣廠が第二次大戦終結後の占領開始時に保有していた戦略物資のリストを報告したことがある。ダイヤモンド6カラット、金延べ棒36本、銀20トン、コバルト36トン、銑鉄35,000トンなど、細かくリストアップされている。ところがこの膨大な物資の全てがGHQが接収する前に消えてしまったのである。コーエンは愛国的な日本の元将校たちが民間と協力して秘匿したとしている。その真偽はともかく、消えてしまった物資を摘発する運動が猛烈に起こったが、政府は46年、民間による摘発運動を違反と定め、翌47年、経済安定本部に隠退蔵物資等処理委員会を設けた。この委員会の委員長は石橋湛山(のちに首相)が務め、本格的に隠匿物資摘発に乗り出した。日銀倉庫に100億円のダイヤが無登録で保管されていたことが明らかになったと1947年3月29日付の朝日新聞が記事にしている。摘発旋風にもかかわらずそうした物資はごく一部しか見つからなかった。また、これに関する詐欺・横領なども横行したため、委員会は1947年8月に早くも廃止されている。
常人にない魅力を持つ詐欺師 知的なディテールが虚構を支える
大型詐欺師になると、彼らは一流の見識を持っており、彼らはそろって読書家でもある。実に豊富な知識を持っており、ときおり有益で真っ当な情報を持ってくる。著名人を紹介してくれて、それがビジネスチャンスにつながることも少なくない。彼らは決して裏街道の住人のようにやさぐれた人種ではない。むしろ普通の人々より優雅で端整で礼儀正しい。かつてある政治家のスピーチが非常に冗長であることを評して、こんなことを言っていた。
モーゼの十戒は297語で、リンカーンのゲディスバーグ・スピーチは266語だった。アメリカの独立宣言は300語だし、般若心経は262文字だ。だいたい重要な意味をもつ内容というのは300語以内のものではないだろうか。彼のスピーチの原稿はなんと4000語以上ある」
「人は幸福感の中で最も騙される」というのは詐欺師が金科玉条とする法則である。1929年の世界大恐慌を経て第二次世界大戦が勃発した際、名門イエール大学を卒業した若き秀才が1ドル割れの株を104銘柄買い集めた。それが契機となって巨富を築いたのがアメリカのジョン・テンプルトンという伝説の大富豪だ。彼が述べた至言である。
「上昇相場は万人の総悲観の中で芽生え、万人の疑惑の中で育ち、万人の幸福感の中で相場は崩壊する。」
この訳、今一つだな。これは好きなので、原文見てみよう。
Bull markets are born on pessimism, grow on skepticism, mature on optimism, and die on euphoria.
うわー、やっぱり英語ってシンプルですね。わかりやすい。た・・・単語がちっと難しいけど・・・
碁石を器の中から無作為無意識につかみだすと偶数個と奇数個のいずれの場合が多いか、という問題である。その確率は理論上ではまったく等しい、というのが「常識的な」答えである。厳密に言うとこの解答は誤りである。数理的な論証は本書では割愛する。「無作為無意識につかみだす時」に「ゼロ個をつかみだすをケースを除く」を含めると上述の解答になるのだ。
よし、わかった。じゃ、俺が代わって、”直感的”に説明してやろう。
碁石の数をN個としよう。
N=1の時、100%の確率で奇数
N=2の時、50%の確率で奇数。
N=3の時、67%の確率で奇数。
N=4の時、50%の確率で奇数。
ということだ。偶数個の時は50%、奇数個の時はNが大きくなればなるほど50%に近づきはするが50%より多い。ゼロ個はつかみだしていないと仮定するならな。
人がある事業について「あれは虚業だ」といい、あるいはその事業に携わる人たちを「虚業家だ」というとき、意識の中には間違いなく、反対概念としての「実業」「実業家」のイメージがある。しかし、なぜそれが「虚業」であって「実業」でないのか、明快にその区分基準を説明できる人はまずいない。その事業のビジネスモデルを詳しく調べるわけでもなく、その人物のビジネスに対する取り組みや姿勢を深く知るわけでもなく、ただそれを虚業と決めつけ、虚業家だといってさげすむのである。ある事業を「虚業」というとき、人はたいてい無意識のうちに思考の節約を行っている。人はそもそも虚実を分ける基準などという役に立たないことは考えないし、そこに客観的な基準があるかなどということをわざわざ検証する必要もないので、無意識のうちに避けて通る。一種の「思考停止状態」である。
【紳士な恫喝術】
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投資詐欺 2/3 手法

延命企業の愚策に食いつく悪徳ファンド
マンションの室内コーティングといった労働集約的産業がヘラクレスに上場し、2年足らずで風評被害などに遭遇したゆえもあり、延命措置企業になってしまった。実業としてビジネスが成立しているのだから、いったん上場を廃止されたのちに再起して再上場を期するという手も考えられたし、大手企業の傘下に入って資金調達して再起を図るという手も考えられた。実際主幹事証券はこの方法で全面的なバックアップを約束してくれていた。ところが、その企業の社長はいずれの手段も採らずに、第三の方法に陥ったのである。そして、これを狙っていた「市場撹乱勢力」に見込まれ型どおりの結末をたどってしまったのだ。その企業は2007年1月にMS増資の施行を発表した。この場合下限転換価格を決めてあったので、株価はその値段まで一瞬にして下落した。株主総会を何とか乗り切って総会から41日目、10株を1株にする株式併合と、あるファンド向けに大量の新株予約権の発行を実施すると発表した。取引所は同日、「流通市場に混乱をもたらす恐れがある」として投資家に注意を促した。取引所が特定の銘柄について投資家に注意を促すなどということはめったにあるものではない。
新規公開株の甘い誘い
未上場株に人気が集中するのはIPO時の値上がり幅が大きいからである。この手の話を持ち込んでくる人々は何も分かってない者がほとんどだ。事細かに質問をするとそれがよくわかる。
1.上場が予定されているなら主幹事証券はすでに決まっているだろう。それはどこの証券会社か?
2.類似会社比準方式でいう類似会社はどこか。その試算価格はいくらか?
3.DCF法で割り出した株主価値の金額はいくらか?発行株数は何株か?
4.直近二年間のバランスシートと損益計算書を見せてほしい
5.直近の有価証券報告書を見せてほしい
ロマンあふれる沈没船の財宝引き揚げ
不動産詐欺は、陸の上の土地・建物に限らない。海底に投資させることもある。第一次大戦中に日本郵船の八坂丸という客船が、地中海でドイツ潜水艦に撃沈される事件があった。この事件では船長と乗組員の働きで乗客全員が救助され、美談としておおいに賞賛の的になったが、この船には英国から運ぶ使命を帯びた大量の金貨が積んであったという史実である。これを積み荷リストで確認した山岡という男が、海底の金貨を引き揚げて出資金に応じて分配するという事業を企画し、見事に金貨を海底から掬いあげることができたので出資者全員は出資額の100倍の配当金を得た。「それ以来ずっと、沈船引き揚げが儲かることは日本人の記憶に強く焼きついている」(阿部譲二著「騙してごめん-私が舌を巻いた5人の詐欺師たち」)
戦後復興のためのガリオア・エロア資金
ガリオア・エロア資金というのは、アメリカの「占領地域統治救済資金」がらみの話である。1946年から1951年にかけて、アメリカが第二次大戦で荒廃した被占領国を救済するために用意した占領地域統治資金は、「Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund」の頭文字をとって「ガリオア(GARIOA)資金」と呼ばれた。被占領国の人々の生活に直接必要な食料や衣類に向けられた。これとほとんど同じ頃に「エロア(EROA)資金」というものがった。「Economic Rehabilitation in Occupied Areas」 日本・韓国の産業を再開するために鉄鋼や石油などに充当された「産業復興資金」で1949年と1950年に二度充当された。ガリオアもエロアもともに資金でではなく、物資で援助された。いずれも1952年に打ち切られ、前記の見返資金特別会計は産業投資特別会計に引き継がれた。その後、1954年からこの両資金の返還交渉が始まった。贈与と考えていた日本側は戸惑ったが、ちょうど列島改造バブルの過剰流動性が渦巻いていた1973年5月、日本側の一括繰り上げ返済で終結したということになった。ところが、金額に食い違いが起こったのだ。供与額と返済額とが大幅に食い違っていたのである。この差額14億ドルはどうなってしまったのだろうか。
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投資詐欺 1/3 合法

本書では、詐欺に関しては筆者の見聞と研究を読者諸賢に供したい。いわゆる「オレオレ詐欺」「宮様詐欺」などのような子供だましめいた小口詐欺は対象にしない。筆者が専門として究明しようとするのは億単位あるいはそれに近い大型一流詐欺であるし、小口詐欺に関してはすでにたくさんの本が出ている。昨今、1997年以降のわゆる「金融ビッグバン」の落とし子とも言える最先端の金融技術を証券市場内で使い、合法裡に大型詐欺的資金調達をする手法が横行している。MSワラントまたはMSCBは違法行為ではなく、最先端金融技術として合法なのである。違法性がなければ詐欺ではない。詐欺よりももっと大掛かりで、しかも白昼に堂々と開示の上で行われる。これは資金調達の虚業的方法ということになる。気安く虚業というが虚業と実業とはどこでわけるのか、違法性がなければ虚業ではないのか、ということを我が国における実業・虚業の事実の累積と理念の構築過程の両面から明らかにする。
裁判官の無知が日本の金融界を滅ぼす。
筆者は村上ファンド事件の一審判決に異議を唱える気は毛頭ないし、もっと厳しくあるべしとさえ思う者であるが、その判決文の非常識さは大いに呆れ、仰天のあまりわが眼を疑ったほどだ。裁判官は「(私は資金を預かって運用するものだから)株は安ければ買い、高くなれば売る」という村上被告の利益至上主義には慄然とする」という内容の判決を述べた。この判決文にこそ慄然とする。「株を安ければ買い、高くなれば売る」ということが悪いことなのかと判事に聞きたい。判事はおそらく生き物である金融市場、株式市場のなんたるかを少しも知ろうとせず、他の数々の不祥事件も知らず、法文と立件された事件調書しか読まずに判決文を書くのか、とさえ思う。利益至上主義というものは、普通は最低限度、法律と契約だけは守るものだ。市場での利益至上主義がいけないのか。市場で慈善運動でも展開せよと言うのか。良識を疑うような判決文はこと金融市場に関する限りたくさんあるひどいうのは法治国家の法律不遡及の原則を踏みにじった貸金業者への判決だ。貸金業者の金利グレーゾーンに相当する部分を法律改正前にまで遡って取り上げた。法律とは制定されて以降の事柄に対してのみ適用されるというのが法治国ではないのか?
スティールパートナーズに対して「濫用的な買収者」と評してその行為の正当性を退けた。同ファンドは買収を業務とするものだ。買収を機会あれば常時遂行するのは当たり前ではないか。
SECが摘発するインサイダー取引は国境を越えて一般市民にまで及ぶ。米国新聞大手にダウ・ジョーンズ社というのがある。19世紀末にダウ平均の算定法を開発した会社でNY市場に上場している。この新聞社に対して米国メディア大手のニューズ・コーポレーションが買収を打診した。その正式発表前に香港に住む中国人がダウ・ジョーンズ株を買った疑いがあるとしてSECは香港在住者にまで捜査の手を伸ばした。2007年5月のことである。ちなみに香港では2003年にようやくインサイダー取引が刑事罰になったという「遅れた市場」だ。しかもその後、関連の刑事訴追はほとんどなかった。真偽のほどは知らないが、かの国はインサイダーは諜報(インテリジェンス)ではなく正当な情報(インフォメーション)だと思われているという話だ。もちろん罪の意識は皆無だろうし、その罪の恐ろしさもあまり自覚は無いという話である。2007年2月末に生じた上海市場を端に発した世界同時株安については「上海の株式市場に上場している1300を超える企業の経理内容の不正確さは良く知られた事実であって2月末の急落はそれに端を発している。すなわち上海株式市場に上場している企業は、ほぼ例外ないくらい「粉飾」を繰り返していることはよく知られた事実といってよい」(世界大規模投資の時代、長谷川慶太郎著)
村上被告に対する実刑判決もアクティヴィストとファンド運用者の行動を峻別すべしとするものである。ファンド運用者が日本ほど尊敬を受けない国は先進国では珍しい。米国ではファンド運用者がFRB議長になったり、財務長官になったりするくらいだ。それは短期売買益のみを目的とする市場撹乱要因たるファンド運用者に対する批判と同一視してはならない。

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【株にまつわる事件】
2011.04.19: 史上最大のボロ儲け ~ポールソンの追い討ち 6/6 
2011.01.11: イトマン・住銀事件 ~脇役 経済事件史顔ぶれいつも同じ
2010.10.07: マネー・ロンダリング入門 ~バチカンの役割
2010.09.14: 三井住友FG、証券業務? やんの?
2010.08.20: 株メール Q3.コーポレートアクション
2010.06.28: 政商 昭和闇の支配者 ~企業買収
2010.05.18: 秘録 華人財閥 ~李嘉誠と包玉剛 「英資財閥への挑戦」
2009.11.13: 7736企業乗っ取り 300億円強奪を示す財務諸表
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2008.10.14: 日経225オプションの誤発注
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2008.08.18: 8868 スワップ契約についての考察
2008.03.20: 一族家における投資教育 ~新発CBとIPO
2008.02.02: 信用取引 証券会社の儲けと投資家(顧客)のうまみ
2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損


マハティール アジアの世紀を作る男4/4 ~がんばれアジア

日本の発展パターンをモデルにして「マレーシア株式会社」構想を発表したようにマハティールの「ルック・イースト」志向は続いていた。しかし中国系を中心に多くの国民は依然として日本企業の大量進出を警戒し、日本経済によるマレーシア経済の支配につながると見ていた。1983年から84年にかけてこうした声は政界を揺るがす金融スキャンダルによってさらに大きくなった。政府系でマレーシア最大の商業銀行「バンク・ブミプトラ」の香港現地法人「ブミプトラ・マレーシア・ファイナンス」が香港の不動産業者に22億5千万リンギット(当時レートで2200億円)を融資し、それが焦げ付いてしまった事件である。それは天文学的数字だった。マレーシアの人々から見れば国家予算の何分の一といった数え方ができる額である。83年事件が発覚すると早速政府は調査を開始した。その過程で同銀行からUMNO(統一マレー人国民組織)の数人の有力者に不透明な融資が浮かび上がり、国民は調査の行方を見守った。結論が出ないまま84年に入り、真相はヤブの中となってしまった。焦げついた債権は回収不能であることは明らかだった。結局「バンク・ブミプトラ」の株式の90%を所有する国営石油会社「ペトロナス」が穴を埋めることになったが、これに対し野党のみならず、身内のUMNO内部からも非難の声が上がり、マハティールは窮地に立たされた。
マハティールの保護政策の下の国営自動車会社の行く末を見てみよう。
プロトンホールディングス PROH MK 時価総額 2000mil MYRだから約600mil USD相当
チャートはかなり右肩下がり。92年5MYRでIPOし、現在3.45で低迷。
株主構成 筆頭株主 Khazanah Nasionalで政府系金融機関が42.74%
従業員持ち株会 10.75% Petroliam Nasionalが7.85% という事実上の国有企業だね、こりゃ。
85年10月のプラザ合意後、円は上昇を続け、たちまち200円の大台を割った。150円台まで上昇した。これにより輸出比率の高い日本の企業は輸出価格の急上昇によって窮地に追い込まれた。とくに家電、機械、精密機器などの業種は韓国、台湾の追い上げもあり、大幅な生産コストダウンをする必要に迫られていた。企業は安価な労働力を求めて海外に生産拠点を移す必要に迫られた。一方マレーシアは引き続く不況を脱出する目処が立たず、八方塞がりの状態だった。内需の冷え込みを輸出の増大でカバーしたいところだが、外資系企業は外から原料をもってきて外に売る輸出加工区型がまだまだ多く、国内の景気回復にはそれほど貢献しなかった。またサガに代表される重点部門の国策企業も輸出によって多くの収益を上げるレベルに達していなかった。それどころか非効率性と品質の悪さによる収益の減少で赤字を一層膨らませていた。こうした局面を打開するためには思い切った外資導入策を打ち出すことしかマハティールには選択は残されていなかった。その結果生まれたのが「100%外資による進出の制限大幅緩和」というアイデアである。
外国資本が入ってきて好業績をあげている一方で、多くのブミプトラ企業がいつまでも非効率な経営を続けることは両者の相互依存化を遅らせ、マレーシア経済の発展を妨げることになる。いつまでも政府の予算で彼らが作る赤字を支えられないということである。マハティールから見ればマレー人の多くの資本家、経営者には企業人として必要な多くの点が欠けていた。それはコストの収支の意識、信用、納期や契約の履行、労務管理、技術革新、意欲、規律、目標設定、品質管理、情報収集、そして最も重要な経営効率を重視する姿勢などである。
うーん・・・キツイねぇ。どうしたらいいのかマハティールでも困っちゃったんだろうな。マレー人を主婦に置き換えると思い当たることが・・・
英国紙の中傷に大反撃
リー・クァンユーは長髪の男性は入国禁止とし、ロック音楽の流入も制限している。チューイン・ガムも輸入製造を禁止した。シンガポール・マレーシア両国とも入国カードに「麻薬の不法所持者は死刑」という注意書きがある。これはただの脅しではなく、実際マレーシアではこれまで何人もの欧米人(オーストラリア人含む)が処刑されている。その際、エリザベス女王、サッチャー前英首相、ホーク前豪首相などから送られた助命嘆願書は無視された。シンガポールでもつい最近(94年4月)オランダ人が処刑された。マスコミの批判に対しては、ともに自国だけでなく外国のマスコミにさえ厳しい姿勢をとる。両国ではこれまで何度も内外の新聞、雑誌が発行禁止ないし発売禁止処分になっている。発売禁止になった外国メディアはその都度「報道の自由を侵す暴挙だ」と抗議するが、両者とも「ここはあなたの国ではない。私の国には私の国に適した生き方がある。それが嫌なら駐在しなくてけっこう」と厳しい姿勢を崩さなかった。サンデー・タイムズは、「英国政府が武器輸出を見返りにダムを建設する密約をマレーシアと交わした」と報じた。それに対しマハティールは厳重に抗議した「英国のマスコミはいまだに植民地時代の偏見で凝り固まっている。非白人国家の政治首脳なら、簡単に外国企業の買収に応じるとでも思っているのか!訂正と謝罪を要求する。」
さらに返す力で政府関係事業に関する英国企業との新規契約(5年で60億ドル分)を凍結すると決定した。この契約破棄で英国人25000人分の職が失われることになる。
マレーシアの謝罪要求に対し、「サンデー・タイムズ」」紙は「マハティール首相が賄賂を求めたり、賄賂が支払われたとは書いていない」というもの。プライドの高い英国人のこと、すんなり謝るわけがないが、この言い回しは謝罪は拒否したうえで、イギリス流に和解のシグナルを送ったものだ。
94年1月、ASEANは経済共同体化の第一歩とも言えるAFTA(ASEAN自由貿易地域)の2003年創設を目指して、域内関税引き下げを開始した。これによりASEAN域内では今後9年で関税が最終的に5%以下まで段階的に引き下げられてゆく。ASEANのリーダーとして、マハティールはベトナムとも緊密な関係を築いている。すでにプロトン社はベトナムと合弁で進出することが決定。NIES化したマレーシアが今度はベトナムに教える立場になった。また、石油公社ペトロナスもベトナムと共同開発に乗り出している。ベトナムのASEAN入り、そしてマレーシア企業のベトナム進出という話を聞いていると、改めて時の流れがいかに速いかが分かる。
先進国入りという具体的な言葉を使って国民に働く動機と夢を与えること。具体的に30年後に先進国に入り、4倍豊かになるには、どれだけのペースで成長すればよいのか、目安も設定された。マハティール自信は30年後に先進国入りする数字的根拠を次のように説明している。「私は1991年から10年ごとに実質的なGNPを倍増してゆくつもりだ。この急成長を達成するには向こう30年、年平均7%の成長率を達成することが必要だ。
うーん、多分、難しいな。今となっては、後10年しかないよ。
【愛国者・民族主義者】
2011.07.12: 父親の条件2/4 ~フランス人の高慢ちきな態度はここから
2011.05.10: 日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中
2011.02.17: 田中角栄 その巨善と巨悪 ~議員立法
2010.12.06: 田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~カネの使い道
2010.07.13: 日本帰国 第一幕 靖国参拝
2010.05.25: 靖国で泣け
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男


マハティール アジアの世紀を作る男3/4 ~自国民批判

「マレー・ジレンマ」 民族問題に対するマハティールの考え。この著作は単にマレー人優先主義を訴えるだけではなく、マレー人の特性や弱点にまで容赦の無い考察が加えられていた。まず、マレー人の特性として「礼儀正さ」、「上の者への敬意」、「謙虚さ」、「アモ(抑えに抑えた末の突発的な感情の爆発)」などで、自分の殻と人種の枠の中に閉じこもる傾向が強いと分析している。さらに遺伝学的にみて、マレー人は長い歴史の中で近親結婚を繰り返してきたため劣等化したと分析している。この説は、医学博士でもあるマハティールが意思として幾千ものマレーの人々を診察した経験に裏打ちされているので、説得力がある。
>全体的にこの本はデリケートの部分やタブー視される部分にまで遠慮会釈なくメスを入れており、・・・
って、民族の劣等性など最もデリケートな部分ではないか! 普通、民族の優等生を創作して、国民に夢を見させ、誘導するのが定説だと思うのだが・・・、器が違うねぇ・・・。やりおるわ。
ではなぜマハティールは激しい批判が起こることが確実なこの本を書いたのか。それは第一に植民地時代の英国資本が華人資本に吸収されつつあったため、国内の資本の9割が華人に握られるようになり、このまま放置しておけば、さらに格差が拡大して、経済面で華人がマレーシアを支配するという構図が固定化してしまうあせりがあったからだ。昔から温暖で豊な土地で暮らしてきたマレー人は、あまり働かなくても生きていけた。そのため経済観念などほとんどなかったといってよい。一方中国人たちは中国南部の貧しい土地から裸一貫でやってきた人たちである。誰もが一旗あげようと死に物狂いで働いた。この両者を同じスタートラインに立たせて競わせれば結果は火を見るよりも明らかである。こう主張して彼はマレー人優先の原則を国家のルールとして確立するように求めた。
 もう一つは、あけすけにマレー人の特性や弱点をさらけだし、ショック療法でマレー人の民族意識を鼓舞することである。マレー人の弱点となっている性質を、不愉快な争いを嫌い、人生の厳しい現実に立ち向かうことを嫌がる伝統的な無気力さ、と規定した上で、「マレーの苦境を是正しようという努力は少ししか試されていない。現在マレー人の間には中国人の経済支配が安定性をもたらし、国を豊かにしてくれるという考え方が支配的なようだ。マレー人は今、裕福な国の貧しい市民に甘んじて自助努力をストップするか、あるいはこの国の裕福な人たちの域に達するように努力するのか、どちらかを選択する瀬戸際に立たされている。」 とマレー人にハッパをかけている。
民というのは、自らに対して否定的な指摘が正しければ正しいほど、感情的になってその指摘を受け入れられないものである。そして、改善、成長する機会を失い続けるから、その地位に安住するのである。 by エキゾ
「マレー・ジレンマ」は出版後たちまち物議をかもし、発禁処分となった。この本が出版された1970年は民族問題に関する公開討論が禁止されるなど国中にはりつめた空気が漂っており、政府派この本のもたらす影響を恐れたのである。
ははは、予想通りの民の反応。
マレーシア版意識改革
農業国から工業国へシフトするには、国や企業は効率よく機能し、人々が「やる気と自信」、それに「労働倫理」を身につけなければならない。日本や韓国はこの条件を満たすことができたからこそ、世界に質のよい製品を売りまくり、高度成長を達成できたのである。とくに隣国、シンガポールは徹底した意識改革を行い、薄汚れた港町から”東洋のスイス”に変身を遂げつつあった。立場上、口にこそ出さないが、マハティールはシンガポールの発展も視野に入れていたことだろう。
「遅刻厳禁令」 公務員の勤務時間は午前8時から午後4時までと決められていたが、それまでは8時に家を出ればよいという解釈だった。タイムカードの導入により、朝のラッシュは8時半から7時半に繰り上がった。
> これね・・・今もまだ直ってないのよ。業者のクセに主語が自分なの。「客の俺が10時と言ったら、お前が10時にここに来い。10時に家を出るな! このボケがぁ!」 と何度も言わせんなよ。なんでこの人怒ってるんだろう? とか思ってるんだろうなぁ。マハティールも怒ってるぞって今度言ってやるか。
「ティーは庁内の食堂に出前を頼め」 外に出て仲間と茶を飲みながらくつろぐのは彼らのささやかな楽しみだった。どの官庁でも午前と午後の二回、公然と行われていた。
いててて・・・、これは俺だ・・・。トレーディング部門に席を置きながらトレーディングアワーに長時間、席を外すことが公然と行われていた。発注するのは俺の仕事じゃないし、忍者部隊だった俺は、他部門との交流と架け橋というお題目の下、情報収集(アンダーライング別各種専門家との意見交換)・諜報活動(他社商品動向調査、 直接他社に電話して営業本部が商品性を理解しているかどうか確認したことだってあるぞ!録音されたテープをもとに、金融庁にタレこんだら逮捕っちゅーくらい説明力不足だったがな!)・資源奪取(IT予算確保、余剰資源探索、人的資源引抜)・撹乱作戦(営業部隊を煽って新商品申請を通させるwwとか)等々の工作活動がけっこう忙しいんだよ。言ってることわかるだろう? 席に座ってたらできねーんだよなぁ・・・こういう活動は。忍者のクセに自分の意志で動いていて、営業部隊の陽動作戦は常に被害者がかなり多かったのでよく怒られた。しょうがねぇだろ。そのリスクが欲しくなったんだよ。この俺が。
【エクデリ・デスク、現場の光景】
2010.11.30: シブすぎデリバに男泣き ~女っ気もなく派手でもなく
2010.10.18: 三田氏を斬る ~今回は同意、でも笑える
2009.10.06: Black-Scholesは間違っている2
2009.09.29: Black-Scholesは間違っている
2010.08.05: 証券検査官Ⅱ インサイダー
2010.05.06: とても難しいImplied Volatilityの計算
2009.04.23: ウキウキする新人
2008.06.13: 腐れ社員の功罪
2008.05.28: 腐れ社員の告白




