平地には間もなくおびただしい数の群衆が集まった。角燈は目の届くかぎりまたたき会っていたが、そこへ来た者の多くはともしびをすっかり消していた。頭をあらわに見せている者はごくわずかで、すっぽり頭巾をかぶっている。終わりまでこのままだとすると、この群衆と暗さではリギアを見分けることはできそうもない。そう思うと若い貴族は気が気でなかった。しかし突然、地下墓地のすぐ近くに小高く積み上げた幾本かの樹脂のたいまつに火がともされて、あたりは前よりも明るくなった。群衆は何か不思議な聖歌を歌い始めた。歌声ははじめは低かったが、そのうちしだいに高くなっていった。ウィニキウスはいままで一度もこのような歌を聞いたことが無かった。墓地に来る途中で一緒になった人々がめいめい口ずさんでいた歌を聞いた時既にウィニキウスの心を打ったあの憧れが、今聞くこの聖歌の中にも響いていた。ただそれは前よりも遥かに力強く、はっきりしていて、あたり一面がこの人々ともに憧れはじめたかと思われるほど大きな、感動的な響きとなった。空に向けられた人々の顔はあたかも遥か高みの何者かを認めているようであり、両手はあたかもその何者かの降臨を求めているかのようであった。ウィニキウスは小アジアでも、エジプトでも、このローマでも、趣きの違う多くの神殿を見、多くの信仰を知り、多くの歌を聞いたが、歌によって神を呼び求める人々、それもある決まった儀式としてでなく、子供が父や母に対して抱くような純粋な憧れかrあ、心をむなしくして紙を呼び求める人々を見るのがこれがはじめてであった。
ウィニキウスは、その心はリギアに占められ、その注意は群衆の中からリギアを見つけ出すことに向けられていたとはいえ、自分の周りで行われている不思議な、異常な事柄を見ずにいることはできなかった。そのうちに、たいまつがさらに幾本か焚火に投げ込まれ、あかあかと墓地を照らし出して角燈の光を奪った。その瞬間、地下墓地の中から、頭巾付きのマントを着た、けれども頭はあらわに見せている一人の老人が出てきて、薪の山の側にある意思の上にのぼった。群衆はその姿を見るとどよめいた。ウィニキウスの周りで「ペテロだ!ペテロだ!…」とささやく声が聞こえた。キロンはウィニキウスの方に身をかがめてささやいた。「あの人です!キリストの一番弟子の漁夫です!」
> 「おおっペトロか!」読んでる俺が感動しちまったよw
老人は手を上げ、十字を切って一同を祝福した。一同はいっせいにひざまずいた。ウィニキウスの従者もウィニキウス自身もけどられないように、一同にならってひざまずいた。青年は自分の受けた印象をすぐにまとめることができなかった。それもそのはずで自分が目前に見ている人物は酷く素朴でしかも異常であり、さらにまたその異常さはまさしく素朴であるが故の異常さであるように、彼には思われたのである。老人は頭に法冠をいただくでもなく、こめかみにカシの葉の環をかざるでもなく、手にしゅろの枝を持つでもなく、胸に黄金の札をかけるでもなく、星をちりばめた衣や白い衣をまとうでもなく、要するに東方やエジプトやギリシアの祭司やローマの神官が身につけるようなしるしは何一つ身につけていなかった。この《漁夫》は礼拝式に精通している大司祭といったところは少しもなく、ただ自ら見もし触れもした真理、自明のことを信ずるように信じている真理、そしてまた信ずるがゆえにこそ愛するようになったその真理を解くために遠くからやってきた、素朴な、年老いた、しかし世にも気高い証人のようであった。だから彼の顔には真理そのものが持っているような人を説得する力があった。
しかしこの青年が一番驚いたのは、老人が次のように説き始めた時であった。神はまた完全な愛である。それゆえ人を愛する者は、神の最高の命令を果たしているのである。しかし自分と同じ民族の人を愛するだけではまだ足りない。人となった神は人類全体のために血を流され、異教徒の間にも、百人長コルネリウスのような選ばれた弟子を見出されたからである。さらにまた我々に親切にしてくれる人を愛するだけではまだ足りない。キリストは自分の死の手に渡したユダヤ人や、自分を十字架にかけたローマの兵士をもお許しになった。だから我々に不正を働くものを許すばかりでなく、その者を愛し、悪にも善をもって報いなければならない。善人を愛するだけでは足りない。悪人をも愛さなければならない。愛によってのみ悪人から悪を取り除くことができるからである。これを聞くとキロンは、自分の仕事は失敗だった、ウルススは今夜と言わず、他のどんな夜にもあえてグラウコスを殺さないだろうと思った。しかしそのすぐ後、老人の教えから引き出したもう一つの結論、つまりグラウコスもまた、例え自分を発見し見破ったとしても自分を殺さないだろう、という結論が彼を安心させた。
「御前様、あそこに、あの老人の近くにウルバヌスがいて、そのわきに娘さんが一人見えますよ」
ウィニキウスが夢から覚めたようにはっと気を取り直して、ギリシア人の指差した方向を振り向くと、そこにリギアがいた。彼は一刻も早くリギアのあとをつけて、途中でなり家でなり彼女をつかまえたかった。ついにいくたりかが帰途につきはじめた。「御前様、門の前に出てはいかがでしょう。私たちが頭巾を脱がなかったのでみんながこちらを見ております」 なるほどその通りであった。使徒が話している間、一同はよく聞こえるように頭巾を脱いだのに、彼らだけは一同の例に従わなかったのだ。したがってキロンの勧めはしごく当を得ていた。門のところに立っていれば、出てくる者を一人一人観察することができる。ことにウルススはその背格好から言ってすぐに見分けがつくはずである。
