穀物会社に依存する国
コンチネンタル穀物会社が西アフリカのザイールに始めて近代的な製粉工場を開設したのは1973年の5月だがこの時以来、
このニューヨークの多国籍企業は災難続きだった。穀物を貯蔵しておく12基のサイロのうち2基が二ヵ月後に崩壊して創業に
支障をきたした。その直後、コンチネンタルの代表たちは、この国で彼らの粉に競争相手が現れたことを知った。モブツ大統領
の叔父がヨーロッパの小麦粉を輸入するライセンスを取って、ザイールのベーカリーに供給し始めたのである。またザイールの
経済の基盤であった銅の国際価格が下落したことで新たな問題が生じた。中央銀行のドル残高が1974年の間中減り続けた
ので、ザイールはコンチネンタルの製粉工場で使われるアメリカ小麦の支払いを滞らせた。アメリカ小麦はドル支払いだった。
コンチネンタル社は中央銀行からなんとか外国為替を引き出そうと努力したがどうにもならなかった。どうやら、ザイールの債
権者たちの長い列の最後尾に連なる羽目に陥りそうだった。すでに、この国の財政難を見越せなかった多くの銀行や企業などが
ザイールの債権者として顔を揃えていたのである。だが、1976年、コンチネンタルは、わが社はもし必要とあらば、自社の
小麦に依存している国々の政府や国民を痛い目にあわせてやることもできるのだぞ、ということを強引に示して見せた。単純か
つ直接の行動に出て、ザイールの自社工場に毎月送っていた小麦の積み出しを停止してしまった
のである。効果はてき面だった。
たちまちのうちにどこのパン屋にも長い行列ができ、パン屋の売り惜しみが始まった。工場はパン屋への粉の供給を完全にスト
ップしたわけではなく、ただ圧力をかけるために出荷量を減らしただけである。ザイール政府はあわててコンチネンタル代表と
会って会社側の要求を全て呑んだ。以後の全ての出荷に対しては中央銀行から現金で支払うこと、これまでの負債は毎月100
万ドルずつ返済していくこと、特別な場合以外は、アメリカの硬小麦のみを輸入すること、ザイールにおける小麦粉に関しては、
コンチネンタルが独占権を持つこと、さらにコンチネンタル以外の者がザイールへの輸入許可を申請した場合、それを認めるか
認めないかの権限はコンチネンタルにあること、などをザイール政府は約束した。
種子の支配
世界の農民が穀物商社を必要としているのは、自分たちの穀物を売って貰うためばかりではなく、自分たちに穀物の種を売って
貰うためでもある。商社の種には収穫がぐっと多く、乾燥やある種の害虫や病毒の被害を受け難いなどの利点がある一方、欠点
もいくつかある。作物が画一的なものとなって望ましくない品質や新たな弱さを生み出す。私的企業が種の配布にこれほど重要
な存在になったのはここ30年ばかりのことにすぎない。交配種コーンの研究は合衆国ではすでに1920年-30年にかけて
完了していたが農夫たちが大々的にこの品種に鞍替えしたのは戦後のことだった。一方、収穫高の多い小麦の研究は、1960
年あでにノーベル賞受賞者ノーマン・ボーローグの指揮下に開発された「奇蹟の」小麦が世界中に広がり始めていた。商業的
見地からすれば交配種(ハイブリッドシード)のミソは、農民が毎年新たな種を買い入れなければならないというところにある。
交配種は一代限りで再生能力がない。だからこそこの研究には投資する価値があるのだ。
武器としての穀物
1975年、国務次官のチャールズロビンソンは、モスクワに来ていた。もしソ連が1年つき1000万トンの石油をOPEC
カルテルのつけた値よりかなり安い値で、合衆国に輸出することに同意しないなら、クレムリンは凶作の埋め合わせのために
緊急に必要としている穀物を入手できないだろう
、というものであった。この大胆なイニシアティブを決めたのは、国務長官ヘ
ンリー・キッシンジャーであった。そしてそれは、フォード大統領の支持を得た。彼らにとってソ連の石油はOPECの輸出禁
止や値上げに関係のないエネルギー源となりえるものとして、重大な意味を持っていた。
 戦後のアメリカの食糧援助にはつねに政治的な要因が働いていた。1948年ユーゴスラビアがコミンフォルムへの加盟を拒