マハティール アジアの世紀を作る男2/4 ~外圧

こうしたアジアからの反駁にも関わらず欧米の価値観の押し付けはなくならず、アジアの人々の感情を一層逆なでした。その極めツケが「マイケル・フェイ事件」である。18歳のアメリカ人、マイケル・フェイは車にスプレーで落書きをしているのが見つかり、バンダリズム(蛮行)法違反のかどで逮捕された。これに対し94年3月シンガポールの裁判所は鞭打ち6回の刑を言い渡した。このニュースがアメリカに流されたとたん、野蛮なむち打ちからアメリカの青年を救おうという声が全米で巻き起こり、フェイは一躍悲劇の主人公になってしまった。ギャロップの世論調査の数値が気になるクリントンは早速シンガポール政府に「特別の配慮」を求める書簡を送り、圧力をかけた。シンガポール政府はそんなことに動じるほどヤワではない。外国の圧力で判決を覆せば国家の威信が失われると、断固拒否する姿勢を貫いた。これを見てアメリカのマスコミはフェイが可哀想だと人々の感情に訴えかけた。高級紙やニュース雑誌の一部は”価値観の押し付け”は好ましくないと警鐘を鳴らしたが、大衆紙のヒステリックな報道の前には影が薄かった。シンガポール政府が毅然とした態度をとり続けた陰には、この国を創った男、リークアンユーの意向が強く反映していると見て間違いない。わずか30年あまりのうちに、犯罪と貧困がはびこる汚れた港町から、”東洋のスイス”と呼ばれる美しい都市国家に変身させた男だ。
いやー、そうだよなー、主権国家の首長たるものそういう態度でのぞまないといかんねぇ。外圧や民の感情論に流されて媚を売ってないで、国家の威信を保つこと。それが、民にはできない首長の役割だろう。
APECを使ってEAEC潰し
APEC(アジア太平洋経済協議体)拡大首脳会議。加盟国の全首脳をシアトルに招集して、アメリカが太平洋地域の盟主であることをアピールしようというわけである。ほとんどの加盟国は消極的で関税の相互引き下げ、大型資金協力などの重要な経済協力プランが決議されたことはない。提唱者のオーストラリアはアメリカのブッシュ政権に繰り返しAPEC強化のため、より積極的な役割を担って欲しいと要請したがアメリカはさほど熱意を示さなかった。またASEAN諸国も冷淡な態度だった。ところがクリントン政権になって状況が一変、形骸化していたAPECを対アジア政策の土台にすることにしたのだ。閣僚レベルだった加盟国間協議を非公式とはいえ、全首脳が一堂に会するサミットに一挙に格上げすることによって、APECを緩い協議体から経済ブロックへ移行させることに弾みをつけるつもりだった。早速オーストラリア、日本、韓国、カナダ、ニュージーランドが参加を表明。中国は当初やや消極的だったが、人権問題をめぐってぎくしゃくしているアメリカとの関係を改善し、最恵国待遇の高進を確かなものにするため、江沢民国家主席自らが参加すると発表し、クリントンを喜ばせた。しかしASEAN諸国は初めから消極的だった。もちろんその急先鋒はマハティールである。マハティールはアメリカがなし崩し的にAPECを設立当初の合意とかけ離れたものにしようとしていることに不快感を表明し、参加する意思は無いと述べた。
そりゃ、そうだな。アメさんと中国が出てきた時点で、経済協議体っちゅーか、政治・軍事牽制の場? 東南アジアの小国家はさすがに出番ないでしょう? あー、この早速参加表明した日本以下4か国か。コイツらも「うんうん」言うだけで、アメさんと中国になんか言える立場なんだっけ?
マレーシアが発展する上で特に重い足枷となっていたのは複合民族・複合宗教国家であることだろう。しかもマジョリティであるブミプトラ系は総人口の58%程度で、中国系が約33%、インド系が約10%を占めている。これがベルギーのようにワロン系とフラマン系で同じキリスト教徒で経済格差もほとんど無ければ安定は保てる。しかし、マレーシアの3つの民族系はマレー系がイスラム教、中国系が仏教・道教、インド系は主としてヒンドゥ教と三者三様で、当然文化的伝統にもかなり違いがある。実は”マレーシア”という単語が歴史に登場したのは1963年のことである。独立をめぐる民族対立の末、妥協の産物として4つの地域が合体して生まれたのがマレーシアという人口国家なのだ。この4つとはマラヤ(マレー半島)、シンガポール、旧英領ボルネオのサバ、サワラクである。マレー半島部とボルネオは遠く海で隔たれており歴史的に密接な関係を持ったことは一度も無い。またシンガポールは人口の78%を中国系が占め、他の地域とは異質な社会を形成していた。そのため、マレーシアの成立からわずか2年後の65年に、シンガポールはマレーシアから離脱し、分離独立することになる。
この民族対立の背景にはどんな要因があるのだろう。マレー半島でマレー人と中国人の対立が激化したのは第二次大戦後のことである。そもそもの原因は第二次大戦中ここを占領した日本軍の統治方式にあった。日本軍は中国と交戦中という理由で中国人を敵国民として抑圧、一方でマレー人を優遇した。そのためマレー人の間には当初、日本軍をイギリスからの解放者とみなす空気があり、占領にも協力的だった。日本軍はマレー社会のスルタン(イスラムの権威に裏打ちされた各地の土侯)による支配体制を利用したのでマレー人の間には大きな抵抗は生まれなかった。一方で同じアジア人である日本軍がイギリス軍を降伏させたことはイギリスの権威を失墜させ、マレー人の間に強い民族意識を芽生えさせることになる。
自我の目栄えですね。育児理論的には2歳児というところでしょうか。
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マハティール アジアの世紀を作る男1/4 ~東南アジアの雄

序章「日本が謝り続けることは理解できない」と言える男
50年前に起きたことを日本が謝り続けることは、我々には理解できない。他の敗戦国は戦争中に占領した国に謝罪し続けてはいない。50年前のことに補償を求めるなら、100年前、200年前はどうだということになり、旧宗主国に対し補償はどうしてくれるんだ、ということになりかねない」
伝家の宝刀、というより馬鹿の一つ覚えのように日本の戦争責任を強調し、”謝罪外交”でお茶を濁そうとしていた村山首相は機先を制せられて二の句をつげず、何の哲学も信念もないことが計らずも露見してしまった。筆者は何もここで村山富市なる人物の見識のなさを悲憤慷慨するつもりはない。”平和、平和”とお題目のようにとらえ、つい数年前まで非武装中立などという冗談を基本政策としていた政党の党首なのだから、マハティールの発言に絶句するのも無理は無い。マハティールと日本の首脳とでは歴史観と世界観が大きく異なっている。彼らは1994年を“戦後49年目”としてとらえている。しかし、マハティールにとって1994年は“21世紀まで後6年”という感覚なのだ。「マレーシアは第二次大戦中(日本軍によって)被害をこうむったが、わが政府はマレーシア国民が日本に対して補償を求めるように勧めたりしない」と言い切れるのである。“詫びは何度も聞いたから、その後のことを話し合おう”と言いたいのだ。
頼まれたからやってる挫折を知らないエリート雇われ社長 vs 「俺がやらずに誰がやる!」的中小企業のオーナー社長 って感じですよね。日本の総理大臣ってすごく上品ですもの。お顔が。Tito元帥を見ろよ。
欧米にNOと言える男
マハティールが現在最も力を入れていることの一つがEAEC(東アジア経済協議体)の実現である。その第一歩として90年に発表されたのが「東アジア経済圏(EAEG)構想」である。ECやNAFTAにみられる欧米の保護主義と対抗しようというものである。直接のきっかけは、一つは世界における貿易のルールを決めるGATT(ガット=関税と貿易に対する一般協定)のウルグアイ・ラウンドの交渉がアメリカとEC(欧州共同体)の二極によって完全に牛耳られ、いくら経済力をつけてもASEANはカヤの外に置かれっぱなしであったこと。第二点として、アメリカとECの利害が対立し、ガットを中心とした世界の自由貿易体制が崩壊して世界に保護貿易主義が広まる恐れが出てきたことがあげられる。アメリカは過敏に反応した。ブッシュの目は東欧、ソ連における共産主義の崩壊と一触即発の中東湾岸地域に注がれ、東南アジアにはほとんど関心を払っていなかった。そんなところにもってきて、突然「アジアは経済ブロックを作る」という声が聞こえてきたのだから慌てるのも無理は無い。ベーカー国務長官はEAEG構想を封殺するため、なりふり構わず各国に圧力をかけた。その最大の標的はもちろん日本。
ACAL(アジア一国一愛人)構想とか言ってる自分が恥ずかしいです。ACAL、エイカルと発音してください。
「欧米が自分たちだけの経済ブロック化を推進しながらEAECを阻止しようとするのはアジア人に対する人種差別である。」 “人種差別”という言葉はアメリカ人にとって最もデリケートな言葉である。ベーカーはあからさまにその最も忌むべき言葉を浴びせられ、色をなくしたに違いない。
タイなど他のASEAN諸国はEAECをより積極的に支持するようになっていた。その背景には欧米が人権、環境問題、労働条件を改善しろとASEAN各国に要求し、反発を招いていたという事情がある。アジアの側からすれば、それらの要求はよけいなおせっかいでしかない。第三世界の農業国で、欧米流の価値観を発展の初期の段階で持ち込んで成功した国は皆無といってよい。その見本がフィリピンであり、ラテン・アメリカだ。フィリピンは民主主義の敵マルコスを打倒したが、経済発展はいっこうに進まずASEANの劣等生になってしまった。ところが韓国や台湾は、経済的な豊かさを国民に与えてから完全な民主主義を導入した。その理由は人間は一度豊かになるとそれを失いたくないため、社会のルールを守り、より一層の豊かさを求めて真面目に働くからだ。
これに対しマハティールはこう反駁した。
「ヨーロッパはすでに保護主義的貿易ブロックを選択している。彼らは自分たちの高い生活レベルと生産コストの高さを守り通すために東アジア諸国との競争を拒絶しようとしている。欧米はあらゆる問題であら捜しをして私たちに差別政策を正当化しようとするだろう。彼らはその口実として民主主義、人権、労働条件、環境破壊、知的所有権などといった問題を持ち出している。NAFTAやECの登場でこのような差別による排除はますますひどくなるだろう。地球の汚染はその大部分がこれまで欧米を中心とした先進国が行ってきたもので、開発は奪うことができない権利である」 とマハティールは欧米の身勝手さを非難した。

マハティール―アジアの世紀を創る男
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【国民意識と愛国心】
2010.09.10: ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず
2009.08.19: インド旅行 文明という環境汚染
2009.07.20: タイ旅行 国土がある、通貨がある、言語がある
2009.01.23: ドイツからのお手紙 銘柄選定における国民性
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道 
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.12.08: アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図
2008.10.22: 香港とシンガポールの違い
2008.08.22: Olympicと国家



実録アヘン戦争 4/4 ~そして戦争へ

艦隊北上
イギリス遠征軍が、当然攻めるものと誰もが考えていた広州を単に封鎖しただけで、主力はそこを素通りして舟山に向かった
ことは注目すべきであろう。それは林則徐によって広東の防備がどの地方よりも堅固にされていたからに他ならない。緒戦は
特に重要である。勢いに乗せるためにも少しでも苦戦が予想される地点は選ぶべきでない。舟山を占領したイギリス艦隊の
一部がやがてさらに北上を始めた。白河の河口、すなわち天津に向けて出発した。外夷とのいざこざは広東だけのことだと思
っていたのに、北京を指呼の間に臨む天津までやってきたのである。天朝の大官は夷人とは対等の席にはつかない。などとい
うことには固執しなくなった。イギリス側はパーマストン外相の書信を直隷総監に手渡した。その内容は、欽差大臣が広東で
没収して処分したアヘン代金を賠償すること、英国商務監督官に加えられた侮辱に対して謝罪すること、将来を保証すること
沿海の一つまたは数個の島を英国臣民の居住と商業活動の場として指定すること、公行商人の英商に対する負債を清算する
こと、などであった。広東で起こったことだから広東で話をつけよう、と交渉の場所を広東に移すことに成功した。宮廷の権臣
たちは動揺した皇帝を説得して、林則徐を罷免した。
 チシャンは広東に着くや、林則徐のやったことをことごとくひっくり返した。林則徐が苦心の末に作り上げた海軍義勇兵を
解散した。防備が手薄になるという単純なマイナスにとどまらなかった。解散された水勇は自分で食べていかなければならな
い。再開されたアヘンの密輸の運び屋や用心棒になったり、のちには英軍の軍夫になって使役された。チシャンは英夷との交
渉に英語のできるホウホウという買弁あがりの小人物に一切を任せた。イギリス商人の一使用人であった人物を相手が軽くみ
たのは当然であろう。そして2000万ドルのアヘンの代価を600万ドルに値切って得々としていたのだから、まるでお話
にならない。割譲については、チシャンはイギリス側に「明割」ではなく、「暗割」にしてほしいと頼み込んでいる。事実上
割譲はするが、皇帝にそれを知られてはまずいので、明文にしないで欲しいというのである。だがエリオットは条約によって
はっきりと割譲を明示することをあくまで要求した。現金なもので、英艦隊が天津から去ってしまうと北京宮廷の態度は再び
硬化した。エリオットも割譲明文化その他の条件がすらすらと裁可されるなどとは考えていない。当然拒絶されるものと予想
していた。初めから真面目に交渉する意思はなかったのだ。味方の戦闘準備の時間を稼ぐため、そして相手の武備削減を待つ
ため
にほかならない。要求が拒絶されたという理由で英軍は広東を攻撃した。1841年1月7日からはじめり、虎門の第一
関門の水道をはさむ東の沙角と西の大角島の両陣地が最初の攻撃目標となった。両陣地はたちまち陥落した。イギリス側に
戦死者無く、負傷者も38名にすぎない。清国側は戦死292名、負傷463名であった。
 イギリス艦隊は進撃しアモイを10日間占領し、台風をかいくぐるようにして9月26日舟山沖にあらわれた。定海を占領
した英軍は、対岸の鎮海を陥とし、寧波城に迫った。提督余歩雲は城を捨てて逃げた。英軍は揚子江を遡航した。南京の玄関
である鎮江を攻め、攻撃の英軍7000、守る駐防旗兵1200と青州兵200のみ。鎮江が陥落して道光帝もついに屈辱的
な和議に同意せざるを得なかった。江寧条約(南京条約)は1842年8月29日、英艦コーンウォルス号において調印され
た。これによって香港島割譲が明文によって認められたのである。そして広東、アモン、福州、寧波、上海が開港場として開
放された。清国は没収アヘン代金600万ドル、公行負債300万ドル、遠征費用1200万ドルの支払いを約束させられた。
このなかには広州で既に支払われた項目もあったがイギリスは二重取りしたのである。その他、英人捕虜の釈放、イギリス人
と行き来していたのを理由に監禁された清国人の釈放、関税問題、対等の外交関係樹立のことなどが定められた。治外法権
その他の細目については、翌年、虎門で追加調印されたのである。
たとえば、日本の高校の世界史教科書にもアヘン戦争について、清国の変則的貿易形式を打破するために、イギリス商人のア
ヘンが焼き捨てられたのを口実に、イギリスが戦線を布告した。といった記述が見られる。公行のみを通じる貿易形式は、あ
るいは変則かもしれない。だがそれを打破するのが、戦争の主要目的で、アヘンが没収されたのは口実にすぎなかったのか?
真相はのその正反対である。アヘン貿易を認めさせるのが戦争の主目的であって変則貿易形式打破のほうが単なる口実にすぎ
なかった
。アヘンこそは疲弊したベンガル政庁の財政にとって、命の綱とも言うべき収入であった。清国がアヘンを買わなくな
れば英国のインド支配は揺らぐのである。イギリスはどうしてもアヘンのために戦わねばならなかった。

実録アヘン戦争 (中公文庫)
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【戦争・内戦・紛争】
2011.03.24: ガンダム1年戦争 ~新兵器 3/4
2010.07.16: ドイツの傑作兵器・駄作兵器
2010.05.26: インド対パキスタン
2010.03.16: イランの核問題
2009.06.05: 現代ドイツ史入門
2009.05.05: 民族浄化を裁く ~ボスニア
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海


実録アヘン戦争 3/4 ~禁止令

どうして朕の代になって倹約ばかりしなければならないのか? その最も大きな理由は人民が外国からアヘンを買うので、銀
が流出するせいである。税収が増えないのもその分だけ人民がアヘンを吸って働かないからだ。国外に流出する銀も本来なら
国庫に入るべきものではないか。道光帝はアヘンを憎んだ。こんどこそ、徹底的に禁じてやると一人でいきり立った。
 エリオットは、イギリス人所有のアヘンを全部供出する手紙を書き、その数量は20283箱と通告した。アヘンの容器は
おもにマンゴ材で百斤入りの箱の長さは約1メートル、幅と高さが50センチ程度である。これを二万個も収める倉庫は、虎
門のような片田舎には見つからない。そこで広場に頑丈な柵を設け、漆塗りの蓋をかぶせた臨時倉庫を作った。そのまわりを
監督の文官12名、将校10名、兵卒100名が昼夜警備するというものものしさであった。林則徐の日記によるとアヘンの
収容をはじめたのは太陽暦4月11日にあたる日で全部完了したのが5月18日となっている。実に1ヶ月以上もかかったわ
けだ。虎門で収容したのはここから水路で北京へ運ぶつもりだったからだ。ところが、御史のとうえいという人物が、そんな
大量のアヘンを皇都に持ち込まれては物騒だし、途中で盗まれたりすりかえられたりするおそれがあると、移送に反対を述べ
た。アヘンを北京まで運ぶのは、任務完遂の証拠にするため
である。道光帝は林則徐のいうことなら証拠無しで信用しようと
考えたのである。林則徐はこの上論に奉じてアヘンの処分法を研究した。アヘンの場合、焼いても消滅しないのである。油を
かけてやいてみるとその残膏余歴が地中に滲み込んで、後で土を掘って煮ると2割から3割のアヘンを再生できることが判明
した。アヘンの性質を調べてみると、その最も忌むのは塩と石炭であることがわかった。50メートル四方の人工池、四方に
は板を打ちつけ底に石を敷いた。大量の塩を投入し、箱から取り出した球状のアヘンの塊を半日ほど塩水に浸しておく。それ
から焼石灰の塊を投入すると煙を上げて沸騰するように見える。人工池の上には板をかけ渡し大勢の人夫がそのうえにのって
長い棒でかきまぜ、アヘンのかけらを速く溶解させるようにした。そして引き潮のころを見計らって海岸側の水門を開け、海中
に放出する。
マカオはポルトガルの植民地とされているがアヘン戦争当時は、はっきりそうと言えないところがあった。ポルトガルは明代
にマカオの占拠を始めたがそのいきさつについては諸説がある。ポルトガル船が船に積んだ貢物のぬれたのを乾かすためにこ
の地を一時借りたのがうやむやのうちに占拠のかたちになったという説もある。あるいは官軍の海賊討伐をポルトガル人が援
助したのでその褒賞として特別居住の恩典が与えられたともいう。その後、ポルトガル人はなんどもマカオの割譲を中国の当
局に申し入れているが、それは許されなかった。しかし、ポルトガルは総督を派遣して自国の植民地のようにみなした。そし
て、中国でもマカオは自国領だからずっと役人を派遣して統治にあたらせた。奧門同知がそれである。ポルトガルにすれば正
式の割譲を受けていないのでもしここで問題を起こせばやぶ蛇になるおそれがあったため、中国側の役人派遣については意義
を申し立てなかった。そして歴代の奧門同知に賄賂を贈っていたらしい。中国の役人もポルトガル総督の存在を黙認していた。
したがって当時のマカオは両国の馴れ合いという奇妙な統治形態を持った土地であって、植民地というよりは「特殊居住地」
とでもいった表現をすべきだろう。だから清国欽差大臣の命令はマカオでも生きることになる。できるだけ英人を保護したい
とは思ったが、林則徐の英人に対する兵糧攻めを強権で妨害することはできなかった。
 もはや諸君の安全を保証できなくなった。ポルトガル総督が、エリオットにそう通告した。
ロンドンでは、追われるようにして広州を去ったジャーディンやマセソンといったアヘン商人が、パーマストン外相に清国を
鷹懲せよと運動していた。イギリス政府が集めている情報によれば、清国軍隊とくに海軍はあって無きが如きもの、というこ
とになっている。英国のフリゲート艦一隻は、全清国海軍一千隻の兵船を撃破しうる。イギリス政府が正式に清国への派兵を
決定したのは1840年の2月のことであった。戦費の支出は賛成271票、反対262票、僅か9票の差で承認された。
【少し騒がしい脅し】
2011.07.13: 父親の条件3/4 ~恐怖の親父から恐怖の独裁者が
2009.07.10: 得意の交渉術
2009.07.03: 暴君の家庭
2009.05.19: 俺の欲しい車
2009.04.09: 金(カネ)の重み
2009.03.16: Singaporeの日本飯
2008.01.23: モノの価値 流動性プレミアムは相手に払わせる スーツ編


