「道徳教育」について意見を聞かれた。「道徳教育はどのような点から始めたらよいのでしょう」と言った。
「それは簡単なことでしょう。まず、日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明からはじめればよいと思います。と私は答えた。ところがこの返事がまことに意外であったらしく、相手はあきれたように私を見て言った。
「そ、そそ、そんなこと言ったら大変なことになります」
「どうしてですか。私は何も”差別せよ”と主張しているのではなく、ただ”差別の道徳である”という事実を事実として子供に伝えることが第一だといっただけです。」
「そうはおっしゃっても、それはまあ理屈で、現場の空気としましては、でも・・・で、どんな事実がありますか」
簡単な事例を挙げた。三菱重工爆破事件、道路に重傷者が倒れていても人々は黙って傍観している。ただ所々に人が固まってかいがいしく介抱している例もあったが、調べてみると、これが全部その人の属する会社の同僚、いわば「知人」である。ここに、知人・非知人に対する明確な「差別の道徳」をその人は見た。
「そんなこと絶対にいえませんよ、第一、差別の道徳なんて」
「ではあなたは、三菱重工の事件のような場合、どうします」
「ウーン、そう言われるとこまるなあ、何も言えなくなるなあ」
「なぜ困るのですか、なぜ言えなくなるのですか。何も困ることはないでしょう。それをそのまま言えば良いはずです。みなそうしているし、自分もそうすると思う。ただし私はそれを絶対言葉にしない。日本の道徳は現に自分が行っていることの軌範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば例えそれが事実でも、”口にしたということが不道徳行為”と見なされる。これが日本の道徳である。大人たちは皆こうしています。だから、それが正しいと思う人は、そうしなさい、と言えばよいでしょう」
「とってもとっても第一、編集部が受け付けませんよ」
「どうしてですか、言論は自由でしょ」
「いや、そう言われても、第一うちの編集部は、そんな話を持ち出せる空気じゃありません」
大変に面白いと思ったのは編集員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は何やらわからぬ「空気」に、自らの意思決定を拘束されている。彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果ではなく、「空気」に適合してるからである。以前から私はこの「空気」という言葉が少々気にはなっていた。この言葉は一つの絶対の権威の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振るっているのに気づく。「当時の空気では・・・」「あの頃の社会全般の空気を知らずに批判されても・・・」 至る所で人々は何かの最終的決定者は「人でなく空気」である、と言っている。
1983年の本だが、現在の日本も「空気読め」とか言うが、その空気って何だ? まさに日本人の非論理性を象徴するような言葉で、これを肯定するから責任が不明確化し、なんだかよくわからない状態になるのである。