ボスニア紛争の要因としてのクロアチア紛争 ミロシェビッチ対トゥジマン

民族のモザイクといわれるユーゴであっても、それほど異なる民族が入り組んでいるわけではなく、
共和国の民族構成比率は、ボスニアを除けば、一つの民族で過半数が取れる状態にあった。
クロアチアではクロアチア人78セルビア人12という構成比で少数派に甘んじているセルビア人を
セルビアが助けるという大義名分がクロアチア紛争にはあった。
クロアチア軍対ユーゴ人民軍(クロアチア人モスリム人もユーゴ人ではあるが、同胞同士の戦いを
嫌い実質はセルビア軍)はセルビア軍の士気が低く、少数のクロアチア軍に苦戦しており、ECの
和平案も受け入れやすい環境に思えた。
ハーグ会議に出席した各共和国リーダーは和平案に同意したものミロシェヴィッチが反対し、和
平案は暗礁に乗り上げた。それは、クロアチアのセルビア人に対して、自治が与えられなかったこ
とではなく、ボスニアを念頭に置いた上で、自決権は、共和国のみならず民族にも認められるべ
きであって、大セルビア主義を実現することをECに認めさせたかったのである。

東西の狭間にあるユーゴの狭間、それがボスニアと。
旧ユーゴ崩壊・ボスニア紛争の要因

ドイツによるクロアチア独立承認である。少数民族であるセルビア人の権利保護をウヤムヤにし
たまま、ドイツは、1991年12月に単独でクロアチアの独立承認を強行した。
クロアチアがオーストリアーハンガリー帝国に組み込まれていたことや大戦中のナチスと
「独立国家クロアチア」の協力した歴史、ベルリンの壁崩壊により不可能といわれた東西統一を
成し遂げ「民族自決権」という考えに浮かれていた。クロアチアをドイツ経済圏に組み込むことは
ドイツの利益にかなうことでもあった。
EC・アメリカは「独立承認のためには、少数民族の保護をはじめとする人権の保障、平和裏に
問題を解決できる民主的体制の確立が必要」として独立に反対。
ドイツは「独立という既成事実をつくってしまえば、セルビアの触手がかりにボスニアに伸びてきても、
外国に対する干渉としてこれを非難・抑制できる
。と反駁して譲らなかった。

自身の規模が小さければ小さいほど、後ろ盾も小さくても大きな効果を持つ。
ボスニア

モスリム44%、セルビア31%、クロアチア17%で居住地域までがモザイク状に入り組んでいるため、
痛みを伴わない民族ごとの国家再分割はありえない。
ボスニアがユーゴに残ることは、モスリムとクロアチア人を大セルビアの支配の下に置くことになり、
ボスニアを一つの主権国家とすることは、大セルビア主義に反する。国家分割を行えば、帰属す
る国家の無いモスリム人の行き場が無い。
クロアチア紛争の余波がボスニアにおよびだすと、ブルダニンらSDS(セルビア勢力)指導者は、
積極的に社会不安を作り出し「民族浄化」を煽ることに血道をあげた。
彼らがしたことは、まず、無法者を野に放って治安を悪化させることであった。
無法者民兵集団は、前科者やホームレスから募集された、アルカン部隊の頭領アルカンは銀行
強盗と殺人の犯人としてヨーロッパ数カ国で指名手配中であった。彼らは軍事訓練をほどこされ、
弁当を支給されたうえ、クロアチアの前線に送られないという保証まで得て、モスリム人経営の
店・事務所を破壊する”仕事”に励んだ。
イゼトベゴヴィッチ:モスリム人民族政党SDAにも同様の無法者民兵集団があり、セルビア一般
市民に対する、その残虐ぶりはモスリム人勢力の中からも批判が出るくらいであったという。

もうちょっと具体的に記述している部分もありましたが、私は浄化そのものよりは、
その背景に焦点を当てたいので、省略しています。
オマルスカ強制収容所や
スレブレニツァ虐殺事件(ICTYでジェノサイドの罪の成立が認められた初めての事件)
という名前くらいは、一般教養として覚えておいたほうが良いかもしれません。
ミロシェヴィッチ

ミロシェヴィッチは大統領職にあった間、公金横領、汚職、職権乱用などの罪を犯しており、これら
国内犯罪でセルビア国内ですでに逮捕・拘留されていた。だが、ハーグに移送するのは容易では
なかった。
1.セルビアの軍隊にとって、権力奪取と保持および蓄財をほしいままにした点は許せないとしても、
それはあくまでも「セルビア人に対する犯罪」であって、「他民族に対する戦争犯罪」を犯した戦犯
という意識は希薄だった。
2.ミロシェヴィッチは一般のセルビア人から見放されているとはいえ、2001年4月に国内犯罪で
逮捕しようとして時には用心棒に妨害され、一度は逮捕をしくじっていることに示されるように、
依然として彼のシンパや取り巻きは強力だった。
3.ディンディッチ首相は、警察しか支配化においておらず、軍隊は国内政治的に対立している
コシュトニツァ新ユーゴ連邦大統領の支配下にあった。
これら事情のため、ミロシェビッチのICTYへの引渡しは、失敗する危険も小さくなく、成功しても国内
的な亀裂を招く恐れがあった。

2001年 ミロ氏、ハーグに移送 
みたいに歴史年表に載っているのを見て、
移送? 車にぶち込んで、エンジンをかける、ドアをあけて、またぶち込む。 これだけのことだろうが。
何を大袈裟に世界史にしとるんじゃ~!と疑問に思っていましたが、こういう難しい人は移送するだけ
で一苦労ということが想像できるようになりました。