実録アヘン戦争 2/4 ~貿易

夷館
日本における長崎のように清国も広州市だけを開港した。だが、日本のように中国とオランダ二国という制限は無く、諸外国
にひとしく利用させたのである。夷はエビス、野蛮人という意味で、外人を夷人、または外夷と呼んだ。夷人に対して、様々
な制約を加えたのも長崎と同じである。たとえば、夷人は夷館に居住し、みだりに外出することは禁じられる。月の8日、
18日、28日の3日間に限り、散歩することが許されるが、それも一回につき10人を超えてはならない。
・夷人は番婦(外国婦人)を広州に連れて来てはならない。
・夷人はかごに乗ってはならない。
・夷人は中国人を雇って使役してはいけない。
・夷人は広州で越冬してはならない。
夷館のなかにいる外国商人のことを夷商という。夷商相手の商売は特殊な商人しかできない規則になっていた。大蔵省に相当
する「戸部」の免許を受けた一握りの「行商」である。この行商たちが「公行」という一種のギルドを組織していた。夷館のあ
る地区を十三行街といった。最大の外人商社はジャーディン・マセソン商会で、おなじ英系のデント商社がこれにつぐ実力を
もっていた。夷館の夷商たちが最も不満であったのは、取引相手が限定されていることだった。約十社の特許商人「行商」以
外とは取引ができない
。行商たちは共同戦線を張って綿花の買い叩きや茶葉の相場のつりあげができる。夷商としてはやりに
くい。公行を組織していた清国特許商社はちょうど10社あった。清国の対外貿易は彼らが独占していたのである。独占企業
に巨利はつきものだ。
> 東電関係者 ドキッ!
行商は富み栄えその豪勢な生活ぶりは世人によく知られていた。これら公行のメンバーである「行商」にも泣き所があった。
賄賂と献金である。「戸部」は広州に「海関」を持っていた。こんな機関の役人が何かといえば公行から金品をまきあげよう
とした。
 10社をメンバーに持つ公行の代表の総商は、怡和行の伍紹栄であった。彼は公行の危機を知っていた。メンバーの行商た
ちがうわべはその富を誇っているようにみせかけているが、じつは台所が火の車であるという内情を見抜いていた。10社のう
ち、怡和行ほか2,3社だけが健全経営で、後はすでに財政的に破局を迎えていた。それは見栄を張って賄賂や献金をはずん
だせいだけではない。いったい独占貿易商が事業不振で赤字というのはおかしい
。広州は当時世界で最も金利の高い土地で
あった。いろんな理由があっただろうが、アヘン密輸という特殊な商売があったことが金利の高い最も大きな原因に違いない。
産業革命後の金融パワーはすでに世界を股にかけていた。金利の高い土地へ金は流れていくのである。広州へは内外の金融業
者がおしかけた。海外から来たのはおもにインドのパールシー族であった。現在でもボンベイのパールシー族はインドの経済を
握っている特殊階級である。彼らはヒンズー教でも回教徒でもなく、イランから追われた拝火教徒の子孫なのだ。父祖の地を
離れた彼らはインドで商業種族として生きねばならなかった。これは故地エルサレムを追われたユダヤ人が商業種族になった
のとおなじ事情である。
 金融業者の憲法は、「安全第一」、つまり相手の信用を見極めることに尽きる。うまい商売のあるところには金の借り手は
いくらでもいるが踏み倒されては何にもならない。しかも見知らぬ土地に来たばかりでは、一人一人の借り手の信用など、そ
う簡単にわかるものではない。そこで絶対安全と思われる超一流の店や人物を介して、その保証によって金貸しをすることを
考える。彼らが絶対安全と認定したのは貿易独占権を持つ行商たちに他ならなかった。行商は仲介者としてその金を右から左
へ渡すだけでコミッションが稼げた。そうなると欲が出てくる。自分が保証さえすれば、無制限に金を貸してくれる。動かす
金額が大きくなって判定が甘くなって貸すべからざるところへも貸してしまう。その結果取立て不能になっても行商は元利を
返済しなければならない。しなければ訴訟が起こり、免許を取り消されるだろう。行商の資格を剥奪されると貿易独占からも
外されてしまう。金融業者の狙いも実はここにあったわけだ。公行の総商として伍紹栄は少なからぬ会員がこの苦境に陥って
いるのを知っていた。なんとかして彼らを救わなければならない。たった一つ、一挙に挽回する方法があった。アヘンの合法
。すなわちアヘンの輸入を独占することである。
非合法商品であるアヘンは、いったいどのようなルートでどのようにして密輸されたのであろうか?
十三行街あたりに禁制のアヘンをストックしておくわけには行かない。夷人は天朝の特別の御慈悲で貿易をさせてもらってい
るのだからこの当時、夷館には治外法権などはなかった。一時、マカオにストックしていたがこれもうまくない。そこで考え
ついたのが洋上倉庫というアイディアである。航海用ではなく専らアヘンをストックするための倉庫代わりに建造された船で
ありおそろしく背が高い。夷商たちはこのアヘン母船ともいうべき怪船を珠江河口の沖に常時浮かべておいた。ちょうど香港
と虎門の中間辺りである。品物は海にあるが商談は広州十三行街で行われた。商談が成立すると夷人は等級、数量を明記した
「荷渡し指図書」にサインして、現銀とひきかえに、密売の中国人に渡すのである。この書類は「券」と称し、券は市上で現
物と同じように売買された。越冬の禁止が有名無実となっていたのも夷館ではこの仕事があったからだ。正式の貿易は10月
ごろになるとシーズンオフになるが、アヘンは年中取引されていた。券を入手したものはアヘン母船へ行き、券と引き換えに
アヘンを積んで帰る。巡視艇に見つかってもつかまらないようになるべく脚の速い船を用意しておかなければならない。この
ようにして陸揚げされたアヘンは中国各地にばらまかれた。禁制品であるから普通の商品よりもコスト高になる。運送に困難
があるので、荷揚げ地から遠くなればなるほど相場は高くなる道理だった。ストアシップ渡しの値段が一箱800スペイン・ド
ルのとき、少し北上して広東と福建の境界あたりになると1000ドルになった。
【治外法権領域】
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2010.11.11: 宗教から読む国際政治 ~アメリカ・ユダヤ人社会
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2010.07.29: 闇権力の執行人 ~対検察
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2008.01.12: Macau for Family ~香港に住む男のための同伴者と行くマカオツアー



実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景

西にとって東はまずキリスト教を伝道すべき宗教上の処女地であった。つぎに、とくに産業革命以降は、東は西の商品を売り
捌く市場、茶葉など西にとって必要な商品の供給地として研究された。だが、東にとっては西はたんなる「夷狄の土地」にす
ぎなかった。何がしかの好奇心はあったろうが、西が東に対したような激しい信仰の情熱、あるいは飽くことを知らぬ利益追
求欲をもって東が西に目を向けたことはなかった
。東は西に対してはまったくの白紙に近い状態であった。この白紙が、西か
らの衝撃であるアヘン戦争によってむりやり染められたのである。
アヘン戦争の時代的背景
イギリスが遠征軍を送ったのは1840年、道光20年である。清朝の黄金時代は、この康煕、雍正、乾隆の三代、130
余年
であることに異論はないであろう。この三代は、康煕が蓄積し、雍正が維持し、乾隆が散じたといえる。新彊回族の乱、
台湾林爽文の乱、各地苗族の叛乱の鎮圧、チベット出兵、ビルマ遠征など、軍費は惜しみなく支出され、さらに空前の文化
事業である「四庫全書」8万巻の編纂の完成にも巨額の国費をつぎ込んだ。1799年、乾隆帝が死ぬと、乾隆時代の寵臣
であった和珅(ホシエン)が処刑された。没収された彼の家産は8億両を下らなかったという。当時、政府の歳入は7000
万両であった。一国の歳入の10年分以上を和珅はくすねていたわけである。彼は20年間、閣臣であった。このようなとん
でもない寵臣の出現を許したこと自体、乾隆の後半がすでに傾斜期に入っていたことを物語っている。乾隆に続く嘉慶帝の治
世25年はひたすらぼろ隠しに終始した。嘉慶25年のあと道光帝が即位すると積年の膿があちこちにふきあげてきた。
1757年の人口は1億9034万人であったが1830年は3億9478万余としている。人口は倍増し、この間、耕地面
積の増加は18%だけだった。人口だけが倍になったのだから、国民の生活苦が目立つようになった。人口の増加は乾隆の
「盛時」の産物であろうが、それを引き受けさせられたのは、道光の「衰世」であった。
> 人口の増加は「盛時」の産物。一般家庭にも同じことが言えるかもな。引き受けるのは「衰世」か・・・。
日本は徳川時代に鎖国を行った。キリシタン対策であるといわれている。清国も鎖国状態であったが、これは多分中華思想
に由来する。対清国貿易に熱心であった英国は、通商改善を交渉しようとしたが、清国政府は対外貿易などにはまったく関心
をもたなかった。わが天朝は、およそ無い物はないほど豊であるから、外国と通商して有無相通じる必要など、もともとない
のだ。そして外国は茶葉、陶器、生糸などの必需品がなく、それを求めて来航するのだから天朝は慈悲の精神で交易に応じて
いるのにすぎないとする考え方なのだ。
> 160年過ぎた1990年に入っても中国の通貨制度のあり方を見ていると、この「中華思想」のままだな。
茶は16世紀のはじめ、船員や伝道士によってヨーロッパに紹介され、貴重薬としてはかり売りなどしていたが、しだいに喫
茶の風習が一般に広まり、とくにイギリスでは19世紀にはいってから「ティータイム」が習慣化し茶の需要は急増した。茶
の供給源は中国にしかなかった。アッサムやセイロンで茶の栽培が始められたのは、後年のこと
である。だから金額にしても
おびただしい茶葉をイギリスは中国から輸入しなければならなかった。ところがそれに対して、イギリス側では適当な見返り
の輸出品がなかった。イギリス船はメキシコ・ドル、スペイン・ドルなどの銀貨を積んで広州へ行き、茶葉を積んで帰るとい
うことになった。清国は銀本位制である。「両」は重量の単位にすぎない。37.3125グラムである。清朝は銅銭の製造
については完全に国家独占政策を採ったのに、それを本位とする銀銭については、自由放任策をもってした。これは銅を統
制することで、武器製造をチェックできたからで、銀は武器製造の原料にならないので、私鋳を許し、外国貨幣の流通まで
認めたのである。茶葉を大量に輸出し、みるべき輸入品がないうちは銀は国内でだぶついていた。ところがとんでもない輸入
品が中国の市場に出現したのである。
 アヘンである。
インド製のアヘンの輸入が、清国の貿易形態を逆転してしまった。成功した。成功しすぎたのである。茶葉の輸出だけでは足
りず、銀がどんどん海外に流出していくのである。
政治の腐敗、人口の増加などで庶民の生活が苦しくなっており、アヘンはこの現世の苦しみをしばしのあいだ忘れさせてくれ
るという効能があった。これもアヘン流行の小さくない理由であろう。イギリスでも、当時マンチェスターあたりの工員が次々
とアヘン常用の習慣に陥ったといわれている。その原因は賃銀が低く、ビールやウイスキーが買えなかったからだという。酒
も人生苦を忘れさせてくれる。アヘンはその代用品であった。アヘンは当時きわまえて安い値段で入手できたのである。
中国におけるアヘン常用の蔓延は、衰世を狙われたといえる。もし活力溢れる盛時であれば、アヘンなど入り込めなかった
にちがいない。日本がアヘンの侵入を食い止めることができたのは、イギリスが大量のアヘンをインドで生産し、その売り込
みをはかった時期がちょうど幕末という民族の青春期
に当たっていたことも理由の一つに数えられるだろう。さらにアヘンが
東洋人の体質に合っていたことも忘れてはならない。憂き世のことを忘れるためには西洋人はやはりアルコールである。アル
コールは陽気で騒がしいが、アヘンは静かで受動的で瞑想的である。
> 賃銀が低く、 だって。賃金は駄目と。中国は銀本位制である。勝手に訛って変えるなという主張ですな。
【民族意識系】
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本


金賢姫全告白 いま、女として6/6 ~中国とマカオの思い出

今度の中国語学習には、淑姫の他に別の女トンムがもう一人”配合”された。彼女は人民武力部偵察局「牡丹の花小隊」出身の成仁愛(ソンイネ)という女性であった。平壌北道出身で当時26歳だった。体育専門学校に入ったが一年生の時に軍に入隊した。体格は私と似ていたが、顔が黒く男性のように強靭に見え、性格も男性的でハキハキしていた。特に彼女は撃術が得意で短剣投げにも長けていた。「中国の広州に語学実習に行っていた牡丹の花小隊出身の二名が、無断離脱し隠れているところを中国警察まで動員して探し出したそうです。これが問題になって私まで除隊させられるというの」 彼女が除隊させられたあと、課長は不快そうに話した。「私たちは牡丹の花小隊の内幕をよく知っているんだ。あの娘達は南朝鮮に直接入って、妓生(キーセン)になるためにあんな訓練を受けるんだよ。高級幹部の酒席にも動員されて侍ったりする。そのせいかまったく質がよくない」 彼らは頭が痛いといいながら首を振った。
マカオの隅々まで歩き回ってみたが、その小さい島の中でも、本当に中国大陸の哨所近くの住民生活と明珠台側では天と地と違いだった。それに広州では見られなかったことだが、門が二重になっていて鉄の門まであった。聞いたとおりに強盗、殺人が氾濫している社会だと恐ろしかったが実際に暮らしてみるとそれほどのこともなく、やはり人間が住んでいるところだなという気がした。ここで6ヶ月間、淑姫と一緒に自炊しながら資本主義社会の便宜施設の利用方法についてなれるようにした。食料品など、生活必需品を購入する方法だとか、銀行で換金する方法、“総統夜総会”への出入りの仕方とその雰囲気、タクシーと大衆の交通手段の利用の仕方、コレネア島のプールの使い方とその雰囲気を身につけた。またリスボア賭博場に行って賭博の種類を調べ、美容院、映画館、商店、食堂の利用方法、公衆電話のかけ方まで、何でも学んだ。
あー、マカオでの行動パターン、僕に近いじゃないですかぁ。夜総会まで行かれたんですね。
僕もリスボア賭博場の1階ショッピングールで金魚の価格調査してましたよぉ。今も金魚泳いでるのかなぁ?
再びウォーカーヒルホテルで外信記者団とインタビューをすることになった。
「金賢姫さんは釈免され自由人となったが、林秀卿(イムスギョン)さん(1989年に北朝鮮の世界学生祭典に南の大学生を代表して参加し、いまはソウルで投獄されている)は今、服役していますが、この点に関してはどのようにお考えですか?」
とたずねられた。本当に答えにくい質問なのでうろたえてしまった。115名の罪の無い生命を奪った私が堂々と自由人となっているのに、林秀卿さんは私のその罪に比べたら罪とも呼べないものなのに投獄されていると言うのである。
「私のような大罪人が釈免を受けて、私自身も驚いています。林秀卿さんに対しては、私がこの国の法をよく知らないのでなんとも申し上げようがありません」 と答える他無かった。
ここも精神修行が必要と感じますねぇ。
「身分が違う。それだけのことだ。法? そんなものは私には関係ない。わしゃこうして自由人だ。何をくだらんことを聞いているのだ? 一歩前に出ろ。私の撃術で、貴様の名前を116人目に刻んでやろう。」
とか言いながら、席を立ち、その記者に向かって歩いていかないのが、訓練の賜物ですね。
1990年に済州島で開かれる講演会に招待された。済州島を見ることはとても嬉しかったが、飛行機に乗って行くというのが悩みだった。人々がもし私を知っていたらどうしようか。大韓民国の飛行機に乗っていく途中、乗務員や乗客が「あれはKAL機爆破犯ではないか」といったらどうしよう。「私が乗っていては乗客が不安になるかもしれない」などという考えがよぎった。
ワロタ。不安になるかも じゃなくて 不安になる ですね。飛行機乗っていて横に姫が座ったら、私だったら血の気が引きますな。ラジオをいじりだしたりして・・・。「あのー10,000m上空でラジオとは、あなた一体何をなさろうとしているのですか?」と疑問に思わざるをえない。「じゃ、私はここで」なんつって途中空港で下車してたりしたら、離陸前に死ぬ気で逃げるぞ、わしゃ。

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【アジア・中国文化・思想圏】
2011.01.21: 項羽と劉邦 ~軍神の伝説
2010.02.19: マラッカ(マレーシア)旅行 ~KL、マラッカ観光編
2009.07.22: タイ旅行 農業と宗教vs金融と資本主義
2009.07.21: タイ旅行 究極の製造業である農業
2009.07.08: 世界一レベルの低いDerivatives Investorが生まれた理由
2009.07.07: 世界一レベルの低いDerivatives Investor
2008.05.13: 語録 ~中国のお友達


金賢姫全告白 いま、女として5/6 ~日本人になります

1981年7月はじめ 李恩恵登場
この特閣招待所は9号招待所と大変近かったが、移転場所の位置を私に隠すためベンツで付近をぐるぐる回った。ところが私はその付近の地理に明るかったので、車でむやみにぐるぐる回ったおかげでさらに地理に詳しくなってしまった。秘密を守ろうとして逆効果を与える結果を招いたのが、私は知らぬふりをしていた。車が招待所の庭に止まると、招待所のネーさんと洒落た身なりの女性が嬉しそうに走り出てきた。一見しただけで北朝鮮の女性とははっきり違い、全身から外国女性の雰囲気が漂っていた。身長166cmほど、口も目も大造りの外国風の容姿であった。彼女は北朝鮮の女性達の羨望の的である薄いヒラヒラしたナイロン・ジョーゼット布地のベージュ色のブラウスと、紺のロングスカートを着ていた。髪は長めでパーマをかけ、濃い化粧をしていた。お白粉をぬり、眉墨と口紅をつけ、頬紅をすることが化粧の全てだと思っていて、アイシャドーをつけることなど全然知らなかった。目じりに青い線を引き、上瞼をキラキラさせているのは本当に異様だった
「こちらは玉花トンムに日本語を教えることになる李恩恵先生です。これから一生懸命に日本語を習ってください。」
恩恵先生は、それまでひとりでいたのでうんざりしていたのか
「これから玉花同志と一緒に過ごせることになって大変嬉しい。心配しないでください。私が責任もって教えますから。」と言った。
恩恵先生と私は個人的身の上については秘密にしていたが招待所の料理係を通じてあるていど知るようになった。彼女は不幸せな女性であった。無意識のうちに自分の日本名は”ちとせ”だと洩らしたことがあった。工作員が自分の身の上を明らかにすることは厳しく統制されていたので、恩恵は自分の日本名を喋ってしまって狼狽の色を隠せなかった。彼女があまりにも慌てていたので、私はそれ以上問いつめずそしらぬふりをしていた。年は当時19歳の私より5歳上の24歳だといっていたが、身体つきはネーさん風であった。一緒に入浴したことがあった。そのときに見たが乳房が垂れて、乳首が黒ずみ大きかったし、腰に贅肉がついていた。その身体つきを見ておおよその推量はできた。しかし若い女同士の自尊心の問題もあって恩恵は私にはじめは結婚していないと偽った。招待所のネーさんは「言動から見て、多分日本の酒場で働いていた女性でしょう」といった。私の目にもそのように映った。酒、タバコをよくのみ、”同席食事”のとき、恩恵や課長や指導員に酒を注いだり、灰皿をすばやく空けると彼らは、「やっぱり慣れてるだけあって手際が良いねぇ。恩恵の恋人は多分50人を超すだろう」と冗談を飛ばした。
厳しいな。まー、わかるか。タイのオカマが、胸にシリコンを入れていて、「急激に膨らませているから胸の上に妊娠線のようなものができているのが不自然だ。」と私が述べたら、同行した人に「私、妊娠線なんか見たことなーい。経験豊富な方は違うわね。」と嫌味を言われたこともある。
ときどき彼女が私達朝鮮人の悪口をいうときは激しく言いあった。「朝鮮人は食後に水で口をゆすいでそのまま飲み込んで汚いわ」「朝鮮人はご飯に汁を混ぜたり水に混ぜたりして食べて変じゃない」「朝鮮人は寸法を取ったり大きさを標示する時、手で腕や手首をつかむのでいやらしいのよ」あるときは「朝鮮人はなぜ同じ民族同士で争うのかわからない」と言って私を怒らせた。「私たち朝鮮人をこのような状態に落としたのは日本人だ。日本は36年間わが民族を抑圧しながら、血と汗を搾り取って分断の原因を作ったのだ」と反論した。
恩恵は自分の贅肉を落とそうとコーヒーを頻繁に飲んだ。北朝鮮ではポッチャリと肉付きが良い人が美人とされたので、スリムになりたいとする人を見ると変な気がする。ましてやご飯を抜いても痩せるなど、考えられないことだった。もともと食べ物が不足しているのだからわざとご飯を抜くなど信じられないことであった。
俺も、「スリムになりたいとする人を見ると変な気がする」わ。やはり、ムチムチ・パンパンが理想ですね。
鄭指導員や張指導員と金勝一は資本主義の国に移動するための準備をした。ここで一番問題になったことは、オーストリア国境をどのように通過するかということだった。ソ連、ハンガリーなどの社会主義国では、北朝鮮の公務旅券を使用してきたが、資本主義国では日本の旅券を使用しなければならない。ハンガリー国境を越える前の出国審査のときは、北朝鮮の公務旅券を見せねばならずオーストリア国境の哨所を通過する時は日本の旅券を見せなければならないのだから厄介なことであった。飛行機ははじめから利用することができず、列車を利用するか車を利用するかと、国境通貨方法についてもめた。
金勝一がいくら年をとっていようと、23歳にもなる女性が、男性と一つの部屋で寝なければならないのは真理的にすんなりと受け入れがたかった。なんでもない関係と言っても何かと不便なことがあった。そうかといって、別の部屋を取る余裕など無かった。私は金勝一が寝てから、服を着たままベッドに入ったりした。かさっという音を聞いただけでも目が覚めた。金勝一はホテルの部屋に入ると室外の時とは違って徹底的に事務的に接してくれたので助かった。彼は気のつく人なので、私の悩みを見抜いたのだろう。私もまた、当時は誰にも引けをとらないくらいに思想性が徹底しており、党に対する忠誠心に燃え、革命精神で武装していたので、か弱い女性に見られる隙をあたえなかった。金勝一の行動が少しでも唯一思想体制にはずれるとか、工作員の三大生活原則に違反すると感じられれば、容赦なく批判を加え、あらわれた欠点を指導員や課長にためらわずに、”提起”することもできる。いざとなれば、金勝一のような年寄りひとりくらいは、いつでも押し返す力が私にはあった。私の撃術の実力は、かなり力のある男性の襲撃でも受けて立つことができるだろう
うーん、良いな。肉体的にも自信がある。素晴らしいことだね。
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2008.01.01: 2008年 新年早々 カラオケの洗礼