否したあと、チトーがソ連の影響をはねつけて独立路線を歩むのを支えたのは、助成金つきのアメリカの食糧だった。また東欧
の中でも独立性の強い共産国、ポーランドも同様だった。1967年、エジプトがイスラエルと戦争状態に入るや公法480号
はストップした。1971年には食糧購入借款が韓国に与えられたが、これは韓国政府の合衆国への繊維品輸出を減らすという
密約の見返りとしてだった、同年、ポルトガルへは、アゾレス諸島の米軍基地の継続使用権の見返りとして、1974年には、
バングラデシュへは、この国がキューバへのジュート輸出停止に同意した後、援助が与えられた。1970年、チリではマルクス
主義者のサルバドール・アジェンデが大統領に選出されるや、チリへの助成金付食糧の輸出はストップした。そして1973年
彼の失脚直後に復活した。
アジアの米、アメリカの米 コリアゲート事件
米はアジアでは昔から生活の糧であった。米は澱粉質穀物としては、小麦についで二番目に大きな世界の産物であり、パキスタ
ンと日本の間に住む25億の人々の主食である。米は生命、文化、宗教の根底をなしている。家族の生活は、田植えと借り入れ
を中心に回転し、家族の協力と労働の分担を必要とする米作りの「集団性」はアジア人の社会集団と社会観念に密接につながっ
ている。米のロビー工作には特殊な問題がいくつかあった。新たに大きな市場を開拓することは他の穀物に比べて見込みが少な
かった。世界人口の2/3がすでに米を食べていて、増加傾向にあったとはいえ、合衆国の米を時価で買うだけの金を持ち合わ
せていなかった。輸入米を買うだけのゆとりのある階層は、米を減らしてパンと穀物で育った鶏肉やビーフを食べようとする傾向
にあった。1974年、ベトナムとカンボジアの2400万国民の食糧援助、アメリカの米の全生産高の約10%にあたる100
万トン以上の米がこの戦争地域に注ぎ込まれた。
 1930年代には朝鮮は日本に米を輸出していた。がそれは多くの朝鮮人を飢えに追いやっての飢餓輸出だった。朝鮮戦争後
あまたの難問に直面しながらも大量の米を産出した。だが政府が「日本に見習って」経済開発に乗り出すにつれて、1951年
から71年の間に350万もの農民を都市に移動させたことにより、韓国の食料供給力には大きな負担が生じた。その答えはも
ちろん、より多くの食糧を輸入することであった。カリフォルニア選出の民主党議員リチャード・ハンナ、アジアの偉大なるギャツビ
ー、朴東宣の二人がカリフォルニアと韓国との米取引を独占した。朴はその手数料を受け取り、その一部は、ワシントンの標準
から言えば派手な暮らしぶりをするのに使われた。朴の役割は、韓国のエージェントというよりは「韓国会社」-、ビジネスと政治
の複雑に絡み合った融合体で国を運営し大量の米の輸入に依存する経済開発から最大の利益を得ている、のエージェントだっ
た。
農地というものは繰り返し作物を生産できるから、その点では石油とは違って、「再生可能」な資源である。だが、現代の農耕
法で穀物を生産するために必要とされる諸資源は、限りある資源である。ディーゼルトラクターや灌漑用のポンプを動かしたり、
穀物を乾燥させたり、化学肥料や除草剤や殺虫剤を生産したりするための石油や天然ガスが必要である。また、コロラド、ケン
タッキー、ネブラスカ等の西部小麦ベルト地帯では、灌漑用の地下水は無限に続く資源ではない。事実、その水位は徐々に下が
ってきており、ひとたび干上がってしまうようなことがあれば、回復までに何十年もの年月を要するだろう。おまけに都市やハ
イウェイや空港や、パイプラインや伝送線の用地がどんどん広がっていくにしたがって、農地はだんだん少なくなってきている。
合衆国は毎年300万エーカーの農地が土壌の侵食のせいで減りつつある。2000年ごろまでにはアメリカの食糧輸出は終わ
るのではないかという悲観的な見方さえ出ている。
>オイルもアグリも同じなの。専門家もブローカーも、有限だ枯渇だといって上昇を期待し、上下対称な先物ですら、買い推奨。
>金利で経済成長してるんだ。上昇は当たり前だが、その金利とVolatilityは見合うものではないだろう。

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