金融工学、こんなに面白い 2/2~デリバティブとは?

現実の金融取引の中には、「オプション」と名づけられてはいないが、これと同様の機能を持つものがある。例えば、保険をオプションの一種と解釈できる。自動車の損害保険は「壊れた自動車を一定の価格で引き取らせることができるプット・オプション」と解釈できる。家屋の火災保険は「全焼した家屋を一定の価格で引き取らせることができるプット・オプション」と解釈できる。逆に言えば、オプションはリスクへの対処策として、「保険」の機能を果たしているのである。

そうですね。保険はオプションよりも一般的ですから、「保険って何?」という人は居ない。「オプションって株の保険みたいなものです。」と説明することが多い。「デリバティブとは何か?」と行った時、私や野口さんはその複製性について触れるだろうが、それでは天候デリバティブは、保険ということになる。事実、それは銀行や証券ではなく、保険会社が扱っているのだが、彼らの解釈では、損害に対する保障が保険の定義であり、損害が関係ない条件付の金融取引はデリバティブ、ということであるw

歴史上のオプション
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オプションと解釈できるような取引は、かなり古い歴史を持っている。旧約聖書創世記の第29章にあるヤコブの婚姻の話が、歴史上最初のオプションだと言われる。ヤコブは、ラバンの娘ラケルと結婚する権利を獲得するため、ラバンのために7年間労働することに同意した。これは結婚しなくても良い権利だったので、「7年間の労働というプレミアムを支払うオプション契約」というわけだ。アリストテレスの『政治学』によれば、哲学者ターレスは、翌年のオリーブの収穫を天体観測によって予測する特別の能力を持っていた。そこでオリーブの搾り機を借りる権利を安く手に入れ、豊作となったときに、搾り機をまた貸しして、大きな利益を得たのだそうである。これも一種のオプションと言える。

う~ん、まぁ、なんとでも言える話ですよね。日本では大阪堂島米取引所の米先物が最古のデリバティブ取引って言うし、なんとでも解釈、こじつけることができます。


ハイデガー=存在神秘の哲学

またも失敗だ。最初に読んだ、木田元氏の「ハイデガーの哲学」はまあまあ良かったのに・・・。2冊続けて失敗です。難しいテーマの本は失敗率が高い、しょうがないか・・・。
存在というくらいだから、当然、存在するものだと思って考察しようとするのだが、まるで無い。なにもかもが無い無いづくしになってしまう。色は無い、形も無い、重さも手ごたえある実体もない。終わりも初めも無い。根拠も理由も起源もむろん無い。「何も無いこと」(Nichtigkeit)だけが、その正体であるかのようだ。モノ(存在者)なら目の前に現れる。だから、物体や画像や意味概念として把握できる。保存も記録も可能。つまり様々な仕方で所有できる。


第5次ジャカルタ攻略 2/5~インドネシアのビジネス

Plaza Senayanの焼肉 Esina
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ジャカ1と同伴です。Plaza Senayanはジャカルタ南部の高級ショッピングモールで、SOGOなどもあります。去年行った鮨清もここです。というか鮨清の斜め前くらいの位置で、去年、この焼肉も良さそう、とブログで書いていたところです。鮨清の隣は鉄板焼きで、斜め前くらいがEsinaです
私が「金曜は友人と寿司に行く予定」
J1「いいなー、私も行きたい」
何食べるの?
J1「卵といなり」
生魚ダメだったら一緒に行ってもつまらないでしょ?
でも焼肉はOKということで今夜はジャカルタで焼き肉です。何度かジャカルタで焼き肉行っていますが、そこそこイケます。Esinaは二人で行く焼肉、つまりちょっと高級。ウィジャヤのそばの焼肉は大勢で行く焼肉、大衆店ということですが、ウィジャヤのそばの焼肉も値段の割にはおいしいと思います。ここEsinaの客層はインドネシア人が意外に多く、ハイソサエティも利用しているそうです。
私はジャカ1が食べられるもの、「豚肉は宗教上の理由でダメ、生卵やユッケもダメ」という制限があるので、ジャカ1に任せたところ、Esinaで最も割安な「カップルセット」を頼みました。ハイソサエティ諸君らは、高級部位も用意されているので、そちらをオーダーしてもよいだろう。ジャカ1に合わせているので、ここでは酒も飲みません。そうすると・・・、二人で会計800,000IDR(8000円)ほどでした。う~ん、一応、Esinaはジャカルタではそれなりに高級なはずですが、庶民的な価格になりましたw 高級部位+お酒を頼めば、2倍以上は確定ですw


