海道の社会史 2/4~権力の発生

「王は神なり」という権威付けの論理は、もともとインド系の思想であって、それがジャワなどを典型として、東南アジア社会にも流入している。だがここでは事態が逆だ。権威は民衆の側にある。民衆の従ってきた慣習法のほうが常に強かった。村落国家の王は、神性もっとも薄き王だった。その意味では非インド的である。民衆が即位文書を朗読し、王-実際には村長、郡長に当る-がこれを承諾するという儀式は、つい最近まで行われてきた。そして時代を経るにつれて、即位文書に慣習法の規定が組み込まれ、精密になっていった。それは村落憲法へと昇格していったのである。王の義務はますます重くなり、その不履行には罰則さえ定められた。
実際に慣習法を成文化した村落憲法によって、追放されたり殺された王、女王があちこちにあった。ボネ王国では、6世王と8世王が16世紀と18世紀に殺され、11世、16世女王、19世王、27世女王が王位を追われている。他の国も同様である。民衆の権利はかくまでに強かった。昔、日本にも天皇機関説があった。南スラウェシの王たちは、言葉の純粋な意味において約束による機関にすぎなかった。だがそれでは慣習法社会の民衆は、なぜ天孫を王として迎えねばならなかったのだろう。
定着農耕と権力の関係である。インド、中国を考えればわかるが、一般的に定着農耕社会は強大な権力を生む。その土地が広大であれば権力はますます強大になり、しばしば大帝国、大王国が生まれる。定着農耕は焼畑農耕より2~3割生産性が高く、その分だけ余剰を生む。しかも先祖代々営々として築き上げてきた田畑だから、農民は夜逃げするわけにはいかない。統治者にとってこれほど都合のいいことは無い。逃げようの無い農民が高い生産力を持っているのだから、しぼりあげるのは容易である。
南スラウェシの社会史を考える時、一つ不思議でならないのは、どうしてルウで歴史が生まれたのかという問題である。この問題を考えるきっかけになったのは鉄である。ブトン島の東南端にはトゥカン・ブシ列島が連なり、その最南端のビンノコ島には鍛冶屋の集落があることなどを聞き込んだ。典型的な隆起珊瑚島で鉄鋼も無いのに山刀を打つ鍛冶屋の長屋がある。スラウェシ島からテルナテ島をつなぐあたりに、西からバンガイ、スラという小群島が並び、後者の一つがスラベシ島である。スラは”島”、ベシ(今日の発音ではブシ)は”鉄”である。トゥカン・ブシのブシも、スラベシのベシも、セレベスのベスもスラウェシのウェシもすべて鉄だった。バンガイ島やスラベシ島で昔、鉄を産したのか、調べはまだついてないが、ルウ地方の奥地にはたしかに鉄鋼山があった。

武器(鉄器)は文明なり か。

15世紀末に始まる大航海時代の木造帆船は、おおよそ100~200トンの規模である。マゼラン艦隊の5隻がその程度だった。今日からするとカツオ船ほどだが、地理不案内の多島海を行くにはかなりの注意が必要だった。18世紀まで、航海者の記録には水深計測がしばしば現われる。航海日誌を意味する英語のログ(Log)は、測程儀を語源としている。地図というけれど、18世紀までヨーロッパ人の作図したこの方面のマップは、ほとんどが海図だったのである。クローブ、ナツメグにどのような利があろうと、マルク海の地理は複雑である。航海者にとって計測は、生命を守る要諦だったばかりでなく、後に続くものへの指針でもあった。この指針は、航海についてだけでなく、交易利潤についてのガイドブックだった。したがって当時にあっては航海記録は極秘事項だった。ポルトガルがマラッカを占領した直後にここに到着して書かれたトメ・ピレスの航海記録は、今でこそ邦訳されて岩波書店の「大航海時代業書」に収められているが、リスボンの官廷書館から開放されて英訳がハクリュート文庫に入ったのは、やっと1940年である。ピレスの執筆から400年の時が流れている。ついでにいうと14世紀のマルコポーロの旅行記が各国で訳されたのはまだ国家による情報の管理がそれほど厳しくなかったからだとも言える。しかし当時はゼロックスなど便利な機械のなかった時代だから、どのみち書物は支配階級しか読めなかった。
私の妻は九州の出身である。まだあちらに親戚が多い。結婚したての頃、私は送られてくる九州名産に、いくらか途惑いを感じた。私の家は明治初めには東京へ出ているので、家郷とのつながりは途絶えて久しい。それにいくらか都会的な合理主義の家風だったから季節によるものの交換という習慣がなかった。妻は九州から送られて来る物に対して、必ず何がしかの物を買い整え、送り返した。私の合理主義からすると、これはいくらか無駄であるように感じられた。流通がこれだけ普及すると消費世界は画一的になって全国どこでも買えない物はない。いっそのこと、何がしかの金銭を相手の銀行に振り込んだほうが簡便だ。だが世の中はそうなっていない。情を伴ったものの交換は、今日の日本でも続いている。私の合理主義のほうが異例に属するのである。

俺もいまだにお土産理解できないな。プレゼント交換もだ!
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1857年、アル島に半年滞在した英人博物学者アルフレッド・R・ウォーレスは、今日2つの理由で記憶されている。1つはチャールズ・ダーウィンとまったく同じ時期に、同趣旨の進化論を発表したことにある。彼はこの論文を先輩であるダーウィンに送ったのだが、ダーウィンは理論創始者の名誉が奪われることを恐れてこれを握りつぶしたのだという歴史推理もあり、邦訳『ダーウィンに消された男』が出ている。もう1つの理由は、哺乳類の分布をもとに東南アジアをほぼ南北に走る線で分割したことである。この線は、バリ島とロンボク島の間を抜けてマカッサル海峡を通り、ミンダナオ島の南を太平洋に出ている。これがウォーレスラインである。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区である。

ダーウィンに消された男 面白そう…。

一説によると、18世紀にヨーロッパで香料熱が急速に冷えていったのは、カブ栽培の普及と関連があるという。自然の放牧に依存していた家畜は、冬季の飼料が限定され屠殺のシーズンも定まっていた。そのために食肉を長期に保存する香料を必要としていた。しかしカブが家庭菜園から中耕技術犂の発展により常畑で広く栽培されるようになると、それが冬季の家畜飼料として用いられるようになり、屠殺はいつでも可能になった。新鮮な食肉が常時手に入るようになり、香料の需要が激減した。テルナテのクローブの栽培者達は、こうしたヨーロッパ大陸の変化を感知していたかどうか。クローブとカブに関連があるとは思ってもみなかったにちがいない。

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