21世紀ビジョン
80年代、銀行経営は冬の時代だった。突如として金融自由化の波が押し寄せてきたからだ。戦後疲弊した国土と経済の復興を支えるため、国内には強力な行政指導の金融制度が敷かれた。これが次第に海外から痛烈な批判を浴びるようになる。世界経済の舞台で急激に台頭して来た日本に対し、「行政による強力な金融統制によって国際競争力を蓄えている。アンフェアだ」というのが海外の言い分だった。金融機関が自由に金利を決め、業務の垣根をなくし、欧米と同じルールでビジネスを行うという金融自由化の流れが、こうした外圧により日本国内で決定付けられたのが80年代半ばだった。
規制金利時代、銀行は預金と言う資金量さえ伸ばせば、自動的に儲かると言う仕組みだった。だが、この従来の経営手法は自由金利の下、手詰まりとなっていた。そんな中、プロジェクト融資や不動産融資で派手に稼ぐという方式が各行の間に急速に広まっていく。住友銀行がその先頭を切った。当時の磯田一郎頭取は、「向こう傷は問わない」と、高収益を上げるためなら多少の荒っぽさを容認した。激しい嵐のような時代の中で、拓銀は焦りを募らせていた。都銀の中では業容、収益力ともに最下位。収益競争の激化で、上位行との差は広がり、一方で地銀上位行に激しく追い上げられて一部有力地銀には逆転を許す始末だった。鈴木茂頭取は当時の行内の会合でハッパをかけた。だが景気の波はいつも北海道には遅れてたどり着く。一般消費者を巻き込んで株式ブーム、不動産ブームが道内で始まったのは、首都圏、関西圏よりワンテンポ遅れていた。ようやく拓銀が他行並みに不動産融資のアクセルを踏んだのは、「88年ごろ」とされる。完全な出遅れだった。だが、その分、闇雲に走り始めた。
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