十字軍は侵略者 ウソの十字軍展開
現在のトルコ東部、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルには土着のキリスト教徒が少数派と
して存在していた。トルコ東部に住んでいたのはアルメニア人だが、他は全部アラブ人である。
彼ら現地のキリスト教徒は、聖地エルサレムがモスリムの支配下にあったからといって、ローマ
教皇に助けを求めたことは一度もない。武力援助を求めたのは実はビザンツ皇帝で、アナトリア
の帝国領に脅威を与えているセルジューク朝と戦うための要請にすぎなかった。
ただ、その時、皇帝は、「聖地で迫害が起こっている」というウソをついた。それはキリスト教徒と
しての連帯感を呼び起こし、かつあおるための言葉の綾にすぎなかったが、みるまに巨大化し、
1095年11月にクレルモン公会議における教皇ウルバヌス二世の歴史的な呼びかけに発展、
第一回十字軍の出陣という異常現象を生む。
十字軍ではなく「蛮族フランク」
この侵略の集団をモスリムは何と呼んだか。
1096年から1291年に至る断続的な戦争を通じ、「十字軍」
という呼び名が西欧の資料に初めて現れるのは、末期近い1200年代半ば以後のことであるという。
当然のことながらビザンツ人だってそんな言葉は知らなかった。彼らは何世紀にもわたり、当方の諸国
と戦ってきたが、十字軍のような聖戦意識は持っていなかった。
対十字軍戦争は、モスリムにとって対フランク戦争(ギリシャ人は西欧人をフランクと呼んだ)となり、
彼らの来襲は「フランク人の侵略」で、両者の知的・物質的水準を比べてみると、モスリムの方が
圧倒的に高かったから、それは文句なしに「蛮族」の侵入なのであった。
1099年 聖地エルサレムでは、「勝利者でさえも恐怖と嫌悪の情にとらわれた」ほどの惨劇を
もって第一回十字軍の勝利に終わる。
1144年 50年ぶりのモスリムの反撃 紅毛碧眼の猛将 アタベク・ザンギー
謀略と奇襲でエデサ(トルコ領ウルファ)を攻略。1146年「次はエルサレムへ」という期待の中暗殺される。
その翌月、ジョスラン2世(十字軍側)がエデサを奪回。
名将 ヌールッディーンは、即座にエデサを再占領し、1151年エデサ領全土を征服。
第2回十字軍 (独仏連合)
「新たなフランク軍100万来襲」と恐れられたが、ルーム朝セルジューク軍の反撃と冬将軍のため
小アジアですでに兵の大半を失った。
1148年アッカに集まった独仏軍は、エルサレム首脳と作戦会議を開き、同盟関係にあった
ダマスカス(シリア)を攻めることを決める。
フランク人の無謀な戦略がモスリムの団結を生み、ヌールッディーンら、トルコ人、アラブ人、
クルド人がダマスカスの援軍に駆けつけ独仏軍は配信と敗北をかかえ、帰国する。
サラディン シーア派のファティーマ朝の宰相であると同時に、スンナ派のヌールッディーンの家来。
若い王の死でファティーマ朝が消滅、ヌールッディーンが死に、1187年ついにエルサレムを奪回する。
第3回十字軍
サラディンのエルサレム攻略に衝撃を受けた教皇は、独仏英からなる大軍を送る。
1192年両者は和議を結びフランク軍は、狭い沿岸部分、エルサレムなきエルサレム王国を確保し、
キリスト教徒による聖地巡礼の安全を保障された。
エジプトは侵略者の墓場
十字軍を率いてエジプトに侵攻したフランス王ルイ9世は1250年デルタ地帯で大敗。
エジプト征服をめざしたモンゴル軍が、パレスティナの会戦で惨敗する。
これらはいずれも英雄バイバルスの偉業として知られている。
脅威のモンゴル軍
モンゴル軍の征西は、地理的に見て、対ヨーロッパと対中等の2方面に分けられる。
チンギスハンの孫フラグが興したイルハン(現在のイラン、イラク)を取り巻く勢力
パレスティナには、フランスのルイ9世
北イランからシリアにかけて猛威を振るうイスマイル派
バグタードを都とするアッバース朝カリフ帝国 (1258年落城)
モンゴル対ヨーロッパ
ヨーロッパ側は農民を主とする寄せ集めの鉄の鎧の騎士
モンゴル側はロシア征服の実績がある経験豊かな兵士、皮の鎧、背中はむき出しの軽装、各人
が何組かの替え馬を用意し、当時最新兵器だった弓を持つ。さらに12万という騎馬の大群で涛
のように矢を注ぎながら押し寄せ個人の功績を重んじるヨーロッパ中世騎士道は、ひた寄せる
無名の戦士集団のヒズメのもとに踏みにじられるほかなかった。
十字軍国家の終末
十字軍とは、ヨーロッパが初めて行った膨張政策のあらわれで、それは近世以降の植民地主義の
先駆者といえる。初期の十字軍は、イスラーム世界の混乱に乗じて、エルサレムを奪回し、パレスティナ
からシリアの沿岸各地にかけて、小さな国を建てることに成功した。しかし、巨視的に見れば侵略者は常に少数で
これらフランク人諸国はイスラームの海に浮かぶ島にすぎない。そのためモスリム側に政治的統一が
行われるとたちまち存立の危機にさらされ、バイバルスの出現はまさにこの危機の到来を告げたのである。
そのころのフランク人諸国は末期的症状を呈しており、商業の実権をめぐる主導権争いは、これらの国を
二分するまでになり、そのエゴイズムこそ滅亡の最大の要因だった。
このような有様ではモンゴルと十字軍の撃退に生命をかけたバイバルスの攻勢に到底応ずることはできなかった。
イル・ハン国もイスラーム文化の波に押され、モンゴル大帝国の後押しをもってしてもバイバルスの剣に
勝つことができず、最後はイスラームの力に包み込まれる。その変容は宗教という文化を持たぬ征服者が
非征服地の先進文化に同化されていく宿命の一例を示している。
物語 中東の歴史―オリエント5000年の光芒 より 引用
なんか聞いてる話と大分違いますね。
誰が主語かで歴史認識は変わると、これまた史実の測度変換なり。
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