アテネ民主政治の仕組み
古代民主政治の基本的な原理は、市民の間に治める者と治められる者との差別をなくすることにあった。つまり職業的官僚を認めないのである。そのために役人の任期を限定する必要があり、それは1年で重任再任を禁止した。もっとも10人の将軍のように経験を必要とした重い役は何度でも重任を認め、事実ペリクレスは15年間連年この役についていた。また財産によって就任資格が決められることもこの原理に反するので、本来国家の最高官職たる9人のアルコンの役も前457年にソロンの制度での第三級の市民にまで開放された。第4級の市民は法制上は除外されたが、実際には財産による資格はあまり重視されなくなったらしい。もっとも高級財務官は第一級の市民に限られたが、これは公金横領とか収賄とかいつの世にも役人につきものの過ちが当時も少なくなかったことを物語っている。


ペロポネソス戦争は前431年~404年までアテネとスパルタとが行った戦争である。双方とも味方に同盟諸市をもっていたうえに、2つの同盟のほかのポリスもこれに引き込まれたから、ほとんどギリシアを二分した大戦争であり、ギリシャ社会に及ぼした影響もすこぶる大きかった。われわれがこの戦争についてかなりくわしい知識を持っているのは、アテネの歴史家トゥキディデスのおかげである。この人自身が将軍として戦争に働いたが、ちょっとした失敗から追放にあって戦争の局外に立ち、第三者的な立場で史筆を進めたのであった。トゥキディデスよりわずかばかり先輩のヘロドトスの書いたペルシア戦役の歴史が特に有名でこの人は後世歴史の父と呼ばれた。幸いに今日まで伝わったこの史書は、子供のように旺盛な好奇心による探求、聞いたままを伝える素朴な態度によって限りなく面白い読み物である。トゥキディデスの歴史はこれとは全然性格が違う。その序文には、この戦争が起こると同時にそれがいままでにない大戦争であることを察してただちに史筆をとった、と記されているが、ヘロドトス風の楽しい読み物に対して彼は意識的に反対し、もっぱら客観的に正確な事実を伝えることを目的とした
前371年レウクトラの一戦に、無敵と恐れられたスパルタ陸軍がエパミノンダスの率いるテーベ軍に無残な敗北を喫した。この敗北でスパルタの名声は地に落ちただけでなく、多数の戦士は市民人口の減少に拍車をかけた。スパルタ軍が負けたのはエパミノンダスの考え出した新しい戦術にすっかりひっかかったためであった。それまでは重装歩兵の合戦というと、両軍とも大体8人くらいの深さの密集隊を一列に並べて戦うものであった。ところがこの天才的戦術家は、一方の翼に非常に厚い密集隊を配し手薄な隊は斜め後ろに配列させ、主力部隊が必ずそれより劣勢な前面の敵を撃破した後に、転回して敵の全軍を包囲し殲滅するという戦術を考え出したのであった。斜線陣と呼ばれたこの戦法は、名将がこれを用いれば非常な力を発揮できる。
20歳でマケドニア王になったアレクサンダーが13歳の時、当代随一の大学者アリストテレスが彼の家庭教師に招かれたのである。アリストテレスはプラトンの最大の弟子であるが、師が歿した前347年までアテネの師の学園で20年間勉学を続けた後小アジア西岸の諸所で公演を開いた。彼がアレクサンダーを教えたのは3年間であるが、この時代にアリストテレスは師のプラトンのイデア説に対する批判を公にしており、また現実の政治についても後の有名な「国家学」の一部を書き上げていた。それゆえ若い王子が倫理学や政治学の手ほどきを受けたことは容易に察せられるが、師の感化はそれだけにとどまらなかった。アレクサンダーは遠征中も筆まめでよく手紙を書いているが、天性の学問好きで読書を好んだ。ことにホーマーの『イリアド』を愛読し、短剣と一緒に枕の下に入れて寝たほどで、またアジア遠征中にも三大悲劇詩人の作などをギリシアから送らせている。しかしもっと注目すべきは彼の自然科学への興味の点である。天文学、生物学にまでわたるその学識の広さと、プラトン、いなそれまでのギリシアの哲学者一般の風と違って、経験的事実を広く集めて帰納する方法を特色としている。アレキサンダーの遠征軍には学者達も従軍して、はじめて見る地域の動植物や地理を記録し、またエジプトに入ったときには、調査隊がナイル川の上流まで送られ、この川の定期的氾濫がアビシニア地方の季節的豪雨によって起こることをはじめて明らかにした。
