悪という言葉がつくものには当然ながらあまりいいものはない。悪事から始まって、悪人、悪運、悪書、悪臭、
悪習、悪名・・・きりがないが、どれをとってもマイナスイメージがついてまわる。できることなら、こういう
言葉とは、あまりお近づきになりたくない。では悪女はどうか-。辞書を引くと『容姿の醜い女、性格の悪い女』
とある。へえ、と意外に思われる読者も多いことだろう。わたしも思った。どうも悪女に関する限り、辞書を作
成する側と世間一般とのイメージとは、かなりへだたりがありそうだ。「きみって悪女だね」と言われて怒る場
合ももちろんあるが、ちょっと嬉しい気がしないでもない。一般的にいう『悪女』という言葉には、男を惑わ
せる魅力的な女、というイメージがあるからだ。ついでにいえば、謎めいている、頭が良い、決然としている、
という意味合いも含まれている。単純で気弱で頭の悪い女は、悪女の名にあたいしない。むろん、悪女には残忍、
冷酷、意地悪という要素も、ないわけではない。だがそれでも良い。魅力的ならば、と男も女も胸をときめかせ
てしまう。そういう存在が悪女なのである。
悪女は美女でなければならない。周囲に大きな影響を及ぼす女でなければならない、まっとうでない男性関係が
なければならない。この条件をすべて満たし、なおかつスケールの大きい悪女と言えば、東洋ではなんといって
も西大后ではないだろうか。皇帝の愛をひとり占めせんがため、彼女はライバルである側室の手足を切り落とし、
生きながら甕(カメ)の中に閉じ込めてしまうのだ。西洋には皇帝ネロの母親アグリッピナ(権力を握るため、次々
と身内を殺した)、エリザベート・バートリ(自分の若さを保つため何百人もの娘を殺し、その血で湯浴みした伯
爵夫人)などという伝説の悪女たちがいるが、悪のスケールの大きさではわが東洋の西大后も決してひけをとる
ものではない。
それを知るには、まず後宮という怪しくも華麗な女の園を除いてみることだろう。俗に、後宮三千人といわれる。
三千人もの美女がはべっているという意味だ。そんなにいたかどうかは別として、日本の江戸時代にあった大奥
同様、ここが皇帝のためのハーレムであったことは事実である。清朝の後宮における女性たちには、さまざまな階
級があった。位の高い準から行くとまず第一階級というのが、皇帝の祖母であたる太皇太后、皇帝の母親である皇
太后、そして皇帝の正妻である皇后。第二階級は7段階に分かれた妃賓、つまり皇帝の側室たちだ。皇貴妃1名、
貴妃2名、妃4名、賓6名となっている。この下にある貴人、答応、常在という位には決まった数がない。何人いて
もいいということだ。最後に第三階級というのがあり、これは宮女と呼ばれる召使たちである。低い身分ではある
がもし帝の眼にとまり寵愛で儲けることになれば妃賓の身分に出世することも可能だった。
1850年、時の皇帝、咸豊帝は21歳だった。美人で頭の回転が早く、歌が抜群にうまい蘭児はたちまち皇帝の心をと
らえた。側室に選ばれたことで彼女は貴人の位を得たのだが、3年後、賓の位に上がった。さらにその3年後、男
の子を産み、貴妃の位まで昇進。名前もこの時点で、懿貴妃と変わった。彼女は時代皇帝の母君になったのだ。
娘が出世すれば実家も当然その恩恵をこうむる。本人の懿貴妃も栄耀栄華も思いのまま、人も羨む天上人である。
普通の女ならここで大満足したことだろう。だが彼女は、自分の足元、つまり清という国の基礎がいま崩壊寸前に
あることを皇帝以上にはっきりと認識していた。清朝といえば、一次は文化、経済ともに大発展をとげたアジアの
主である。だがそれは昔のこと。巨大ではあるが、支配者層は贅沢に溺れ、農民達は貧苦にあえぐという、腐敗し
た国家に成り下がっていた。農民の暴動が各地で相次いでいる上に、新興宗教団体や回教徒たちまで反乱を起こし、
