プラエトル軍の主力は兵営に待機して都内を警戒しその秩序を保っていた。それが通り過ぎると列になったネロの虎と獅子が見えた。ネロはディオニュソスを真似る気になると直ぐこれを旅行の車につけるためである。奴隷や少年の品の良い一隊が続き、最後に皇帝自身が近づいたことは遠くから民衆の叫声で知られた。その群集の中には、一生に一度は皇帝を見たいと思っている使徒のペテロも居た。その供をしたのは厚いヴェールに顔を隠しているリギアと、慎みのない厚顔ましい群衆の真中でこの少女のために最も確かな保護をするだけの力を持つウルススとである。
そこへ皇帝がやって来た。皇帝は黄金の金具のあるイドゥマヤ(パレスチナの南部死海の西に当る山地)産の白馬6頭に牽かせたテントの格好の車に乗っていた。テントの格好をしていると云っても、その車は両側がわざと開いて、群衆に皇帝が見えるようにしてあった。そこには幾人が乗れる場所があったが、ネロは人の注意が主として自分に集まるようにしたかったので、都内を通る時は一人だけで乗り、ただ足下に奇形の異人を二人置いた。着物は白いトゥニカに紫水晶色のトガを重ね、トガはその顔に青みがかった光を投げていた。頭には月桂冠を戴いた。ネアポリスに出掛けた頃から見ると著しく肥った。顔が幅が広くなり下顎は二重になって垂れているために、元来鼻に近すぎる唇は今では鼻の孔のすぐ下についているように見えた。太い顎はいつものように絹の布で巻き、それを絶えず直している白い脂ぎった手には、関節のところに赤みがかった毛が生えて、まるで血のしみのようになっていたが、そえをエピトラル(毛を抜く人)に抜かせなかったのは、そうすると指が慄えて琴が弾けなくなると言われたからである。顔にはいつものように涯しのない虚栄心と疲労や退屈と一緒になって現れていた。一般に言うとその顔は恐ろしいと同時に道化じみていた。
使徒ペテロは黙って思いに沈んで、自分が神の言葉を説くためにやってきたこの都の大きさと力を考えた。それまで自分が歩き廻った様々な地方でもローマの支配と軍団を見て来たが、それは今日初めて見た皇帝の姿のうちに具現されている力の個々の部分のようなものであった。測り知れない、奪い貪り且つ恣な、骨の髄まで腐っていながら超人間的な力の揺るがないこの都、兄弟を殺し母を殺し妻を殺して、その後から廷臣の数に劣らない血まみれの亡霊の行列を従えているこの皇帝、放蕩児と道化者でありながら300の軍団およびそれによって全世界を支配している君主、黄金と紅布に包まれていて明日も知れない身で諸方の王よりも権力のある廷臣-これらすべてを集めて見ると、ペテロには悪と罰を支配する地獄の王のように思われた。どうして神がわけのわからない全能を気違に授け、どうして大地を捏ねさえ変えさせ踏みつけさせ涙と血を旋風のように乱させ、嵐のように壊させ、焔のように燃やしたのか、単純な心の中で不思議に思った。「主よ、私をここへお遣わしになりましたが、この都に対して、何を始めましょう。海も陸もこの都のものです。地上も獣も水中の魚もこの都のものです。他の王国や街もそれを守っている300の軍団もこの都のものです。しかも私は、主よ、湖から来た漁師です。何を始めましょう。この都の悪に打ち勝つのにどうすればよいのです。こう話しながらその灰色の白髪の慄える頭を天の方に挙げて祈り、心の底から神なる主に呼び掛けて、悲しみと怖れに充たされた。
しかし突然その祈りはリギアの声で妨げられた。リギアは云った。「都中が焼けているようです。」実際その日の入日は不思議であった。大きな日輪は既にヤニクルムの丘(ティベリス河を距ててローマの西に当る丘)の上に半ば沈み、空には一面に赤い光が充ちていた。3人の立っている場所からは広々とした空間が見渡された。少し右手には大競馬場の長く延びる壁が見られ、その上にはパラティウム宮殿が聳え、すぐ眼の前のフォルムボアリウム(アエミリウス橋から南の広場)とヴェラブルム(その北東に当る通で、油屋とチーズを売る店が多かった)の間にはユピテルの神殿のあるカピトリウムの丘の頂が見えた。神殿の壁も柱も頂もその金と赤との輝きに浸っているようであった。遠くに見える河の部分は血を流したようで、日が次第に丘の後ろに沈むに従って、その輝きはますます赤くなり、火事の明るさに似て来て、大きくなって広がり、遂に7つの丘を包み、、そこからあたり全体に流れ込んだ。「都中焼けているようです」とリギアは繰り返した。ペテロは眼を手で覆って云った。「神の怒りがこの都の上にある。」
> ローマの大火、来ました。
