西にとって東はまずキリスト教を伝道すべき宗教上の処女地であった。つぎに、とくに産業革命以降は、東は西の商品を売り
捌く市場、茶葉など西にとって必要な商品の供給地として研究された。だが、東にとっては西はたんなる「夷狄の土地」にす
ぎなかった。何がしかの好奇心はあったろうが、西が東に対したような激しい信仰の情熱、あるいは飽くことを知らぬ利益追
求欲をもって東が西に目を向けたことはなかった
。東は西に対してはまったくの白紙に近い状態であった。この白紙が、西か
らの衝撃であるアヘン戦争によってむりやり染められたのである。
アヘン戦争の時代的背景
イギリスが遠征軍を送ったのは1840年、道光20年である。清朝の黄金時代は、この康煕、雍正、乾隆の三代、130
余年
であることに異論はないであろう。この三代は、康煕が蓄積し、雍正が維持し、乾隆が散じたといえる。新彊回族の乱、
台湾林爽文の乱、各地苗族の叛乱の鎮圧、チベット出兵、ビルマ遠征など、軍費は惜しみなく支出され、さらに空前の文化
事業である「四庫全書」8万巻の編纂の完成にも巨額の国費をつぎ込んだ。1799年、乾隆帝が死ぬと、乾隆時代の寵臣
であった和珅(ホシエン)が処刑された。没収された彼の家産は8億両を下らなかったという。当時、政府の歳入は7000
万両であった。一国の歳入の10年分以上を和珅はくすねていたわけである。彼は20年間、閣臣であった。このようなとん
でもない寵臣の出現を許したこと自体、乾隆の後半がすでに傾斜期に入っていたことを物語っている。乾隆に続く嘉慶帝の治
世25年はひたすらぼろ隠しに終始した。嘉慶25年のあと道光帝が即位すると積年の膿があちこちにふきあげてきた。
1757年の人口は1億9034万人であったが1830年は3億9478万余としている。人口は倍増し、この間、耕地面
積の増加は18%だけだった。人口だけが倍になったのだから、国民の生活苦が目立つようになった。人口の増加は乾隆の
「盛時」の産物であろうが、それを引き受けさせられたのは、道光の「衰世」であった。
> 人口の増加は「盛時」の産物。一般家庭にも同じことが言えるかもな。引き受けるのは「衰世」か・・・。
日本は徳川時代に鎖国を行った。キリシタン対策であるといわれている。清国も鎖国状態であったが、これは多分中華思想
に由来する。対清国貿易に熱心であった英国は、通商改善を交渉しようとしたが、清国政府は対外貿易などにはまったく関心
をもたなかった。わが天朝は、およそ無い物はないほど豊であるから、外国と通商して有無相通じる必要など、もともとない
のだ。そして外国は茶葉、陶器、生糸などの必需品がなく、それを求めて来航するのだから天朝は慈悲の精神で交易に応じて
いるのにすぎないとする考え方なのだ。
> 160年過ぎた1990年に入っても中国の通貨制度のあり方を見ていると、この「中華思想」のままだな。
茶は16世紀のはじめ、船員や伝道士によってヨーロッパに紹介され、貴重薬としてはかり売りなどしていたが、しだいに喫
茶の風習が一般に広まり、とくにイギリスでは19世紀にはいってから「ティータイム」が習慣化し茶の需要は急増した。茶
の供給源は中国にしかなかった。アッサムやセイロンで茶の栽培が始められたのは、後年のこと
である。だから金額にしても
おびただしい茶葉をイギリスは中国から輸入しなければならなかった。ところがそれに対して、イギリス側では適当な見返り
の輸出品がなかった。イギリス船はメキシコ・ドル、スペイン・ドルなどの銀貨を積んで広州へ行き、茶葉を積んで帰るとい
うことになった。清国は銀本位制である。「両」は重量の単位にすぎない。37.3125グラムである。清朝は銅銭の製造
については完全に国家独占政策を採ったのに、それを本位とする銀銭については、自由放任策をもってした。これは銅を統
制することで、武器製造をチェックできたからで、銀は武器製造の原料にならないので、私鋳を許し、外国貨幣の流通まで
認めたのである。茶葉を大量に輸出し、みるべき輸入品がないうちは銀は国内でだぶついていた。ところがとんでもない輸入
品が中国の市場に出現したのである。
 アヘンである。
インド製のアヘンの輸入が、清国の貿易形態を逆転してしまった。成功した。成功しすぎたのである。茶葉の輸出だけでは足
りず、銀がどんどん海外に流出していくのである。
政治の腐敗、人口の増加などで庶民の生活が苦しくなっており、アヘンはこの現世の苦しみをしばしのあいだ忘れさせてくれ
るという効能があった。これもアヘン流行の小さくない理由であろう。イギリスでも、当時マンチェスターあたりの工員が次々
とアヘン常用の習慣に陥ったといわれている。その原因は賃銀が低く、ビールやウイスキーが買えなかったからだという。酒
も人生苦を忘れさせてくれる。アヘンはその代用品であった。アヘンは当時きわまえて安い値段で入手できたのである。
中国におけるアヘン常用の蔓延は、衰世を狙われたといえる。もし活力溢れる盛時であれば、アヘンなど入り込めなかった
にちがいない。日本がアヘンの侵入を食い止めることができたのは、イギリスが大量のアヘンをインドで生産し、その売り込
みをはかった時期がちょうど幕末という民族の青春期
に当たっていたことも理由の一つに数えられるだろう。さらにアヘンが
東洋人の体質に合っていたことも忘れてはならない。憂き世のことを忘れるためには西洋人はやはりアルコールである。アル
コールは陽気で騒がしいが、アヘンは静かで受動的で瞑想的である。
> 賃銀が低く、 だって。賃金は駄目と。中国は銀本位制である。勝手に訛って変えるなという主張ですな。
【民族意識系】
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