どうして朕の代になって倹約ばかりしなければならないのか? その最も大きな理由は人民が外国からアヘンを買うので、銀
が流出するせいである。税収が増えないのもその分だけ人民がアヘンを吸って働かないからだ。国外に流出する銀も本来なら
国庫に入るべきものではないか。道光帝はアヘンを憎んだ。こんどこそ、徹底的に禁じてやると一人でいきり立った。
 エリオットは、イギリス人所有のアヘンを全部供出する手紙を書き、その数量は20283箱と通告した。アヘンの容器は
おもにマンゴ材で百斤入りの箱の長さは約1メートル、幅と高さが50センチ程度である。これを二万個も収める倉庫は、虎
門のような片田舎には見つからない。そこで広場に頑丈な柵を設け、漆塗りの蓋をかぶせた臨時倉庫を作った。そのまわりを
監督の文官12名、将校10名、兵卒100名が昼夜警備するというものものしさであった。林則徐の日記によるとアヘンの
収容をはじめたのは太陽暦4月11日にあたる日で全部完了したのが5月18日となっている。実に1ヶ月以上もかかったわ
けだ。虎門で収容したのはここから水路で北京へ運ぶつもりだったからだ。ところが、御史のとうえいという人物が、そんな
大量のアヘンを皇都に持ち込まれては物騒だし、途中で盗まれたりすりかえられたりするおそれがあると、移送に反対を述べ
た。アヘンを北京まで運ぶのは、任務完遂の証拠にするため
である。道光帝は林則徐のいうことなら証拠無しで信用しようと
考えたのである。林則徐はこの上論に奉じてアヘンの処分法を研究した。アヘンの場合、焼いても消滅しないのである。油を
かけてやいてみるとその残膏余歴が地中に滲み込んで、後で土を掘って煮ると2割から3割のアヘンを再生できることが判明
した。アヘンの性質を調べてみると、その最も忌むのは塩と石炭であることがわかった。50メートル四方の人工池、四方に
は板を打ちつけ底に石を敷いた。大量の塩を投入し、箱から取り出した球状のアヘンの塊を半日ほど塩水に浸しておく。それ
から焼石灰の塊を投入すると煙を上げて沸騰するように見える。人工池の上には板をかけ渡し大勢の人夫がそのうえにのって
長い棒でかきまぜ、アヘンのかけらを速く溶解させるようにした。そして引き潮のころを見計らって海岸側の水門を開け、海中
に放出する。
マカオはポルトガルの植民地とされているがアヘン戦争当時は、はっきりそうと言えないところがあった。ポルトガルは明代
にマカオの占拠を始めたがそのいきさつについては諸説がある。ポルトガル船が船に積んだ貢物のぬれたのを乾かすためにこ
の地を一時借りたのがうやむやのうちに占拠のかたちになったという説もある。あるいは官軍の海賊討伐をポルトガル人が援
助したのでその褒賞として特別居住の恩典が与えられたともいう。その後、ポルトガル人はなんどもマカオの割譲を中国の当
局に申し入れているが、それは許されなかった。しかし、ポルトガルは総督を派遣して自国の植民地のようにみなした。そし
て、中国でもマカオは自国領だからずっと役人を派遣して統治にあたらせた。奧門同知がそれである。ポルトガルにすれば正
式の割譲を受けていないのでもしここで問題を起こせばやぶ蛇になるおそれがあったため、中国側の役人派遣については意義
を申し立てなかった。そして歴代の奧門同知に賄賂を贈っていたらしい。中国の役人もポルトガル総督の存在を黙認していた。
したがって当時のマカオは両国の馴れ合いという奇妙な統治形態を持った土地であって、植民地というよりは「特殊居住地」
とでもいった表現をすべきだろう。だから清国欽差大臣の命令はマカオでも生きることになる。できるだけ英人を保護したい
とは思ったが、林則徐の英人に対する兵糧攻めを強権で妨害することはできなかった。
 もはや諸君の安全を保証できなくなった。ポルトガル総督が、エリオットにそう通告した。
ロンドンでは、追われるようにして広州を去ったジャーディンやマセソンといったアヘン商人が、パーマストン外相に清国を
鷹懲せよと運動していた。イギリス政府が集めている情報によれば、清国軍隊とくに海軍はあって無きが如きもの、というこ
とになっている。英国のフリゲート艦一隻は、全清国海軍一千隻の兵船を撃破しうる。イギリス政府が正式に清国への派兵を
決定したのは1840年の2月のことであった。戦費の支出は賛成271票、反対262票、僅か9票の差で承認された。
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