月: 2022年3月

力の追求 ヨーロッパ史1815-1914

p13 1815年に出現した復古体制下のヨーロッパの国家構造は、多くの点で人々を惑わすような外見を呈していたものの、ある程度まで肺炎として1815年の30年前のヨーロッパ大陸の住民たちにとってなじみのあるようなものだった。国家の権力と干渉力はまだかなり限られたものに過ぎなかった。フランス大革命というまだ記憶に新しい前例があったとはいえ、民衆の政治への参加は依然として最小限に限られていた。
ブランニングは、コミュニケーションが改善されるプロセスと経済成長のプロセスが結びついていることを描いているが、19世紀において両者の結びつきは18世紀には誰も想像できなかったような速度で加速した。1815年には、鉄道、電信、蒸気船、写真は歴史の地平線にまだほとんど姿を現していなかった。しかし1914年にはヨーロッパは電話、自動車、ラジオ、映画の時代に入りつつあった。1815年はまだ宇宙がニュートンに基づいて理解される時代、具象絵画と古典音楽の時代である。これに対して1914年は既に、アインシュタインが相対性理論を提唱し、ピカソがキュビスムの作品を描き、シェーンベルクが最初の無調音楽を作曲していた。

p52 17世紀や18世紀にはヨーロッパの大きな戦争の原因、君主が亡くなったことから生じた王家同士の争いであった。スペインの継承戦争やオーストリア継承戦争がそうである。主権の基盤は明らかに個人と家族から国民と国家に移っていた。1815年以前はすべての国際条約は君主が亡くなると無効になるとみなされていて、失効するのを避けるために直ちに新しい君主の署名を得て更新する必要があった。1814~15年に結ばれたような諸条約は個々の君主間ではなくて国家間で締結されたので、一方の側が廃棄する意思を通告するまでは効力を持ち続けた。

p38を中心に。 フランス革命を機に、ヨーロッパ全土が国民国家に一気に発展したわけではない。アンシャンレジーム、1814年以降、旧体制に戻した。だがナポレオン憲法が定めた改革を元に戻すことはできなかった。各国で様子は異なるが、選挙権は5%の人にしかなく、交戦権、立法権、司法権が部分的に王権から取り除かれた。教会権力が減少、聖職諸邦が地図から消え、出生・婚姻・死亡の届け出は世俗の当局が扱うようになった。修道院は解体され、宗教の自由、民事婚と民事離婚、世俗教育、国家による聖職者の任命が導入されたことで教会の権力はさらに削減。慣習や特権を合理性と画一性に置き換え、組織を改め、体系化し、標準化した。新しい世代の職業行政官が出現した。神聖ローマ帝国の何百という帝国騎士や教会や領主が行使していた地方の司法権は、司法官僚が管理する中央集権的な制度に代わっていった。機会の平等、才能に開かれたキャリア。国内関税の撤廃。農奴解放。ロンドンでは治安維持のために統一的な首都警察が創設された。著述家や思想家は自由主義的な見解に転じ始めた。ドラクロア「民衆を導く女神」。ベルギー革命のきっかけとなったオペラダニエル・オベール「ポルティチの唖娘」。

ナポレオンとの戦争から戻ってきた農民兵士たちがいまや自分の領主に武器を向けるのではないかと表明した。

p129 労働奉仕や農民が地代として払ってきた現物もしくはそのほかの賦課金の支払いが失われることに対する領主への補償については、合意を達成する必要があった。ハプスブルグ君主国では、隷属的労働の価値は雇われた賃労働の3分の1に設定された。ヴュルデンブルグ・バーデン・ルーマニア・ハプスブルグ君主国では農民が払う償却金を国家が補助した。ルーマニアでは分割払い期間が15年間、ザクセンでは25年間、ロシアでは49年間にわたり、したがってロシアの場合には1861年の農奴解放令の結果生じたツァーリ当局に対する償却金の支払いは1910年まで終了しないスケジュールになっていた。ドイツ諸邦を中心に、しばしば支払いを管理する特殊銀行が設立された。

p133 戦争と革命の変転を生き延びた大土地保有者たちは。しばしば農奴解放からおおいに利益を得た。彼らは穀物を市場向けに大規模に栽培できる地域では支配的な勢力であり続けた。かつての農奴は今や自分の土地の自由な所有者となり、すべての力を自分の土地を耕作して利益を上げることにそそぐことができ、一方、かつて彼が所有していた森林地はこれまでは荒れるに任せるままだったのが、今や守られて合理的に活用されている。しかしながら、実際には、そう言えるのは主として市場を志向する農民たちについてであった。多くの小規模な農民は、貨幣で取引する経験を欠き、自らの生存を支えるためだけの農業を続け、急速に債務を負うようになり、税金や償却金を支払うために再びかつての領主のために働く立場に戻らざるを得なかった。

