前3000年紀から前500年頃の近東地域が古代オリエントと呼ばれている。この地域は現在わかっている限りでは人類最初の高度な文明の発祥の地であり、様々な神話が残されている。なかでもヒッタイト人のクマルビ神話はウラノスからクロノスを経てゼウスへと移り行くギリシアの王位簒奪神話と非常によく似ている。ヒッタイトは小アジアのアナトリア高原で前2000年紀に栄えた民族で、その言葉はインド=ヨーロッパ語族の中で最も古い言語である。ヒッタイトの神話は、現在のシリア北部にミタンニ王国を築いていたフリ人という民族の神話から多くの影響を受けた。クマルビ神話もヒッタイト語で伝わっているが、その昔はフリ人の神話であった。クマルビ神話と総称されるものは二種類の粘土板文書からなる。「天上の覇権」と「ウルリクムミの歌」という物語である。オリエントとギリシア神話には明白な共通点がある。戦いという暴力的な方法で前の世代から権力を奪う点だけではない。世代ごとにも対応関係が見出され、第一世代として対応するのはアヌとウラヌスで、どちらも「天」を意味する。次にクマルビとクロノスが対応する。クマルビがアヌの精液を飲み込んだように、クロノスも自分の子供たちを呑みこんだ。クマルビがアヌを去勢し、性器の一部から神が生まれるという点は、クロノスが鎌で切り取った父親ウラノスの陰部が海に落ちてアプロディテが誕生するのと酷似している。そしてヒッタイトの神話で最終的な勝利者になった天候神には、ゼウスが対応する。天候神と同じようにゼウスも雨を降らせ、雷を轟かせて天候を支配する神である。天候神もやはり新しく生まれたウルリクムミを破らなければならなかった。二つの地域で神話が似ている場合、独立発生説と伝播説がある。ギリシアと近東の間には非常に早い時期から交流があった。前14世紀から13世紀ごろに接触し、前850年もしくは前800年以降にも交流があった。神統記に記したヘシオドスが生きていたのはおそらく前750年ごろから前680年ごろであろうと推測される。ギリシアの王位簒奪神話がオリエントのそれと最も大きく異なるのはガイア(大地)が何度も現れる点にある。農耕民族であったギリシア人にとって、大地がきわめて大きな意味を担っていたからと思われる。
パンドラの箱
多くの予期せぬ問題を作り出すもの、あるいは、災いが生じないように封印しておくべきものというような意味で使われる。この成句は、人類最初の女性であるパンドラがふたを開いたために不幸が世界中に飛び散ったというギリシア神話にさかのぼる。しかし『神統記』は神々が女性を創造し、欺瞞に満ちた贈物として人間に与えたと述べるにとどまり、パンドラの名はこの作品では明示されていない。人類最初の女性にすべての(pantes)神々がさまざまな贈物(dora)を授けたので彼女がパンドラ(Pandora)と命名されたことや「パンドラの箱」の由来となったエピソードが披露されるのは同じ詩人の『仕事と日』である。ただしヘシオドスではパンドラが開封したのは甕であったが、オランダの人文学者エラスムスが「三千の格言」(1508年)で甕を箱に変えたことからこの成句が生まれた。「仕事と日」によると将来を見通す力のある賢いプロメテウスは「ゼウスの贈物を一切受け取ってはならない」とあらかじめ弟に忠告していた。しかし後知恵しか浮かばないエピメテウスはパンドラの美しさに幻惑され彼女を家に迎え入れた。家にはなぜか大きな甕があった。ある日パンドラがその甕のふたを開くと、甕に入っていたものがたちまち世界中に飛び散り、あわててふたを閉めると、甕の中に「希望」だけが残った。それまでは煩いも苦しい労働も病苦もなかったのに、人類の最初の女性の無思慮な行為のせいで、それ以降は無数の災厄がこの世に蔓延するようになったという。火に象徴される文明が人間にもたらす恩恵と、それに対して人間が支払わねばならない代償もここには示されている。
火から核エネルギーへ。時代は移り変われども、人間の欲はコントロールできる領域を少し越えた所で収束する傾向があるようだ。