もし人がハデスの国(冥界)の存在を信じ、しかもそこにはいろいろと恐ろしいことがあると信じているとしたら、死を恐れない人間、戦いにおいては敗北や隷属よりも死を選ぶような人間になると思うかね?

いいえ、けっして。

するとどうやら、われわれはそうした物語についても、それを語ろうと試みる人たちを監督して、ハデスの国でのことをそう一概に悪く言わずにむしろ讃えるように要請しなければならないだろう。彼らが現在語っている事柄は、真実の事でもないし、やがて戦士となるべき人々にとって有益なことでもないのだから。

1000年後の「ムハンマドとジハードの戦士たち」である。

名のある立派な人物たちが悲しんだり嘆いたりするくだりも、我々は削除すべきだろうか。立派な人物というものは、自分の友である立派な人物にとって死ぬことが恐ろしいことだとは、けっして考えないだろうと我々は主張する。そのような立派な人物こそはとりわけ、よく生きるために自分自身だけで事足りる人であって、他の誰よりも格段に、自分以外のものを必要とすることが最も少ないのである

ベルセルク第7巻、グリフィス、「オレの采配で命を落とした仲間たちに何ら責任を感じていないよ。なぜならそれはあいつらが自分自身で選んだ戦いなのだろうから。このオレがそうである様にね。でももしあいつら死者たちのためにオレに何かしてやれることがあるとしたら、それは勝つこと。あいつらが命を懸けてまでしがみついたオレの夢を成し遂げるために勝ち続けることだ。俺の夢は仲間の屍の上に立つことでしか実現できない、しょせん血塗られた夢だ。そのことで後悔や後ろめたさはない。だが…何百何千の命を懸けながら自分だけは汚れずにいられるほど…それほど俺の欲しいものはたやすく手に入るものではないんだ。」

ベルセルク第6巻、グリフィス、「私にとって友とは、決して人の夢にすがったりしない…誰にも強いられることもなく、自分の生きる理由は自らが定め進んでいく者…そしてその夢を踏みにじる者があれば全身全霊をかけて立ち向かう…たとえそれがこの私自身であったとしても…私にとって友とは、そんな…対等の者だと思っています。」

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語り方の2つの種類といったのは、正しい吟唱のための語りはほとんど同じ調べを取り、単一の音調のうちになされることになるのではないかね。ではもう一人のほうの語り方は、まったく反対に、ありとあらゆる音調とリズムを必要とするのではないだろうか?なにしろこの語り方は、ありとあらゆる形の変化抑揚を持っているのだから。我々の国家にはこれらすべてのものを受け入れるべきだろうか。それとも混合されないどちらか一方だけにすべきだろうか?

優れた人物の真似を行う、混合されない様式を受け入れるべきです。

しかしね、アデイマントス、混合された様式だって確かに楽しいものだし、さらにずっと、子どもたちや、その養育係の者たちにとって、そして大多数の大衆にとって一番楽しいのは君が選んだのと反対の方の様式なのだよ

後のスティーブ・ジョブズ 神のプレゼンテーション、田中角栄、ヒトラー「歴史を変えるのは書かれた言葉ではなく、話された言葉による」、わが闘争より
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