二つの構成要素、司法権が秘密裏に行う調査のそれ、をそなえた機構によって真実を生み出させることが目標とされるのである。つまり、自白を行う、必要な場合には苦痛を受ける身体こそが、これら二つの機構の装置を確実にするのであって、だからこそ、我々は古典主義時代の処罰制度をすみずみまで考察し直さない限りは拷問に対しる根本的批判は、ごくわずか行っただけに終わるだろう。「忍耐強く抵抗する」場合には、それに打ち勝ち、白状すれば負けることになる。裁判官の方でも、拷問を貸すことは危険を冒すことになる。しかもそれは容疑者が死ぬ事態に直面する懸念だけに止まらない。彼は自分の集めたいくつかの証拠という賭け金を危険にさらすのである。規則に基づいて被告人が「忍耐強く抵抗し」白状しない場合にやむを得ず職を辞す定めになっているのだから。そうなると新体系を課せられた者が買ったことになる。そうした事態が生じるのを避けるために「証拠の留保を伴う」拷問を加える習慣が生まれたのであって、それは重い事件に用いられたのだった。

身体刑の儀式では中心人物は民衆なのであって、現実に直接に彼らが現場に居合わせることが儀式の仕上げに要請される。罪人に猛威を振るう権力の姿を見物することで恐怖の効果を生じさせるためにも、見せしめということを狙ったのであった。立会人であることは人々が所有もし請求もする権利であって、密かに行われる身体刑は特権的なそれだとされ、人々はその刑は完全に厳格に行われたのではないかと怪しむ。レスコンバの女房が絞首刑に処される際、気を利かして顔を隠してやった。群衆はひどく不平を述べ立て、これはレスコンバの女房とはちがうと言い出す始末であった。

今日のように拘禁が死刑と軽度の刑罰との、処罰の全中間領域を覆いつくすことができるという観念は当時の改革者たちには即座に考えつきえない概念であった。瞬く間に監禁が懲罰の本質的形態となった。ナポレオン帝政政府は、刑罰と行政と地理に関するすべての階層順位に応じて、現実に具体化することを直ちに決定したのである。各治安裁判所と結びついた、町村警察の留置室が、各軍には留置場が、どの県にも懲治が設けられ、重罪を宣言された者や1年以上の刑に処せられた有罪者を収容するいくつかの中央監獄が置かれ、若干の港に徒刑囚監獄が設置された。かつての処刑台では受刑者の体が、儀式ばった調子で明示される君主権力のさらし者にされていたし、処罰の舞台の上で懲罰の表象が社会の構成員全体に常時示される恐れがあったが、そうした事態に変わって現れたのが、国家の管理装置の総体そのものに組み込まれる、閉鎖的で複合的で階層化された大いなる構造である。保護をする壁ではもはやなく、威光によって権力と富を誇示する壁ではもはやなく、19世紀に物質的であり象徴的でもある単なる形象となるだろう。早くも総督政府時代(1799~1804年)内務大臣は、今後活用される見込みのある各種の監獄について調査を依頼されていた。数年後には国費の見込みが建てられて、社会秩序を守る新しい城塞は、自らが体現し奉仕する権力の充足のために建設された。ナポレオン帝政はそれらを実はもう一つ別の戦い(対外戦争を指す)のために利用した。

ベンサムが一つの技術的計画として記述していておいた事柄を、ユーリウスのほうは一つの歴史過程の完成として読み取っていたわけである。現代社会は見世物の社会ではなく監視の社会である。我々がそう思うよりもはるかに、我々はギリシア的ではない。我々の居場所は、円形劇場の階段座席でも舞台の上でもなく、一望監視のしかけの中であり、しかも我々がその歯車の一つであるがゆえに、我々自身が導くその仕掛けの権力効果によって、我々は攻囲されたままである。歴史の神話学におけるナポレオンという人物の重要性は、多分その起源の一つをこの点に持つに違いない。この人物こそは、統治権の君主的で祭式本位な行使と、際限のない規律・訓練の階層秩序的で常設的な行使との、接合戦に位置するからである。