聖書の常識 3/6~イスラエルとヘブライは同じか

イスラエルといい、ヘブライ(ヘブル)ともいう。またユダヤという言い方もある。これらは同じ意味なのか、違うのか。イスラエル、ヘブライ(ヘブル)、ユダヤのうち、ヘブルが、もしハビルという言葉に関連を持ちうるなら一番古くからある言葉だろう。しかしハビルは古代文書に出てくる場合は民族名を意味していない。セム系の言葉は、母音無しで書かれている場合が多いので、ハビルともアビルとも時代により国より、エジプト、アッシリアその他でみんな発音が違う。またヘブルは英語式発音で、旧約聖書の発音は胆振である。ハビルの定義は非常に難しいが、農耕民の側に立って、これと特別な契約を結んでいるある種の牧畜民、すなわち社会単位となっている集団を意味している。民族名でも部族名でもないことは明らかでこれは中東に広く存在した。
またイスラエルの意味となると少々問題がある。エルは神の意味で、神と争ったヤコブのニックネームとしてこの名は創世記に出てくる(創世記32章24節以下)「お前は神と争ったから、名をイスラエルにしなさい」とヤコブが神から言われるくだりがあるが、これは一種の言葉遊びで、元来は「神は支配する」の意味であろうという。このヤコブの12人の息子たちが、後のイスラエル12部族の先祖になった-というのは伝承にすぎないのだが、この12部族は一種の宗教連合体だったろうと考えられている。つまり中心となる一つの聖所があって、自治体の各部族が底に精神的支柱を求めて連合した政治体制。ギリシアの都市国家がそれぞれ独立していながら、宗教連合を形成していたのと同じである。こういう宗教連合体がイスラエルにもあったというのも一つの仮説だが、このヤコブの12子に基づく宗教連合体制という意味で、イスラエルという言葉を使うと、これが民族名または国家名になる。ところがこのイスラエル12部族が分裂して北10部族と南2部族に分かれてしまった。南の2部族はベニヤミン族とユダ族だが、ユダ族が大きかったのでこれをユダと呼び、北の10部族をイスラエルと呼ぶようになった。現代ではイスラエルというとイスラエル共和国のことだ。イスラエル人はイスラエル共和国と呼ばれるのを嫌い、イスラエル、あるいはイスラエル国だというが、むろん昔のイスラエルとは意味が違う。
では「ユダヤ」とはどういう意味なのだろうか。南のユダ族の住む地はユダイアとなり、さらにその地に住む人を意味するときはユーダイオスとなる。これがユダヤ人という言葉の意味で、直訳すれば「ユダの地に住む人」であろう。しかし、現在ではユダヤ人というと、だいたいヘブライ、イスラエル、ユダヤを一緒にした意味で使っている。ただその場合、ユダヤ民族というものがあるのかということになるが、歴史的には現代の民族主義や民族国家を意味する「民族」というかたちではなかったと見るのが正しい。というのは、この「民族」という概念は決して古いものではないからである。ヘブライというのが民族の概念ではないように、ユダヤというのも民族の概念ではなかった。前に「イスラエル」という言葉を使ったといって、プロ・アラブの日本人から抗議された事があり、「イスラエル」ではなく「パレスチナ」といえというのだが、こういう短絡は困ったものである。「パレスチナ」とは元来「ペリシテ人の地」の意味でペリシテはアラブに関係なく、旧約聖書に登場するギリシア系の一民族を示す言葉だということをその人は知らないらしい。パレスチナという言葉も時代によって意味が違うのである。


金融工学、こんなに面白い 1/2~新しい経済学として

人々はランダムを信じない
チャートや罫線の有効性が実証分析で否定されるにもかかわらず、これらが一向に廃れないのはなぜであろうか?その理由は多くの人が「ランダム」ということを信じようとしないことにある。人間は誰でも、ランダムなデータを見たとき、そこに何らかのパタンがあるという心理的な錯覚に陥りやすいのである。実際コンピュータが乱数を用いて描いた「でたらめなグラフ」を見せると多くの人はそこに何らかの規則性を発見するのだそうだ。雲や天井のしみを見ていると、そこに人の顔や動物のイメージが浮かんでくるようなものであろう。罫線やチャートが生き残るのもこれと同じ理由による。

