カンカン踊り
拘置所の建物に入ると、関所のようなところがあった。そこで財布、鍵、時計などの所持品は、「領置する」(拘置所で預かる)と取り上げられた。丸裸にされて、10人ほどの看守が見ているところを歩かされた。その後、四つんばいの姿勢にされた。そして突然肛門にガラスの棒を突っ込まれて、棒を前後に動かされた。大変な不快感と痛み。大勢の看守が見ている中、言葉にできない屈辱感。私は人権侵害だと思った。後に弁護士に聞いたところ、「それは俗に”カンカン踊り”と呼ばれていて、昔から行われている拘置所に入る際の”儀式”なんですよ。私の依頼人でも、『先生、頑張ってきますよ』と言って逮捕された人が”カンカン踊り”でショックを受けて、その後接見に行くと別人のように落ち込んでいることがあります。表向きは痔の検査と説明されていますが、昔から人道上問題があると言われていて、弁護士会でも問題にしているところです」と言われた。
『刑事裁判の光と陰』の裏表紙には「日本の刑事裁判の有罪率は99.86%に達する。まさしくジャパン・アズ・ナンバーワンであり、我が国刑事司法の光である。しかし、死刑囚の再審無罪の事例にも見られるように刑事司法には陰の部分も存在している。そしてその多くは十分に社会に報道されていない。本書は元裁判官と弁護士による、刑事裁判に潜む陰の部分に光を当てた現状報告書である」と書かれている。本文では4つのケースを紹介しているが、そのなかでとくに私の印象に残っているのが特捜事件の「芸大バイオリン事件」で「壁に向って長いこと立たされた」「大声で怒鳴られたり、人格を侮辱する発言を受けた」「椅子を突然足で蹴り付けられ、椅子から床に落ちて尻餅をつかされた」など、取り調べの様子が事細かに書かれている。
この事件は著名なバイオリニストで東京藝術大学教授の海野義雄氏が芸大でバイオリンを購入するにあたっての鑑定で、演奏家としてバイオリンの名器ガダニーニを弾き、購入決定後に楽器商から時価80万円相当の弓一本を謝礼として受け取ったことと、芸大生のバイオリン購入に際し、演奏した謝礼として楽器商から100万円受け取ったことが「賄賂」とされたもので、当時朝日新聞で大きく報道されて事件になったものである。ガダニーニは良いもので1億円以上する名器である。バイオリンは手作りで250年ほど前に作られたもの。その間の保存状態、誰が演奏したのかによって価値が変わる。そしてその価値は、演奏してみなければ分からない。文部省は芸大に第一級の演奏家を教授として招聘することを特例として認めている。海野氏が演奏家として演奏し鑑定したのであれば無罪、芸大教授の地位を利用して演奏し鑑定料を受取ったのであれば有罪というケースであった。このような事件では本人の”賄賂性の認識”が有・無罪の決め手になる。そのため検察側は海野氏が受取ったものが謝礼であったと認識していたことを調書で明らかにしなければならない。このため強引な取調べが行われたのだろう。
イ)取調室内において、再三にわたり大声で怒鳴られたり、人格を侮辱する発言を受けた。
ロ)取調の際検察官の意に反する供述をすると、甲検察官は突然書類を机上に叩き付けたり定規で机上を叩いたりした。指に怪我するのではないかと恐れて私は手をひっこめた。
ハ)ボールペンを私の眼前まで近付け振り回すなどし、逃れようとする私の後頭部を甲検察官が手で押さえてボールペンを瞳近くまで突きつけた。
ニ)私が腰掛けていたスチールパイプ製の簡易な椅子を突然足で蹴りつけられた。そのため私は椅子から床に落ちて尻餅をつかされたこともあった。
ホ)取調室の壁に向わせて顔が壁につくほどに接近させて直立させられそのまま立っているように命じられた。
(中略)
チ)取調の際の恐怖心と夜遅くまでの問う時間の取調べによる疲労のため、房に戻されてからも寝付かれず、睡眠不足状態となった。
リ)乙検察官に交代してからも夜間に及ぶ取調べが続き、不安、動揺と疲労の蓄積のため作成される調書に対する吟味を十分に行うことができない状態に陥っていた。