「お前は私の考を言い表した。それだから私はいつも、ローマ全体でお前だけが私を理解することができると云っている。その通りだ。音楽についても同じ判断をする。私が楽器を奏でて歌を歌うと、私の帝国にも世界にも実際あるとは知らなかったようなものが見えてくる。その通り私は皇帝であって世界は私に属し、私はどんなことでも行える。しかも音楽は私に、それまで知らなかった新しい国々、新しい山と河、新しい快感を開いて見せる。大抵の場合、私はそれらに名を附けることもできないし、精神で把握することもできないが、私はただそれらを感ずる。私は神々を感じ、オリュンポスを見る。何か彼岸の風が私に吹いてくる。私はちょうど霧の中のように測り知られないが平静で朝日のように明らかな偉大なものを見る。私の周りでは天球全体が音楽を奏する。そうしてお前に話したいのは…(ここでネロの声は本当に感嘆に慄えた)私、つまり皇帝でもあり神でもある私が、そういう時に自分が、埃のように小さくなったと感ずることだ。お前はそれを信じてくれるかね。」
テルプノスとディオドロスとは、皇帝の伴奏をすることになっていたので、首を傾げて互いに見合わせたり、皇帝の口許を見たりしながら、歌の最初の音を待ち設けていた。この時次の間に人の動きと騒ぎが起こり、しばらくすると垂れ幕の後ろから皇帝の解放奴隷たちの間からファオンが首を出し、そのすぐ後にコンスルのレカニウスが現れた。ネロは眉をひそめた。「お許しください。神々しきインペラトル。」と息を切らせた声でファオンが云った。「ローマが火事です。都の大部分が燃えています…」 この知らせを聞くとみんなは急に席から立った。ネロはフォルミンクスを置いてこう云った。
「そうか。…燃えてる都が見られる。トロヤの歌を了えよう。」
それからコンスルの方を向いて、「すぐに出掛ければ火事を見るのに間に合うか。」「陛下」と壁のように青い顔をしたコンスルは答えた。「都中一面に焔の海です。煙に市民は窒息し、みんな気絶したり気が狂って火の中に飛び込んだりしています。…ローマは滅びます。」
ヴィニキウスはアルバヌムに向かって降るにつれて、ますます濃いますます見通しのつかない煙の中に乗り入れた。ここでさえもう呼吸が困難なのだからローマでは人々がどういう目に会っているか考えるだけで恐ろしかった。絶望がまたヴィニキウスを襲い、戦慄はその髪毛を逆立て始めた。「都全体が一度に燃え始めたということはありそうもない」と考えた。「風は北から吹いているから煙をこっちのほうばかりに送るのだ。反対の方向には煙は無い。河で距てられている向こう側は全く助かっているかもしれないし、いずれにしてもウルススはリギアと一緒にヤニクルス門を通り抜けて危険を免れることはできるだろう。それに住民が全部滅びて世界を支配している都が市民と一緒に土地の表面から拭い去られることもありそうもない。殺戮と戦火が一度に荒れ狂う征服された街々でさえ、幾人かの人はずっと生きながらえるのだから、どうしてリギアが必ず滅びなければならないと極まっていよう。」
リギアが自分の勧めに従っているとすれば、アウルスの家に移っているかもしれないということを思い出したのでこう聞いた。「ヴィクス パトリキウスは?」「火の中です」とユニウスは答えた。「では河向は?」ユニウスは驚いてその顔を見詰めた。「河向のことなんか。」と云いながら両手で痛むこめかみを抑えた。「私にはローマ全体よりも河向の方が大事なのです」とヴィニキウスはえらい勢で叫んだ。「あすこへはヴィアポルトゥエンシス(ティベリス河の右岸を河口のポルトゥス アウグスティに行く国道)からでなくては行けません。アヴェンティヌスの脇は焔で窒息します。…河向…私にはわからないな。火はまだあそこまで行っていなかったかもしれない。今もう行っているかどうか神々にしかわからない…。」ここでユニウスはしばらく躊躇していたが、とうとう声を低くしてこう云った。
「あなたは私を裏切らないと信ずるからあなたに云いましょう。これは当然の火事ではありません。競馬場を助けてはならないと云われていたのです。…私はちゃんと聞きました…周りの家が燃え始めると、、何千という声が「手を出すものは殺されるぞ」と叫んだのです。ある人々は町中を駆け回って家々に燃えている炬火を投げ込んでいました…また一方では人々が暴動を起こして町が焼けてるのは命令だと怒鳴っていました。それ以上の事は知りません。都も駄目だ、我々みんな私も駄目だ。あすこで行われていることは人間の舌では言い表せません。人間が火の中で滅びたり、混乱の中で殺しあったりしているのです。…ローマも終だ…」