日本の農民と同じ??w

p149 農業の姿を最も劇的に変えたと言えるのはー比較的大規模な農場が比較的大きな市場のために生産し、したがって投資することが可能だったところでだがー、疲弊した土壌を回復させ、生産量を増やすために資料が使用されるようになったことであった。19世紀前半に最も重要だった肥料はグアノ、すなわち海鳥の糞である。グアノはペルー沖のチンチャ諸島に何千年もかかって巨大な山となって積み重なっており、それが含む硝酸塩が、乾燥した気候のために雨で流されないで保たれていた。アレクサンダー・フォン・フンボルトがグアノは肥料として効果があることを確証し、ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リーヒヒ(1803-1873)も使用を推奨した。この結果ペルーではグアノ時代と呼ばれた一種の経済ブームが起こり、それは1870年代に合成肥料に取って代わられるまで続いた。

p228 ホイッグ党が1841年の総選挙でついに政権を失うと新たなタイプのトーリーが首相として政権の座に就いた-有能で勤勉なサー・ロバート・ピールである。彼はリヴァプール卿とウェリントン公の下で内相を務め、刑法を簡素化し、青い制服のロンドン警視庁を創設した。ピール政権は、イングランド銀行が発行する紙幣を伴う統一通貨制度を確立。1844年の会社法は登記して貸借対照表を公表することを求めたが、それは鉄道投機熱に浮かされていた時代には必要な措置だった。ピールはまた所得税を導入して国家財政を立て直し、政治を支配する人は不承不承それを受け入れた。

p266 1852年11月のもう一度の国民投票が「フランス人の皇帝、ナポレオン三世」の即位を承認した(彼が3世を名乗ったのは、ナポレオン1世の死後、その子息が1832年に早すぎる死を迎えるまで統治していたという虚構を反映したものだった)。ヴィクトル
・ユゴーは、彼を皮肉って「小ナポレオン」と呼んだ。1851年の出来事を1799年にナポレオン1世が第一共和政に対して挙行したクーデターと比較して、カール・マルクスは、歴史は繰り返す、「最初は悲劇として、二度目は茶番として」と辛辣な評言を述べた。

p407 農村社会における正義の執行は、19世紀の大半を通じてまた一部地域では第一次世界大戦期まで、あるいはそれ以後でさえも多くの点で自足的であった。村の掟に背いた者は、フランスでは「シャリヴァリ」、イングランドで「ラフ・ミュージック」または「スキミントン」、ドイツで「ハーバーフェルトトライベン」、イタリアで「スカンパテーナ」と呼ばれる制裁行為の対象となった。

p417 住民の大量移動はヨーロッパのほぼすべての地域において発生していた。1890年から1914年の間にギリシャの全人口の1/6近くがアメリカまたはエジプトに移住した。イギリス、フランスからポルトガル、オランダに至るまで、海外植民地を有するヨーロッパの国々もまた、広範囲に及ぶ移民の波を経験した。主要な例外はフランスで、そこでは低い出生率と土地所有権の保証のおかげで、人々は母国に引き留められた。1815年から1914年の間に総計およそ6000万人がヨーロッパを去ったと考えられている。

力の追求 下

p32 メートルはフランス大革命の産物であり、パリから派遣された科学的調査隊が北極と南極を結んだ線に沿って地球の円周を測定しようとした。もちろん、彼らは実際に極地に行ったわけではなく、ただダンケルクからバルセロナまでの距離を測定して、それを引き延ばしただけだったが。案に違わず、この線はパリを通っていた。地球の円周の1000万分の1が1メートルとなった。地球全体に対する計測が完全に正確ではなかったことを後世の科学者たちが発見したものの、この単位は定着した。大陸の大部分でメートル法が採用されたのは、19世紀後半が鉄道建設の時代であり、当時鉄道会社が標準的な距離測定法を必要としていたという事実から生じた様々な結果の一つであった。

*地球の円周は40,000㎞です。どう考えても説明が間違ってる。正確には赤道から北極までの1000万分の1。

p39 1903年、50万人を超える人々が最初のツールド・フランスが走り抜けるのを見るためにフランスの町々に集まった。主催者たちは1871年にドイツに併合されたアルザス=ロレーヌを通過するようにコースを設定し、彼らの愛国心を喧伝したのである。自転車は、とりわけ女性解放の媒体としても重要であった。オーストリアのフェミニスト、ローザ・マイレーダー(1858-1938)は、自転車は女性を解放するためにフェミニスト達が払った努力のすべてを合わせた以上のことを成し遂げたと明言している。自転車は彼女たちを同伴者なしで外出することを許し、非実用的な膨れ上がった衣服から足の分かれたスカートである「合理的ドレス」に着替えるように求め、行動的かつ健康的でスポーティーなイメージを付与し、そうしたイメージは社会的同権を要求する彼女たちの支えとなった。