私は保釈後、ある楽器商と話したとき、この件について聞く機会があった。「カダニーニは18世紀の人。弟子の作品かもしれません。もしかして贋作かもしれません。素人ではその良し悪しが分からないから著名な演奏家が弾いて鑑定するのが管弦楽売買の常識で、バイオリニストなら誰でも知っています。この件は華々しい活躍をされている海野先生に対する芸大教授のリークのようですよ。海野先生には本当にお気の毒な事件でした」との話だった。
余談になるが拘置所ではどんなものを食べているのか、ここで少々触れておきたい。本書を書くに当たっていくつかの書物を読んだ。面識はないが、東大新聞の5年先輩である前国立極地研究所所長の島村英紀氏の『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。』(講談社)には、札幌拘置所の食事について詳しく書かれている。それによれば東京拘置所のメニューとは異なるものの、札幌拘置所の食事もよかったようだ。私は房内ノートに食事のことはほとんど記録していなかったので正確ではないが、記憶を頼りに、当時に東京拘置所のメニューの中から印象に残っているものをいくつか紹介したい。まず、土曜日の朝食はたいていパン食だった。温かいコッペパン、紙パック入りの牛乳、バターとジャムといったメニューが定番で、私の普段の朝食のメニューとほぼ同じだった。昼食は温かい麦飯にラーメン。量は十分。夕食にはよく具だくさんの豚汁が出た。私は関西人で薄味を好む。蕎麦は蕎麦湯をもらってつゆに入れ、薄くして食べていた。ラーメンも白湯で薄めて食べていた。拘置所の食事は濃過ぎて塩辛いのにはいささか閉口していた。最初の頃は時間がなくて十分に食事が取れなかったが、カラ下げの際「まだです」と言うと時間が延長されることを知ってから、ラーメンや豚汁に水を入れて食べるようにしていた。私の好物の秋刀魚の塩焼きや鮭の切り身の塩焼きもしばしば出された。いずれも温かくて美味しかった。また、麻婆豆腐やカレーも出た。カレーは香ばしくて美味しかった。週に一回程度はデザートして汁粉がつく。弁護士から拘置所は酒が飲めないため、代わりに甘いものを欲しがる人が多いと聞いたが、拘置所の汁粉はとても甘くて美味しかった。朝食には生卵か納豆がよく出た。卵かけご飯は私の好物である。温かい麦飯に生卵をかけ、醤油代わりにわかめの味噌汁を入れて混ぜて食べると、結構な味であった。私の弁護士の石田省三郎弁護士と小野正典弁護士はロッキード事件も担当したが、両弁護士の話では田中角栄元総理が逮捕されたその日から拘置所の食費の予算が大幅に増えたそうだ。
さすが角栄w しかし拘置所の食事が塩辛いのは、東京と関西ではなく、底辺と上流階級の味覚の違いです。博多の漫画喫茶に初めて泊まった時、そこのメニューが下品なまでに濃い味、こってり系のオンパレードだった。
リクルート大阪支社の顧問弁護士の笹川俊彦先生が接見にみえた。先生は「肉体労働者や暴力団組員などは長期拘留でも耐えられるけど、江副さんのような神経を使っている人は長期拘留されると元に戻るのに随分時間がかかる。新聞で見る限り罪にされても大した罪ではない。おそらく執行猶予や。江副さんの弁護士は人権派のようだが、事実に反する調書に署名したらあかんというかもしれへんが、結果はたいてい同じで、後で虚しい思いをするだけや。ここは検察官が作る調書に署名して早期保釈を受けたほうがええ。あんまり頑張りなさんな」と言われた。ロッキード事件では田中角栄元総理の調書は一通も無かったが、自殺した運転手や丸紅の檜山廣社長、田中元総理の秘書の榎本敏夫氏らの調書で実刑になったことを私は知っていた。私の場合も、私自身の調書がなくても有罪になるかもしれない。結局、3月4日、位田逮捕への恐怖感から抵抗できなくなり、検事作成の調書に署名した。それを受け、式場さんと長谷川さんへの贈賄罪で起訴されることになった。
やっぱり角栄。検察の脅しにも屈せずか。角栄だけではなく政治家の先生方、肝っ玉座った人多いらしいが。
リクルート事件・江副浩正の真実 江副浩正 中央公論新社 2009-10-23 |
【角栄伝説】
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