金賢姫全告白 いま、女として4/6 ~軍事訓練

中学四年生になり社労青に加入すると男子も女子もみんな軍事動員部名簿に登録され地域の病院に言って身体検査を受ける。女生徒たちは産婦人科の検査を受けなければならず、処女性の可否を見分ける検査で、ときたま体操や舞踊をした生徒は他の生徒達と違う評価を受け、陰口をきかれたりもした。夏の一ヶ月間、青年近衛隊の訓練に出かけた。衛戍規定、内務規定、隊列規定など各種規定とAK歩銃の分解と結合、その構造と作動の原理、隊列訓練、執銃動作、照準訓練、行軍、そして実弾射撃訓練などを受けた。
私は金日成総合大学生物学部に合格した。学生生活を何日も経験しないうちにすぐさま教導隊軍事訓練に6ヶ月出かけることになった。金日成総合大学は北朝鮮では最大、最高の唯一の総合大学なので簡単に紹介しておこう。推薦を受けるには、まず”成分”(出身)がよくなければならない。つまり抗日パルチザン出身の子女や対南革命家の子女、または戦時被殺者の子女なら申し分が無い。そして党や政務院機関の幹部など、特殊層の子女か、少なくとも基本階級(労働者、農民)出身でなければならない。大学教育の目的はインテリを金日成主義で武装させること。
私達が受けた訓練は優先的に軍事の基本に関することであった。一般的な軍事理論、射撃訓練、戦術訓練、地形学、制式訓練などであった。また哨所に関する理論、航空偵察組と関連した金日成教示、砲小隊と航空偵察組の任務と目的、指揮所歩哨勤務の役割と任務などを暗誦しなければならない。敵の十数種の航空機の模型を見て覚え、識別できる能力も養わなければならない。戦闘機はF86、輸送機は、DC71、爆撃機はF07、追撃機はFR161、その多くの機種を模型だけを見て識別する能力を養うと言うのだからみんな大変苦労した。
平壌外国語大学は、他の大学とは違って一学級の学生数がとても少ない。専攻科は英語、フランス語、スペイン語、日本語、中国語、アラビア語、ロシア語の七学科からなっている。英語、フランス語学科の場合は一学級の人数が20余名である。日本語、中国語、アラビア語などの場合は、十余名またはそれ以下の人数であった。私が選考した日本語学科に入学した学生は9名だった。卒業すれば外交官または外国語を使う職場に配置されるので、特殊階層に属する人でないと入学が難しい。
1980年1月の末頃だった。先生が、ロシア語の講座長から電話だよと伝えてくれた。行ってみると他の先生は誰もおらず、講座長と見知らぬネーさんがひとり座っていた。北朝鮮では珍しい茶色のウールの布地で作った韓服を綺麗に装い、髪上げをして見るからに格好の良い上品な女性だった。「ええと、賢姫トンム、最近も党の唯一指導体制の学習を一生懸命にやっているはずでしょうね? 唯一指導体制とはなんですか? 全社会の金日成主義化とは何ですか? 社会主義の完全勝利とはどんなものですか? 後継者はどのような方が良いと思いますか?」 そのネーさんは答えている私をまじまじと見つめていた。私を上から下までくまなく見たり、体を半分起こして私のえり首や背中までしげしげと見ていたが私が彼女の方を向くと素早く視線をそらしてしまうのだった。「ご苦労さま、帰っていいですよ」 「おかしいな、何のことだろう? そしてあのネーさんは一体誰だろう?」
呉振宇の妻、呉振宇、人民武力部長(陸軍大臣)であったことが後日判明した。自分の4番目の息子の嫁を探しているので、写真が欲しいと言った。中央党に召還されてもう家には帰ってこない。と答えるととても残念だといいながら帰った。党の召還がもう少し後であれば、平凡な女で暮らしていたかもしれない。
女性工作員の特訓
「これからは本名は使えませんよ。金玉花(キムオクファ)と呼びます。金淑姫(キムスクヒ)と一緒に暮らすことになるが、本名はもちろん自分のことについてはすべて秘密にしなければなりません。金淑姫についてもたずねてはいけないし、訊かれても答えてはダメ。誰にも金玉花同志について知るきっかけをあたえてはいけません。」
金星政治軍事大学の教育の中でもっとも難しかったのは軍事訓練だった。これは肉体的、精神的に極限状態を克服する訓練であるといえた。撃術訓練と言うのは、普通の男二名を制圧しうる能力を身につけることを目標にした。手足、肘を使って急所を正確に攻撃する訓練だった。行軍は、毎日夜間に1時間ずつ10kgの背嚢を背負って4km「山岳行軍」をすることであるが、毎週土曜日には同じ10kgの背嚢を背負って25kmを三時間で「山岳行軍」した。金日成の誕生日を迎えると4月15日を記念する意味で41.5里(約166km)の行軍をした。射撃ではピストル1200発の実弾射撃と、AK小銃200発の射撃をした。毎週二回、4時間ずつの教育を受けた。武器の分解、組み立て修理訓練も繰り返しやらされた。手榴弾投擲訓練もあった。25mの距離で直径15mの円に投げる方法を学んだ。一回に3発を投げる訓練もあった。水泳は2kmを平泳ぎで休まずに泳ぐ訓練を10日間受けて、その通りできるようになった。ビト訓練は夜間に地図を見て指定された場所を探し出して、そこで穴を掘り、その中に入り、3日間隠れている訓練であった。度胸と根気と忍耐が必要だった。短刀操法は短剣で相手の急所を刺す訓練である。プラスチックの模型短刀(25センチ)を使って、その正しい握り方と急所を刺す方法を5時間でものにしなければならなかった。地形学は地図を正確に見て指定した場所に行って暗号文献を埋めておいてまた発掘してくる訓練であった。
良いなぁ、かっこいいなぁ。軍事訓練を受けて習得した女か・・・見たこと無いなぁ・・・手榴弾はおろか銃すら撃ったことないよ。166kmの山岳行軍って・・・。
映画「金賢姫」の冒頭シーン
は、穴掘って、そこで3日間を過ごし・・・山岳行軍 で決まりだろう。
雨の中の行軍終了後、レインコートを脱ぐとムキムキの肩が現われ、髪をほどいて、白い息を吐きながら仁王立ちする金賢姫
。主演女優は、誰がいいかな? デミ・ムーアがイメージなんだけど顔がねぇ・・・天海祐希は顔は完璧なんだけど、華奢だし、年齢的に26歳のスパイはちぃと厳しいか。
【メンヘラ・破壊的な女】
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金賢姫全告白 いま、女として3/6 ~少年時代

1960年代初め、キューバを囲む周辺の情勢は革命政府が実権を握って間もなかったので非常に混乱し不安定だった。北朝鮮大使館員たちの家族宿舎は、あるブルジョアが住んでいた豪華な邸宅を整理して使用していた。門の前から玄関まで女性の裸像や立派な彫刻が整然と立っていて、各種の華やかな装飾品で飾り立てられていたという。入居後、ブルジョアの残滓を清算するといって彫刻品と華やかな装飾品全てを壊したり割ったりして捨ててしまった。家の門は大きな鉄格子でできていた。正面に広々とした庭園が広がっていた。青い芝生がしかれた庭園には照明灯、ブランコもあった。白いテーブルと椅子が芝生の緑に映えていた。庭園を見下ろす優雅な三階建ての建物が私たちの宿舎だった。
外務省は・・・、どこの国でも浪費が激しいな。でも北の外務省は活発に活動してそうだな。
下巻
私は人民学校の頃、他の子供たちより忙しかった。俳優として選ばれ、映画撮影に動員されたことである。その男は整列している数百名の子供たちの中から三年生の男の子を一人選び、私と一緒に正門に立たせ正面写真と側面写真を撮っていった。色々と質問に答えたりした。「お父さんの職場はどこ?」「家はどこ?」「映画を見たことある?」「家にテレビある?」「どんな本が好きなの?」「学校で何をしてる?」 ひとりの演出家が「この子、栄玉によく似ている・・・」とつぶやいた。何日か後、私が「社会主義の祖国を訪ねた栄秀と栄玉」という映画に「栄玉」の子供時代の役に選ばれたと学校を通じて母に通知が来た。
今、北朝鮮では鄭姫善という女性を出してきて、私が花束を贈呈したという事実まで否認しようとしている。私はそれを聞いてあっけにとられ、言うべき言葉を失った。「本人がピンピンしているのに、どうしてあのような嘘を言っているのか?」
1971年12月末、平壌学生少年宮殿で、平壌市青少年学生たちの「新年を迎える公演」があったがこのときこれに金日成が臨席した。私は金日成一行に、少年団のネクタイを結ぶ生徒代表の5人の中の一人として加わった。
1972年11月、カンボジアのシアヌーク殿下が平壌に来た。女生徒代表8名の中の一人として選ばれ、金日成の夫人金聖愛に花束をささげた。
1974年9月、平壌の千里馬路にある平壌体育館で、「全国朝鮮少年団熱誠者大会」が開かれ、金日成が臨席したが、私は主席壇に上がり、金日成のそばに座っていた高級幹部に花束を贈呈した。
随分と正確な記憶力ですなぁ。「国家に過去を消された女」、これもまたかっこいいな。
4・15(金日成の誕生日)が近づくと休み暇も無く忙しくなっていく。三月末から全国的に衛生事業が始まる。身の回りの整理整頓や下着、さらに頭髪のしらみの卵も検査する。次は肖像画の管理状態の検査である。ほこりがついていたり、少しでもしわや折り目があったら大事件になる。呼びつけられ、思想批判を受け、罰を受けることになる。金日成の徳性資料を暗誦し、中世の贈り物を用意し、捧げる生花も求めなければならない。暗誦はどんなに頭の悪い生徒であろうと、徹夜してでも暗誦しなければならない。1少年班は6名で成っているが、一名でも覚えられないものがあれば全員夜9時過ぎまで帰れない。
いいねぇ。日本もなぁ、天皇を祭る奉安殿があったし。社歌を暗誦するまで帰れない会社もある
4・15や9.9などの大きな名節(祭日)行事のとき、マスゲームやカードセクションを担当する学校に指定されると、その学校の生徒たちは酷い目に会うことになる。2月になり、放課後学校の運動場や体育館の庭で練習が始まった。2-3月はまだ肌寒いのに水着姿で動作を習うのだから、女子生徒たちは唇が青くなりブルブル震えた。夕方の”総括”のときは動作ができない生徒や規律に違反した生徒たちを前に立たせ涙が出るほど批判した。誰がどんな動作でどんな風に間違え、誰が集合の時刻に遅れたなど、いちいち指摘し批判し終えると夜の12時をすぎることが普通であった。金日成の顔の作品を作る場合には指導教員までぐっと緊張する。金日成の顔がだめになったり、顔に黒い点でもあろうものなら、それに参加した誰もがただではすまないからである。だからカードセクションに参加する生徒の中にはその席で放尿する場合が少なくない。甚だしいのは膀胱炎にかかる子供もいた。
あれ、狂気の沙汰だもんなぁ。

こいつらの表情、一糸乱れぬこの動き。見ているだけで空恐ろしいわ。将来の喜び組と革命戦士の候補生たちだ。子供と子供の教育。世の中で怖いと思うものはそれほど多くはないが、そのうちの一つだな。
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金賢姫全告白 いま、女として2/6 ~今、君が嘘をついた

彼は私の胸をはだけるように、いままで私がついてきた嘘を指摘しはじめた。
「あなたは絶対に中国人ではない。15年間住んだといった黒龍江省五常県を五常市と言っただろう。五常市は存在しないよ。それに五常県周辺の県を一つも挙げられなかった。あなたは中国語で「トゥンス(物心がつく)」という言葉をよく使ったが、その言葉は南方だけで使われるもので、北方の黒龍江省ではほとんど使わない。そのうえ黒龍江省五常では新聞の街頭販売が無いのに、あなたは五常に住むネーさんは街で新聞と饅頭を売っているといいつくろったね。」
続けて彼は、私が日本に居住した事実が無いと断定してその理由を指摘しはじめた。
「日本で一年間生活したのに、日本人がよく食べる海苔を見て、あなたは紙を焼いたのかととぼけただろう。また真一の家だと描いた絵も日本家屋の構造じゃなかったし、日本の町だと書いた絵も日本ではなかった。毎日炊事を担当したといったくせに石油を使ったか、ガスを使ったか、それとも煉炭を使ったか答えられなかった。あなたが11月14日に日本を出発したのなら、日本の首相が変わった事実を知っているはずなのに、それも知らなかった。竹下首相なのに、中曽根首相だと言った。決定的なのは日本で見ていたテレビの商品名を、あなたは北朝鮮製のチンダルレと答えて慌てたのを私たちは見た。日本のタクシーの運転手の座席の位置も左側だと言ったね。それでも日本で暮らしたと主張できると思うのかね」
そうか、これ、嫌味に使えるな。新聞や本を読んでそうも無い人に。「常識疑ってしまいますけど、大丈夫ですか?」は手ぬるいな。「国籍を疑ってしまいますけど、本当に日本人ですか?」 にしてみよう。場が凍りつくに違いない。
私は平壌市大同江区域東新洞で生まれましたが、母に抱かれてキューバに渡りました。外交部に勤めていた父が、キューバ大使館に転勤を命ぜられたためです。そこで妹の賢玉(ヒョンオク)と賢珠(ヒョンス)が生まれました。1967年に家族全員で帰国しました。下新人民学校4年、中新中学校5年を経て、金日成総合大学に入学して1年通いました。しかし父の「今は外国語を必要とする時代だ」という言葉に従って、1978年に平壌外国語大学の日本語科に入りなおしました。1980年3月、大学二年生であった私は、突然労働党調査部の工作員に選ばれ、家を離れることになりました。
出世コースの始まりですなぁ。最初から裕福な家庭育ちのお嬢様。
「22,3、いちばんいい年頃ですね」 私は年を言わないままにっこり笑っていると彼女はそれ以上訊かなかった。実際の年より3,4歳下に見てくれているので気分がよかったが、実際の26歳の年を考えると悲しかった。19歳で工作員に選ばれて7年という歳月がたったのを振り返ってみると空しく時がたったように思われてならなかった。
降りしきる雨、息も白い凍りつくような中、背負った背嚢を「ドサッ」と置く。
1987年平壌・・・7年の時を越えて・・・革命戦士が一人・・・覚醒した・・・

こんな感じで映画になりますよ。あなたの19歳から26歳の人生はね。一般人の7年間?大学行って就職して、ちょっとした色恋があって・・・みんな集約しちゃうとそんなもんです。空しく時がたった? そんなことはありませんよ。
逮捕後、ソウルにてクリスマス・イブ
なぜ街全体がこんなに浮き浮きとした雰囲気なのか、そのときになってやっと私は気付いた。北ではクリスマスを特別な日とは考えないし、その日が何の日であるか正確に知っている人もそれほどいないだろう。ただ、西洋ではクリスマスが祝日だというくらいしか知らない。「思った通りだ。アメリカ帝国主義者の傀儡だから、アメリカ製のお祭りを一緒に楽しむしかないのだろう。文化や風習までを支配されてしまったのか・・・」
その人たちの顔全てがここから楽しそうに見えた。私はいいようもない悲しみを感じた。みんな一つの心でつながっているのに、私一人だけ彼らと違う人間なのだ。みずから疎外された存在であることを認めざるを得なかった。
アメリカ製じゃないかも・・・、ま、いいけど。日本や韓国では、クリスマスはキリストの誕生を祝って若き男女が子作りする日です。なぜか、クリスマスが近づくと、おまたを開きやすくなるみたいですよ。あなたのおっしゃるとおり、滑稽としか言いようがありませんな。
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金賢姫全告白 いま、女として1/6 ~普通の女に焦がれて

思い切りおしゃれをして、街を闊歩する私と同じ年頃の女性を見ながら、私はやはり、女であることを意識し、彼女たちがひたすら羨ましかった。ずうずうしい願いであるが、私は罪人である前に、単純に20代の女性でありたい
彼女の自己紹介を聞きながら、平凡な家庭の主婦で、夫に従って外国に出てきて自由に暮らす女性こそ、もっとも幸せな女性だと、羨ましさがこみあげてきた。とても羨ましくて、自分の立場がいっそう惨めに思えた。
いやー、あなたほどのお人が、デパートでお洋服を見たいとおっしゃるならば、私がいくらでもお付き合いいたしましょう。「普通になりたい」、無い物ねだりですね、わかりますよぉー。うんうん。ずうずうしいってか贅沢なんですよぉ。お気づきで無いかもしれませんがねぇ。普通の女って退屈でありきたりで、どこにでもいるものなんです。115人を殺害し、プラスチック爆弾の使い方を知っていて、青酸カリを見たことがあり、「ちょっと日本行くか」と言えば元総理大臣が別荘を貸してくれる。ねぇ、そんな経験や知識を持った普通の女。なれるといいですね。
「旅行をしている間、男女が同じ部屋で寝泊りしたのに何事も無かったんですか」
最後に彼女はこういう質問までして、私と真一の関係に探りを入れた。私はひどい侮辱を感じた。男女関係を厳しく律する北朝鮮で育ち、異性に目覚める前の18歳のときに工作員として徴用され、一般社会とは隔離された私。
「もちろんキスもしたでしょうし・・・。体は触ったでしょうね」
彼女はまるで私に腹を立てさせようとしているかのように露骨な質問を続けた。
「年寄りにそういうことできると思いますか」
彼女はすぐさま「じゃ試してみたけど力が足りなくてだめだったというわけ」と言葉尻をとらえた。
飛行機の搭乗口を出ると冷たい風が肌を刺した。それはなんと平壌の空気が発散する匂いと同じだった。私は一瞬、もしかして自分は順安飛行場(平壌近郊)に到着したのではないかという錯覚まで覚えた。順安飛行場とは比較にならないほど大きかった。彼方には大勢の人たちが集まりカメラのフラッシュがひっきりなしに炸裂していた。私は人民学校(小学校)の頃、「社会主義の祖国を訪ねた栄秀(ヨンス)と栄玉(ヨンオク)、「娘の心情」などの映画に出演したことがあった。撮影の現場という現場には、いつも大勢の人々が私たちを取り囲んで見物していた。幼い時分から私は多くの人々の見せ物になる運命だったのかもしれない。
何日ぶりの歯磨きかわからない。南朝鮮にこんな素晴らしい歯磨きがあるものかと、注意深く歯磨きに目をやった。それには朝鮮語と英語で書いてあったが、商品名そのものは英語であった。「ほら見ろ、船来品だわ。南朝鮮は外国からの借款で国の経済をやりくりしていて、船来品が幅を利かせていると聞いていたが、その通りだわ。生活必需品の歯磨きでさえ自力生産できず、船来品を使っているなんて先が見えた国ではないか」 私はやや質が落ちても自主生産している北朝鮮が本当に誇らしく思われた。
>南朝鮮は外国からの借款で国の経済をやりくり
そう。事実だな。お前の言うことは間違ってないぞ。
「この子の生理はいつなんだろうね。それがわからないと面倒の見ようがない」
それを聞いて、実は私も切実な問題だったので思わず、「生理?」と日本語で聞き返し、紙に「24」と書いて渡した。この軽率な行動に対してもすぐ後悔した。聞き取れないふりをすべきだった。
いやー、朝鮮語がわかるわからないの問題じゃないでしょ! いいかね? バーレーンでの逮捕が1987年12月1日、ソウルへの移送が12月15日。それで24日?? あんた、12月1日に、青酸カリを飲んで自殺しようとしたことになってるだろ? それからわずか3週間ほどで、予定通り生理が来るだと? 飲んでないだろ? 飲んでないゆえの確信的な健康への自信が伺えるぞ。金勝一に飲ませて自分は飲んだふりだろ? 殺したな? はけー、はくんだーオラー!!

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なんかこのアマゾンの表紙、俺が持ってるのと顔が違うんだけど・・・、俺のは笑ってないぞ。
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後藤田正晴と12人の総理たち2/2 ~横柄なオヤジ

1990年、湾岸危機が発生した時、37年ぶりに一ヶ月の夏休みをとろうとおもって軽井沢の山小屋に着いたとたんに”ゴッドフォン”がかかり、私は東京に呼び出されて、的場順三元内政審議室長と共に”予備役召集”をくらった。そして権限も責任も、ポストも報酬もないまま、時の海部総理を閣外補佐することになった。
ポストだ報酬だ、経費だって発想が国士じゃないのよ。そのくせ国士ぶった発言があるのが、いかがなもんかな?後で国士ぶった発言も抜き出すがねぇ。合わせて読んで笑って欲しい。
宮澤喜一氏の東大偏重の学歴重視は、その酒癖と共に周知の事実である。私は生前の竹下登総理の下で一年七ヶ月内閣安全保障室長として仕えたが、ある会食の席で「ボクは宮澤さんに『竹下さん、貴方の時代は早稲田の商学部は無試験だったんですってね』といわれた。あれだけは許せない」と宮澤さんの東大優先を批判していた。「早大商学部でも、なんか試験はあったんでしょう?」と問うと、「それがね、無試験だったんだよ」
これは笑った。「無試験なんじゃネーか!」と国民全員で竹下君にツッコミを入れたくなったところでしょう。
「明年に予定されているフランスからのプルトニウム輸送について、アメリカの国防総省が厳しい条件を出してきましてね、通産も科技省も交渉が上手く行かず困っています。お手伝い願えませんか。」と申し込まれた。「私、核問題やプルトニウムのこと何もわかりませんよ。どなたかよくわかっている方にご依頼なさっては如何です?」
「核の専門知識がいくらあっても理工系の人にはペンタゴンとの交渉は無理です。プルトニウムの輸送にはIAEAの国際規則がありまして『アームド・エスコーツ』(武装護衛)をつけて輸出国から輸入国まで『無寄港航海』でやることが義務付けられています。これまでフランス海軍とアメリカ海軍にお願いしてきたんですが、今度は『湾岸戦争の後始末で忙しいから、日本は自分のことは自分でやれ、海上自衛隊でやればよい』と突き放されてしまったんです。しかも『アームド・エスコーツ』つまり複数の護衛をつけよといっています。前衛だけでなく、後衛もつけ、できれば側衛をつけろ。フランスのシェルブール港から東海港まで『無寄港航海』をせよといいます。日本としては海上自衛隊は出せない。海上保安庁でやらせてほしい。そのため6000トンの『しきしま』という巡洋大型巡視船を200億円かけてわざわざ造ったのですからそれ一隻でやらせて欲しいとペンタゴンに申し入れているのですがOKしてくれない。『しきしま』は無寄港航海可能なように造りましたが5200トンの『みずほ』級は4隻ありますが航続距離が足りないのです。」
プロデューサーだかディレクターは若くて、横柄で、生意気で、官僚的だった。
「死者への哀悼の意の表明、青木大使以下24人の日本人人質を救出してくれたペルーのフジモリ大統領への謝辞から入るのがNHKの良識だと思う。昨日二回注意したのに改めようとしない。国際放映を世界中が見ているんだよ、日本人24名は無事でしたとエゴイスティックなことから始まるのはおかしいですよ・・・」
すると彼は
「そういうことはNHKの編集方針、報道の姿勢の問題で佐々さんから言ってほしいと思っていません。昨日昼と夕に意見を言ったといってもNHKは番組ごとに独立しているんだから仕方がない。この『クローズアップ現代』の番組では軍事的に見てこの作戦はどうだったかを、佐々さんに論評してもらうつもりですから、その面に限ってお願いします。」
「これはナマ番組でしょう?私の発言を統制する気?私は貴方の編集方針だか基本姿勢だか知らんが、国際常識としておかしいよ、と言っている。」
んもぅ、大変だね、このオヤジ相手にすんのも。NHKは全国ネット。ね? Singaporeで放送されることはない。金を払ってNHKを受信することはできるよ。でも買い手は日本人だ。ドメスティックな観点で大丈夫ッ!
後藤田さんは言った。「龍太郎はな、女にもてる。だが女がいたとしても、男女は『尊敬』と『愛情』と『金』があれば大丈夫、龍太郎の女はしゃべらんわ、そこへいくと宗佑はどうしようもない。その3つ、一つもなかったわな。」
反論、男女はじゃねぇ、女は、でしょう? 男が女に金を求めているケース、そんなみかけないな。
「佐々さん、二人でファイアーウォールのIT会社を興しましょうか。治安防衛で日本国内に強い貴方と組んで、米国の軍事的サイバー防衛のハイテクを導入してシステムをつくり、日本の情報を守りましょう」
これは魅力的な提案だった。国益に合致するし、悪いことは何もしていない。後藤田さんの特別権力関係指令には何ら予算の裏づけはない。現に湾岸戦争二度のワシントン訪問も自費だった。私は妻にはかってなけなしの預金を投資して岡本行夫氏と合弁のIT会社を創立しようと思った。ところがである、普段まったく連絡のない3人の息子達から「晩節を汚さないように。金儲けなどもってのほか。父上は強情我慢を貫き、天下りもせず、親方日の丸にも旧財閥企業の資金援助も政治資金もないまま、ひとりで国益のためにやってきたんでしょう。だから僕らの友人ら若い世代が敬意を抱いているんだ。アメリカと協力して国の機密を守るシステムを作り、上場して創業者利益をえようなんてとんでも料簡ちがいだ。しかも日米協力して創設する日本の官庁機密防衛のシステムはアメリカの手に鍵を握られることになる。晩節を汚さないでください。」
自慢の息子達はIT企業に勤めているんだと。優秀で良い息子さんなんだろうね。ファイアーウォールだ暗号技術だって、何にも知らないオヤジが金もないのに、そんな会社を作ろうとする無謀さがイタかったんだろう。ね、国士気取りだが、また自費出張がどうのこうのとか、つまらんことを気にしているでしょう? では最後の極めつけ、笑ってください。
21世紀は不思議な世紀だ。急に一匹狼に光が当たりだしたのだ。02年の能率手帳の佐々メモには「小泉純一郎、石原慎太郎、イチロー、そしてこの私、佐々淳行に」と記してある。
コイツ・・・どこまでずぅずぅしい野郎なんだ。てめーに光なんか当たってねぇよ、ボケ。
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後藤田正晴と12人の総理たち1/2 ~天安門事件

