インドネシアでは、1945年から49年までつづいた独立戦争期にオランダ側についた地方があっただけでなく、独立後もジャカルタ共和国政権に叛旗をひるがえした分離独立運動が各地に起こって、最終的には60年代まで続いた。その最終的鎮圧は、島々の国家への統合と権力の中央集中を意味した。分離独立運動は、植民地主義時代にも中央権力が統合支配しきれなかった自立的気風の強い土地で起っている。この分離独立運動を旧植民地支配者はかなり露骨に利用しようとしたから、いまや中央権力の座を占めた民族主義者たちは、一層鎮圧に努めねばならなかった。南スラウェシでもこうした分離運動があった。南ミンダナオでは、ムスリムとマニラ政権との間に70年代に内戦が戦われている。こうした屈折した経過さえなければ、南スラウェシも南ミンダナオも、植民地主義への抵抗者として発掘され、隠れた英雄のように、むしろ賞賛を受けていただろう。しかし彼らは植民地主義への抵抗者であるばかりでなく、独立国中央権力に対する反逆者でもあった。彼らはネーション・ステートに対しても抵抗したのである。インドネシアの一史家は、「地方史は、国家史の立場と必ずしも一致しないので、その研究は極めて難しい」と告白している。歴史研究には多かれ少なかれ中央権力の座から眺めるという中央主義史観がまつわりつくけど、新興独立国ではまさに国家統合の複雑さのために、辺境や田舎は、いっそう見えにくくなる。そういう困難があるのにさらでだに、私たちの日本では、単一民族論の迷信が強く、権力の集中と統合の度合いが高いので、東南アジアにおける田舎の自主性が見落とされてしまう。つまり、あちらにもこちらにも事情を素直に認識できない難しさがある。

日本の地方都市の中央政権への強い依存は、中央集権化、強い安定中央政権が優れている証拠だ。こういう地方の中央集権からの独立が、アジアの動乱の引き金になるだろう。

南スラウェシには、5つの種族が住む。ブギス族、マカッサル族、マンダール族、トラジャ族、パジャウ族である。言語的に旗史家に相違がある。サトゥ(1)、ドゥア(2)、ティガ(3)と、いわゆるバハサ・インドネシア(統一インドネシア)語で10まで書いて、その両側にマカッサル語とブギス語の数詞を書いてもらった。マカッサルとブギスは同化が進んでいるといわれるが、両族の数詞は、10語のうち3語まで、まったく別物であるように思われた。しかし同族でも、他村では異なる言語を話す。村落間の言語の相違と、種族間の言語差が、どのように近く遠いのか、私にはまったく判断できない。南スラウェシには5つの食文化圏がある。これは、5種族の居住区とほぼ対応する。州の中央部は米食圏、マジュネ一帯はバナナ圏、ルウ地方はサゴヤシ圏、半島南岸はトウモロコシ圏、内陸北方山岳部は雑食圏だという。
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植民地主義は様々な形があるけども、農地を大規模に経営することで成立した。自分達の欲する単一作物を農民に栽培させた。だから単調な風景が成立した。たとえばクアラルンプールの空港から都心まで道はたんたんとしてアブラヤシの樹下を走る。首都から南へマラッカに向ってもペナンへ北上しても、風景は同じである。細いマラヤ半島の西岸は、19世紀末にゴムのプランテーションが最初に入った土地である。東南アジアの風景に単調さを与えたのは最初にはプランテーションである。彼らは住民に対してだけでなく、自然に対しても単一を強要した。このことは熱帯雨林を考えるとよくわかる。熱帯雨林の性格を考えるとよくわかる。熱帯雨林の大きな特徴は、樹木のバラエティーの豊かさである。1ヘクタールに同じ樹種は2,3本しかない、といわれるほどだ。そこがゴム、サトウキビなど単一な作物に塗り替えられた。こうした大農園は今は国有化されたり現地国籍に企業の所有になっているけれど、大土地経営のプランテーションという型は変わっていない。戦後になって石油化学工業が発達すると、自然ゴムが合成ゴムに押されて売れなくなった。それで今から15年ほど前から、ゴムを刈り倒しアブラヤシを植え始めた。ゴムとアブラヤシという作物の性格の相違を知ると、この転換が小農家にとっていっそう不利に働いていることがわかる。
インドネシア共和国、つまりスカルノたちの軍隊は、オランダ軍と戦い続け、やっと49年末に独立を達成する。だが各地にジャワ中央集権に対する分離反乱が起こって、これが終息したのは60年代である。メナドにもこうした動きがあった。ミナハサは親オランダだったけれど、この時の反乱は、旧体制への復帰を求めるものではなく、ジャワ中央による貿易統制への反撥だった。既に戦前期から、インドネシア経済は、外島が輸出し内島が輸入するという形になっている。内島はジャワ、マドゥラ、バリの三島、それ以外が外島である。外島の労働者が働いた物産で稼いだ外貨でジャカルタの都市住民が自動車などを買うということである。独立直後の貿易統制は、それぞれの土地が輸出した代金でめいめい好みの物を買うのを禁止するものだった。これは物々交換から発達した相対取引の伝統に反している。このことにミナハサの農家は反撥したのである。

