ペトロニウス「いったいその女は砂の上に何を書いたのかね。アモルの名ではないのか。アモルの矢のささった心臓ではないのか。それともそれを見ればサテュロスどもがそのニンフの耳にもういろんな秘密をささやいたことがわかる何かのしるしではないのか。まさかそのしるしを見なかったわけではあるまいな。」
ウィキニウス「そのしるしはよく見ておきました。ギリシアでもローマでも、娘たちが口にはしたくない告白をよく砂の上に書くことぐらいは、わたしにだって、わかっていますからね・・・。」
ペトロニウス「さっき言ったのと違うものだとすれば、俺には見当もつかないな」
ウィキニウス「魚です」
> ローマから見た新興宗教としてのキリスト教観を知りたいと思って読んでみた。クオ・ヴァディスの物語の骨子に焦点が当たっていないため多少抜粋が読みにくいと思われるが、キリスト教勃興時の様子を記述した部分だけを抜き出していると思ってくれて良い。ローマの宮廷内のアグリッピナの謀略という週刊誌的ゴシップを期待してこの本を買ったのだが、残念ながらアグリッピナは既に死んでいるところから物語は始まる。
登場人物
ウィニキウス:主人公。リギアに恋する青年
ペトロニウス:ウィキニウスの叔父。ネロの側近
リギア:リギ族の女。無用の人質としてローマにいるキリスト教徒。
アウルス・プラウティウス:リギアの養父。元将軍。
ポンポニア・グラエキナ:リギアの養母。キリスト教徒。
リギア・イメージ図
Elizaveta-Boyarskaya-68_c.jpg
私が好きなElizaveta Boyarskayaですが、ロシア・ポーランド系。リギアが、スラブ系ポーランドのリギ(ルギイ)族ってーとこんな感じの顔してたんでしょうかね?


ペトロニウスはポンポニアにこう言った。「あなた方の世界は、我々のネロが支配している世界とは随分違いますね。今私は心の中でそのことをあれこれと考えていたのです」
ポンポニア「世界を支配しておられるのはネロではありません-神様でございます。私の信仰しておりますのは、単一、正義、全能にまします神様でございます」
ペトロニウス「もしあの女の信ずる神が全能なら、その神は生と死とを支配しているはずだ。またもし正義の神なら、その神の下す死は正義にかなってるはずだ。だとすれば、なぜポンポニアはユリアのために喪服を着ているのだ。ユリアの死を歎くのは、とりもなおさず自分の神を非難することじゃないか。この論理は、ぜひとも赤髭のえて公にもきかせてやらなくてはならん。なにしろ俺は弁証法にかけてはソクラテスにもひけをとらないだけの自信があるからな。それから女のことだが、女は魂を3つも4つも持っているという説には俺も同感だ。しかし論理的な魂を持った女は一人も居ないね。」
ウィニキウス「前にもあの女が欲しかったのですが、今は前よりもっと欲しくなりました。あの女の手を取った時は焔に包まれたような気がしました。」
ペトロニウス「落ち着け。執政官の子孫ともあろう者がそう血迷ってはいかん。まあ、辛抱することだな。待て。どうやらいい手立てが浮かんだようだ。そうだ!この方法なら間違いないと思う。」
はたせるかな、ペトロニウスは約束をたがえなかった。彼は昼間はずっと寝ていたが、夕方になると籠を命じてパラティウム宮へ行き、ネロと密談を交わした。その結果、次の日には、10数名の親衛軍兵士を率いた百人長がプラウティウスの邸の前に現われた。不安と恐怖に満ちたこの時代には、この種の使者はたいていの場合死の告知者でもあった。百人長がアウルス家の扉を槌で叩き、アトリウムの番人が入り口の間に兵士が来ておりますと報告するや否や、驚愕が家全体を襲った。
百人長ハスタ「皇帝はあなたの家にリギ族の王の娘がいることを聞かれました。この娘はクラウディウス帝がいまだ御存命であられました時分にリギ族は帝国の国境をけっして侵さぬという保証として、かの王がローマ軍の手に引き渡したものであります。閣下、陛下はあなたがこの娘に与えられた多年の厚遇に感謝しておられますが、これ以上あなたの家に負担をかけることを望まれず、またその娘は人質である以上、当然皇帝ご自身と元老院の庇護のもとにおくべきものと思し召されて、その娘を私の手に引き渡すよう命令されたのであります」
