穀物輸出のセンターとなったアメリカ
その昔、これらの家族の数世代にわたる系譜小説(サーガ)が始まったころ、穀物が国事の中で1975年のような大きな役
割を演ずることになろうとは夢想だにしなかったろう。穀物貿易が年間数十億のドルと数千万トンの物資を扱うビジネスになっ
たのはごく最近の現象である。第二次大戦前には国境や海を越えての穀物の量が年間3000万トン以上になることはめった
になかった。1975年には、この数字はほぼ1億6000万トンに達した。これは石油貿易の伸びにはわずかに劣るが、驚異
的な増大ぶりである。かつては輸出国だったソ連やインドといった国々が、大輸入国となった。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ
の発展途上国もはじめて大規模に小麦を輸入し始めた。豊かな国々では国民はアメリカ式の食事を真似て、穀物飼料で
育てた牛、豚、鶏などの肉類を多く取りジャガイモやパンや米などの量を減らすようになった。家畜が世界の穀物の全生産量
のうち、人間とほぼ同僚を食べるようになった。穀物の「供給地」は他の基礎資源に比べるとそんなにあちこちにない。石油や
ボーキサイトや鉄鉱石の余剰生産を持つ国はかなりある。だが穀物の余剰生産国はほんの一握りで、合衆国は常にその一つ
である。農業の点では超大国はたった一つしかない
。アイオワは、地球上の全コーンの十分の一を産し、カンザスと南ダコタは
オーストラリア全土よりも多くの小麦を産する。
1972年 グレインロバリー 穀物奪取
アメリカの余剰生産物を国外に流出させ、穀物価格を1917年以来最高の高値につり上げた事件が起こった。この年、世界
各地が旱魃に見舞われたのである。だからソ連の買い入れがあろうとなかろうと物価は上昇しただろう。しかし、ソ連が買い付け
たという意外性と事の重要性が、バランスを覆した。穀物価格の上昇とともに、世界的な規模でパニックと売り惜しみ買いだめが
起こった。ソ連の買い付けは、1年後、OPECのカルテルにより石油価格が4倍に跳ね上がったことにも匹敵するほど影響が大
きかった。米国の穀物輸出は1971年の3400万トンから1975年に8200万トンに増え、77億ドルから213億ドルに
増え、この輸出で高価な外国の石油の埋め合わせがつけられた。一方、アメリカ人の食費はこの4年で540億ドル増え、過去
100年での最高の急上昇ぶりだった。
パンの普及と穀物貿易
世界の大国の中で、食糧不足を経験したのは、なにも、20世紀のソビエトや19世紀のイギリスが最初ではない。古代ローマ
や古代ギリシャも自給自足できなかった。帝国は、併合したり征服した領土、シチリア、スペイン、北アフリカ、ゴール、ブリタニ
ア、エジプト等から貢租として送られてくる穀物に依存していた。紀元前5世紀から4世紀にかけてのアテネも自国の食糧を、
しばしば輸入した。スパルタ軍は何度もアッティカに侵入し、小麦や大麦畑や果樹園、ぶどう園を破壊した。ソクラテスにとって
政治家としての適正を決定するものの一つは、アテネの人口を支えるのにどれだけの食糧が必要かということを心得ているかど
うかであった。それ以後何世紀もの間の穀物貿易は、いつでも買い入れ資金を用立てられる金融業者と物資を運ぶ船の持主
と商業冒険家に依存していた。ずっとのち、ヨーロッパ人工が増えるにつれて、地中海商人は飢饉のたびに穀物輸送に活躍し
た。14世紀にはフィレンツェの商人たちは、年間1万トンものシチリアの小麦を扱った。16世紀の末、イスカナが飢饉に見舞
われた時には、トスカナ、ベニス、ジェノヴァの大公たちが小艦隊を組織して、バルチック海や黒海地域から何万トンもの穀物
を運ばせた。17世紀末のヨーロッパで消費された穀物のうち、他国産の穀物は3%以下だった。パンは貴族や金持ちだけの
食物だった。1800年ころにはパン食にも民主化の傾向があらわれていた。製粉技術が進んで、外皮や籾殻なしの白い上質
粉が広く利用されるようになった。パンを食べることが出世と社会的地位の表象となった。一度パンの味を覚えると、容易に断
ち切れなくなる。政府は小麦を節約するために何度もパンの質を下げようと行政措置を取ったが、無駄であった。パン食が西
