ガンディー登場
1918年夏、戦時中有効だったインド防衛法(弾圧法)で言論や政治活動を取り締まり、テロリストは言うに及ばず、多くの
民族主義者を有無を言わさず投獄してきた政府であったが、戦後6ヶ月で失効となるため、その踏襲「ローラット法案」が発表
された。令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、即決裁判に上告を認めない という暗黒法であった。
インド全土に激しい憤りの波がさかまいた。そして、このローラット法反対の国民運動の新しい指導者が現れた。
マハトマ・ガンディーである。
ガンディーは当時のインドのほとんどの政治指導者と違って、第3階級ヴァイシャに属する商人層の出であった。
ラスキンの思想に共鳴して、自給自足の共同農場の設立、そこで同志を教育した。自らの生涯、厳格な禁欲生活を
おしとおした
。人頭税・指紋登録法・インド式婚姻無効法などの差別的悪法に対してねばりづよい非暴力の抵抗を
展開、受難と入獄をかさねたうえ運動を勝利に導いた。
いかなる暴力や欺瞞に訴えても目的さえ達成できればよいとは考えなかった。不正な手段は、どんな崇高な目的によっても
正当化されることはない。いや、むしろ、目的が崇高であればあるほど、正しい手段が要求されるのだ。
正しい手段とは「サティヤーグラハ」(真理把握による精神の戦い)と呼ばれ、ヒンドゥーの教えの愛と非暴力を現実の場で
実践することである。ガンディーの言う非暴力とは一般に考えられているような、敵の権力の前に諸手をあげて不平・不満を
陳情するだけの無気力な消極的戦術ではない
。彼が「サティーヤーグラハ」という独自な語を用いたのも、実はそうした消極
的・受動的抵抗と積極的・非暴力抵抗とを明確に区別したかったからである。それは愛と自己犠牲によって、相手の良心に
訴え、相手の鉾先をにぶらせる方法であり、血なまぐさい武器の使用を伴う運動よりはるかに積極的で、有効な武器である

ガンディーの演説に熱狂した群集が自分の着ている衣服を脱ぎ、商店から外国製の布を持ち出して山と積み、火を放った。
イギリス製綿布こそは、インドの富を収奪し、インドの経済を破壊したイギリス植民地支配の象徴である。こうした民衆の熱狂
は憎悪や暴力と紙一重である。
食うために働く必要の無い私が、なぜ糸を紡ぐのか、と聞かれるかもしれない。あなたの懐に入ってくるすべての貨幣の跡を
たどられるがいい。そうすれば、私の言うことが真実なのを実感されるだろう
。何人も紡がねばならない。
塩税法への挑戦 ガンディーの天性的ともいえる情勢判断の的確さ
暑いインドでは塩は想像以上の必需品である。しかも塩は自然の恵みであり、外国政府が高い税金をかけて専売に付す
べきものではない。会議派の多くの指導者たちは「塩のようなごくありふれたものを全国的な闘争とうまく結びつけて考えられ
なかった」ために、ガンディーの意図をじゅうぶん理解できなかった。
選挙制度問題1932年
選挙区の数は、ヒンドゥー教徒、モスリム、シク教徒、英印混血人(アングロインディアン)、ヨーロッパ人、被圧迫階級、
インド人キリスト教徒、商工業者、地主ならびに資本家、労働者、大学関係者、婦人の12に細分されていた。
その狙いは明らかに、少数派擁護の名目の元に、政治的に目覚めたヒンドゥー勢力を抑圧することであった。そのため
ヒンドゥー社会をさらにカースト・ヒンドゥーと被圧迫階級すなわちカーストにも属さない不可蝕賤民(アンタッチャブル)に
分離し、法律によって一定数の議席と別個の選挙区を賤民に与えることになったのである。これこそ、インドの複雑な社
会事情を巧みに利用して各党各宗教間の対立を激化させ、民族の統一を阻止しようとする、いわゆる分割統治の典
型的な実例である

インド独立とパキスタン建国
「国民という語のいかなる定義にてらしてみても、モスリムは1国民である。ゆえに彼らは、その祖国を、その領土を、その国家
を持たなければならない。」byジンナー
「対外政策というものは主として、その国の利益という見地から決定されるべき現実的問題である。」byチャンドラ・ボース
モスリム連盟は、モスリムの国パキスタンとヒンドゥー教徒の国ヒンドゥスタンのための2つの憲法制定会議の設立を要求する
国家分割案を決議し、その要求に憤慨したヒンドゥー教徒との間に衝突が起こり、死者4700人負傷者15000人を出す
「カルカッタの大虐殺」を合図にインド全土が未曾有のコミュナルの渦中に巻き込まれていった。
マウントバッテン卿は、会議派、ムスリム連盟、シク教の指導者たちの問題の複雑さと情勢の険悪さに、分割は避けがたいと
の判断をもつに居たり、インド・パキスタンの分離独立を譲渡の日を予定より1年も早めて1947年8月15日と定めた。
ヒンドゥー=モスリム騒動など情勢があまりにも緊迫し行き詰っていたためだろう。裏を返せばイギリス帝国主義はインドをそこ
まで追い詰めた時にはじめて手離したということである。