p135 ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(1808-74)「イエスの生涯ー批判的考察」は近代的な文献学のテキスト批判の手法を用いて、福音書の中の奇跡の要素を想像上のものとして切り捨て、歴史的存在としてのイエスに関する確実な証拠が実際にはいかに少ないのかを明らかにした。

p157 フロラ・トリスタン(フランス人)工業化の悲惨や圧迫をもたらすイギリス風の未来を望んでいるのか確信が持てなかった。「ロンドンはローマになるだろう。しかし、間違いなくアテネにはならないだろう。アテネになる定めはパリのために取っておかれている」


イエス・キリストは実在したのか? The life and times of Jesus of Nazareth

新約聖書以外で最古の最も信頼できるイエスの足跡に関する記述は、一世紀のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(紀元100年没)、94年に書いたとされる彼の『ユダヤ古代誌』にローマのユダヤ総督フェストゥスの死後、アナヌスというなの極悪非道な大祭司が「メシアと人の言うイエスの弟ヤコブ」を不当に糾弾して、違法行為の罪で石打の刑に処したというさりげない記述が見られ、その一節は、新総督アルビヌスがようやくエルサレムに着任した後のアナヌスに関連した出来事へと続いている。

初期キリスト教徒はイエスの生涯に無関心だった。
初期の文書はイエスの誕生や幼少期の物語には少しも触れていない。紀元50年頃に編集された「Q資料」には、イエスが「洗礼者ヨハネ」から洗礼を受ける前に起こったことについての記述は皆無である。新約聖書の大半を占めるパウロの書簡はイエスの十字架刑と復活以外の彼の人生での出来事については何の見解も示していない。だが、イエスの死後、人間としての彼への関心が高まるにつれて、イエスの幼少時代の空白を埋めることと、とくにナザレ生誕の問題を取り上げる必要が出てきた。なぜなら、イエスを誹謗するユダヤ人たちから、彼がナザレ生まれならメシアであるはずがないと中傷されたからである。少なくとも予言とは一致しない。そこでイエスがダビデ王と同じ町で生まれたこと、にするために、彼の両親をベツレヘムにゆかせることにしたのだ。
ルカが目を付けたのは住民登録である。ルカによれば、「その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であった時に行われた最初の住民登録である。人々はみな、登録するために各々の自分の町へ旅立った。ヨセフもまた、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」と書いた上で、読者が大事な点を見逃さないように「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので」(「ルカ」2章1-4節)と付け加えている。ルカの書いている話の中で正しいのは一つだけだ。ユダヤが公式にローマの一州になったのはヘロデ大王の死後10年目の紀元6年で、この年にシリア州総督キリニウスがルカの言うような「ローマ全領土」ではなく、ユダヤ、サマリア、イドマヤの全住民と土地、奴隷のすべてについて登録を行わせたことである。これにはイエスの家族が住んでいたガリラヤ地方は含まれていない。ルカのもう一つの間違いは、キリニウスの行った住民登録年代である紀元6年をイエスの誕生年としていることである。多くの学者たちは、イエスの誕生は「マタイによる福音書」に記されている紀元前4年頃としている。だが住民登録の唯一の目的は課税台帳をつくるためであり、ローマ帝国の法律では、住民の生まれた場所ではなく、居住地の資産をもとに税額を決めていた。

「ルカによる福音書」の読者は古代世界の多くの人がそうであったように、神話と現実を厳密に区別せず、この2つは彼らの宗教的体験の中で緊密に絡み合っていた。つまり彼らにとっては実際に何が起こったかということよりも、それが何を意味するかということの方に関心があったのである。ルカによるキリニウスの住民登録の話も、マタイによるヘロデの男児抹殺の話も、我々が今日考えているような「歴史」として読まれることを意図して書かれたものではなかった。ましてやもし自分の息子たちが殺害されるという忘れがたい出来事なら、きっと覚えているに違いない彼らの同時代人に「事実」として読まれることを前提としてはいなかったであろう。マタイにとって、イエスがベツレヘムで生まれたことが必要であったのと同じ理由で、エジプトから出てくる必要があったのだ。マタイは、イスラエルの再興という、単純だが、最も重要なメシア的預言を成就することなしに死んだ素朴な無学者が本当に「油を注がれた者」なのかどうかというイエスの中傷者たちからの異議申し立てに答えるためにも、自分と同時代のユダヤ人のために祖先が残した様々な預言を読み解き、イエスをその昔の王や預言者の子孫として位置づけなくてはなからなかった。