ヨーロッパですべての階層にまで及んだ時代が革命の時代でもあったことは決して偶然の一致ではない
。1789年のフランス
の暴動はパンが不足した都市で始まり、その結果パンの値段が引き下げられた。それゆえ小麦の供給が十分であることが社会
秩序と政治安定にとっての必要条件だった。
1848年シカゴ商人の扇動で創設されたシカゴ穀物取引所は、まもなくアメリカの自由企業のもっとも悪い要素、強欲、巨富
と破産、繁栄と不況の循環、腐敗の国際的なシンボルとなった。南北戦争中には思惑買いと市場操作がやたらに横行した。
取引所は1869年に取引を規制するルールを定めたが、あらゆる種類の不正行為が続いた。詐欺行為や電信オペレーターを
抱き込んで、信頼すべき情報を得ようとしたり(コードメッセージ導入以前は)、デマを流して価格を操作したり、があとを絶
たなかった。取引所を一歩出るとジャクソン通りやラサール通りでは賭博場もしくはノミ屋の溜り場と大差ないインチキ株屋の
店が大繁昌していた。
最初の大きな買占めは1888年に行われた。この年の5月政府の収穫報告が小麦の不足を予想し価格がいく分上がった。
B・P・ハチスン(「オールドハッチ」)は8月に9月の先物を買い始めた。ハチスンは9月にその小麦の大半を受け取り、代金
を支払った。そして12月の先物を買い始めた。中西部の穀物が不足で、ヨーロッパでも収穫が足りないことが次第に明らかに
なってくるにつれて9月22日から29日までの間に小麦価格は1ブッシェル1ドルから2ドルへと急騰した。
また1897年にはジョゼフ・ライター(28歳ハーバード出)が、シカゴトリビューンでさえ、「近代商業史上もっとも大がり
でセンセーショナルな」と表した離れ業をやってのけた。父からもらった100万ドルで小麦の先物買いを始めた。シカゴの価格
は着々と上がっていった。ライターは買い続け、売り手がこの小麦をシカゴへ持ち込む契約はどんどん膨れ上がった。これで危
うくなったのがフィリップ・アーマーという男だった。ライターに身の程を知らせてやることは、いまや金の問題ばかりでなく、
プライドの問題でもあった。アーマーはシカゴに大量に小麦を持ち込むように指示した。ちょうどダルースやカナダからの五大
湖ルートが氷結しはじめていたが、彼はダイナマイトで氷を砕いて、彼の船の水路を保持した。アーマーは自分の契約のすべて
果し、春小麦の価格は1ブッシェルあたい1ドル以下に下落した。ライターは春いっぱい何とか踏みこたえた。やがて小麦はま
た値上がりし始め1月90セントから5月には1ドル83セントになった。だがライターは欲張りすぎてここで利ざやを稼いで
手を引くことを拒否した。6月連邦政府は記録的な大豊作を予報した。小麦相場は暴落し、ライターの損害は1000万ドル
にのぼった。彼の父はシカゴの不動産を売り払ったり抵当に入れたりして、その穴埋めをした。
穀物取引は1920年にFTC(連邦商業委員会)の調査を受けた時も、飛び入り勝手のビジネスだった。FTCの調べで、
ルイドレファスとブンゲの子会社P・N・グレイ社とイギリスの会社のサンデー三社で全取引の30%を占め、残り70%を他
の33社はほぼ均等に分けていることが分かった
。2400年の昔、アテネ市場の冒険的商人の時代にそうだったように資本で
はなく信用が依然としてこのビジネスの基盤であった。既成の穀物会社に挑戦するのに金持ちである必要はなかった。穀物を
買い入れ得意先が見つかりさえすれば船積みと保険の契約を結ぶことができた。ニューヨークの輸出業者にとって、もっとも大
切なものは、情報伝達が行き届いていること、良いコネクションがあること、ヨーロッパ市場に通暁していること、であった。
 1929年10月までの状態だったが、この年、小麦市場の底が抜け落ちた。その後、穀物取引は二度と昔の姿には戻らな
かった
。投機家たちは先物小麦にどんどん金をつぎ込んでいた。小麦は暴騰した。暴落後、彼らは高い前金で買い込んだ小麦
を何万ブッシェルとなく抱え込む破目に陥った。不安と焦燥にかられた債権者たちはニューヨークの仲買人がヨーロッパのとく
い先から集金する前に、資金を取り立てた。この惨事で資本の少ない小規模の会社がいくつも抹消された
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