外島が輸出し内島が輸入 うーむ、なるほど…。経常収支赤字の諸悪の根源はジャワ・ジャカルタだったか…。

マングローブ汽水帯は日本列島の住民には理解しがたい、イメージしにくい地形である。日本列島では、白砂青松にしろリアス式断崖にしろ、海と大地はおおよそ一本の線で区切られている。つまり私たちにとって、そこは海でなければ大地だし、大地でなければ海である、どちらかだ。ところがマングローブ沼地は、海でもなければ大地でもない。何しろここには50キロ、100キロ上流にまで潮が上がる土地がいくらでもある。マングローブ沼地は、海でもあり大地でもあるから、ここには海と大地の生物が共棲する。大地の出身者でこうした二重能力を身につけた代表がマングローブやニッパヤシなどの塩生植物である。海出身者でこの転移帯を利用するのは、クルマエビの稚魚やインドネシアでイカン・バンデンと呼ばれる、ミルクフィッシュなどだ。この魚はそもそも海の生まれだが、まったくの淡水でも育つ。

なるほど、海なのか陸なのかよくわからない。したがって、面積がわからないから島なのか岩なのかも特定できず、インドネシア全体の島の数もよくわからないということなのか。

東南アジアのあちこちに南スラウェシから移住したブギス人のコロニーがある。タイのアユタヤ王朝の頃だが、同じ頃、同じアユタヤにやはりブギス村があった。ブギスはそれほどに活発で外交的な種族である。シンガポールにはつい最近までブギス・ストリートがあったが、あまり風紀のよくない通りなので廃止されてしまった。ジャカルタの港タンジュン・プリオクで暴動があったが、そこもブギスの居住区である。1511年にポルトガルがマラッカを占領し、マラッカ王朝はジョホールへ退避する。これから200年ほど、海峡両岸の港社会は交易の権益を狙って戦闘を繰り返す。ヨーロッパ諸国まで加わったこの戦国時代に、ブギス移民は戦闘集団として活躍した。オランダやイギリスの傭兵になったものもいる。

シンガポールのブギスって風紀がよくなかったんだ…

南スラウェシの社会史は大よそ10世紀からイ・ラ・ガリゴ(I La Galigo)神話時代、建国時代、植民地時代と区分できる。これはあくまで私の解釈である。東南アジア多島海の社会は歴史の発展がばらばらだったから西洋史のような、古代・中世・近世・近代のような普遍的な時代区分ができない。時代区分の概念は東南アジア史ではほとんど使われない。

各国・各地方がグジャグジャしてて統一感がない感じがアジア的だよね。ローマ軍や欧州統一通貨のようなものはできにくい土壌だろうね。
【アジア国際関係・国際都市】
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2013.09.12 初フィリピン・マニラ編 1/14 ~空港・周辺ホテル
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2011.02.23: アジア発展の構図 ~アジア地域の特徴 1/4
2010.02.19: マラッカ(マレーシア)旅行 ~KL、マラッカ観光編
2009.11.30: アジア情勢を読む地図
2008.11.14: 国際観光動向考察による人民誘致戦略
2008.08.21: 東南アジア横断 ~総括 アジア覇者への道