処女降誕伝承とイエスの家族

イエスに兄弟が居たことは、彼の母マリアがカトリックの教義では永遠の処女とされているにもかかわらず、事実上、議論の余地はない。イエスの死後、初期のキリスト教会の最重要リーダーになるイエスの弟ヤコブについては、ヨセフスさえも言及している。イエスには少なくとも、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の兄弟と福音書では触れられているが名前も数もわからない姉妹もいる大家族の一員だったと考えてはいけない理由は少しもない。イエスの父ヨセフについては、幼少期の物語に登場した後は福音書からすぐに消してしまって、ヨセフはイエスがまだ子供の頃死んだというのが大方の意見が一致するところである。マタイとルカの幼少期物語以外には、新約聖書のどこにも処女降誕を思わせる記述はない。

福音書の記述が信じられるものであるとすれば、アンティパスは自分の腹違いの兄弟の妻ヘロディアスとの結婚をヨハネが避難したことに腹を立てて彼を牢に入れた。ずるがしこいヘロディアスはヨハネを牢に入れたことくらいでは満足せず、彼を殺す計略を立てた。サロメは母親に「何をお願いしましょうか?」と相談した。「洗礼者ヨハネの首を」とヘロディアスは答えたという。残念ながらこの福音書の記述は信用できない。ヘロディアスの最初の夫をフィリポとしているがこれは間違いだ。またヨハネが処刑された場所はマカイロス要塞なのに、ディベリアスにあるアンティパスの宮殿とごっちゃにしている。福音書の物語全体が、アハブ王の妻イゼベルと預言者エリアとのいざこざを描いた聖書の物語を意図的に反映させ、奇想を凝らした民話に仕立て上げているように読める。

厄介だったヨハネの存在

マルコが言うように、ヨハネによる洗礼が罪の赦しのためであったとすれば、イエスがそれを受けたことは彼の罪がヨハネによって浄化される必要があったことを示唆する。イエスはヨハネの他の弟子の一人と同じように、彼の運動に参加を認めてもらおうとしたことになるのは確かだ。ヨハネは人気があり、大変尊敬され、至る所で認められていた祭司であり、預言者だった。彼の名声はあまりに大きかったため、無視することはできず、彼がイエスに洗礼を授けたこともよく知られていて隠すわけにはいかない。その物語はどうしても入れなくてはならないが、それは改ざんして、差支えの無い話にする必要があった。イエスが上位で、ヨハネが下位に、役割を逆転させればいいわけだ。そういうわけで、ヨハネの役割は段々退行していって、最初に書かれた「マルコによる福音書」ではヨハネは預言者で、イエスの教師として紹介されているが、最後に書かれた「ヨハネによる福音書」ではこの洗礼者はイエスの神性を認める以外には何の役割もはたしていないように書かれている。


21世紀の資本

p6 リカード、希少性の原理。マルクス、無限蓄財の原理。
リカードの場合は地主、マルクスなら工業資本家ーが算出と所得のますます大きな割合を懐に入れると信じていた。
人口と産出が安定成長に入ると、土地は他の財に比べてますます希少になる。地価は継続的に上がり、地主たちはますます国民所得の受け取り比率が増え、社会均衡が揺らいでしまう。
この陰気な予測は結局間違っていた。地代は確かに長期にわたって高止まりしたけれど、最終的には国民所得に占める農業比率が下がるにつれて、農地の価値は他の携帯に比べて着実に下がっていった。1810年代のリカードにはその後生じる技術進歩や工業発展の重要性など思いもよらなかった。人類が食料調達の必要性から完全に解放されるなどとは、想像だにしなかったのだ。
しかし、希少性の原理を無視するのは間違いだ。リカードのモデルにおける農地価格を、世界大首都の都市不動産価格と置き換えたり、原油価格と置き換えたありすれば良い。

p11 マルクスの暗い予言は、リカードのものと同じく実現はしなかった。19世紀最後の1/3で、賃金がやっと上がり始めた。労働者の購買力改善が至る所に広がった。そしてこれは状況を激変させてしまった。とはいえ、極端な格差は縮まらなかったし、ある意味では第一次世界大戦まで拡大を続けた面もあったのだが。

p15 クズネッツ曲線-冷戦さなかの良い報せ
実を言うと、1913年から1948年にかけての米国の所得が大幅に圧縮されたのは、ほとんど偶然の産物だというのをクズネッツ自身も良く知っていた。これは大恐慌と第二次世界大戦が引き起こした複数のショックにより生じたものがほとんどであり、自然または自動的なプロセスによるものはほとんどなかったのだ。

p34 経済学という学問分野は、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないようなどうでも良い数学問題ばかり没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、化学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずに済ませているのだ。
経済学者なんて、どんなことについてもほとんど何も知らないというのが事実なのだ。

