われわれが設立したような国家のほかに、国家と呼ぶに値するものが何かあると思っているとはね。

おや、では何と呼ぶべきなのですか?

他の国々のためには、もっと大きな呼び名が必要だ。なぜなら、そのひとつひとつがそれ自身、たくさんの国々なのであって、けっして一つの国家ではないのだから。いかなる場合でも二つの互いに敵対する国が、そこにある。すなわち、貧乏な人々の国と金持ちの人々の国とがそれであり、さらにそのそれぞれのうちに、きわめてたくさんの国が含まれているのだ。もし君がそれらを全体として単一の国家のつもりで相手にするなら、たくさんの国々を相手にするつもりで、一方の側の人々の財貨と権力、あるいは身柄そのものを、他方の人々に与えるというやり方を取れば、君はつねにたくさんの味方と少数の敵をもつことになるだろう。

200年後の秦帝国、始皇帝と朝廷である。400年後のローマ帝国とジュリアス・シーザー。2400年後のEUである

国家の全体も自然に一つの国となって、けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ。あれやこれやと大変なことをたくさん彼らに命じているわけではなく、たった一つの大きなことを、大きさというより十分なことを守りさえすれば。

教育と養育のことだ。事実もし彼らがよく教育されて適正を知る人間となるならば、これらすべてのことや、さらには妻女の所有とか、結婚や子供を作ることといったような、我々がさしあたって省略して語らずにいる問題をも、容易に理解するだろう-これらすべては諺に言われるように、できるだけ「友のものは皆のもの」としなければならないとね。

後のマルクスである。所有と家族は社会的に何の合理性もない、というようなことはこの後も繰り返し出てくるので、都度、抜き出していく。

市場や都市や港に関する諸規定、あるいはその他これに類するいっさいのことなど-こういったことについて、我々はあえて何らかの立法を行うべきだろうか?立派で優れた人たちに、いちいち指図するには及ばないでしょう。そうしたことのうち、規定される必要のあるかぎりの法律の内容は、そのほとんどを彼らはきっと容易に自分で見出すでしょうからね。

後の資本主義、市場原理と自由競争である。

不節制な病人たちの生涯の過ごし方たるや、まことにご愛嬌ものだ。なぜって治療を受けながら何一つ効果を上げるわけでもなく、ただますます病気を複雑に大きくしていくだけで、それでいていつも、誰かある薬をすすめてくれる人があると、その薬で健康になれるだろうと期待し続けているのだからね。

後の米国、国民皆保険制度を認めない世論である。

単純にして適正な欲望、知性と正しい思惑に助けられ、思惟によって導かれる欲望はと言えば、君はそれを少数の、最も優れた素質と最も優れた教育を与えられた人々の中にしか、見出さないだろう。多数のつまらぬ人がいだく欲望が、それよりも数の少ない、より優れた人々の欲望と思慮の制御のもとに支配されているのを、君は目にするのではないかね。

プロレタリアートとブルジョワジー、消費する民と投資する資本家である。

各人は国におけるさまざまの仕事のうちで、その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を、一人が一人ずつ行わなければならないということ。そして、自分の事だけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ。

後のホッブス、個人主義である。

女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら、女たちにも同じことを教えなければならないわけだ。女子にも二つの術、音楽・文芸と体育、を課するほか、戦争に関する事柄も習わせ、そして男子と同じように扱わなければならないことになる。

2300年後の婦人参政権である。プラトン自身も他の箇所では「女は劣っている」とか書いていたので、すぐに理解されなかったのは無理もない。

あらゆることにおいて女性は男性に、ずっとひけをとると言って差し支えないでしょう。たしかに、色々の仕事にかけて、女が男よりも優れている例は数多くあります。しかし全体として見れば、あなたの言われる通りでしょう。

ね?