アクテは香油を塗ったり身仕舞いさせたりするためにリギアを自分の香油室に連れていった。アクテは男女の名をいくつも挙げてはそれに短い、時には恐ろしい物語をつけ加え、リギアを恐怖させ、驚嘆させ、驚愕させた。それは彼女にとっては不思議な世界であり、その美しさは彼女の目を喜ばせたが、その中に含まれる様々な矛盾は彼女の幼い頭では理解することができなかった。空の夕焼けや遠方はおぼろに霞んで見えないどっしりとした円柱の列や、彫像にも似た人々には、ある大きなやすらぎが感ぜられ、あのまっすぐにそそり立つ大理石の間に暮らしているのは不安も苦労も知らない幸福な神々のような人たちであろうと思われるのに、アクテの低い声が一つまた一つと明かしてくれるのは、この宮廷やこの人たちのそれぞれに違う恐ろしい秘密ばかりなのだ。
あの遠くの側廊の円柱と床には今も赤い血の斑点がついているが、あれはカッシウス・カエレア(カリグラ帝、在位37~41、の暗殺に主導的役割を演じた親衛軍の軍団将校)の探検に倒れたカリグラ帝が白い大理石の上に注いだものだ。あそこでは彼の妻が惨殺された。あそこでは彼の子供が石の上に投げつけられて死んだ。あの回廊の下には地下牢があって、そこで小ドルゥスス(ゲルマニクスの息子。紀元33年投獄されて死んだ)が空腹のあまり自分の手を齧った。あそこでは大ドルゥスス(ティベリウスの息子。紀元23年妻に毒殺された)が毒殺された。あそこではゲメルス(大ドルゥススの息子。カリグラ帝に殺された)が恐怖に悶えた。あそこではクラウディウスが、またあそこはゲルマニクス(ネロに毒殺されたブリタンニクス)がのたうちまわったところだ。壁という壁が断末魔の叫びや呻き声を聞いているのだ。
アクテ「皇帝があなたがたをごらんになっておられます」
ウィニキウス「アクテ、宴会であなたが皇帝の側に席を占めたのは昔のことです。あなたは目が見えなくなりそうだという噂ではありませんか。それでどうして皇帝が見えるのです」
アクテはさも悲しげに答えた「でも私には見えます…。皇帝も目が近くていらっしゃいますから、エメラルドの玉であなた方をごらんになっておられます」
ネロのすることは何でも、その側近の人々にさえ警戒心を引き起こさずにはいなかったから、ウィニキウスも不安を感じたが、すぐに気を取り直して、そっと皇帝の居る辺りをうかがい始めた。リギアは宴会が始まる頃、気が転倒して、まるで霧を透かして見るようにして皇帝を見ただけで、その後はウィニキウスがそばにいて話しかけるのに気を取られて少しもそちらを見ずにいたが、このときは好奇心と恐怖の色を浮かべてやはり皇帝の方に目を向けた。アクテの言った通りであった。皇帝は食卓に寄りかかったまま、片目を閉じてもう一つの目が彼が平生用いる丸いよくみがいたエメラルドの玉をあてて2人の方を見ていた。彼の視線は一瞬リギアの目とであった。少女の胸は恐怖に締めつけられた。彼女は今まで一度も彼を見たことが無いが、これとは違った人のように思っていた。怒りがそのまま化石してできたような、何かものすごい顔を想像していたのに、いま目にしているのは太い猪首の上にのった大きな顔で、恐ろしいには違いないが、遠くから見ると子供の頭のようで、滑稽な感じさえするではないか。並の人間には禁じてある紫水晶色の肌着(トウニカ)が幅の広い寸のつまった顔に薄青く反射している。髪は暗色で、オトがはじめた流行にならって四すじの捲き毛にしてちぢらせてある。髭を生やしていないのは最近ユピテルに献じたからで、この時はローマ全市が感謝の意を表明したが、彼が髭をささげたのは、あの一族は皆そうだが、彼も髭が赤みを帯びてきたためだという。眉の上にひどく突き出ている額にはそれでもまだどことなく王者の趣が見え、またくっつきあった眉には全能者の意識が出ているが、半神のこの額の下についているのはサルか酔いどれか喜劇役者の顔、うつろな、気紛れな情欲をむき出しにした、まだ若いのに脂肪の浮いた、そのくせ不健康な、いやらしい顔である。
> 随分だな…。
皇帝はペトロニウスの方を向いて言った。「あれがウィニキウスの惚れている人質の女か」
ペトロニウス「さようでございます」
ネロ「出身は何族かね」
ペトロニウス「リギ族でございます」
ネロ「ウィニキウスはあれを美人だと思っているのか」
ペトロニウス「くさったオリーブの幹に女の着る上衣を着せてごらんなさいまし。ウィニキウスならそれでも美人だと申すでしょう。あれはあまりに痩せております!」
ネロ「なるほどあの女は腰のまわりがちと細すぎるな」
ペトロニウスの唇にはあるかなきかの微笑が浮かんだ。