p46. 国民所得=国内純生産(GDP-資本の減価償却)+外国からの純収入
国内純生産はGDPの約9割、国民所得は国内生産と1-2%しか乖離していない。フランスはすべてカリフォルニアの年金基金や中国銀行に買われてしまっているしつこい妄想があるが、そんなことはないのだ。
国民所得=資本所得+労働所得

p60. 国民所得と資本を計測しようと思う初の試みは1700年ころ、イギリスとフランスで、イングランドではウィリアム・ベティ(1664年)とグレゴリー・キング(1669年)、フランスではピエール・ル・パサン・ボワギルベール卿(1695年)、セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(1707年)の研究だ。当時の農業社会で圧倒的に重要な富の源だった土地の総価値を計算し、土地の価値を農業産出と土地代の水準と関連付けることだった。

p138 公的債務で得をするのは誰か? マルクスをはじめとする19世紀の社会主義者たちが公的債務をとても警戒していた理由が分かる。かれらは-かなりの洞察力で-公的債務が民間資本の手駒だと見ていたのだ。
1815-1914年にかけてインフレは事実上ゼロで、国債の利率は概ね4-5%だった。これは経済成長率よりはるかに高かった。裕福な人にとって、公債への投資は実に良い商売になる。

p144 ルノーの工場は、事業主ルイ・ルノーが1944年9月に利敵協力の疑いで逮捕された後、懲罰的に接収された。1945年1月、臨時政府によって工場は国有化された。

p152 ドイツの資本/国民所得がイギリス・フランスの500,600%にくらべ,400%の理由
ドイツ対フランス・イギリスの違いの大部分は、住宅ストックの価値の差ではなく、企業資本の価値の差せいだ。民間財産の総額を計るのに時価総額ではなく簿価(企業の投資累積額から企業の負債を差し引いたもの)を使うとドイツのパラドックスは無くなる。ドイツの民間財産はたちまちフランスやイギリスの水準に上昇する。このややこしさはただの会計上の問題に見えるかもしれないが実はむしろきわめて政治的な問題なのだ。ここではドイツ企業の市場価格の低さは「ライン型資本主義」、あるいは「利害関係者モデル」と呼ばれる特徴の反映らしいと述べるにとどめよう。

p154 資本/所得比率の落ち込みは二度の世界大戦による物理的な破壊だけではごく一部しか説明できない。イギリスでは物理的破壊の規模はそれほど甚大ではなかった。第一次世界大戦の被害はわずかで、第二次世界大戦でもドイツの爆撃による物理的破壊は国民所得の10%にも満たない。それでも国民資本は国民所得4年分(物理的破壊による損失の40倍)、つまり、フランスとドイツと同じくらい減少している。2回の戦争が財政と政治に与えた打撃の方が実際の戦闘より大きな破壊的影響を資本にもたらした。ひとつは外国ポートフォリオの崩壊と、当時の特徴でもあった貯蓄率の低さで、もう一つは企業の混合所有と規制という新たな戦後の政治的背景の中で生じた資産価格の低さだ。
外国資産の損失、イギリスにおいては第一次世界大戦直前に国民所得2年分だった準外国資本が1950年にはマイナス水準まで落ち込んだ。

p162 米国の資本は20世紀の始まりからほとんど横ばいを実現したようだ。あまりに安定しているので米国の教科書、ポール・サミュエルソン「経済学」などでは、資本/所得比率、資本/産出比率の安定が不変法則のように扱われる場合もあるほどだ。

p173 資本主義の第二基本法則 β=s/g
資本/所得比率β、貯蓄率s、成長率g

p199 2010年代前半、日本の純外国資産は、合計で国民所得の約70%、ドイツは約50%に達している。これらの総額はたしかに第一次世界大戦直前のイギリスとフランスの純外国資産、イギリスが国民所得およそ2年分、フランスは1年分超には遠く及ばない。

p255 労働所得分布の上位10%が通常は全労働所得の25-30%を稼いでいるのに対し、資本所得分布の上位10%は、常にすべての富の50%以上(社会によっては90%)を所有している。

p308 米国における格差拡大が金融不安の一因となったのはほぼ間違いない。理由は簡単。米国での格差拡大がもたらした結果の一つとして、下層、中流階級の実質購買力は低迷し、おかげでどうしても質素な世帯が借金する場合が増えたからだ。特に規制緩和され、金持ちがシステムに注入した預金で高収益を上げようとする恥知らずな銀行や金融仲介業者が、ますます甘い条件で融資するのだからなおさらだ。

p330 トップ1%が総所得に占めるシェア
1910-1940年 18%前後。戦後1970-80年代の7%をボトムに現在9%
アメリカは18%
p332 トップ0.1%が総所得に占めるシェア
日本は2.5%アメリカ7-8%

