許永中の生まれ育った大阪市北区中津は、戦中から戦後にかけ在日韓国・朝鮮人が住み着いた地域である。いわゆる朝鮮部落ではないが、貧困にあえぐスラム街といえた。許は自らの歩んできた歴史をこう表現した。「レールの無い真っ暗なトンネル」
21歳の頃、許にとって事業に目覚める最初の転機が訪れた。西村嘉一郎という怪人物との出会いである。西村は経営コンサルタントとして、和歌山を中心に活動し、右翼や同和団体など幅広い人脈を築いていた。1938年生まれの70歳だ。西村は産経新聞の記者から独立し、その後、裏社会に足を踏み入れた。表向き「東洋通信社」というミニコミ誌を発行する出版社の経営者である。だがその裏で企業調査や警備会社のオーナーとして、和歌山県内の企業の機密事項をつかみ、にらみをきかせていた。西村の名前は、バブル景気前後の経済事件にもたびたび登場している。バブル期に計画された和歌山県の「フォレストシティ建設計画」というリゾート開発でも、その名前が取り沙汰された。県内最大手の地銀である紀陽銀行が、600億円も投入してぶち上げた開発計画だ。1993年に大阪地検特捜部が紀陽銀行幹部を逮捕し、当時の頭取が辞任に追い込まれた。また副頭取が自宅前で射殺されるという、ショッキングな出来事で知られる阪和銀行の事件でも、一部で西村と銀行との関係が噂された。阪和銀行は1996年に破綻し、翌年に和歌山県警が銀行の不正融資を摘発する。
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その西村には同じ和歌山出身の人物の強力な後ろ盾があった。西村のスポンサーだった大谷貴義である。政界では大谷は福田赳夫の刎頚の友と呼ばれ、百貨店「そごう」の最高顧問の肩書きを持ち、数十社の一流企業から顧問料を受け取っていたという。金融界では、旧三和銀行の裏顧問的な役割を果たしてきたというのが定説になっている。
「アンタはヤクザかな」 西村に連れられ東京・代々木の大谷の豪邸を訪れた許は、大谷からいきなりこういわれ度肝を抜かれた。これまで付き合ってきた不良たちとはまったく違う種類の人物だと感じる。
許が知り合った当初、大谷は紀伊半島の私鉄、「御坊臨港鉄道」(現紀州鉄道)の買収を計画していた。当時、御坊臨港鉄道は戦前に敷設された過疎地を走る「日本一のミニ私鉄」として、鉄道マニアにはポピュラーな存在だった。「磐梯電鉄不動産」でそこの発行株数の半分を取得。日中平和友好条約締結のときの外務大臣だった園田直や、福田内閣の坊秀男大蔵大臣秘書など、このころ許が大谷が西村を通じて知り合った人物は数多い。大谷自身の自宅増築祝いの際には、あの松下正治(後のパナソニック会長)と2人並んで受付までした。最終的に許は彼らとの出会いを否定的にしか語らない。大谷のことを以下のように見下している。
「だけど、ある時、犬が庭で『ワン』と吠えただけで、おっさん飛び上がって驚き、庭中サーチライトをつけて点検させた。その間、『なにか、なにか』と言うて、よう座らん。大物になってカネくさるほど持って、そのなれの果てがこれか、と思うてね。あほらしくなった。それでおっさんの元を去るんやけど、カネにこだわらぬ、大きなカネに驚かぬという私の原点は、犬のひと吠えに震えるあの人の姿やったね」
許は大淀建設(同和対策事業の請負会社)にかかわり始めた不良学生時代から、しばしば、大阪北新地の「あすか」というサウナでマンガ本を読みふけっていた。そこは、部落解放同盟飛鳥支部長の小西邦彦が設立したサウナだ。建設関係者はこの同和団体の幹部に会うため、「あすか」に通いつめていたが、許は仕事に役立てようとサウナに行っていたわけではない。たまたまこの「あすか」で知り合ったのが野村雄作である。雄作の父、野村周史は大阪政財界のフィクサーと呼ばれた関西の大立者である。
新興化粧品メーカー、「アイビー化粧品」会長という肩書きを持っていた野村周史は、「東邦産商」という東邦生命の保険代理店を経営していた。政界では、岸信介大阪後援会の世話役として知られる。そうした関係から長年、元大蔵大臣、渡辺美智雄の大阪後援会会長を務めてきた。長男の雄作が渡辺の秘書をしていた時期もある。許が野村姓を名乗るようになった契機は、関西のフィクサー、野村周史に可愛がられ、養子縁組をしたからだとされてきた。だが許永中と野村周史は正式な養子縁組などしていない。
許と西村が決裂したトラブルは、東邦エンタープライズのテレビコマーシャルをめぐるいさかいのようだ。許はリゾート会員権を売るため、関西テレビでコマーシャルを流そうとした。ところが、西村の不手際でCMが打てなかったという。それが原因かどうか定かではないが、あげく東邦エンタープライズは設立からわずか3年で倒産する。一説によるとこのときの負債額は20億円といわれている。こうしたトラブルのさなか、西村は東邦エンタープライズの専務から退いた。わずか2ヶ月で許のもとを去り和歌山に逃げ込んだ。このとき許は西村に1000万円貸付、それを持ち逃げされたように話す。もっとも西村本人に聞くと、事実は別の処にあるようだ。」あの会社はとにかく滅茶苦茶やったんや。従業員の給料やら経費は私が1億円以上も借金して支払っていた。借りいえれた金が会社に残っていたから、それを持って出ただけや。それで奴は怒った。けど、あのままやったらこっちが危なかったんや。だから、しゃあないやろ」
許にとって、東邦エンタープライズのトラブルは失ったものばかりではない。この時期の許永中人脈のなかで、忘れてはならない人物がもう一人いる。街金融業者「アイチ」の森下安道である。森下が率いるアイチは、ひところ、仕手筋やバブル紳士の駆け込み寺とまで呼ばれた。バブル当時は1兆円もの貸付資産があった。アイチはバブル崩壊後、特別清算され、サラ金のアイライフやイ・エスという不動産業を営んできたが、本人は再び絵画事業を興し、復活している。
「アイチの八重洲支店が永中に金を貸して、それが焦げ付いていたんです。3000万程度だったかな。それで八重洲支店長へ、そいつを一度連れて来い、と命じて本社へやってきたのが永中でした。まだ藤田永中と名乗っていました。」
「この場で焦げ付きをきれいにしろ」 アイチ本社に呼びつけられ、森下からこう迫られた。だが、マムシの森下に凄まれても、怯まない。
「わかりました。ついては新たに1億円ばかりファイナンスしてくれまへんやろか」 森下はあまりの図々しさに半ばあきれながら、半分はその並外れた人懐っこさに魅力を感じた。
「おまえは頭がおかしいのと違うか。なんで3000万円焦げ付いている相手に追加で金を貸さなければならんのか。まあそうやな、担保はあるのか」
結局、森下は3000万の返済を受ける代わり、新たに不動産を担保にして1億円を許に貸し付けた。
「私には何かことが起これば必ず面倒を見てくれる人がおるんですわ。東邦生命の太田社長・・・。私にとっては神様なんです。この人がついているから、何があっても大丈夫なんです。」
太田清蔵、東邦生命創業者一族の6代目当主である。
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