まず、タイトルに偽りあり。後藤田正晴を中心に総理大臣との絡みがあるかな? と思うでしょう? 違う。これは筆者:佐々淳之氏の自伝である。もーぅ、がっくりだったよ。
天安門事件勃発 1989年5月4日、北京は重大な政治危機に見舞われていた。自由と民主化を求める百万人の青年、学生達が全国から北京の天安門広場に集結し、セメント作りの「民主の女神」の像を建て、直後の訪中したソ連のペレストロイカ革命のリーダー、ゴルバチョフを立往生させ、鄧小平政権の土台を揺るがした。そんなとき5月17日総理府6階内閣安全保障室長室に中国大使館の苗長栄武官(陸軍少将)が沈痛な顔で来訪した。「北京の天安門の事態は重大です。きけば貴方はデモの鎮圧の専門家の由。天安門の100万人集会をどうやったら平穏に解散させられるか、お知恵を拝借したい。」と丁重な申し入れがあった。ときの総理は竹下登氏。リクルートスキャンダルで政権は大混乱の有様。指示を仰ぐ余裕はない。後藤田暗黙の了解で独断専行しよう。私は決心した。
「私が処理した機動隊運用によるライオット・コントロール回数は、990日間約6000件。検挙15000名、警察側負傷者12000名。双方に死者は出さなかったし、一発の拳銃も撃っていない。百万人の不法集会を解散させた経験はないが、20万人規模なら何回もやった。それでは私の責任でコツを伝授しよう。
(1)「汝殺すなかれ」。軍隊を使えばどうしても興奮して発砲する。350万人民解放軍のうち50万の武器を置かせ、警防と盾の臨時機動隊を一般警察や武装警察隊と別に編成する。
(2)群集処理の武器は「音」と「光」。相手より協力なラウドスピーカーを。闇は敵、強力な投光器を。
(3)放水車、催涙ガス銃を緊急調達する。(日本は売れないが韓国の国家安全企画部に頼め)
(4)座り込みは決して「押すな」。時間をかけ、一人ずつひきずり出せ。
(5)手錠をかけるな。隊列の後へ手送りして釈放しろ。これが諸葛孔明が孟獲に対してとった「七擒七縦」の策だ。
(6)群集心理が怖い。参加者を「個」に戻す呼びかけをやれ、公安に調査させ「どこそこの何々さん、やめなさい」と呼びかける。
(7)大きな政治的嘘を言え。例えば「党中央は君らの要求を受け入れた。みんな家に帰ろう」。流血を避けるための政治的プロパガンダの嘘は人道上許される。
(8)天安門の一方向はあけておけ、去る者、逃げるものは追うな。etc
深々と頭を下げ謝辞を述べて帰っていく苗少将を、私はグッドラックと心の中で呟きながら見送った。真剣に教えたつもりだっただけに「6・4大虐殺(天安門事件)」が始まったとき、私は怒髪天を衝いた。
「なぜ撃ち殺した!!自国民を射殺して何が『人民解放軍』だ。なぜ私の助言を求めた。私は職を賭して貴方に誠心誠意流血を避ける術をお教えした。人の忠告をきく気がなかったら初めから私のところに来るな。貴方の駐在武官とは1972年の呉新安大佐以来長い長い友好の付き合いだったが、今日限り絶交する!!」
こいつ・・・アフォなの?
日本における20万人規模の集会とは?
中国の事情を知ってるのかい? 中国はデカイ。中国政府が最も恐れているのは、アメリカの核兵器でも経済制裁でもない。内部崩壊、すなわち革命だよ。これは、国の存続に関わる一大事なわけ。「軍隊でなく、警察を」とか言ってる場合じゃないの。”平穏に解散させる”の主語はね、国家が平穏に、なのよ? デモの参加者や鎮圧隊の生死を問うている事態ではない。中国の大使も困っちゃったんじゃないかな。最初の5分で、「あ、それ中国で通じません」と言う間もなく勝手な話をされちゃってさ。
とまぁ終始こんな感じの本なわけだが、つきあって読んでみたよ。

後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン” 後藤田正晴と十二人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”
佐々 淳行

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【戦争論・兵法】
2011.02.03: 賭博と国家と男と女 ~人は利己的に協調する
2010.12.16: 自作 近未来小説 我が競争 ~第三次世界大戦の勝者と人類の進化
2009.12.16: 孫子・戦略・クラウゼヴィッツ―その活用の方程式
2009.10.23: 核拡散―軍縮の風は起こせるか
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.24: 孫子の兵法
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男



死刑囚 最後の一時間 2/2 ~死刑囚

大久保清
最初の事件を起こしたのは1955年20歳のときである。大学生に成りすまし、17歳の女性を公園で口説き始めるや、突然豹変して暴行。大久保は逮捕されたが、執行猶予が付く。しかしその1ヵ月後にはまた暴行未遂事件を起こし3年6ヶ月の実刑判決を受けるのである。出所後の66,67年にも強姦事件を起こし、再び刑務所へ。そして71年3月に府中刑務所から出て来た時は、完全な野獣へと変身していた。刑務所から出所したばかりの3月31日から5月10日までの間に127人の女性に声をかけ、35人が車に乗り、少なくとも20人が強姦され、8人が殺された。大久保の手口はこうだった。「画家をしていますが、モデルになってもらえませんか?」一見甘いマスクの大久保に騙され、女性が車に乗り込むと、話もそこそこにモーテルや雑木林、あるいは車内で姦淫する。抵抗したり下手に拒否すれば首に手をかけた。
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なんか飯マズー。むかつくわ、これ。私はナンパをしたことがないのでわからないが、35人/127人このヒット率はおそらく異様だろう。35-20-8=7人は、許しているということか? 違うな。未遂に終わってなんとか逃げたというシナリオを信じたいよ。どれだけ色男かと思って検索してみたけど・・・、納得いかねー!!コイツよりは俺の方が・・・と誰しも思うだろうが、実際、30%近い成功率を誇るナンパ師はいるかね?
女性死刑囚
戦後1946年から数え、07年3月までに確認される死刑確定者は728人である。その中に女性の名はわずかに9名のみ。9名の女性死刑囚の罪状に特徴があるとすれば「毒殺」、「保険金殺人」が多いこと、それに男性共犯者が存在することである。
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再審冤罪事件
殺人事件で逮捕された容疑者が一度犯行を自白したにもかかわらず、その後の公判で一転して否認に転じるという展開は戦後の混乱期から昭和30年代初頭までそう珍しいことではなかった。自白主義の下、警察、検事の拷問に近い取調べが横行していたことや、容疑者を弁護する司法環境が整備されていなかったことなどが主な背景である。冤罪事件見直しで4人の死刑囚が無罪となって生還を果している。理不尽な死の恐怖と戦い続けた彼らの無罪はあまりにもドラマチックであったが4人の冤罪のヒーローたちの「その後」の物語はあまり知られていない。
一躍「冤罪のヒーロー」となった免田さんであったが、それは「世間」という新たな敵との戦いの始まりでもあった。晴れて自由の身になった日、記者会見を終えた免田さんは祝宴で忘れかけたビールの味をかみしめていた。そのときである。支援者を名乗る2人の人物がそっと免田さんのそばにより、こう言うのである。「支援に苦労したから謝礼しろ」と一人が金品を要求するのである。「俺は弁護士に頼まれて証人探しに宮崎から長崎、北九州と幾度もまわったが、費用は一銭ももらっていない」、「私も同じようなことを弁護士に頼まれて探し回った」ともう一人も要求する。「そうだ、あんたは社会に出たばかりだからわからんだろうが、刑事補償費が出るから50万はもらわないとな」
 免田さんに多額の刑事補償費と裁判の費用補助が出たのが知られるところになると、地元の住民やマスコミはこぞってその「使い道」に注目した。実際、1億円以上の金が免田さんに支払われたが、その半分以上は自動的に「弁護費用」として日弁連に差し引かれていた。ある支援者はベストセラーとなっていた免田さんの事件記録本の「権利者」を主張し、利益を私的に流用していたほか、多くも名もない支援者たちのカンパも、かなりの部分が使途不明になっていることも分かった。金儲けの道具として、免田さんを利用するような連中がウヨウヨいたことに免田さんは幻滅する。
私が見た「東京拘置所B棟8階」の死刑囚たち
佐藤優氏は2002年5月14日に東京地検特捜部に逮捕され、03年10月8日に保釈されるまで、512日間の獄中生活(東京拘置所)を送った。佐藤氏が死刑囚と「隣人」の関係になったのは03年に新築された新しい獄舎での約半年間(03年4月8日~10月8日)のことである。新・拘置所(A~D棟)の8階には、凶悪事件や地検に逮捕されるような有名事件の被告が多く拘置されていた。たとえば佐藤氏と同時期には、A棟に鈴木宗男氏や福永法源氏、B棟には許永中氏、高橋浩二氏(ライフスペース元代表)などが収監されている。そうした未決の被告たちと同時に8階に収容されているのが「確定死刑囚」である。正確にはわからないが、07年4月現在東京拘置所にいる確定死刑囚49名のうちのかなりの人数が獄舎8階で「その日」を待つ毎日を送っていると考えられる。
【愚民の欲】
2011.03.01: アジア発展の構図 ~出遅れた国々 4/4
2011.01.20: 項羽と劉邦 ~広大なる中国大陸
2010.11.25: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~割に合わない犯罪
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
2009.10.07: 物欲の定義
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.05.07: 幸福感と欲の関係
2009.04.15: 貯蓄率にみる人々の自信度合い


死刑囚 最後の一時間 1/2 ~死刑の実態

死刑はどこで行われるのか
北から言うと、札幌・宮城・名古屋・大阪・広島・福岡拘置所で、高等検察庁に対応している。昭和の半ばころまで、各刑場は屋外にあり、刑の執行で床板が開く「バターン」という音響が収容者たちの耳にも聞こえてきたというから恐ろしいが、最近は拘置所の地下など、ヘリコプターで上空から空撮しても分からないような場所に隠されている。刑場については半世紀以上、写真が公開されたこともなく、刑務官や一部の関係者以外、その内部を見た者はほとんどいない。03年、新しくなった東京拘置所の刑場を国会議員が視察(図面は本誌219ページ参照)しているが、やはり撮影は禁止された。多少の相違はあれど、どこの拘置所も2階構造の落下式絞首刑台が設置されており、その横に仏間などがレイアウトされているようだ。かつて、弁護士がこの刑場内部の間取りの公開を求める裁判を起こしたが、敗訴した。刑場の情報は極秘中の極秘で「隠される死刑情報」のシンボルでもある。
戦後の1946年から2007年3月までに死刑執行が確認されている人数は627人(恩赦や病死、自殺などを除く)。これに
生きている死刑囚が101人いるため、少なくとも728人が「死刑確定」したことになる。死刑執行は法務大臣が「執行命令書」にサインをしてから5日以内と定められており、こちらは厳格に守られている。まず、日曜日・祝日と年末年始に執行がされないのは昔からの慣例である。最近の傾向としては、
1.国会閉鎖中の期間
2.法務大臣の交代(内閣改造)が見込まれる直前
3.年末の仕事納めかその前日
4.金曜日
に執行されることが多い。死刑執行の最終決定となる法務大臣サインを拒否するか、あるいはできればしたくないという意思を表明した大臣は少なくない。近年では浄土真宗の僧侶でもある左藤恵(1990年12月~91年11月)が宗教上の理由をもとにサインを拒否。また杉浦正健(2005年10月~06年9月)は、就任時に「サインはしません」と明言したが、1時間後に撤回した。(結局、在任中にサインはしなかった) 逆に、90年から3年間続いた執行ゼロの「空白の時代」を終わらせたのが後藤田正晴で、93年の死刑執行再開からは「必ず毎年執行を」が法務当局の大目標となっており、ここまではそれを実現している。法秩序維持の観点から死刑廃止論者が法務大臣に就任すべきでない。
死刑執行当日のプロセス
朝9時、処遇部門職員、警備隊員数名が、死刑囚の独房の扉を開け、死刑執行を告知する。素直に覚悟を決めるもの、腰を抜かして立てなくなるもの、暴れ、モノを投げて抵抗するものといるが、死刑囚は待ったなしで刑務官に両脇を抱えられ、刑場へ連行される。刑場につくとそこには読経が流れており、香の焚かれた仏間が設置されている。そこで拘置所長が、世紀に死刑執行命令書の到達を受刑者に伝える。ここで希望があれば、遺書を書いたり、菓子、果物などを食べることもできる。また喫煙も許される。最後の別れがすむと、白装束に着替えさせられ、隣接する絞首刑台へ進む。ガラスの向こうには、拘置所長や検事をはじめ、数名の立会人がいるが、すでに目かくしをされていることもあり、死刑囚からその姿は見えない。受刑者が室内の中央部分に進むとすばやく首にロープがかけられ、準備は完了する。その死刑囚の姿が見えないところに5つのボタンがついた壁がある。ここにはボタンと同じ数の刑務官がスタンバイしており、合図とともにいっせいにそのボタンを押す。ボタンの一つは刑場の床板と連動しており、受刑者の体は開いた大きな穴へ、吸い込まれるように落ちていく。約15分後、ほとんどの死刑囚は絶命する。医師と検事によって死亡が確認されると遺体は清掃され、搬出用のエレベーターで安置室へ運ばれる。
絞首刑は本当に残虐なのか
絞首刑を実際に見た人の証言の中には、その壮絶無しのありさまに、度肝を抜かれるというものがある。いわく、目、舌は飛び出し、頚動脈が切れることによって、口、鼻から血と吐潟物が流れ出す。糞尿は垂れ流しになり、正視に耐えかねる修羅場がそこにあると言われている。もし人間が絞首刑にされると必ずそうなるのであるならばみだりに公開などできない「見た目の残虐さ」は事実と思われるが、果たして本当のところは分からない。また1994年12月に死刑執行された小山(安島)幸男の場合、遺体を引き取った養父が、火葬する前に法医学教室の協力を得て、徹底的な検証を加えたという実例がある。それによれば遺体は麻縄ではなく、表面が滑らかなロープで気道を塞がれた跡があり、一気に記憶が消失し、縊死した可能性が高いという。

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【本当にあった?怖い話】
2010.12.20: 快楽殺人の心理
2010.04.26: あなたの知らない精子競争 ~精子の数の決定要因
2010.03.19: 実在上のヤンデレとその発生起源 ヤンデレの研究
2010.02.03: 彼氏を不安にさせる行動パターン
2009.10.16: 華麗なる投資一族 明るい家族計画
2009.07.23: タイ旅行 スローライフと?な習慣


父親の条件4/4 ~現代史の権力者たち・その父と子

マッカーサー親子
たった17歳でリンカーン軍の中尉になったアーサー・ジュニアは1年後、実戦での武勲に対する米国最高の名誉勲章を受け
る。一方、彼の息子は士官候補生として軍人の経歴を歩みだし、ウエストポイントの陸軍士官学校に学んだ後、1914年、
メキシコ国境紛争が起きた時、ベラクルスに大胆な急襲をかける。ワシントンからの特別指令で、日本軍占領下のフィリピン
からオーストラリアへ撤退したマッカーサーは、パプアで日本軍の侵攻を食い止め、その後次第に勢い盛り返しつつ南太平洋
連合司令官として東京を目指して逆襲を開始する。
アーサー・マッカーサーもダグラス・マッカーサーもフィリピン在任中、いかに自分たちがアジア人をよく理解し、アジア人
から尊敬され、愛されているかということを実証してみせた。二人とも白人には珍しいくらい人種差別感情を持たず、排他的
なクラブや自信たっぷりの優越感を持った白人高官の傲慢さに慣られされていたアジア人たちから尊敬されていた
。アジア第
一の彼の政策は、マーシャルが計画しアイゼンアワーそのシンボルとなったヨーロッパ第一主義に大きく水をあけられ、票を
あつめることができなかった。第一次大戦中、マッカーサーは際立った行為、有能さ、戦術にたけた大胆不敵さで、ほかどん
な仕官より多くの勲章を得る。ただ単に部下の先頭に立って見せれば部下が勇敢に戦うと考えるタイプの指揮官ではなかった。
すぐれた素質を多く備えていたものの、マッカーサーには3つの決定的弱点があった。1つは、虚栄心、2つには自分の判断
に対する過度の自信。3つには偉大な人物にはあまり見られない欠点であるが、側近に選んだ人々の能力に問題があったこと。
マッカーサーの広範な知識と戦略的天才は、日本軍の迅速で練りに練った戦略に対しても脅威となったし、連合軍反撃の前に
主要基地となる場所を確保したいとする日本軍に対して威力を発揮した。将軍の南西太平洋戦線は一度も十分な物資補給を
受けなかったハンディがあったのにだ。ちなみに北アフリカに上陸したアイゼンハワーの軍隊は、兵士一人当たり15トンも
の物資が投入され、これは太平洋方面の三倍の量だった。そしてマッカーサーは海外に派兵されたアメリカ兵のたった12%
しか率いていなかった

ネールとインディラ・ガンジー
モティラル・ネール、初代インド首相の父、インド初の女性首相の祖父。カシミールのバラモン出身で、最高のカーストであ
る。後に息子ネールと孫娘ガンジー夫人がカーストを排除しようと努力するが、昔からの社会的、宗教的差別を撤廃するの
は容易な仕事ではなかった。過去、この試みに唯一成功したのは回教徒であった。イスラム教徒がムガール帝国を築いた時、
何百万という人々のカーストを廃した。カースト制度はヒンズー教の多神教の概念から派生したもので、一神教の教義とは相
容れなかった

1952年
インドが健全でありつづければ、人口はもちろん増えつづけるだろう。しかし1エーカーあたりの生産高は日本のたった1/3
でしかない。肥料を使わないし、利用可能な牛糞は燃料として燃やされている。農業生産高を15年以内に2倍にするのは
簡単だろう。農民の収入が増えるにつれて、家族数が減少する傾向が見られ始めた。それゆえ、人口が近いうち静止状態に
なりそうだと期待されている。産児制限が奨励され、避妊具を製造するアメリカの工場の現地誘致案も出ている。チェスター・
ボールズは「インドは今、すべての伝統的システムが変化しているところだ。カースト、教育システム、地主と小作人の関係
など。パンドラの箱が開けられ、何が飛び出してくるか誰も知らない。たとえば文盲の人々が教育されるにつれて、共産主義
者のプロパガンダを読むようになるだろう。それがあいにくと我々のプロパガンダよりよくできているとしたら、その結果、
暴動が起きるか否か、起きるとしたらいつかを予見できるものはいない。インドは社会主義者の国ではない。しかし、社会主
義に懐疑的ではあるもののインド人は英国支配時代の貪欲な資本主義もすいてはいない。我々アメリカ人は制限の多い英国
の資本主義より我々独自のシステムと高賃金制を紹介したいと思っている。」と語った。
精神的にインドを一つにまとめている概念は何か?
我々は文化的に統一されている。それはある意味でヨーロッパにおける古いキリスト教世界の概念のようなものだ、しかし我
々の場合、もっと緊密である。政治的分離に際しても、共通文化の基盤はなくならなかった。我々の巡礼の聖地は広く分散
している。そこへインド中から絶え間なく巡礼者が来ては去っていく。過去においてとても重要だったもう一つの要素は、サ
ンスクリット語である。この言語は仏陀の時代、2500年前以来話されていない。しかしそれが依然として学ばれているの
だ。そして現代における統一の要素は、不思議にも英国によってもたらされた。英国人が図らずも我々に統一を強いたのだ。
つまり彼らの支配に対する我々の抵抗が統一の一つの要素であった。
実際、首相であることを彼女は楽しんでいるのだろうか?
祖父(モティラルネール)は「楽しんでやらなければ何事もうまくできない。その職業がつまらないとか単調だと思ったら、
決してその職で成功しない
」と教えました。あなたの質問に対する私の答えもこれと同じです。

父親の条件―現代史の権力者たち・その父と子
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【宗教関連記事】
2010.09.24: 世界四大宗教の経済学 ~ユダヤ教とお金
2009.12.10: 公明党・創価学会の真実
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.07.23: タイ旅行 スローライフと?な習慣
2009.07.22: タイ旅行 農業と宗教vs金融と資本主義
2009.07.21: タイ旅行 究極の製造業である農業
2009.07.07: 世界一レベルの低いDerivatives Investor
2009.05.07: 幸福感と欲の関係
2009.04.24: 中東の歴史 「蛮族」を迎え撃つ「聖戦」(ジハード) 反十字軍の系譜
2009.01.30: イラン 世界の火薬庫
2009.01.27: Globalに通ずる現地化度Check試験設問
2008.12.10: アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図3
2008.10.03: 土地信奉と不動産業