p342 トップ百分位が国民所得に占めるシェアは、納税申告書によると20%以上になる。でもこれらの国の家計調査で申告されているトップ所得は概ね平均所得の4,5倍でしかない。つまり本当の金持ちなどいないことになる。だから家計調査を信じるならトップ百分位のシェア5%以下と言うことだ。この事実を見るとどうも調査データはあまり信用できない。多くの国際機関、特に世界銀行、や政府が格差の評価を利用する唯一の情報源は家計調査だが、これは明らかに富の分配に対して偏った誤解を招きかねないもので、間違った安心感を与えてしまう。

p351 どんな時代のどんな社会でも、人口の貧しい下半分は、実質的に何も所有していない。大体、国府の5%程度。これに対し、富の階層トップ十分位は所有可能なものの大半を所有している。大体国富の60%以上。人口の残りの人々、今の仕分けで言うと中間の40%が国富の35%を所有する。

p438 民主主義の敵、不労所得生活者
21世紀には最終的に相続資本分布が19世紀と同じくらい不平等にならないという保証はどこにもない。ベル・エポック期と同じくらい極端の富の集中に回帰するのを妨げるような、不可避の力など存在しない。特に成長が遅くなり資本収益率が増大した場合はなおさらだ。たとえばそれは、国家間の税率引き下げ競争が激化すれば起こりえることだ。もしこれが起これば、大きな政治的混乱を招くはずだ。私たちの民主主義社会は能力主義的な世界観、少なくても能力主義的希望に基づいている。それは格差が血縁関係やレントではなく能力や努力に基づいた社会を信じているという意味だ。

p462 フランスで2006年にアルセロールがラクシュミ・ミッタルに買収されたとき、フランスのマスコミは、このインドの億万長者の行為は言語道断と報じた。2012年の秋にミッタルがフロランジュの製鉄所に十分な投資をしなかったと非難されたとき、フランスのマスコミは改めて怒ってみせた。インドでは、ミッタルに向けられた敵意の少なくとも一部はかれの肌の色のせいと考えられている。それが一因ではなかったと誰が断言できるだろう?たしかにミッタルのやり方は乱暴だし、その贅沢な暮らしぶりは不届きとみなされている。フランスのマスコミは、ロンドンにミッタルが所有する豪華な邸宅に腹を立て、「フロランジュへの投資の3倍の価値」とこぞって報じた。だがパリ郊外の高級住宅地、ヌイイ=シュル=セーヌの邸宅だとか、地元出身の、アルノー・ラガルデール、特に実績、人徳、社会的効用などで高名とはとても言えない若き相続人。フランス政府はほぼ同時期に、世界の航空業界を率いるEADS株のらがるでーるの持ち分と引き換えに10億ユーロの供与を決定、のこととなるとなぜか憤りは控えめになる。

p589 ユーロ圏の債務のあるべき姿を決めるのが予算議会なら、明らかにこの議会体に対して責任を負うヨーロッパ財務大臣が居なければならず、その大臣はユーロ圏予算と年次財政赤字を提案するのが仕事になる。既存の国家元首や財務大臣たちによる欧州評議会にはこの予算体の仕事はできない。彼らの会合は秘密だし、公開の一般討論は無いし、当の参加者たちですら必ずしも何が決まったのか確信できていなさそうなのに、勝ち誇った深夜のコミュニケで、ヨーロッパが救われたと宣言して会合を終えるのが常なのだから。キプロスの税金に関する決定はこの典型だ。全員一致で承認されたくせに、誰も公開の場でその責任を引き受けようとはしなかった。この種の議事は1815年のウィーン会議にはふさわしいが、21世紀のヨーロッパではお呼びでない。


サカナとヤクザ

p108 発電所の一帯には漁業権が設定されていない。電力会社は発電所の建設と同時に、近隣の漁師に補償金を払い、かわりに漁師は漁業権を放棄するからだ。漁業権が宙に浮いた状態でも、穀長違反といった漁業調整規則違反にはなる。しかし、その他の漁業関連法案を厳守している限り誰が何をとっても密漁にはならない。