じゃ、もう一個、同じ事例を。カジノにおいて、バカラやルーレットは、勝負や出目の履歴を表示したり書きとめたりする紙が置いてあるのも、これと同じ理由による。

予測するのは真のエコノミストで無い証拠
新聞や雑誌には「有力エコノミストの為替レート予測」といった記事がしばしば登場している。しかし、為替市場が効率的であれば効した予測はナンセンスなのだ。「為替レートの予測を行うのは、その人が真のエコノミストではないことの証明だ」といってもよい。私は20年近く前に、こうした内容を雑誌記事に書いたことがある。ところが、それに対して当時の経済学会の重鎮から抗議が寄せられた。その人は、為替レートを予測する計量経済モデルを開発していたのである。私の記事は、そのモデルの批判を目的としたものではなかったのだが、結果的にはそうなってしまった。重鎮は自分の仕事が「無意味」とされたことに怒ったのだろうか、「経済学を学ぶものの心構え」といったお説教が長々と書かれてあった。私は論理的な反論ではなく倫理的な抗議が来たこと、そして、アメリカでは常識となりつつあった効率的市場仮説が日本では知られていないようであることに、ショックを受けた。いまでは計量モデルで為替レートを予測しようなどと試みる学者はさすがにいない。
一般に相関係数が負の値となる場合を、「逆相関」という。例えば、自動車産業のような輸出産業の株価は為替レートが円安になった時上昇する傾向があるのに対して、食品加工産業のような輸入産業の株価は為替レートが円高になったときに上昇する傾向がある。したがってこれらの株価は逆相関になることが多い。

本当に計算しました? 同一セクターは相関が高いなどと安定した結果が出るほどの期間で計算するならば、株価同士で逆相関は観測するのがかなり稀なはずですが・・・。


ロベスピエールとフランス革命 4/4~議員特権

金融界のスキャンダルによって、ジャコバン派の大義にさらに害が加えられた。このスキャンダルに、ジャコバン派の幹部級が幾人か掛かり合いになっていたからだ。カロンヌ(1787年財務総監)が創立したクラヴィエール(ジュネーブの銀行家、1792年大蔵大臣)が保護していた両インド会社が、封鎖によって破産してしまい、その清算は、ダントンおよびロベスピエールの友人で革命歴の作者であるファーブル・デグランティーヌ(劇作家、国民公会ダントン派)と、それにバジール(弁護士、ダントン派)、ジュリアン(牧師、ジャコバン派)などの保安委員会メンバーとジャコバン派議員のドローネイなどが引き受け、これらの人々は、清算で金を儲けようと陰謀した。
両インド会社事件から始まった捜査は、金融界のスキャンダルであったかもしれないものを政治的陰謀に変形してしまっていた。過激派は死に、腐敗分子は獄中にあって、互いに告発し合い、外人銀行家たちは分別深く国境のかなたに引っ込んでしまっていた。しかしなお不平分子のグループが残っており、彼らはその人気か公職のおかげで、食糧、賃金、1793年の憲法に対する勤労者の要求を代弁することができる人々であった。その指導者は陸軍省のブーショットのもとで任官を担当する書記官であったヴァンサン、革命軍の前司令官のロンサン、コルドリエ・クラブ(この一派の大本営)のモモロ、ナントの溺死の責任者であるテロリストのカリエ、そのほか数人であった。