父親の条件3/4 ~恐怖の親父から恐怖の独裁者が

スターリン父子
帝政ロシアのグルジア地方の小さな町ゴリに住むジュガシヴィリという名のろくでなしの無学な靴修理工は残酷な仕打ちをも
って自分の息子を20世紀最大の独裁者に育て上げたことにより、世界の運命に大きな影響を与えたのである。グルジアは現
在同様、当時もスラヴ系の地方ではなかったがこの事実をグルジア出身のスターリンは忌み嫌った。彼は非スラヴ系であって
汎スラヴ主義者
となった人である。
ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・スターリン、ヨシフの父親は酒場のけんかでナイフでさされ、あえない最後と遂げたが、そ
れまでは片田舎の靴修理工として一応立派に働いていた。そんな父親に対して母親の方は野心家だった。息子を人々から
尊敬される司祭とするべくやれるだけのことはやって、自分と息子の住むひどい環境を少しでもよくしようとしたのだ。とこ
ろがスターリンは聖職につくのが嫌になってしまったのだ。13歳で神を信じなくなったのは明らかにダーウィンの進化論を
知ったからだ。
スターリンも、また彼が最初に参加した社会民主党の原理も、グルジアの革命家たちの間では成功を収めなかった。このため
にスターリンは自分自身ではなくグルジアを非難した。この時から彼は話すにせよ書くにせよ、ロシア的要素にどんどん重さ
を置くようになり、こうして後の「ソビエト史」が作られたのである。彼は「真のロシア派」に対抗するものとして「ユダヤ
派」を強く攻撃し、党から抹殺することを提案した。こうして逆説的ではあるが、抑圧されたグルジアの従属的な民を代表す
るジュガシヴィリは、ボルシェヴィズムを通してロシア「国家」に加わったのである。彼はますますグルジアの民族主義を非
難する方向に傾いていった。この事実は今日のグルジアの人々からは無視されているか、忘れ去れているようだ。
スターリンはマルクス主義のインテリ一家、アリルテワ家、ナジェージダと毛っこする。二人の結婚生活は不幸な結果となり、
結局彼女は悲惨な最期を遂げる。自殺というのが有力な見方だが、スターリンの敵の中には、スターリンの手で殺されたのだ
と噂するものもいた。
【少し騒がしい脅し】
2009.07.10: 得意の交渉術
2009.07.03: 暴君の家庭
2009.05.19: 俺の欲しい車
2009.04.09: 金(カネ)の重み
2009.03.16: Singaporeの日本飯
2008.01.23: モノの価値 流動性プレミアムは相手に払わせる スーツ編
私が初めてスターリンを見たのは、その後同じものを何度となく見ることになったが、長方形のカラーポスターに描かれた彼
の肖像画だった。そこには、厳格であるが優しそうな顔があり、背は高く、くるぶしまでくる厚手の軍服の外套には軍最高司
令官の勲章が輝いていた。だが、それから大分経って彼を間近に見た私は、実物は小柄で、あばた面で、ぎらぎらした目はい
かにも抜け目なさそうであることがわかった
のだ。スターリンがガラハッド<アーサー王伝説に出てくる円卓の騎士>に似て
いるくらい正確に本人に似ていることが、その後私にはわかった。
スターリンの娘スヴェトラーナらによる、スターリンは英国の首相チャーチルを嫌っていたという。「チャーチルは君のポケッ
トから白銅貨一枚だってふんだくるやつだ。ローズベルトはそんなことはしないがね。やつがほしいのは小銭じゃないからな」
スヴェトラーナは、怪物スターリンの中にも、やさしく父親らしい特性がいくつもあったことを、、次のように回想している。
彼が「冬はいつも暖炉にあたっていた」ことや、「ロシア、グルジア、ウクライナの民謡を集めていた」こと。また召使いに
はやさしく「彼に仕える者たちには、礼儀正しく、気取らず、率直に接した」ことなど。「父は財産のことなど考えたことも
なかった。父は清教徒のように質素に暮らしていたし、その持ち物から持ち主を想像するのは難しかった。父は(1階)一部
屋しか使っていなかった
。それは事実だし、その部屋であらゆる用を足していた。夜はソファーをベッドにして眠り、電話は
そのそばのテーブルに置いていた。彼は自然と土をこよなく愛した。
息子ヤーコフには露骨に厳しい態度を示した。スターリンの後妻ナージャはヤーコフを庇い、幼いスヴェトラーナ共々、愛情
を注いだ。ナージャは何度となくヤーコフの肩を持ち、彼を不当に扱っているスターリンをたしなめた。1941年、独ソ戦
が始まるやいなや、ヤーコフは赤軍に参加し、独軍の捕虜となってしまう。スターリングラードの戦いで捕虜となった枢軸軍
の陸軍元帥パウルスとヤーコフの交換をヒットラーが申し出たが、スターリンが拒絶したというものだ。独軍がヤーコフを撃
ち、その目撃者だと名乗るベルギー人将校が哀悼の手紙を書いたというものだ。また別の説で、彼が強制収容所で電流の通
った有刺鉄線柵に身を投じ自殺したというものである。自殺はスターリンのコメントが報じられた後に起こったという。スタ
ーリンはナチの収容所にロシア人の捕虜は一人もいず、いるのは戦後殺される運命の反逆者だけだと答えた。さらにスターリ
ンはこう答えたという。「私にはヤーコフという名の息子はおらん。」
フロイトの意見「母親のまさにお気に入りだった人間は、征服者の傾向、即ち信じ込むことによって結果的に戦功に結びつく
信念を生涯持ち付けるものだ。」


父親の条件2/4 ~フランス人の高慢ちきな態度はここから

ド・ゴール親子
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・マリー・ド・ゴールは、その容姿、名前、家系(de Gaulleという姓はもともとは
フラマン語で、フランスで貴族を意味するdeとはなんら関係はない。フラマン語のdeは英語のtheの意である。さらに
おとぎ話の王女としてのフランスに対する限りない想いを、その父から受け継いだ。彼は偉大なる伝説を残し、ナチ占領軍
による敗北やその協力者たちによって汚されたフランス人の魂に活力をよみがえらせた
。ド・ゴールは逆境の中に崇高なもの
を生み出したのである。彼が作り上げた神話の名は「フランス」である
父アンリ・ド・ゴールは、イエズス会の「カレッジ」で哲学と文学の「教授」をしていた。これは実際はカトリックの高校で
教師をしていたということであるが。きわめて教養があり、その肩書きや職業から人が考える以上に非凡な知性の持ち主だ
った。真理をとらえるのは直感によるという理論で有名な哲学者でノーベル賞受賞者でもあるアンリ・ベルグソンとは親しい
友人同士であった。アンリ・ド・ゴールの家族は1789年のフランス革命を認めず、君主制とカトリック教会に忠誠を誓っ
ていた。アンリ自身は正統主義者ではあったが、君主制の運動には積極的ではなかった。
息子シャルルがそうであったように、父アンリ・ド・ゴールも「フランスは高貴な、そしてまれに運命に身をささげたおとぎ
話のお姫様、あるいはフレスコ画の聖母のようだ」と考える傾向があった。その父の影響を受けて、シャルル・ド・ゴールは
最初のうちは「フランスは第一線にいなければ本当のフランスではない」そして「フランスは崇高さをなくしてはフランスで
はない」。第二次世界大戦で見られたような「外国人に譲歩し、国を分割させてしまうフランス人の性質」といったものには
常に警戒していた。
第二次世界大戦でド・ゴールはたいへんな苦労をする。彼は愛する国が崩壊するのを見る。これはフランス軍首脳部がド・ゴ
ールの考案した装甲戦闘論を無視し、逆に戦車戦においてヒトラーの専門家だったグーデリアンとロンメルがこの案を熱心に
研究した結果であった。そしてイギリス軍のダンケルクからの撤退に続くナチの勝利により、ド・ゴールは一国の猶予も無く
祖国と家族のもとを離れロンドンに渡った。フランスは降伏した。6月18日、ド・ゴールはロンドンですべてのフランス人
に向けて占領者への抵抗を続けるように求めた。そして彼が後にそう呼ぶことになる最初のクーデターで自らを自由フランス
運動の指導者と宣言した。この瞬間から彼は将軍として広く知られるようになり、歴史上の重要人物として行動することにな
ったのである。
最初の英米軍が上陸した数日後にようやくフランスの地を踏むと、困惑するワシントンから任命された行政官を払いのけ、
自らの愛国的な行政責任者を任命した。「フランス共和国はずっと存在していた。ヴィシー(ペタンの対独協力政府)は常に
無効であったのだ・・・私はフランス共和国政府の大統領である
。なぜ私が表へ出てその、共和国宣言をしなければならない
のか?」 彼は共和国宣言を求めるフランス人の支持者たちにそう答えたのであった。
> ぁーあー、ドイツにボコられてんだけど、負けてネーよ、言い張る。そりゃ仲悪くなるわなぁ。
戦争ではほとんど破壊され、消耗していたフランス人の魂を蘇らせ、勝利を得た後、フランスを構造的に安定させ、伝統的な
農業を基本とする国から工業化、テクノロジー化された社会への転換を成し遂げねばならない。
>おフランスの高飛車で高慢ちきな態度の始祖はド・ゴールで決定。
フランスはフランス。フランス人はフランス人なのである。フランス人がフランスのことを考えなくなった時、フランスは消え
る。しかし独立性を失ったら、そのフランスのことを考えることさえできない。アメリカと仲良くすることは何もアメリカに
追随することではない。ソ連についても同じである。ドイツの歴史はフランスの歴史とは違う。ドイツ人はアメリカが指導権
を握ることを受け入れる用意ができている。そしてかれらはそれを避けることができないのだ。イギリスはどうか、イギリス
もその独立性を放棄してしまった。そこから生じるあらゆるメリットのために、独立性を売り渡してしまったのだ。そしてイ
タリアについては、もう問題外だ。
>核兵器独自開発のことだな。イギリスとは違うんです、と言いたい。
フランスにはアメリカに対する嫌悪といったものは存在しない。しかしフランス人はアメリカ人が好きではない。アメリカは
我々の友人であり、これからもそうだろう。だがアメリカ人は好意的に受け入れられてはいない。非常に危険な状況に陥った
時のみ、アメリカは我々の友人として残ることだろう。
>今度、ドイツに攻められたら、みんなでシカトしてやりましょう。地図から消えるのはイスラエルではなくフランスだ!
ド・ゴールの外交政策の方法論は、知的、哲学的には、シニカルであるが、非常に手堅い現実的政策に基づいていた。
(1)フランスは世界の中心であり続けなければならない。
(2)酷寒の関係は同盟国であろうと無かろうと、力と狡猾さのみを基盤としている。
(3)イデオロギーはあまり重要ではない。国際的な場において二国が向かい合う時、唯一の真の武器となるのは個々の
国家である。そして目先のきく外相モーリス・クーブ・ド・ミュルビルが閣議で「フランスの友人である国々」と発言した時、
将軍はこれを中断し、言った。「国家というに足る国家は友を持たないことを外務大臣は知るべきである。」
西側白人との一体感に見られる”民族主義的”思考事例
中国には7億の人間がいる(1965年)。今はそれほどの力を持たないが、20年もすれば大国となり、50年後には超大
国になるだろう。ロシア人はこのことをよく知っている。中国人もまたそうである。これが彼らの反目の底にあるのだ。もち
ろん彼らは共産主義であるから常に全てをイデオロギーのせいにするだろう。しかし真実はソ連と中国の間にある対立の根は
民族的なものなのだ。
アラブ人とは何者か?アラブ人はマホメットの時代以来、国家を自らの手で形成することができなかった連中だ。マホメット
はイスラム教のお陰で国を建てた。彼の後には無秩序以外の何物も無かった。アラブ人の手でダムが建設されるのを見たこと
があるか?どこにもない。そんなものは存在しないし、どこにも見たことはない。何世紀もそんな状態だった。アラブ人は自
分たちが代数を発明し、巨大なモスクを建てたのだと言う。しかしそれはもっぱら彼らが捕らえたキリスト教徒の奴隷たちの
仕事だった。」(真実の奇妙な歪曲である)
アメリカ人にインドシナでの成功は無理だと常に警告していたことを彼は繰り返した。「あそこの大地は腐っている。不可能
なのだ。フランスにいる我々は知っている。我々は失敗した。そしてあなた方も失敗するだろう。」
スターリンは人を動かす一番の力は恐怖だと考えていた。他の人たちは宗教、家族だという。あなたは何が一番影響すると考
えるか?
「まず個人と大衆の違うを指摘しなければならないだろう。個人にとっては野心と冒険に対する嗜好が影響するだろう。私は
真に刺激するもの、根本的に個人を動かすものは野心、しかし大衆の場合は恐怖心だと思う。その点でスターリンは正しかっ
た。そしてこのことはすべての国の大衆に当てはまるだろう。」
【愛国者・民族主義者】
2011.05.10: 日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中
2011.02.17: 田中角栄 その巨善と巨悪 ~議員立法
2010.12.06: 田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~カネの使い道
2010.07.13: 日本帰国 第一幕 靖国参拝
2010.05.25: 靖国で泣け
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男

 


父親の条件1/4 ~父の冷徹さと過剰期待

親子関係にあんまりフォーカスしてないね。タイトルにだまされて買っちまった。
チャーチル親子
ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル、父親はロード・ランドルフ・チャーチル、母親はジャネット、美貌のア
メリカ人女性でニューヨーク・タイムズの共同社主でもあっと大富豪、レナード・W・ジェロームの娘だった。父ランドルフ
卿は才気煥発と評判が高く、その家計においてはブレニムの名将マールバラ公爵以来の最も傑出した子孫と評されていた。
だが将来を嘱望されていたにもかかわらず、梅毒のために46歳で無くなった。悪ふざけをした友人が薬を混ぜた酒を彼に飲
ませ、あばずれの売春婦の元に置き去りにしたためにこの病にかかったとも言われているが、定かではない。その後、チャー
チルの母親は数々の浮名を流したが、息子には全く無関心だったようだ。子供に余り関心を払わないのはビクトリア朝時代
の親たちにとっては普通のことだった。おそらく父親たちのほうは世界地図を大英帝国の色に塗り替えることに忙しく、一方
母親たちのほうも子供は寄宿学校ということで、子供たちから離されていた
からだろう。ジェニーは浮気に忙しかった。ゴシ
ップ誌は「ハズバンド・ハンティング」「フィアンセ・フィッシング」の好きな「レディ・ジェーン・スナッチャー」と名づけたりして
いたが、チャーチルは後に自分の母親を回想して「妖精のような王女」といっている。この言葉はド・ゴールが母国フランス
を理想化して表すのに用いたものだ。
「父は私をまるで愚か者のように扱い、私が質問するたびに怒鳴りつけた。私が今日あるのはすべて母のおかげで、父は全く
関係ない」 後に「ランドルフ・チャーチル伝」を書き上げたが、そこには父親に恨みがましい記述は全く無く、その正反対
の書き方をしている。
偉人というのは多くの場合、不幸な幼少時代の産物である
ランドルフ卿は、息子が休日に一人で寄宿舎にいるときにそこから歩いてすぐのブライトンにいる知人を尋ねている。
「ブライトンにいらしている間になぜ私を訪ねてくださらなかったのでしょうか。大変残念でしたが、父上は多忙でいらした
のだと思っています。」と書き送っている。
チャーチルは、戦争の危機が迫っているのを察知し、戦争勃発と同時に海軍を出動させる態勢を整えるべく熱心に準備を進め
た。1914年夏に実際に戦争が勃発したとき、英国艦隊は既に総動員体制を整えていた。だがこの当初の成功にもかかわら
ずチャーチルは有力者の反対に逆らってダーダネルズ攻撃を敢行し、その失敗の責任を取らざるをえなくなった。チャーチル
は1915年に辞任した。チャーチルあ中佐としてフランスに出征した。翌年、軍需相に任命、当時開発されたばかりのガソ
リン燃焼エンジンと装甲防御の組み合わせの実用性を予見し、戦車の生産を急がせた。チャーチルは海相時代に既に戦車の
アイディアを考察していたのだ。戦車は両大戦の主力兵器となった。チャーチルはロシアの反ボルシェビキ軍への支援介入推
進、ポーランド援助、ユダヤ人シオニストに一定の役割を与える中東解決、新しいアイルランド共和国とプロテスタントの北
アイルランドとの和平保持、トルコの民族革命の拡大阻止などに努めたが1922年に選挙に破れ、引退を余儀なくされた。
ケネディ親子
4人の息子を含む9人の嫡子の父親ジョゼフ(ジョー)・P・ケネディ・シニアは、ケルト一族の精神的首長だった。彼は自
分自身手にすることができなかったもの、ホワイトハウス入りを長男のジョー・ジュニア(ジョンの兄)に託そうと心に決め
る。しかし勇敢で元気旺盛なジョーは、持ち前の能力も政治的才能も発揮する間もなく第二次大戦中に乗った戦闘機がドイ
ツ軍の攻撃を受け、無残にも若くしてこの世を去った。父親ジョーはその時点で次男ジャック(ジョン)にその夢の実現を託
す。父ジョーは、当時からアングロサクソン系プロテスタントの白人(WASP)が社会、政治、商業、財政の分野で優勢を
保っていた国で、ローマンカトリックのアイルランド系米人が被っている不利な点を相殺すべく、権力と名声を追及する熱意
で政治家になった。ジョーの父パトリック・Jは酒類取引業から酒場を開いて金を儲け、ちょうどアイルランド系住民がボス
トンの票の支配権を握り始めた時に、民主党の政治に手を染めることになった。父パトリックの成功のお陰で、ジョーは全米
一の名門パブルックスクールであるボストン・ラテン校から全米一の名門大学ハーバードへと進学する。そこで彼は上流階級
の人間から酷い仕打ちを受ける羽目になる。即ち、社交クラブの入会を拒否され、スポーツ選手への道も閉ざされたのだ。
 このような侮辱に対抗して、ジョーは金と権力を追い求める決心をする。幾層からもなるこのアメリカ社会では、金で社会
的地位を買うことができ、金はまた、権力への鍵だと彼は実感する。ウォール街の銀行業、映画興行、不動産、酒類販売業で
彼は如才なく財産を築き上げていく。ジョーはローズベルトが大統領の時に、息子のジェームズ・ローズベルトを「サマーセ
ット・インポーターズ」のパートナーに引き入れ、スコッチウイスキーのアメリカでの小売販売を独占した。ワシントンから
の情報で禁酒法が終わりに近いと知るや否や、彼はアメリカでの独占権を手に入れようと動き出す

父ジョーの子育て上の家訓はまず「一位になれ。二位、三位には何の意味もない。何が何でも勝つのだ。」であった。
成功者としてのジョーは自らその手本を示すものであったが、政治においてだけは彼の思い通りに行かなかった。ジョーは富
を築き上げ社会的地位も獲得して輝かしい成功を収めた。アメリカでは金は全ての悪の根源などという教えは通じない。一族
の長である彼は、その最優等生ジャックに金で才能が買えることを教える。ジャックは父の偏見にすっぽり包み込まれていた
わけではない。彼には頭の回転の速さと、1分間に1200語を読破できる速読術の技術があった。またプラグマチストであ
る彼にはナチ支持も反ユダヤ主義もない。
 ジョン・F・ケネディ大統領は、息子を権力の座に座らせ、自分自身の持つ自己中心的なイメージをそっくり継がせようと
した、貪欲で精力的な父の創った素晴らしい作品であった。幸いにもイメージ制作の点では失敗作だった。というのはジャッ
クは幾つかの点で父と似ていたが、父よりもずっと人格者で、感受性も持ち合わせていた。二人とも活力があり、野心旺盛で
非常に頭がよく、PRにかけては天性の才能があった。二人とも恋多き男であり、もし息子のほうがハーバードで始まった色
恋沙汰をホワイトハウスという神聖な場所で繰り広げなかったら、家族のものでもない限りは気にしなかっただろう。父ジョ
ーは信用できないと同時に不愉快なほど横柄な人物だった。1946年、ジャックの下院議員選キャンペーンの資金を出した
とき、自慢たらしく言った「もうおかかえ運転手でも当選するぐらいに金をつぎ込んでいるんだ
 ジャックは父ジョーの弱点を知っていたが、また血縁の深さをも意識していた。人生で彼に最も影響を与えた人物は、との
私の問いに対する彼の答えがそれを証明している。「それは私の文で、我々の小さいときから彼がそこら中に作り上げた環境
だと、君だっていえるだろう。」環境というのは、完結言えば「いずれの意味合いにせよ、勝利に代わるものはない、昇れ、そ
して頂上に行きつけ」と教え込むような雰囲気だった。
【治外法権領域】
2011.04.15: 山口組6代目組長が5年ぶり出所へ
2010.11.11: 宗教から読む国際政治 ~アメリカ・ユダヤ人社会
2010.09.29: 世界四大宗教の経済学 ~イスラム教と仏教
2010.07.29: 闇権力の執行人 ~対検察
2010.02.22: マラッカ(マレーシア)旅行 ~マレー鉄道編
2010.02.15: 通信隊 それは陸のOff-Shore 
2010.01.28: 無法地帯は違法地帯。合法的な無法地帯とは? 
2010.01.14: 転がる香港に苔は生えない 
2008.09.19: 大使館のあり方 
2009.08.17: インド旅行 前哨戦 Visaの取得 
2008.04.15: 国境 ~統治権の狭間 
2008.01.12: Macau for Family ~香港に住む男のための同伴者と行くマカオツアー




民宿雪国

これ、面白いと思う?? 勧められて読んでみたのだが・・・、相当ウンコだと思うの俺だけだろうか?
感心したところ、興味深いところには付箋を入れていくようにしてるのだが、最後まで付箋使わずに終わった。
稚拙な文章表現とありきたりな想像力、とでも言おうか。
出版社出身の作家だろう。出版の仕事を思い出しながらの妄想だなーと思いながら、作者経歴をチェック。
やはり・・・下らん・・・
推測ではあるが、この作家は、本が好きだね。一つのことをひたすら研究というよりは、色々な本をたくさん読んでる
でも、さらっと一回読んだだけだ。一つの事象に対して、複数の角度と時間をかけて文献をかき集めたり、
足を使って現地調査しながら、自分なりの見解を考えて、ストーリーとして加えたり・・・してないだろう?
途中で出てくる実在上の人物に対する記述とかがさ・・・、浅い浅い。
創作部分が出版社の妄想で、写実部分がこの深みの無さ・・・
このーなんだ、樋口君か。読書家だから読んだことあると思うけど、小説家なんだから
「山崎豊子の華麗なる一族くらい、常識として読み直して損はないと思うよ」
とアドバイスしてさしあげたいねぇ。
そうするとな、豊子が本の中からこう語りかけてくるぞ。
「文学に何の疑問も持たない人間の軽薄さが、書けば書くほど露わになる。」

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樋口毅宏 藤田新策

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【フィクション系読み物】
2011.03.18: ガンダム1年戦争 ~国家体制 1/4
2010.08.23: 燃えよ剣
2010.03.12: 探偵ガリレオ 東野圭吾
2009.11.23: 沈まぬ太陽
2009.10.16: 華麗なる投資一族 明るい家族計画
2009.10.09: 華麗なる一族 困った女と良い女
2008.08.27: 3人の文学少女
2008.08.20: 久しぶりに小説を
2008.05.08: サロメ
2008.05.07: 魂を賭けよう
2008.05.05: 懐かしの民明書房刊