国じゅうが乱れている。そこへ海外市場を狙うヨーロッパ列強まで進出してきた。ことにイギリスは、阿片とい
う危険なものをどんどん売りつけてくる。彼らの持ち込む阿片がこの調子で蔓延すれば、国は遠からずほろびてし
まう。たまりかねて輸入禁止にすると、イギリスは武力でこれを潰しにかかった。これが歴史に名高い阿片戦争
である。こうして国の内外から攻め込まれているというのに専制君主である咸豊帝は、女の肉体に逃げ込むしか能
がなかったのである。懿貴妃はこれに苛立った。各省から皇帝のところへ届けられる報告書を自分も熱心に読んだ。
そしてどうすれば清朝を立て直すことができるのか考え、思いついたことを皇帝に進言した。こんなことは皇后を
始め、他の側室たちには考えられないことだった。女はただ美しく可愛くあればよい。だが懿貴妃だけは違った。
自分には国の支配者としての実力があると信じ、その野望を実行に移す度胸さえも持ち合わせている女だった。
皇帝が死ぬと皇后や側室たちは、俗世間を捨てて尼になるのが宮廷のならわしである。だが男勝りの懿貴妃が
そんな慣例に従うはずもない。幼い息子を皇帝に即位させ、粛順ほか実権を握る大臣たちに立ち向かう姿勢を明
らかにした。
野心家である西太后はあまり母性的な女性ではなかったらしい。同治帝は実の母である西太后にはほとんどなつか
ず、やさしい東太后の方を慕っていた。18歳の時、東太后が勧めた娘と夫婦になったが、西太后は、同治帝に側室
のところへ通うよう厳しく意見したり、宦官に街の遊郭へ連れ出させたりして、夫婦を切り離すようなことばかり
画策した。これが思わぬ悲劇となった。同治帝は遊郭で性病をうつされ、さらに天然痘まで患って重病人になって
しまった。妻である皇后が見舞いに行くと、おまえのせいで皇帝はこんなことになったのだと皇后を怒鳴り、彼女
が妊娠中であったにもかかわらず、鞭で激しく打った。同治帝が1875年に死亡すると、この哀れな皇后は、すぐに
後を追って自殺したという。おとなしい東太后もこの事件にはショックを受け、あなたのやり方はひどすぎると西
太后に抗議した。西太后はすかさず、人がよいばかりでは宮廷を治めることなどできないと反論した。すると東太
后は、西太后のもっと痛いところをついてきた。彼女の乱れた男性関係である。西太后の寝室には二人の男が足し
げく出入していた。男といってもこの場合、宦官という性を超越した存在である。本来ならどこに出入しようと
文句の出る筋合いはない。だが若い未亡人である西太后が特定の宦官を偏愛し、深夜の寝室にたびたび招き入れる
とあっては怪しまれるのも無理はない。二人のうちどちらかが偽の宦官で西太后は妊娠した挙句に流産した、とい
う噂までまことしやかに囁かれていた。東太后はそれを持ち出して非難したのだ。それから6年後、東太后は西
太后から贈られた餅を食べた後原因不明の急死を遂げた。西太后が毒殺したという噂があるが、これも真偽の程は
わからない。
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西太后
皇帝の愛をひとり占めせんがため、彼女はライバルである側室の手足を切り落とし、
生きながら甕(カメ)の中に閉じ込め
エリザベート・バートリ
自分の若さを保つため何百人もの娘を殺し、その血で湯浴み
こんな悪女いたんですね。。
はんぱねぇ。。。
私の中では金賢姫を越えました
すげぇ。。。
知らないだけで、隠れた良い女いっぱい居るよ。本の中には・・・。
ウクライナのティモシエンコは昔は人気あったね。
今で言うところの可愛すぎる首相。
サルコジの元奥とか、ルイ・ドレイファスちゃんとかもなかなか良い。
しかし・・・、なんで現実には、つまらん民女ばっかりなのか教えろ。