スキピオ・アフリカヌスの力によってイベリア半島は前206年に完全にローマの手に帰した。スキピオが翌年ローマに帰ってカルタゴ攻撃を申し入れた時、元老院はいつもの慎重さからそれに反対した。国庫の窮乏は甚だしいし、イタリアの端にはまだハンニバルが機会を狙っているのである。ところがスキピオは民衆の間にカルタゴ討伐論を盛り上がらせ、ついに遠征の司令官となった。上陸後カルタゴはいったん降伏を認めた。しかしこの期に及んで召還されたハンニバルが1万5千の老兵を連れて到着した時、カルタゴの主戦派と前202年ザマの会戦となった。ハンニバルは多数の像を並べたが、この武器もローマ軍の研究と対策によって全然役に立たなかった。優勢なローマ側の騎兵が敵の騎兵を蹴散らした後、敵陣の背後から包囲したので勝敗が決まった。ハンニバルがかつてカンネーでローマ軍を全滅させた時の作戦を用いてスキピオは大勝したのだ。
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元老院の支配の打倒を目指す大計画をいだいて、ガイウス=グラックスが前123年の護民官に当選した。彼がこの年と新しい法により重任が合法となったのでその翌年に、護民官として行った改革は実に多岐にわたっている。その1つ、穀物法は土地分配と矛盾するように見えるが、ローマ市の民衆に対し穀物を一定の値段で安く売る策を講じたものであった。その後にはじめる無償分配とはちがうが、首都の大衆をつかむための民心収攬策の色彩は否定できない。しかし彼の元老院への攻勢を露骨に示したのは、あの「騎士」身分の連中の歓心を買った一連の改革である。その第一はローマに遺贈されて属州アジアとなったペルガモン王国の故領に対する徴税の法である。アッタロス3世の遺言に都市は免税の条件のあったのを無視し、1/10の地租の請負入札をローマ市で行うことと定めたため、ローマの「騎士」仲間の組合が利益の多い仕事にあたりうることとなった。第2に在来属州での苛斂誅求を裁く常設法廷は元老院議員が構成していたのを、今後は「騎士」の身分の者のみから攻勢されることとした。「騎士」はこの変革によって財界から政界に進出したというわけであるが、この身分を抱き込んだガイウスの新法は元老院に対する公然の挑戦であった。
ネロの迫害は、ローマ政府のキリスト教迫害の最初の事件であった。一方ユダヤ人はネロの晩年に当たる66年にあの熱心党を前衛とする独立反乱、すなわち第一次ユダヤ戦争を起こした。はじめはローマ駐留軍の手薄に乗じ、戦いに勝ってパレスティナを解放し、エルサレムに独立政府を立て大祭司などの支配層が要職を占めたが、翌年にはローマ軍はパレスティナに進攻し、68年はじめまでにエルサレムに迫った。ユダヤ人の側も三派に分かれて争い墓穴を掘った。エルサレムにいたユダヤ人のキリスト信者はこの戦争に加わらず、ヨルダン川の向こう岸にわたった。68年ネロがみじめな最後をと、帝国内が乱れた時に、ウェスパシアヌスも帝位争いに一枚加わってローマにおもむくことになり、ユダヤのことは長男ティツスにゆだねた。70年4月ティツスはエルサレム包囲攻撃をはじめた。8月29日ついてに神殿も陥落し、祭壇のまわりには屍の山がきずかれた。ティツスの意思に反して善美をつくした神殿に火がつけられ炎上してしまい、火焔の中から祭司によって運び出された宝物もローマ軍が戦利品として奪い去った。エルサレムは廃墟のまま放置されていたが、60年後のハドリアヌス帝のとき、帝がエルサレムを異教都市として復興し、かつての神殿所在地にローマのジュピター神殿をたてようと計画したことなどから、ユダヤ人はふたたび反乱に立ち上がった。第2ユダヤ戦争の首領はバルコクバ、エルサレム西方10キロの丘にたてこもったが135年には刀折れ矢尽きて全員最期を遂げた。エルサレムの再建は戦前の計画通りに実行に移され、ローマ植民市がつくられ、ジュピター神殿が建てられた。ユダヤ人はエルサレムに入ることを厳禁され、これを犯すと死刑になった。ただ1年の1回、第一ユダヤ戦争のエルサレム陥落の日にだけ神殿の廃墟の壁にすがって歎きの祈りをなすことが許された
マルティアリスはイスパニア出身の詩人であり、ドミティアヌス帝のころろーまで活躍した。「ケメルスはマローニラに求婚している。かれはそれを望んで、しきりに迫り、懇願し贈物をしたりしている。それほどまでにかの女は美人なのか、とんでもない、これ以上醜いものなしの代物だ。では一体かの女のどんな点が気に入って求めているのだ。かの女が咳をしているからだ。」 これは遺産狙いをもじったものである。
「妻は奸智にたけている。まず見張人と通じはじめる。この道ばかりは身分の高い者にも低い者にも変わりはない。鋪道の黒い石を裸足ですりへらしているような女でも、背の高い屈強なシリア人の奴隷達の肩に担がせた輿に乗って歩く女と優り劣りはない。」 ローマの婦人がすべて浮気であったわけではなく、またすべての女性が「鉢や鈴が一時にたたかれるといっていいほどすさまじい勢いで」まくしたてたわけでもないであろうが、風刺の本質は公平を欠くところにあって、ローマの貞淑な婦人たちのことを語るのは墓碑銘や小プリニウスの書簡にゆだねたのであろう。
マルクス=アウレリウスの子。コンモズスは父帝がウィーンでなくなるとただちにマルコマンニ族などと和を結んでローマへ帰った。辺境地方はなおおおむね平静を保っていた。しかしコンモズスは第二のネロで、政治は気に入りの側近にゆだね、日夜道楽にふけった。かれは体力に自信があったのでヘラクレスの化身を気取り、自分を神として示す貨幣を発行した。また剣奴(グラディアトール)の扮装をして闘技場に現れ農民の喝采を求めたりした。かれは元老院を無視する一方、近衛軍の俸給を増額してその機嫌をとった。財政は乱れ、有力者の財産没収などでは間に合わなかった。こうした陰謀が続いたのち192年末、近衛長官、侍従長、それに寵愛を失ったかれの妾が共謀し、剣奴をつかってかれを浴室でしめ殺させた。
> グラディエーターのコモドゥトスです。
セヴェルス=アレクサンダーに代わって皇帝になったのはトラキアの農民出のマクシミヌスで一兵卒より身をおこし、巨体と怪力、そしてとほうもない大食で軍隊の人気を集めた男であった。しかしかれは元老院の承認を得ることができず、イタリアに向って進軍中、部下の反乱によって殺された。
> マキシマス? 人違いかね?

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