青雲の大和 ~改新の大業 3/3

もう、いまからは蘇我の土地も曾禰の土地もなくなるのだよ。大伴の兵も中臣の民もなくなるのだ。この大和の国のものになる
ということだ。土地も民もすべて国家のものになる。曾禰の里の者でさえ、土地も民も国のものになるということに抵抗をしめ
しているのだから、東国はなにが起きるかもしれないというのである。新任の国司は兵をともなっていない。地方権力を奪い、
土地と民を国家管理に移しかえるのは武力によってではなく、天皇の詔勅、それのみである。鎌足のめざす国家革新の戦略が
いかなるものか、子麻呂はじゅうぶんに理解できていないが、武力をいっさい使わない方針であるのは確かだった。国造、県主
あるいは稲置とよばれる在郷勢力があらたに天下ってきた国司の一行にしたたかに抵抗を見せ始めたのである。
 東国と大和六県にたいし、公民、私有民を問わずすべての民の戸籍をつくることが指令され、あわせて田地の調査が行われ
た。このあと古人大兄による吉野の乱が鎮定されると、それを待っていたかのように人口調査が始まっている。
玄理の考えでは、天皇が宣せられる大化改新の第一条は 土地と民の私有を禁止する。これでなければならないと思っている
すべての土地を天皇が統治する国家の公有地とし、すべての民を天皇が統治する国家の公民とするのである。これこそが大氏
族に支配されてきた大和の国を根本から変えるものであって、この条項なくして大化改新はありえない。そして国家の国民とな
った民は、国家から土地を与えられえ、見返りに税を納める。私民ではなく国民となったからこそ、国家に対する課役、兵役の
義務が生じるのである。
どちらかといえば穏健な考え方に傾きがちな日文からすれば、いかにも過激であり、改革を急ぎすぎているように見えるのであ
る。「私はやはり、太子の十七条の憲法第一条が好きだな。和を以って貴しと為す、大和の国らしくこういうのを第一条に入れ
ないか
」といかにも日文らしい案を出してきた。
「そんなことより、隋、唐でいう均田法の仕組みをここで打ち出すかどうかだ。将来こうなるということをはっきりさせるために
条文に入れるべきだと思うのだが、どうだろう」 この点では玄理自身が迷っていた。
土地は公地として、民は公民とする、と宣するのはいいとして、現実にはまだ一片の土地も公地になっていない。大氏族や地方
の有力者がすべてを支配しているのは、蘇我全盛時代からなにも変わっていないのである。そんな現状を無視して、民衆に国家
から農地が平等に与えられる仕組みをいかに述べ立ててもむなしいのではない。
朝廷の重臣で大伴の当主、長徳、国博士へのあいさつということだったがなにやら思わせぶりな現れ方である。大伴長徳といえ
ば、冠位十二階の第二位、小徳をいただく重臣である。今は左大臣、右大臣につぐ第三の地位を占めている。
「内臣の話では、改新の詔が宣せられますと、大伴の有する部民はことごとく公けの民となって、大伴には一兵もあたえてもら
えないということでありますが、事実そうなるのでありますか」
玄理がだまってうなずくと、さらに、
「大伴の有する土地もまた、国のものとなって、大伴には一代の地も残らないとのことでありますあ、やはりそうなるのであり
ましょうか」
「大伴殿に申し上げるが、大化改新とは千年に一度の大改革である。大和の未来はこの改革の成否にかかっているのであって、
重臣の方々は率先してこれを推進していただかねばならない。」
「それはわかっておるつもりである。しかし古来、わが大君を護りたてまつるために有してきた土地と民と兵をとりあげられま
すと、あといかにしてお仕えすればよろしいのか、ということである。
「いうまでもなく、大伴も中臣も皆、官人となって朝廷に出仕することになります。毎日、朝堂あるいは宮廷に出仕して、国家
の人民のためにはたらくわけであります。」
氏族全員が官人(公務員)となるのが、この制度である。
「おききしたいのは、その見返りである。われらにはそのとき土地も民もなく、どうして生計が立てられるのか。」
玄理には、ようやく長徳がこの場に出てきた理由がわかってきた。土地と民をとりあげられた大氏族に対する補償を要求してい
るのである。
「じつをいえば、お二人をまもるため、けさから大伴の兵をこの屋敷に配しております。お二人の命を狙う輩が現れたためであ
りますが、われらから兵をとりあげられれば、こうしたこともできなくなりますぞ」と脅しをかけるように言った。
「その者何が狙いなのだろう」と半信半疑で玄理が問いかけると
「狙いはいうまでもない。国博士お二人を亡きものにして大化改新を潰す、これしかない」と言い切った。おそらくは長徳自身
の胸の内にも、この大改革への疑問がくすぶり続けており、刺客の狙いが心に映る影のようによみとれるのであろうと思われる。
「わかりました。ただし大伴の兵による警戒は解いていただかねばなりません」
「もしお二人をまもれなかったら、大化改新なるものはその時点で潰えますぞ」長徳の脅迫じみた言い方に動ずることなく日文は
「すぐに内臣にこのことをつたえ、大伴の兵にかえて朝廷の部隊を出動させてもらいたい」といった。国家の最高顧問たる国博
士をまもるのは、大和の国の正規の部隊でなければならないという、日文の毅然としたけじめある言説である。
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2009.05.19: 俺の欲しい車
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2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.08.22: Olympicと国家
2008.04.15: 国境 ~統治権の狭間


青雲の大和 ~鎌足の謀略 2/3

蘇我権力の下での、策士・鎌足の謀略
軽皇子、古人大兄、ともに鎌足は見限った。あれでは国家改新の大業の先頭に立っていただくわけにはいかない。とはいえ、鎌
足にはあと主と仰ぐべき皇族はみあたらなかった。鎌足が主君に期待する条件はそれほど厳しいのである。まず、英傑でなけれ
ばならない。どんなに人徳がそなわっていても皆の先頭きって突き進める力と気概がなければ奉戴するに値しない。識見より力
である。叡智より覇気である。くわえて皆が未来の夢を託せるような明るい魅力が後光のようにその人にかがやいていてほしい。
皆にとりまかれ、やがては主君として担がれていくのであれば、よくいえばそれこそが英主たる証ではないのか。例えば、あの聖
徳太子はどうであったか。常人とはあまりにもかけはなれた英才であり、超人的な頭脳のもちぬしであったがゆえに、皆が集ま
って陽気に押し上げていくといったことは決してなかったときいている。したがってあの時代の改革はすべて太子の頭脳から出
たものであって地に根付かないまま未完に終わったのではないか。
入鹿の従兄弟、山田麻呂の長女を中大兄皇子が娶ることによって、蘇我勢では入鹿のついで力を持つ山田麻呂を鎌足側に引き
いれる。しかし、長女造姫(みやつこひめ)には愛人、蘇我日向が居て、政略結婚は失敗した。そして次女、越智娘(おちのい
らつめ)が代わりになった。三韓進調の儀で入鹿の暗殺を計画する。百済、高句麗、新羅の三大使、大君、大臣(蘇我入鹿)
が、正殿に揃う。正殿は絶対の聖域である。大臣の資格を持ってでてくる入鹿以外、誰一人帯刀をゆるされていない。
網田「(大君の)御前で蘇我を討てとのことですが、われらには兵(武器)がございませぬ」
鎌足「いま、取らせる」へ以前といった。木製の細長い箱をもちだしてきた。中に収められているのは二本の剣である。
網田「相手の蘇我の臣は黄金の大刀を持っておりますが」
鎌足「それについては、考えがある」
鎌足「もし、ことに敗れた場合、二人(暗殺実行者、網田と子麻呂)には死んでもらう。なぜか。二人は畏れ多くも大君のまえ
で大君のもっとも信頼されている重臣、蘇我入鹿の暗殺を企て、実行しようとした。しかも反蘇我の謀略をめぐらす百済の要人
に買収されて。その嫌疑によって、きみたちは誅殺されるのである。そうすることによって、われらは中大兄皇子をまもりぬk、
蘇我打倒のためのつぎなる戦略に取りかかることができる。私の言う意味がわかってくれただろうか」
入鹿が正殿の入り口に近づいたとき、珍妙な姿をした者が現れた。入鹿のお気に入りの俳優(わざひと)である。入鹿の前で
ひょうきんな仕草をはじめている。そのこっけいな姿に入鹿が上機嫌で笑っているのが見える。なにをやっているのか子麻呂には
わからなかった。鎌足は入鹿のそばによりなにかを助言するように耳打ちしている。入鹿は笑いを浮かべたまま、腰にはいた黄
金の大刀を、俳優がさしあげている両の手に乗せた。鎌足は入鹿がただひとり気をゆるしている俳優にいいふくめて、黄金の
大刀をとりあげてしまったのである。
表文誦読はどんどん進んでいく。緊張でかん高くなった山田麻呂の声がしだいにふるえをおび、やがてかすれて止まった。入鹿
がなにかいっている。不審に思い始めたのだろう。いま、とびださねばすべては終わる。と、階のわきにみをひそめていた中大
兄がさっと剣を抜き、ひと声さけんで殿上へかけあがっていくのがみえた。入鹿は瞬時、何が起きているのか、わからないよう
だった。自分に向かって抜刀して突進してくるのが中大兄であると知って、はじめて腰を引き、わななきながら手をかざした。
最初の一撃は紫冠をつけた入鹿の頭部だった。二撃目は肩、三撃目でようやく子麻呂が追いつき、入鹿の腿を切った。
大君は驚愕の眼をみはって、立ち上がっておられる。「なにごとですか、これは」
中大兄はさっと床にひざをついた。「蘇我鞍作、わが皇統を傾けこれを亡ぼし、みずからが皇帝たらんとしております。いま、
鞍作をうたざれば、大和は蘇我の属領となりはてますが、これをゆるしておけましょうか」
三韓進調の日、まっさきに突進して入鹿を斬ったのが中大兄自身だった。以来、この国の命運をかけた戦いが夜を徹して続いた
はずだが、二十歳の皇子は精悍な顔に疲労の痕跡さえも残していない。玄理、日文に対し、鎌足が新政権の概要について説明を
はじめた。「蘇我を倒したあとの政権でありますれば、まず大臣の地位をどうするかというのが最大の問題でありました」
古来、大和の国にあっては大臣、大連(おおむらじ)は天皇をささえ、補佐する最高の地位であった。大連は蘇我・物部戦争に
敗れた物部守屋を最後に歴史から姿を消したが、大臣のほうは絶大な蘇我権力の象徴のようになり、蘇我馬子から蝦夷へと受け
つがれてきた。「蘇我を倒した政権がこれをそのままひきつぐわけにはまいりません。といって大連を復活させるのもいかがなも
のかということになりまして、結局、大臣の地位を左右にわけ、左大臣、右大臣と呼称することにいたしました。」就任したのは
左大臣、安部内麻呂、右大臣、蘇我倉山田麻呂である。

青雲の大和 下 (角川文庫)
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【フィクサー・陰の存在】
2011.01.06: イトマン・住銀事件 ~主役のお二人
2010.10.15: 道路の権力2
2010.07.27: 闇権力の執行人 ~逮捕と疑惑闇権力の執行人 ~逮捕と疑惑 
2010.04.08: 野中広務 差別と権力 ~伝説の男
2010.03.03: テロ・マネー ~暗躍する死の商人
2010.01.26: 黒幕―昭和闇の支配者
2009.12.21: 君は日本国憲法を読んだことがあるのかね
2009.12.17: 俺の恋のライバルはツワモノ揃い
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2009.03.23: 闇将軍
2009.03.13: 裏支配
2008.07.08: Richest Hedge Fund Managers


青雲の大和 ~入鹿のクーデター 1/3

蘇我入鹿と中臣鎌足 マジで懐かしい。小学校以来の香り?
聖徳太子 - 山背大兄
蘇我蝦夷 - 蘇我入鹿(クーデター首謀者。山背大兄暗殺計画@斑鳩の宮)
中大兄皇子 を擁立した 中臣鎌足
で終わりなのだがあまりに味気ないので抜きだそう。
動員令をくだしたのは、大臣の地位を父からゆずりうけたとされる蘇我入鹿である。いわば蘇我の威をもって命じてきたもので
大君のいます宮殿をまもるのを使命とする者がそれに服することはないという大義名分が子麻呂にはあった。蘇我によるこの突
然の動員はなんのためであるか。おそらく父、蘇我蝦夷から権力をゆずりうけた入鹿が、代替わりの手始めになにか途方もない
ことをはじめようとしている
に違いなかった。蘇我入鹿という人物は優柔不断なところのある父、蝦夷とちがって頭の切れが鋭
く、独裁的なことを決していく型の権力者であるといわれている。蘇我全盛の今、人事の全てを握っているのはむろん蘇我勢で
ある。であれば蘇我に縁のない子麻呂と網田はいつまでたってもうだつがあがらないことになる。巨勢徳太(こせのとこだ)、
冠位第二位の小徳をいただく重臣で蘇我勢きっての切れ者と言われている。巨勢は網田ら5人の部隊長を呼び寄せて、こう告げ
たのである。「斑鳩の宮を包囲襲撃する。ねらいは山背大兄の御首である」
 入鹿には鎌足にないものがあった。頭の回転の速さと些事にこだわらない決断力である。逆に言えば大事なことを切り捨てて
かえりみないということでは短所、鎌足は入鹿のこの大胆さが好きだった。鎌足自身はつねに慎重に綿密に考え、そののちに決
断にいたるという性格である。あえて言えば鈍重にしか動けない、と自分では思っている。
 鎌足は敬語をまじえつつ、しかも学友としての親しみを失わないように話し出した。
「まず山背大兄の件である。巨勢徳太の臣が指揮を取って斑鳩の宮を急襲したよしであるが、太郎(入鹿)どの、あなた自身が
指令されたのか」
「そう大臣の権限をもってやった。山背大兄には気の毒なことになったが、われら蘇我としてはやらざるをえないんでね。山背
大兄が存在する限り天下大乱の火だねは消えない。いまの大君、鎌足はどう思うか、つまり天皇にふさわしいかどうかだ。」
先帝の皇后であった大君(皇極天皇)が即位されて2年になるが、蘇我の力があまりにも強大で、天皇による政といえるものは
皇居板葺の宮が建てられたことを除けば、皆無に等しいのである。
「大后を天皇に奉戴したのは、蘇我ではなかったのか」
「そう、父だ。したがって、父蝦夷が身をひいた今は、我が決める」
「太郎どの、あなたがいわんとしているのは、いまの大君を位からおろし、古人大兄をたてるということか」
「古人大兄で様子を見て、どうしてもうまくいかなければついには我が皇位につく。もっとも大事なもの。それは言うまでもな
い、天命だ。この大和の国にも天命が革まるときがくるのだ
。」
鎌足と入鹿の師、旻師(みんし)は、殷、周から春秋戦国、さらには秦、漢をへて隋、唐の今に至るまで、その思想と制度の
変遷を説くにあたりくりかえしくりかえし、「大和はそうあってはならない」といわれた。なぜか。師は隋朝末期にあって、どれほ
ど多くの民が革命の騒乱の中で犠牲になり、死んでいったか現実に見ておられるのである。極言すれば、革命とは人民の半数を
殺すものである、と言われた。
「山背大兄については、無能で無力で蘇我の敵ではないとは思っていた。しかし山背大兄の背後に巨大な亡霊が立っている。
これが問題だった。この亡霊が動き出すと、あぶない」
父君、聖徳太子である、いまも国民の崇拝をあつめ、聖人としての伝説化が進んでいる太子の霊をうまく奉戴する勢力があらわ
れるなら、蘇我といえども勝利はおぼつかないというのである。
「山背大兄は斑鳩の宮の大殿で焼死されたことになっているらしいがじつは生きておられる。」
「山背はどこにいるのだ。言え、鎌足。」
「私は蘇我が大和の天皇に代わって帝となるのに反対である。中国ではなるほど、そのようなことが史上くりかえされたかもし
れない。しかし、大和はそうあってはならないと、師は教えられたのではなかったか。ましてや、そのために山背大兄を殺害する
というのは、いかに太郎どのに友誼をもっていようとも、私は反対せざるをえない。私は山背大兄をまもるほうにつく。」
「我が山背大兄を生かしておけないのもわかるだろう。父(聖徳太子)ほどではないが、山背もそこそこ人望はある。大兄の
皇子とよばれるのだから皇位継承権ということになればまちがいなく三位までには入る。その山背が父の霊を背にわれに対抗し
て兵をあげれば、天下は二分され、大乱になるおそれが多分にある。」
「しかし、情勢を見て、古人大兄を降ろし、あなた自身が立つというのであろう。それを我々臣民はみとめることができない。
あなたは大和の皇族ではない。天皇家の血は入っていないのだ。」
「我が山背大兄を殺し、古人大兄を屠ったとしても、この大和に貞観の治を実現させればいいのだ。それこそが天命というもの
だろう。隋、唐であたりまえのことが大和ではなぜ、あたりまえではないのか。中国では1千年もまえから革命は肯定されてい
る。天命が革まるのは万民にとって喜ばしいことなのだ。ただ、そのさい大乱になるとすればそれはさけねばならない。つまり、
いまの大和でいえば、山背大兄をほうむって大乱の火だねを消したうえで革命につきすすむのが正しい道だ。」
「鎌足よ、君は知らないだけなのだ。山背を生かしておけない理由が蘇我にはもう一つある。」
山背大兄は父、聖徳太子が蘇我の陰謀によって毒殺されたと信じており、反蘇我の兵を挙げるときは、太子毒殺をはじめ蘇我
のこれまでの罪科を天下にさらして諸勢力を結集しようとしている
、というのである。

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巨大穀物商社 ~支配者として 4/4

穀物会社に依存する国
コンチネンタル穀物会社が西アフリカのザイールに始めて近代的な製粉工場を開設したのは1973年の5月だがこの時以来、
このニューヨークの多国籍企業は災難続きだった。穀物を貯蔵しておく12基のサイロのうち2基が二ヵ月後に崩壊して創業に
支障をきたした。その直後、コンチネンタルの代表たちは、この国で彼らの粉に競争相手が現れたことを知った。モブツ大統領
の叔父がヨーロッパの小麦粉を輸入するライセンスを取って、ザイールのベーカリーに供給し始めたのである。またザイールの
経済の基盤であった銅の国際価格が下落したことで新たな問題が生じた。中央銀行のドル残高が1974年の間中減り続けた
ので、ザイールはコンチネンタルの製粉工場で使われるアメリカ小麦の支払いを滞らせた。アメリカ小麦はドル支払いだった。
コンチネンタル社は中央銀行からなんとか外国為替を引き出そうと努力したがどうにもならなかった。どうやら、ザイールの債
権者たちの長い列の最後尾に連なる羽目に陥りそうだった。すでに、この国の財政難を見越せなかった多くの銀行や企業などが
ザイールの債権者として顔を揃えていたのである。だが、1976年、コンチネンタルは、わが社はもし必要とあらば、自社の
小麦に依存している国々の政府や国民を痛い目にあわせてやることもできるのだぞ、ということを強引に示して見せた。単純か
つ直接の行動に出て、ザイールの自社工場に毎月送っていた小麦の積み出しを停止してしまった
のである。効果はてき面だった。
たちまちのうちにどこのパン屋にも長い行列ができ、パン屋の売り惜しみが始まった。工場はパン屋への粉の供給を完全にスト
ップしたわけではなく、ただ圧力をかけるために出荷量を減らしただけである。ザイール政府はあわててコンチネンタル代表と
会って会社側の要求を全て呑んだ。以後の全ての出荷に対しては中央銀行から現金で支払うこと、これまでの負債は毎月100
万ドルずつ返済していくこと、特別な場合以外は、アメリカの硬小麦のみを輸入すること、ザイールにおける小麦粉に関しては、
コンチネンタルが独占権を持つこと、さらにコンチネンタル以外の者がザイールへの輸入許可を申請した場合、それを認めるか
認めないかの権限はコンチネンタルにあること、などをザイール政府は約束した。
種子の支配
世界の農民が穀物商社を必要としているのは、自分たちの穀物を売って貰うためばかりではなく、自分たちに穀物の種を売って
貰うためでもある。商社の種には収穫がぐっと多く、乾燥やある種の害虫や病毒の被害を受け難いなどの利点がある一方、欠点
もいくつかある。作物が画一的なものとなって望ましくない品質や新たな弱さを生み出す。私的企業が種の配布にこれほど重要
な存在になったのはここ30年ばかりのことにすぎない。交配種コーンの研究は合衆国ではすでに1920年-30年にかけて
完了していたが農夫たちが大々的にこの品種に鞍替えしたのは戦後のことだった。一方、収穫高の多い小麦の研究は、1960
年あでにノーベル賞受賞者ノーマン・ボーローグの指揮下に開発された「奇蹟の」小麦が世界中に広がり始めていた。商業的
見地からすれば交配種(ハイブリッドシード)のミソは、農民が毎年新たな種を買い入れなければならないというところにある。
交配種は一代限りで再生能力がない。だからこそこの研究には投資する価値があるのだ。
武器としての穀物
1975年、国務次官のチャールズロビンソンは、モスクワに来ていた。もしソ連が1年つき1000万トンの石油をOPEC
カルテルのつけた値よりかなり安い値で、合衆国に輸出することに同意しないなら、クレムリンは凶作の埋め合わせのために
緊急に必要としている穀物を入手できないだろう
、というものであった。この大胆なイニシアティブを決めたのは、国務長官ヘ
ンリー・キッシンジャーであった。そしてそれは、フォード大統領の支持を得た。彼らにとってソ連の石油はOPECの輸出禁
止や値上げに関係のないエネルギー源となりえるものとして、重大な意味を持っていた。
 戦後のアメリカの食糧援助にはつねに政治的な要因が働いていた。1948年ユーゴスラビアがコミンフォルムへの加盟を拒
否したあと、チトーがソ連の影響をはねつけて独立路線を歩むのを支えたのは、助成金つきのアメリカの食糧だった。また東欧
の中でも独立性の強い共産国、ポーランドも同様だった。1967年、エジプトがイスラエルと戦争状態に入るや公法480号
はストップした。1971年には食糧購入借款が韓国に与えられたが、これは韓国政府の合衆国への繊維品輸出を減らすという
密約の見返りとしてだった、同年、ポルトガルへは、アゾレス諸島の米軍基地の継続使用権の見返りとして、1974年には、
バングラデシュへは、この国がキューバへのジュート輸出停止に同意した後、援助が与えられた。1970年、チリではマルクス
主義者のサルバドール・アジェンデが大統領に選出されるや、チリへの助成金付食糧の輸出はストップした。そして1973年
彼の失脚直後に復活した。
アジアの米、アメリカの米 コリアゲート事件
米はアジアでは昔から生活の糧であった。米は澱粉質穀物としては、小麦についで二番目に大きな世界の産物であり、パキスタ
ンと日本の間に住む25億の人々の主食である。米は生命、文化、宗教の根底をなしている。家族の生活は、田植えと借り入れ
を中心に回転し、家族の協力と労働の分担を必要とする米作りの「集団性」はアジア人の社会集団と社会観念に密接につながっ
ている。米のロビー工作には特殊な問題がいくつかあった。新たに大きな市場を開拓することは他の穀物に比べて見込みが少な
かった。世界人口の2/3がすでに米を食べていて、増加傾向にあったとはいえ、合衆国の米を時価で買うだけの金を持ち合わ
せていなかった。輸入米を買うだけのゆとりのある階層は、米を減らしてパンと穀物で育った鶏肉やビーフを食べようとする傾向
にあった。1974年、ベトナムとカンボジアの2400万国民の食糧援助、アメリカの米の全生産高の約10%にあたる100
万トン以上の米がこの戦争地域に注ぎ込まれた。
 1930年代には朝鮮は日本に米を輸出していた。がそれは多くの朝鮮人を飢えに追いやっての飢餓輸出だった。朝鮮戦争後
あまたの難問に直面しながらも大量の米を産出した。だが政府が「日本に見習って」経済開発に乗り出すにつれて、1951年
から71年の間に350万もの農民を都市に移動させたことにより、韓国の食料供給力には大きな負担が生じた。その答えはも
ちろん、より多くの食糧を輸入することであった。カリフォルニア選出の民主党議員リチャード・ハンナ、アジアの偉大なるギャツビ
ー、朴東宣の二人がカリフォルニアと韓国との米取引を独占した。朴はその手数料を受け取り、その一部は、ワシントンの標準
から言えば派手な暮らしぶりをするのに使われた。朴の役割は、韓国のエージェントというよりは「韓国会社」-、ビジネスと政治
の複雑に絡み合った融合体で国を運営し大量の米の輸入に依存する経済開発から最大の利益を得ている、のエージェントだっ
た。
農地というものは繰り返し作物を生産できるから、その点では石油とは違って、「再生可能」な資源である。だが、現代の農耕
法で穀物を生産するために必要とされる諸資源は、限りある資源である。ディーゼルトラクターや灌漑用のポンプを動かしたり、
穀物を乾燥させたり、化学肥料や除草剤や殺虫剤を生産したりするための石油や天然ガスが必要である。また、コロラド、ケン
タッキー、ネブラスカ等の西部小麦ベルト地帯では、灌漑用の地下水は無限に続く資源ではない。事実、その水位は徐々に下が
ってきており、ひとたび干上がってしまうようなことがあれば、回復までに何十年もの年月を要するだろう。おまけに都市やハ
イウェイや空港や、パイプラインや伝送線の用地がどんどん広がっていくにしたがって、農地はだんだん少なくなってきている。
合衆国は毎年300万エーカーの農地が土壌の侵食のせいで減りつつある。2000年ごろまでにはアメリカの食糧輸出は終わ
るのではないかという悲観的な見方さえ出ている。
>オイルもアグリも同じなの。専門家もブローカーも、有限だ枯渇だといって上昇を期待し、上下対称な先物ですら、買い推奨。
>金利で経済成長してるんだ。上昇は当たり前だが、その金利とVolatilityは見合うものではないだろう。