p148 漁業権と漁業組合について解説したい。漁業権は世界中に日本にしかない独自の法律だからである。諸外国ではそれぞれの漁船に操業許可が与えられ、街の前浜で獲れる海産物を住民が独占するという概念は無い。文献では漁業権をさかのぼると、大宝律令に行き着くという。船の櫂の立つところを基準とし、そのエリアに面している集落が定着性の動植物-昆布やワカメといった海藻類、ウニ、アワビ、サザエなど貝類、入り江に入り込むアジやイワシなどを独占的に漁獲できる権利を指している。歴代、漁業権は村の有力者に与えられ、網元や庄屋が独占していた。
明治8年、政府は日本の海を官有化しようと試みるも、各地の強硬な反対にあってとん挫した。諸外国の法律を参考にしようとしたが、前述したように漁業権は日本独特の概念であり、該当する法律がなかった。そのため政府は漁師町の慣習・掟を丹念に調べて明文化し、明治38年、ようやく日本初の漁業法が完成した。敗戦後、GHQは農地改革に準じた改革を漁業にも当てはめようとした。ところが長年漁業権が慣習として定着していたため、各地の上位階層が占有していた既得権を解放することはできても、日本独自のシステム撤廃することができなかった。漁業の民主化を目的とした昭和漁業法が公布されたのは、昭和24年12月15日である。漁業権を引き継ぐ受け皿として生まれたのが今の漁業協同組合で、都道府県知事から与えられた漁業権を一括管理する。恩恵にあずかれるのは、ここに加入した組合員だけだ。


オスマン帝国の崩壊

p383 「サイクス=ピコ協定」については様々な誤解がある。100年後の現在でも、まだ、この協定が現代の中東の国境線を決定したと信じている人がたくさんいる。だが、実際はサイクスとピコが線引きした地図は今日の中東の国境とは全く違う。この協定が策定していたのは、シリアとメソポタミアで英・仏が「直接であろう間接であろうと、自国の思い通りに管理もしくは支配できる」植民地支配県の確立できる領域を定義したものである。たとえば、フランスが要求している「ブルーエリア」は北はアレクサンドレッタ湾を囲むメルスィンとアダナから、南は現代のシリアとレバノン沿岸の古代港湾都市ティレまでの東地中海沿岸地帯、および、現代のトルコ共和国に入っている北は、スィワス、東はディヤルバクルとマールディンまでのアナトリア東部が入り、英国が承認を要求した「レッドエリア」はイラクのバスラ州とバグダート州である。「ブルーエリア」と「レッドエリア」の間の広大な土地は、「ゾーンA」シリア内陸部のアレッポ、ホムス、ハマ、ダマスカス、イラク北部のモスルはフランス、「ゾーンB」イラクからアラビア半島北部の砂漠地帯からシナイ半島のエジプトの境界線までは英国の関節支配下に置くとされている。この2つのゾーンは「独立したアラブの首長の宗主権下のアラブ連合諸国に組み入れられるとされているが、この方式ではマクマホンの太守フサインとの約束と矛盾する。英・仏が合意できなかったエリアはパレスチナだった。しかもロシアの野心も交渉をややこしくさせかねなかった。そこでサイクスとピコはパレスチナを「ブラウンエリア」と呼んで国際管理下に置き、ロシアと「ほかの連合国およびメッカの太守の代理人」との交渉によって最終的に決定することを提案した。サイクス=ピコ協定の中で太守フサインについて言及されているのはこの部分だけである。


東大なんか入らなきゃよかった

p34 3種類の東大生ー第2のタイプ「秀才型」 *第1「天才型」、3「要領型」
僕の感覚としては、東大生の半数以上がここに属している。このタイプは、先人によって敷かれているレールを速く走るのは得意だが、自分で未開の土地を開拓して新規にレールを敷くというようなことは苦手だ。そして、彼らは、自分たちが苦手なことは極力やろうとしない。秀才型がしばしば「頭が固くて融通が利ない」と言われるのは、既存のレースから頑として外れようとしないからだ。これに主に以下の2つの理由がある。
1つめに、「正解がないこと」への対応力が弱いということ。東大生は、東大に受験するまで、義務教育で9年、高校で3年、「明確な答えがあるテスト」を説き続けてきた。東大入試にしたって、問題のほとんどに教科書的な決まった解法があり、過去問をやりこんでその解法パターンを丸暗記すればパスできる。2つ目の理由が、東大生は失敗して人から批判されることを極度に恐れるということだ。

p52 教員教務逆評定、300円。大仏・仏・鬼・大鬼。


エネルギー400年史

p239 「夏がない年1815年、インドネシアのタンボラ火山が噴火、火山灰は世界中を覆って陽は遮られ、北米やヨーロッパの高緯度地域では、7月になっても凍てついた大地が解けることは無かった。穀物は壊滅的な打撃を受けた。この年、ヨーロッパでは20万人もの餓死者が出ている。

p254 1958年ペンシルベニア石油会社はコネチカット州ニューヘイブンのセネカ石油会社に吸収され、銀行家のジェームズ・タウンゼントと仲間のニューヘイブンの投資家が経営権を握り、共同経営者として地元のエドウィン・L・ドレークが迎えられて社長に社長に選出された。ニューヘイブンのホテル「トンチン」、二人ともホテル暮らしをし、1854年、ドレークは妻を亡くし翌年、幼い息子を連れてこのホテルに移ってきた。

