南ミンダナオ圏は決して一様ではない。生態系としてはっきりと2つの土地に分かれる。コタバトはミンダナオ第一大河プランギの河口に位置し、多くの支流を集めるその沖積平野は農業地区であり、水田稲、陸稲、バナナ、キャッサバ、野菜類がよく栽培されている。海岸部は衰退したマングローブ汽水帯で、ムスリムの漁民が多い。これに対してスルー群島の多くの島々には珊瑚礁が発達し、農地はあまり見られない。わずかに栽培されているのは、キャッサバ、バナナその他の果樹、マニラ麻などである。スルーでは農耕生産が珊瑚礁という地質に制約されきわめて貧しいのだが、海の生産は豊かである。この海域はフィリピン群島でよく知られた漁場であり、スルー海、モロ湾はカツオ、マグロが豊富である。こうした回遊魚漁業の基地は、今日、サンボアンガである。そこにはヨーロッパ系、日系の缶詰工場が設けられ、魚の腸や骨を利用したドッグフードも生産されてヨーロッパに輸出されている。サンボアンガの魚市場でマグロを眼にすることはない。マグロ漁獲のすべてが缶詰工場に買われるからである。回遊魚の加工だけでなく、スルーは、マルク圏と同じような特殊海産物の産地だった。
ミンダナオは北海道と似たところがある。両者ともに国内植民地だった。ミンダナオは最後まで抵抗を続け、その領有は19世紀末まで決まらなかった。ミンダナオとスルーは東南アジアで最後まで植民地主義国による領有が決まらなかった土地である。こうした植民地主義による領有未決定とそこがムスリムの居住地であったことがからまって、ミンダナオは後々まで特殊視されてしまう。米西戦争に勝ったアメリカ合衆国は、1898年スペインから群島を譲り受けるが、この領土にはミンダナオやスルーが含まれていなかったので、あらためて条約を結ばなければなかった。アメリカは1929年の世界恐慌を境として、フィリピンの砂糖や移民労働者の流入を阻止するために、フィリピン独立を深刻に考えるようになる。フィリピンの側における独立運動の圧力とあいまって、この配慮が米国議会における1934年のフィリピン独立法案となった。ところがミンダナオだけは異教徒の土地だから、永久にアメリカの一州とすべきだというような声がかなりあった。事実、独立の約束を交わした後だったにもかかわらず、アメリカに亡命したユダヤ移民の処置に困ったルーズベルト大統領は、ミンダナオにユダヤ国家を建設する案などを考えている。そんなふうに独立すべきフィリピンからミンダナオだけもぎとられては困るので、独立準備国家ともいえるコモンウェルスの初代大統領ケソンは、ミンダナオのフィリピン化を進めなければならなくなる。

ミンダナオの歴史、面白いですねぇ…。