キロン「入った家を見届けた上で、明日、いや今日のうちに奴隷をやって、家の入口を全部取り囲んで、姫君をお連れになればよろしゅうございましょう」
ウィニキウス「それではだめだ!家まで後をつけて行ってすぐに捕まえるのだ。クロトン、お前はそれを引き受けただろうが」
クロトン「もし私が姫君を護衛している水牛のような男の腰骨をへし折ることができないようでしたら、お宅の奴隷にして下すって結構です」
しかしキロンはそうしないようにすすめ、あらゆる神々の名を引き合いに出して、ぜひとも思いとどまるようにと懇願した。
背の低い老人と、ウルススとリギアとはおもてが二軒の店になっている家屋の入口に入っていった。店は一軒はオリーブ屋、一軒は鳥屋であった。ウィニキウスはキロンに言った「この家に別の通りに面した入り口がもう一つないか見て来い」キロンはさっきまで足が痛いと言っていたのに踝にメリクリウスの羽でもはえたように勢いよく飛び出していったかと思うと、すぐまた戻ってきた。「出口は一つしかございません」
クロトン「私が先に入りましょう!」
ウィニキウス「いや、俺の後からついてこい」
ウィニキウスは入り口に入った時、計画の実行が極めて困難なことをはじめてさとった。何階もあるこの家はローマで家賃目当てで何千となく建てられている家の一つであった。この種の家は、たいてい急ごしらえの粗末な作りであるから、あるものは一年と経たないうちに借家人の頭の上へ崩れ落ちてくる。ハチの巣そっくりで、むやみに高く、むやみに狭く、奥まった小部屋がたくさんあって、その中に貧乏人ばかり、しかも非常にたくさん巣食っている。ウィニキウスとクロトンとは、廊下のように長い入り口を通って、四方を建物に囲まれた狭い中庭に出た。けれども彼はキロンの勧めの方が実際的だったかもしれないと考えていた。奴隷の2,30人も連れていればたった一つの出口らしいあの門を包囲させたうえで、住居を一軒一軒探索できる。ところがこのままだといっぺんでリギアの住居を突き止めねばならない。さもないとこの家に居るに違いないキリスト教徒が、こちらで探していることをリギアに教える恐れがある。かげから手に篩を下げた男が一人出てきて噴水のそばへ行った。青年は一目でそれがウルススだとわかった。
「あれがリギ人だ!」ウィニキウスはささやいた。
「すぐに骨を叩き折ってやりましょうか」
「待て」
ウルススは小屋に入りかけたが、かすかな足音に気がついて足をとめた。2人の姿を認めると彼は篩を手すりの上に置いてこちらを向いた。
「ここで何を探しておいでですか」
「お前だ!」ウィニキウスは答えた。それからクロトンの方を向いて素早い小さい声で叫んだ「やれ!」
クロトンは虎のように突進した。そしてリギ人に気を取り直したり敵が誰であるかを見定めたりする隙を与えず、たちまち鋼鉄のような両腕で彼を捕えた。ウィニキウスはクロトンの超人的な力を信用しきっていたので、格闘の終わるまで待たず、二人の横を走り抜けて小屋の入口へ飛んでいった。扉を押し開くと、そこは薄暗い部屋になっていたがが、暖炉に燃える火が辺りを明るくしていた。焔の光がリギアの顔をまともに照らしていた。火の前に座っているもう一人の男はオストリアムヌから娘やウルススと一緒に帰った老人であった。ウィニキウスはいきなり飛び込んでいって、リギアが彼だと気がつく暇もないうちに腰のあたりを抱きかかえて持ち上げ、また扉の方へ引き返した。老人がさえぎろうとしたが、彼は娘を片腕で胸に押しつけたまま、あいたほうの腕で老人を突き飛ばした。
庭でウルススが両腕に一人の男を抱えていた。男は後ろにのけぞって、頭をぐたりと垂れ、口から血を流していた。ウルススは二人を見ると、もう一度その男の頭を拳でなぐりつけるなりあっという間に荒れ狂う野獣のようにウィニキウスに躍りかかった。「俺は死ぬ!」という考えが若い貴族の頭にひらめいた。それから彼は「殺さないで!」というリギアの叫びを夢うつつで聞いた。
キロンは路地の角の家に隠れてどうなる事かと待ちかまえていた。ウルバヌスはもうこわくなかった。クロトンが彼を殺してくれるという確信があったからである。突然、残り少ないキロンの頭髪が一斉に逆立った。入り口の扉の所にぐたりとなったクロトンの体を肩にかけたウルススが姿を現したのだ。「見つかったらあの世行きだ!」彼は思った。恐怖のあまり歯ががたがた鳴ったが、その素早さは彼が若者だったとしても人を驚かすにたりたろう。
彼は夕方になってやっと目が覚めた。というよりはむしろ女奴隷に起こされた。彼女は誰かが訪ねてきて急用でぜひお会いしたいと言っているから起きてくださいと言ったのである。警戒心の強いキロンはその瞬間すぐ我に返って、手早く頭巾付きのマントを羽織ると、女奴隷に脇へどくように命じてからまず用心深く外を伺った。そして肝をつぶいた。寝室の戸口にウルススの巨大な姿が見えたからである。
「キロン・キロニデス。ご主人のウィニキウスがお呼びです。あなたをお連れして来いと申し使ってまいりました」