巨大穀物商社―アメリカ食糧戦略のかげに (1980年)
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巨大穀物商社 ~食事習慣の輸出 3/4

アメリカ式食事
アメリカ農務省やカーギルやコンチネンタルの戦略家たちにとって、余剰穀物問題を解決する方法は明らかだった。他の国々に
もアメリカ式の食習慣をつけさせれば良いのだ。世界の経済機構の中で、アジアの何億という米食民族をパン食に切り替えさせ
たことで、毎年決まって出るアメリカの余剰小麦のいく分かは処理できた
。新たにアメリカへの依存度を高めたことが政治上、
経済上、どんな深い意味を持っているかを問い直そうとした者はほとんどいなかった。ひとたび合衆国が諸外国に熱心に穀物を
押し付け始めるやそれを正当化する理由にはこと欠かなかった。パンには栄養があったし肉を含む偏りのない食事でアジア人は
見る見るうちに身長が伸び、体格が良くなった。食糧輸入は開発途上国内での食糧価格の高騰を押さえ、労働力と資本を産業
化の方へ廻すことを可能にした。アメリカは世界への食糧供給者としての自然的利点に恵まれていた。
 戦後、パン食に親しむようになった国の多くは、その気候風土が小麦栽培に適さない国々であった。もしパン食を続けるとすれ
ば、小麦か粉を輸入せざるを得なかった
。征服民族はつねに被征服民族の文化と生活習慣に影響を与えるものだが、第二次世
界大戦後のアメリカのように敗戦国の食習慣まで変えてしまったのは歴史上あまり例を見ない。だが、アメリカ政府が余剰農産
物を処理するのに絶好の道具となったのは、1954年に議会を通過した公法第480号だった。これによりちびちびとやってい
た食糧援助が恒久的な農業政策となり同時に対外政策ともなって固定化した。コーンや木綿産業をバックにした議員たちは、も
しアメリカの食糧があまりやすやす入手できれば、外国の農民はその生産対象を食用穀物から他の輸出可能な産物に切り替えて
それが外国市場で、”アメリカ”の商品を脅かすことになりかねない、として、不安を表明した。だが永久的食糧援助計画は、
保守派を圧倒するだけのアピールを持っていた。彼らはこの計画によって、農民がいくら余剰農産物を生産しても支払いを受け
続けられることを知っていた。人道主義的に見ても、イデオロギー的見地からもこれが一挙両得な政策であると見た。1953
年、干ばつの危機にさらされたパキスタンに、食糧援助をすることを主張した。パキスタンがソ連から南アジアへのルートの要
所であるカイバル峠の人口を握っており、対外政策上の意味を持っていた。公法480号は諸外国への援助計画として宣伝された
が、それは何よりもまず、アメリカの農民と穀物貿易に対する援助であった。
 ケネディが大統領に就任した1961年この国は莫大な量の余剰コーンを抱え込んでいたので、もしその年の夏が豊作だった
ら貯蔵する場所がないだろうと心配された。そこで緊急行政措置が取られ、もし例年より20%から50%作付面積を減らすこ
とに同意するなら、1ブッシェルあたり、最低1ドル20セントでコーンを買い上げよう、との提案がなされた。ほとんどの農民
と経済学者が、政府の経費とその在庫を減らすこの計画を妙案だと思ったがカーギルの幹部はそれを大災害と受け取った。彼ら
1ブッシェル1ドル20セントもの価格支持ではアメリカのコーンは高すぎて世界市場で太刀打ちができないと主張した。こ
れではコーンは政府の助成金つきでしか輸出できない。「ミデンツ・プラン」、価格支持は世界の標準価格まで下げるべきであ
りコーンの輸出助成金は打ち切るべきである。支持の切り下げは農民に政府小切手を与えることで補いをつける。このエピソー
ドはケネディ政権の農業問題へのアプローチを暗示している。それは援助の施しより貿易を重視していた。小麦貿易を圧倒的に
支配していたカナダとアメリカはその政策と国際価格の点で足並みを揃えていた
。事実上、両国は、二ヶ国小麦カルテルを結ん
でいた。価格を低く抑えておけば他の国々が自国用の生産を増やしたりもっと悪くすれば、小麦輸出を始めたりするのを防ぐこ
とができ、長い目で見れば利益になる、と考えていた。だが公法480号の登場で、他の小麦生産諸国から合衆国が「ダンピン
グ」をやっているのではないか、という声が上がり始めた。その通り、やっていたわけである。
奴らの喉にぎゅうぎゅう詰めこめ 「これは確かに世界史上、もっとも大きな穀物取引である。もちろん我々にとっては最大の
ものだ。」 農務長官 アール・バッツ、1972年7月、ソ連の穀物輸出に関して。
1964年、カーギルとコンチネンタルはいち早く黒海への輸送を開始していた。この同じ年にコンチネンタルの例の精力的な
オランダ人、ノーデマンは、マトヴィエフに5万トンの袋詰めの米を売った。翌1965年にはソ連はまた凶作で、ノーデマン
は9万トンのアメリカ大豆をマトヴィエフに売りつけた。だがそれきりだった。ソ連とアメリカの穀物取引はほんの僅かになり、
やがてストップした。アメリカ側では労働組合は、共産諸国への穀物輸出に対しイデオロギー上の偏見を持っていた。
 1960年代に、ソビエトが取り入れ始めたのは、まさにアメリカ式食事の型であった。それは家畜部門の着実な伸びを維持
するためのレオニード・ブレジネフ政府の政策となった。ブレジネフは断固、ロシア人の食卓にもっと多くの豚肉や鶏肉をのせる
つもりだった。そして、それとともにソビエト農業の問題も国際化した。というのはソ連の農業では、とてもこの政策を長らく
支え続けるだけの穀物は生産できなかったからである。
キッシンジャーの思惑
アメリカの貿易、および国際収支の赤字を埋め、ドルを強化する必要にかられたからとはいえ、政府が共産主義国への穀物輸出
への穀物輸出にあらゆる制限を除いてしまったことは思い切った処置だった。それは工業技術の輸出を、他の分野でのソ連の譲
歩と結びつけた、ニクソン=キッシンジャーの政策とは矛盾するものであった。議会において大統領が他の米ソ間の問題全般に
関する合意が得られるまでは、ソ連との輸出拡大に反対。ソ連が第二次大戦中の13億ドルに上る貸与を返済していないことを
指摘し、当時米ソ貿易は1年に2億ドル程度。1972年キッシンジャーは国務省、商務省、農務省に「対ソ貿易増大の見込み
のある分野の一つは農産物と商品融資公団の製品に関連している」と書き送った。コンチネンタルと接触中、ソ連はたびたび、
合衆国と長期に及ぶ契約を結びたいとの意向を表明したが、この取引を信用貸しでやって欲しいとほのめかしたことはなかった。
10億ドル程度のカネなら金を売るか、ユーロダラーマーケットから借り入れとあわせれば何とか作れた。だが、キッシンジャー
は明らかにこの穀物の絆を緊張緩和にひっかけたいという気持ちを少なからず持っていた。
 1971年と72年に世界は連続して凶作に見舞われた。ニクソンは1971年にドルの切り下げを行い、このためアメリカの
穀物は前にもまして、外国にとってお買い得商品となった。1972年まで国際的な穀物取引は、徐々に増加してきていたが脅
威的な伸びはなかった。1971年から75年の間に国際貿易の増加はそれまでの戦後全期間の増加に等しいくらい急成長した。
取引条件も合衆国経済に有利な方向へ、1972年以後の輸出のほとんどが現金取引だった。
 世界食糧経済のこの著しい変化は、ほんの部分的にはロシア人の仕業であった。だが大部分は世界が全般的に豊かになって、
穀物の輸入が増えたためであり、多くの国々で食生活が変わったためである。また諸外国の支配者たちは膨れ上がった都市人口
を満足させるだけの食糧の輸入する必要があった。こうした変化は徐々に起こってきたものだが、いったん穀物価格が上がりは
じめると客たちは恐慌をきたし、多くの国々が高いせり値をつけた。これこそ、農務省の熱心な市場開拓者たちと穀物の企業が、
10年以上も前から待ち望んでいたチャンスだった。あらゆる種類の穀物の値が政府の支持価格より上がって市場は完全に商業
的な取引となった。
「どの家族もすべて、根本的には偏執狂である。君はどうかね?」 前カーギル社員
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巨大穀物商社 ~穀物近代史 2/4

穀物輸出のセンターとなったアメリカ
その昔、これらの家族の数世代にわたる系譜小説(サーガ)が始まったころ、穀物が国事の中で1975年のような大きな役
割を演ずることになろうとは夢想だにしなかったろう。穀物貿易が年間数十億のドルと数千万トンの物資を扱うビジネスになっ
たのはごく最近の現象である。第二次大戦前には国境や海を越えての穀物の量が年間3000万トン以上になることはめった
になかった。1975年には、この数字はほぼ1億6000万トンに達した。これは石油貿易の伸びにはわずかに劣るが、驚異
的な増大ぶりである。かつては輸出国だったソ連やインドといった国々が、大輸入国となった。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ
の発展途上国もはじめて大規模に小麦を輸入し始めた。豊かな国々では国民はアメリカ式の食事を真似て、穀物飼料で
育てた牛、豚、鶏などの肉類を多く取りジャガイモやパンや米などの量を減らすようになった。家畜が世界の穀物の全生産量
のうち、人間とほぼ同僚を食べるようになった。穀物の「供給地」は他の基礎資源に比べるとそんなにあちこちにない。石油や
ボーキサイトや鉄鉱石の余剰生産を持つ国はかなりある。だが穀物の余剰生産国はほんの一握りで、合衆国は常にその一つ
である。農業の点では超大国はたった一つしかない
。アイオワは、地球上の全コーンの十分の一を産し、カンザスと南ダコタは
オーストラリア全土よりも多くの小麦を産する。
1972年 グレインロバリー 穀物奪取
アメリカの余剰生産物を国外に流出させ、穀物価格を1917年以来最高の高値につり上げた事件が起こった。この年、世界
各地が旱魃に見舞われたのである。だからソ連の買い入れがあろうとなかろうと物価は上昇しただろう。しかし、ソ連が買い付け
たという意外性と事の重要性が、バランスを覆した。穀物価格の上昇とともに、世界的な規模でパニックと売り惜しみ買いだめが
起こった。ソ連の買い付けは、1年後、OPECのカルテルにより石油価格が4倍に跳ね上がったことにも匹敵するほど影響が大
きかった。米国の穀物輸出は1971年の3400万トンから1975年に8200万トンに増え、77億ドルから213億ドルに
増え、この輸出で高価な外国の石油の埋め合わせがつけられた。一方、アメリカ人の食費はこの4年で540億ドル増え、過去
100年での最高の急上昇ぶりだった。
パンの普及と穀物貿易
世界の大国の中で、食糧不足を経験したのは、なにも、20世紀のソビエトや19世紀のイギリスが最初ではない。古代ローマ
や古代ギリシャも自給自足できなかった。帝国は、併合したり征服した領土、シチリア、スペイン、北アフリカ、ゴール、ブリタニ
ア、エジプト等から貢租として送られてくる穀物に依存していた。紀元前5世紀から4世紀にかけてのアテネも自国の食糧を、
しばしば輸入した。スパルタ軍は何度もアッティカに侵入し、小麦や大麦畑や果樹園、ぶどう園を破壊した。ソクラテスにとって
政治家としての適正を決定するものの一つは、アテネの人口を支えるのにどれだけの食糧が必要かということを心得ているかど
うかであった。それ以後何世紀もの間の穀物貿易は、いつでも買い入れ資金を用立てられる金融業者と物資を運ぶ船の持主
と商業冒険家に依存していた。ずっとのち、ヨーロッパ人工が増えるにつれて、地中海商人は飢饉のたびに穀物輸送に活躍し
た。14世紀にはフィレンツェの商人たちは、年間1万トンものシチリアの小麦を扱った。16世紀の末、イスカナが飢饉に見舞
われた時には、トスカナ、ベニス、ジェノヴァの大公たちが小艦隊を組織して、バルチック海や黒海地域から何万トンもの穀物
を運ばせた。17世紀末のヨーロッパで消費された穀物のうち、他国産の穀物は3%以下だった。パンは貴族や金持ちだけの
食物だった。1800年ころにはパン食にも民主化の傾向があらわれていた。製粉技術が進んで、外皮や籾殻なしの白い上質
粉が広く利用されるようになった。パンを食べることが出世と社会的地位の表象となった。一度パンの味を覚えると、容易に断
ち切れなくなる。政府は小麦を節約するために何度もパンの質を下げようと行政措置を取ったが、無駄であった。パン食が西
ヨーロッパですべての階層にまで及んだ時代が革命の時代でもあったことは決して偶然の一致ではない
。1789年のフランス
の暴動はパンが不足した都市で始まり、その結果パンの値段が引き下げられた。それゆえ小麦の供給が十分であることが社会
秩序と政治安定にとっての必要条件だった。
1848年シカゴ商人の扇動で創設されたシカゴ穀物取引所は、まもなくアメリカの自由企業のもっとも悪い要素、強欲、巨富
と破産、繁栄と不況の循環、腐敗の国際的なシンボルとなった。南北戦争中には思惑買いと市場操作がやたらに横行した。
取引所は1869年に取引を規制するルールを定めたが、あらゆる種類の不正行為が続いた。詐欺行為や電信オペレーターを
抱き込んで、信頼すべき情報を得ようとしたり(コードメッセージ導入以前は)、デマを流して価格を操作したり、があとを絶
たなかった。取引所を一歩出るとジャクソン通りやラサール通りでは賭博場もしくはノミ屋の溜り場と大差ないインチキ株屋の
店が大繁昌していた。
最初の大きな買占めは1888年に行われた。この年の5月政府の収穫報告が小麦の不足を予想し価格がいく分上がった。
B・P・ハチスン(「オールドハッチ」)は8月に9月の先物を買い始めた。ハチスンは9月にその小麦の大半を受け取り、代金
を支払った。そして12月の先物を買い始めた。中西部の穀物が不足で、ヨーロッパでも収穫が足りないことが次第に明らかに
なってくるにつれて9月22日から29日までの間に小麦価格は1ブッシェル1ドルから2ドルへと急騰した。
また1897年にはジョゼフ・ライター(28歳ハーバード出)が、シカゴトリビューンでさえ、「近代商業史上もっとも大がり
でセンセーショナルな」と表した離れ業をやってのけた。父からもらった100万ドルで小麦の先物買いを始めた。シカゴの価格
は着々と上がっていった。ライターは買い続け、売り手がこの小麦をシカゴへ持ち込む契約はどんどん膨れ上がった。これで危
うくなったのがフィリップ・アーマーという男だった。ライターに身の程を知らせてやることは、いまや金の問題ばかりでなく、
プライドの問題でもあった。アーマーはシカゴに大量に小麦を持ち込むように指示した。ちょうどダルースやカナダからの五大
湖ルートが氷結しはじめていたが、彼はダイナマイトで氷を砕いて、彼の船の水路を保持した。アーマーは自分の契約のすべて
果し、春小麦の価格は1ブッシェルあたい1ドル以下に下落した。ライターは春いっぱい何とか踏みこたえた。やがて小麦はま
た値上がりし始め1月90セントから5月には1ドル83セントになった。だがライターは欲張りすぎてここで利ざやを稼いで
手を引くことを拒否した。6月連邦政府は記録的な大豊作を予報した。小麦相場は暴落し、ライターの損害は1000万ドル
にのぼった。彼の父はシカゴの不動産を売り払ったり抵当に入れたりして、その穴埋めをした。
穀物取引は1920年にFTC(連邦商業委員会)の調査を受けた時も、飛び入り勝手のビジネスだった。FTCの調べで、
ルイドレファスとブンゲの子会社P・N・グレイ社とイギリスの会社のサンデー三社で全取引の30%を占め、残り70%を他
の33社はほぼ均等に分けていることが分かった
。2400年の昔、アテネ市場の冒険的商人の時代にそうだったように資本で
はなく信用が依然としてこのビジネスの基盤であった。既成の穀物会社に挑戦するのに金持ちである必要はなかった。穀物を
買い入れ得意先が見つかりさえすれば船積みと保険の契約を結ぶことができた。ニューヨークの輸出業者にとって、もっとも大
切なものは、情報伝達が行き届いていること、良いコネクションがあること、ヨーロッパ市場に通暁していること、であった。
 1929年10月までの状態だったが、この年、小麦市場の底が抜け落ちた。その後、穀物取引は二度と昔の姿には戻らな
かった
。投機家たちは先物小麦にどんどん金をつぎ込んでいた。小麦は暴騰した。暴落後、彼らは高い前金で買い込んだ小麦
を何万ブッシェルとなく抱え込む破目に陥った。不安と焦燥にかられた債権者たちはニューヨークの仲買人がヨーロッパのとく
い先から集金する前に、資金を取り立てた。この惨事で資本の少ない小規模の会社がいくつも抹消された
【資源獲得競争】
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巨大穀物商社 アメリカ食糧戦略のかげに 1/4

国際的な穀物取引会社が、なぜこれまで歴史の舞台に引き出されることなく、ひそかな存在でいられたのかは理解しがたい。
穀物は現代文明にとって、石油よりもはるかに枢要な唯一の資源である。人間の生命と健康の維持に不可欠なものである
ことは言うまでもない。だが石油と同じく穀物にはそれ自体の政治や歴史があり、対外関係にも影響を及ぼしている。第二次
大戦後、それまで自給自足でやってきた多くの国々が食料のかなりの部分を遠方の供給地-アメリカ合衆国-に依存し始
めた
。アメリカが地球の食糧システムの中心になるにつれて、取引ルートに変化が生じ、新しい経済関係が形成され、穀物が
戦後のアメリカ帝国の基盤の一つになった。そして食糧価格、食事内容、ドル、政治、外交のすべてに影響を及ぼした。こう
した変化の中枢に位置しているのが、カーギル、コンチネンタル、ルイ・ドレファス、ブンゲ、アンドレの5社である。
企業社会に秘密はつきものである。アメリカの大企業のほとんどが、国民に自分たちの行動を公開し、説明する義務があると
の見方をとっている。しかし上述の5大穀物企業はこのかぎりではない。1844年の例の秘密第一主義が依然として踏襲さ
れているばかりか、これら大企業の支配権が少数の人々の手に集中するにつれて強化されてきている。その結果、しばしば、
猜疑心、沈黙-そして傲岸な姿勢が生まれる。穀物企業は彼らがやっていることについて国民が何らかの知る権利を持ってい
るとは考えていない-それも彼らが何年にもわたって、合衆国政府から巨額の助成金を得ている、という事実にもかかわらずで
ある。
競争相手や一般民衆は情報が洩れればそれが穀物取引業にとって大きな痛手となる場合もある。しかし、私がぶつかった障
害は、ちょっとやそっとの口の固さではなかった。この異常な用心深さを生み出しているのは、なんといってもこれら企業の構造
であるようだ。穀物企業は、少数の家族に支配された私的寡占企業で財務諸表なども出していない。一般の株主がいない
ので、情報公開の義務は大幅に免除されている。会社の株式は、世界でもっとも裕福でもっとも打ち解けない七家族の手に
握られており、この七家族が同時に会社の経営権も握っている。情報や決断はトップのごく少数の人々がしっかりとコントロー
ルしている。
>本当? Web Siteすらないのだろうか??
カーギル
http://www.cargill.com/
コンチネンタルは1999年にカーギルに買収されている。1997年に日本の東食もその餌食に。
がしかしよ、財務諸表ではないものの
http://www.cargill.com/news-center/news-releases/2010/NA3032488.jsp
に4QのRevenue 28.1bil、Earnings 691milとか書いてあるぜ。米国企業なんだからアメリカ
の会社法と世界一怖い国税IRS様の統治下だよ。なんだかんだいっても。
ルイ・ドレファス
http://www.louisdreyfus.com/
ちなみに、ルイ・ドレファスで検索すると、Julia Louis-Dreyfusが出てくる。
1961年生まれのネーさんだが、可愛い。俺の嫁候補ですね。
Brad Hallだかなんだかしらねーが、夫婦財産分与契約適応してとっとと別れろ。
julia_louis_dreyfus.jpgjulia-l-dreyfus.jpg
ブンゲ
http://www.bunge.com/
上場会社です。普通に買えそうです。時価総額11bil。
株主構成もいわゆる大手にいがちな株主たちで、異様さは見受けられない。
アンドレ、Andre-GarnacはWebが見つからない・・・。
「穀物は通貨の中の通貨である」 - レーニン
穀物企業はユナイテッド・フルーツ社がその最盛期にラテンアメリカに持っていたような広大なプランテーションを所有したことも
なければエクソン社のように「上流の」オイルの「栓」を支配しているわけでもない。彼らが頼りにする資源は世界中の何億と
いう農民が生産するものである。会社が穀物を生産していないことは不利でもなければ、弱みのしるしでもない。まったく逆
である。価格の下落とか悪天候とか時折見られる政府の農業圧迫政策といったリスクは、すべて百姓たちが負うのだ。穀物
企業は直接の生産過程から一歩退いているため、価格が上がろうと下がろうと金儲けができる仕組みになっている。五大企業
は穀物の配分と加工に関する世界機構の中心に位置して、船積み、穀物倉庫、情報伝達、加工工場等に資本を投下して
いる
。加工工場とは小麦から粉を、大豆から調理油や家畜飼料を、コーンから合成飼料や清涼飲料、アイスクリーム用の液
体甘味料などを作る、穀物の精製場のことである。彼らはまた農民からはるばる外国の消費者へと通じる、穀物の「パイプ
ライン」をも握っている。カーギルとコンチネンタルの両社で、合衆国が輸出する穀物全体の半分を扱っている。しかも合衆国
の輸出量は世界貿易における穀物全量の50%を占めているのだ。
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