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アレクサンダーの実行した政策の中で、一番よく知られているのはいわゆる「東西人種の融合」であろう。それは前324年、スーサに帰り着いた時、集団結婚の形で実行に移された。マケドニアの貴族たち約80人にペルシアの高貴な女性が割り当てられ、アレキサンダー自身はダリウス3世の娘を娶った。彼は3年前にバクトリアの貴族の娘ロクサネーの美しさに魅かれて正式に結婚していた。ここでアケメネス王朝の王女を妃にしてアジアの大帝国の支配者たる尊厳を加えた。王とロクサネーの結婚は恋愛から出発したと伝えられるが、対原住民政策への考慮が無かったとはいえまい。実際に集団結婚させられた160人は、征服者のマケドニア人と在来の支配階級だったペルシア人、イラン人である。それは人種から言えばともに白人であり、今日の言語学の分類でいるとともに印欧語族の人々だった。エジプトの農民とメソポタミアの農民といった被支配階級同士の通婚による人種融合を考えるほど、かれは夢想家だったろうか? 現実には人種は伝統の文化をもった民族としてあるものだし、この王は各地の宗教に対する寛容な政策にも見られるように、民族文化の尊重が統治の上に重要なことはよく心得ていた。マケドニア人、あるいはそれに加えてギリシア人とがペルシア人とをギリシア系文化によって融合させ、かれらの「共同の支配」によってアジア帝国を維持してゆくのが集団結婚の狙いであった。しかし、実際には王の命令による同棲生活は決してうまく行かなかった。王の死後ペルシアの女たちはたちまち離縁されたり、妾あつかいされた。
アレクサンダー帝国の一知事として「ナイルの賜」を治め前305年から王と号したプトレマイオス(1世)、前283年その後を継いで王国の制度を整え、国土開発を強力に推進してエジプトを有史以来の繁栄に導いたプトレマイオス2世以下の歴代の王が意識的にとった政策がもっとも問題である、それは2000年以上も前から現つ神である専制王が官僚を通じて農民を支配し、神官たちと神殿領が特別の地位を占めたここの社会の基本的性格をなるべく温存しながら自分の支配をうちたてるという簡単でない仕事であった。国家の繁栄のためにギリシア人の移住は望ましい。しかしギリシア的生活の特色だった自治権を持つ都市を、この王朝は国内になるべく作らぬ方針を堅持した。
昔からエジプトの王は現つ神であったから、マケドニア人の王でも原住民から神的崇拝を要求することは難しくなかった。しかしギリシア人と来世の信仰に凝り固まったエジプト人とを宗教の上でどう融合させるかは、ちょっと考えても難題である。初代プトレマイオスは、新しい国教を案出して問題を解決した。このマネトはギリシア語でエジプト史を書いており、ヘレニズム史学史のうえでも見落とせない人物であるが新国教の神にはことメンフィスでエジプト人にあつく信仰されたサラピスという冥府の神が選ばれた。その神殿が新都アレクサンドリアに建造され、そこではエジプト古来の女神イシスも一緒に祀られた。この二柱の神はたちまちエジプトの神々の首位に登ったばかりでなく、エジプトの外にまで広く信仰されるようになった。
哲学は依然としてアテネが中心であった。それは歴史的にみて極めて自然だったが、アレクサンドリアの学問に見られる人文系の不振は、自然科学がえらく優遇されて素晴らしい成果を挙げているだけに、今日の我々にも深く考えさせるものがある。人物の評価を伴う歴史学、政体の得失を論じる政治学-こういった学問は、専制王にとってはなるべく遠ざけておいたほうが良かったのであろう。「幾何学に王道なし」という有名な言葉は、『幾何学原論』(ストイケイア)の名著を書いたエウクレイデス(ユークリッド)がプトレマイオス1世に対して述べたものと伝えられる。人文系のうるさ型はいなくても、王と学者たちの仲はいつも平穏無事でもなかったらしい。それは前145年に首都の知識人の不評のうちに王位についたプトレマイオス=エウエルゲテス2世が学者たちをアレクサンドリアから追放せざるをえなかったことで明らかである。自然科学者がはなばなしい業績を上げたのはヘレニズム時代初期の前3世紀のことであり、またこの学者追放事件以来、アレクサンドリアは学芸の中心としての位置を失った。
科学の工業生産への応用はまずなかったと言ってよかろう。その理由は奴隷という比較的安く使える労働力が豊富にあったから、苦心して機械を発明する努力が行われなかったとするのが通説である。ヘロンという、紀元二世紀の科学者がやはりアレクサンドリアで活躍した。この人は今日の自動販売機程度の機械を発明したし、蒸気力で物を動かしうることも知っていた。ところがこの知識は工業生産に向けられるどころかエジプトの神殿でお賽銭を入れると清水が出る仕掛けに応用されただけだった。ただ1つ戦争の技術の方面には機械学、力学が多少利用された。故郷のシラクサに帰ったアルキメデスがローマの大軍によってこの市が前213年に包囲されたとき、彼の創意になる起重機や大投石機などで敵を悩ませていたという伝えはその一例である。
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