p374 歴史家のルーディ・ヴォルティによると、1900年、アメリカでは4192台の乗用車が生産され、そのうちの1681台は蒸気自動車、1575台は電気自動車で、内燃機関を用いた自動車は936台にすぎなかったという。

p408 Socal(スタンダードオイルカリフォルニア)がサウジアラビアにアメリカのカネで支払おうとしたその時、送金計画に待ったがかかる。1933年3月にアメリカ大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、第一弾の施策として金本位制からの脱却を目指し、金貨や地金と交換できる兌換証券の回収を図っていたのだ。このときSocalはロンドンを介して契約条項を果たした。自社の銀行経由でイギリスの王立造幣局から35000ポンド相当のソブリン金貨を引き出したのだ。1994年Casoc(カリフォルニア・アラビアン・スタンダード・オイル・カンパニー)は社名をアラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー(アラムコ)に変更した。

p460 民生用原子炉の開発
1953年7月、AECはリッコーヴァーと彼の原子炉開発チームに対し、民生用碍子炉の開発プログラムを命じた。リッコーヴァーはこのとき、燃料に関する重大な決定を下していた。金属ウランではなく、高温で焼き固めた酸化ウランのペレットに燃料を変えていたのである。燃料ペレットに替えることで原子炉の建造は複雑さを増すが、リッコーヴァーは核拡散のリスクを減らす目的でこの決定を下したという。濃縮ウランは容易に原子爆弾に加工できる。だが、燃料ペレットに加工した酸化ウランの場合、融点は摂氏2865度に高まるので再処理してウラン金属に転換するには高い技術が要求される。

p498 「優生学」と「人口爆発」という悪夢 ハリソン・ブラウンと彼の見解を支持する新マルサス主義者にとって、世界を脅かすのは自分以外のほかの人間の存在だった。「人類の未来への課題」でブラウンは次のように記している。「人種という種が将来的に退化」するのを避けるため、人口過剰に対する自然選択を踏まえた上で、「個人の交配」をお阻む必要があると説いた。その個人とは「社会にとって明らかに有害な欠損をまぎれもなく有し、しかもその欠損が遺伝性だと判明した場合である。」

2013年に「絶望を売る商人ー暴走する環境保護主義者、似非科学者の犯罪、そしてアンチ・ヒューマニズムを奉じる死のカルト集団」を書いた航空宇宙額のロバート・ズブリン、あるいは2009年の論文「人口爆弾に関する戦後の知的根源」を書いたピエール・デロシュールとクリスティーン・ホフバウアーなどがいる。トーマス・マルサスは、18世紀のイギリスの古典派経済学者で、彼自身、人間の排除についてものおじするようなタイプではなく、むしろ誰憚ることなく提唱していた。 貧者には清潔さを推奨するのではなく、それに反する習慣を督励すべきだ。年においては通りをさらに狭溢なものにし、ますます大勢の人間を家の中に押し込め、疫病が流行るように努めるべきである。地方にあっては村の周囲によどんだ水たまりを設け、ぬかるみに覆われ、健全とは程遠い土地に住むように督励しなくてはならない。しかし、わけても肝要な点は、どれほど破滅的な悪疫であろうと、特効薬は断固として拒むことである。慈善者は特定の病を根絶やしにする並外れた企てを通じて、人類に奉仕していると考えるが、彼らは甚だしい勘違いをしているのだ。

p517 遺伝学者のハーマンマラーは、人為的な突然変異を発見したと発表、キイロショウジョウバエにX線を照射することで突然変異の発生率が高まる事実を初めて実証した。1946年マラーはこの業績によってノーベル生理学・医学賞を受賞している。マラーは偶像破壊主義者であり、優生学に深い興味を示していた。優生学的な改善は無階級社会において唯一倫理にかなうーアメリカの優生学運動は人種差別とエリート主義に基づくと非難-と考え、19933年から37年、ソ連にわたって遺伝学の研究を行っている。しかし、ソ連国内でルイセンコ主義が高まり、政治的に危険な立場に置かれるようになるとスペイン内戦の国際旅団に志願することで辛くも難を逃れた。マラーは、自身が唱えた自発的な「精子選択」(マラーは精子バンクを提唱していた)によって人間は完璧な存在に慣れると信じていた。また遺伝子の研究を通じ、変異という現象は無作為に発生したいていの場合、有害な影響をもたらすことを知っていた。
*トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコはソ連の生物学者で獲得形質の遺伝という似非科学を提唱した。スターリンの庇護のもと、ソ連の著名な遺伝学者の多くを追放した。

p531 世界の総発電能力2500万ギガワットのうち太陽光発電はわずか305ギガワットで1%にさえ遠く及ばない。ヨーロッパのようにこの技術を積極的に推進している地域でさえ、電力需要の平均4%を賄っているに過ぎない。