さて、不正な人間をこのように想定したうえで、その横に今度は正しい人間を-単純で、気高くて、アイキュロスの言い方を借りれば「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む」ような人間を議論の中で置いてみましょう。正しい人間からはこの「思われる」を取り去らなければなりません。もしも正しい人間だと思われようものなら、名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると、彼が正しい人であるのは「正義」そのもののためなのか、そういった褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。こうして一切のものをはぎとって裸にし、ただ正義だけを残してやって先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち、何一つ不正を働かないのに、不正であるという最大の評判を受けさせるのです

この直後のソクラテスがまさにそうなるだが、(具体的に知りたい人はの「ソクラテスの弁明」へ)
その400年後の「イエス・キリストの犠牲」が必要悪であったと予言しているのである。

正義だけを残して、不正であるという最大の馮がんを受けたものは、磔にされる、とまで言っているので、まさにキリストの処刑の予言とも思えるのだが、予言というオカルトめいた表現は不適切かもしれない。哲学する=真理の探究、一つの真実に対して無数に存在しうる偽り。真理に言及すれば、一つの真実、それが繰り返される確率が高くなり、将来予想が当たったと拡大解釈ができるわけだ。だが、誰も将来を予測することはできない。市場競争の世界でも、成功した者が正確に将来を見通せていたわけではなく、誠実な対応=真理の追求、それが結果的に将来予想が当たったように見えるだけだ。

そういう意味ではこれは、後の「キリストの犠牲」に留まらず、後の「信仰・学問・言論・表現の自由が憲法上で保障されている」ことに、うすーーーく、つながっている。

不正な人間こそは、真実に即してことを行い、人の評判のために生きるのではない以上、不正と思われることをではなく、不正であることを望んでいる。彼はまず、正しい人間だと思われているがゆえに、その国の支配権力を手に入れるだろう。どこからでも好きなところから妻をもらい、誰であれ好きなものの所へ子どもたちを縁付けるだろう。誰とでも望むがままの相手と組んで仕事をしたり、交際したりするだろう。そして、不正を働くことを何ら気にしないから、そういうことをすべて、自分の儲けのために利用して利益を収めるだろう。さらに私的にせよ公的にせよ争いごとをのぞんでは、敵方に勝って多くを獲得し、より多くを獲得すればこそ金持ちとなって、友には恩恵を施し敵には害を与え、神々には物惜しみせず豪勢に数々の生贄を供え、捧げものを奉納するだろう。

国の支配権力を手に入れる=「我に通貨発行権を与えよ。さすれば法など誰が決めようがどうでもよい」 マイヤー・ロスチャイルド

仮想通貨は少なくとも、さらに10倍は上がる根拠

後の「ジョン・ピアモント・モルガンとベルサイユ条約」である。後の「人類史上最大の富の独占者ジョン・ロックフェラー」であるとも言える。これが資本主義批判、すなわち、私が「これが後のマルクスである」と言うことへの伏線である。だが、もっとマルクスに近い表現にまで、ソクラテス・プラトンが迫っているので、ここでは、資本主義批判に留めておこう。

ただここで、馬鹿と天才は紙一重ではないが、究極の不正と正義も紙一重である。詐欺師と言えるレベルの不正は語るに値せず、不正も極めれば歴史に名を残す。私は、モルガンとロックフェラーを悪者扱いするつもりはないが、プラトンの言うところの正義ではなく、不正な人間だと言っているのだ。