宋家三姉妹は、靄齢(アイレイ)、慶齢(ケイレイ)、美齢(ビレイ)という日本語読みに何の意味があるのかわからないが便宜的に日本人はそう呼んでいるようだ。1897年に3人目の美齢が生まれたが、それから半世紀、中国の激動を生き抜いた3人の姉妹はその際立った個性によって人々に記憶されることになる。「昔、中国に三人の姉妹がいた。ひとりは金を愛し、ひとりは権力を愛し、ひとりは中国を愛した・・・」
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姉妹の父、宋耀如(Song Yaoru)
1863年、海南島の商人の家に生まれた。一族の多くはアメリカに渡り、東海岸の都市の片隅で中国産の品々を商う華僑となっていた。耀如も9歳の時アメリカに渡って中国産の茶と絹の商取引の複雑な実務を3年間、13歳の頃、耀如はボストン港から南部に向かって脱走、船員に捕らえられるが、船長のチャールズ・ジョーンズの計らいでキリスト教の教えを受けた。1886年、耀如は上海に帰国し、南メソジスト教会の牧師として伝道に努めた。三男三女に恵まれ、このころから伝道よりも企業経営に傾いていった。製粉・製麺工場に投資、聖書の印刷・出版で成功を収め、財閥への道を駆け上がっていく。幼い姉妹たちの前に父と同年配の男が現れた。男は中国の現状を憂い変革の必要性を熱っぽく説いた。宋家を中国の政治と革命のるつぼに引き込むことになる男孫文である。
宋家の子供たちは全員アメリカに留学していた。ある日、教授が靄齢を呼び止め、君も立派なアメリカ市民になったと彼女をほめた。すると靄齢はクラスメイトの面前で、「私はアメリカ人ではなく中国人であり、それを誇りに思っている」と激しい口調で反論した。3人の中でも慶齢はつねに中国の政治情勢に関心を寄せていた。父の手紙は最新の中国の動きを伝え、彼女は早くから孫文の思想や中国革命の前途に思いをめぐらせてえいた。1911年10月の辛亥革命の成功を知らせる手紙を受け取った時、慶齢は椅子に上って壁にかけてあった清朝の龍の国旗を引き剥がし、父が送ってくれた共和国の新しい五色の旗を掲げた。驚いて見守るクラスメートたちの前で、龍の旗を踏みつけると彼女は叫んだ。
「龍よ去れ、共和国旗を掲げよ!」
かっこいいねー。「龍よ去れ、共和国旗を掲げよ」なんて台詞言える女・・・現実世界で、見たことないなぁ。俺は非現実の世界に逃避している?ちなみにやぶられて踏みつけられた龍の国旗と彼女が掲げた共和国旗。いやー、いずれも現在の中国と違いまちゅね。俺が生きている間に少なくとも1回は中国の国旗が変わることになるだろうと予言する。
China_Qing_Dynasty_Flag_1889.pngthe_Republic_of_China_1912-1928.png
1912年1月、孫文は南京で中華民国の臨時大統領に就任した。三世紀にわたった清朝の支配はここに終止符を打たれた。アジアで最初の共和国が誕生したのである。孫文が掲げる三民主義とは、満州異民族支配の妥当を目指す「民族」、君主制を妥当した民主制を目指す「民主」、富の公平な分配を目指す「民」からなっていた。盛大な歓呼の声で迎えられる孫文のかたわらには宋耀如と靄齢の姿もあった。靄齢は父の勧めで孫文の秘書となっていた。
慶齢の結婚 孫文49歳、慶齢22歳
「恋愛ではありませんでした。遠くからの英雄崇拝でした。彼のために働いたのはロマンティックな娘の考えでした。でもそれは良い考えでした。私は中国を救うのを助けたかったのです。孫博士はそれができるただ一人の人でした。」
靄齢の結婚 孔祥熙は孔子直系の子孫を名乗る財閥の御曹司。
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