第5次ジャカルタ攻略 1/5~入国と生活環境

シンガポールからジャカルタまで、Jetstarで往復97SGD込み込み。うーむ、2時間弱のフライトだが安すぎる。一日何十便とあるので、時間に自由がきく私は好きな便を選べる。あまり早起きしたくないし、渋滞時間の前にしたいので、シンガポール13:20、ジャカルタ14:05着を選んでみる。入国審査だなんだかんだで空港を脱出するのに1時間と踏んでいる。
2015年からジャカルタは(インドネシアとは言ってない所に注意が必要だ)観光ビザ代35USDが無料になった。そしてチャンギ空港で仕込んだウイスキー2本も無事通過。ここの税関はやる気がない。酒類の持ち込みは種類に依らず1リットルまでと決まっているのだが、止められた試しがない。バリ島に9本持ち込んで、「何する気だ」と止められた話は知っているが、2本くらいだとお咎めなしだ。
タクシーは信頼のブルーバード。高速代は私が14,000IDR払い、15時空港発の16時ブロックM着(17時~20時くらいが渋滞のピーク)、乗車時間1時間、メーターは150,000IDRほど。去年とまったく同様、少し色を付けて180,000IDR払うとタクシーの運転手さん思わず笑みが。去年とIDRで額面一緒ということは私にはタクシー代が下がって見えるw 地下鉄の工事をしているのだが、工事領域が、Sudirman道路から、ブロックMの目の前まで南下してきている。完成には程遠そうだが、一応、進んでいる気配を感じる。
KOST(アパートの部屋、冷房・Wifiあり、お湯なし。冷蔵庫と飲料水は部屋の外にある)
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KOSTに到着、去年と同じ部屋。今年は若干値上がりし、1か月の家賃は、2,500,000IDR(約2万円)である。Wifiが付いているので、まず通信の確保。「あっ、変換プラグ忘れた」 大丈夫、オーナーが持ってきてくれて買わずに済みました。このあたりの融通が利くところがこのKOSTに泊まっている理由でもあります。10分で着地完了。うーん完璧。では早速、通信の確保から。
下記、全部、遊蔵のスタッフが助けてくれました。なんか思うようにいつも電話がつながらないです。遊蔵とはジャカルタ ブロックMにあるレディースバーっぽい居酒屋です。遊蔵について、詳細は下記。
2012.12.26 第二次ジャカルタ攻略 11/11 ~2時間160円のキャバ
2012.11.21 第二次ジャカルタ攻略 6/11 ~Blok Mの遊蔵の探求
コンビニでシムカードを買います。
XL 4G Ready 10,000IDR (後にこれはデータカードであることが判明する)
Simpati LOOP 6,500IDR (電話用シムカード、安すぎるな・・・チャージしないとすぐに切れそうだ)
元々データカードも買う予定で、フィリピンで買ったポケファイを持ってきています。KOSTは確かにWifi完備なのですが、安定性が低く、切れた時の保険として、ポケファイと2重構成にしたいのです。
コンビニで hotrod 4GB、105,000IDR これは何やら店内の画面で打ち込むとレシートが出てきて、レジにて支払いを行ってしばらくすると有効になるようです。ポケファイ稼働。完璧。おー、クラクラも動いたw そうすると遊蔵のスタッフが
「あっ、私もそれやってる。タウンホールとか…」
ほぅ、インドネシアでは女性もオンラインゲームやるの。
「みんなやってる。この前まで、xxxが流行ってた。THレベルは?」
6だよ。
「私は2つアカウント持っていて、TH7とTH5。まだ6なの?アップグレード遅い」
まだ始めて1か月なんだ。トロフィーの数とクラン名は?
「1500くらいかなー。クラン名は…」
オンラインゲーム無料だから、スマホさえ持っていれば誰でもできる。そういう時代になったんですね。ちなみに日本ではクラクラですが、ここでは「チーオーチー」(CoCのインドネシア訛り)です。
いつも、初日の立ち上げを助けてくれる遊蔵のスタッフ、「東南アジアのとがり顎」には、浴衣のお土産、300,000IDR(これはKOSTの家賃のデポジットを前払いで納めてもらっているので、それを返しているだけで、現金を上げているわけではありません)を渡します。ジャカルタに来る時は、他の国と違う荷物があります。アパート(KOST)暮らしをしているので、
タオル
トイレットペーパー1ロール (当然、現地でも買えるが1ロール売りは知らない)
石鹸・シャンプー・リンス (空港で取られないように少量パック、世界各国のホテルから盗んできたアメニティw)
浴衣 2着も!
ウイスキー2ボトル (店にも置いてないことがあるくらいだから現地で入手不可能??)
ウイスキー以外は、重さは大したことないのですが、カバンがパンパンでした。
通信が確保できたので…。早速、ジャカ1に連絡。「おぅ、今、遊蔵。今からそっち行く。」 21時近くなれば渋滞も少しは緩和されます。ブロックMからジャカ1の店までは、50,000IDRほど、20~30分の距離です。もちろん、混雑タイムは2倍以上と予想できませんが。
ジャカ1の店にて、店の前のガードマンのあんちゃんは俺が覚えているくらいだから、向うも覚えていそうだが、なぜかいきなり席に通される。通常は指名スペースへの案内となるはずなのだが・・・。4年前から通っているので、誰かが覚えているのかもしれない。ジャカ1(J1)が登場…
いやー、ついに買っちまったよ。タブレットだけど。さっき遊蔵でつないでもらってな。S&P500もちゃんと見れる。安心の飲みだなw
J1「だから前から買えって言ってただろ。絶対便利だし。」
電話なんだが残高分かるか? たぶん、ほとんど入ってない。
J1「おし、見てやる。この会社か、じゃあ、20,000IDR分チャージするか?」
頼むわ。
ジャカ1は、キャバ嬢を務める傍ら副業を欠かさない。副業はカラコンやこのようなテレホンカード(シムカードやチャージカード)だが、要は現金が信用できないので、給与はすぐにモノに替えておくのが、インドネシア庶民の生活の知恵だ。しかし、この店のマネージャーは、やる気がない。ウイスキーのボトルの値段が4年間、インドネシアルピア建で変更なしというありえない価格設定。そろそろ赤字になるのではないか、と心配になるほどだ。こういうところからも、店のシステムが分かる。客にボトル入れさせたらナンボ、という給料体系になっていないのだ。
【居住・賃貸・ホテル】
2015.09.14 シンガポールの引きこもりが勇気を出して部屋を出る(写真付)
2015.09.08 シンガポールの公共住宅HDB
2015.01.21 第2次中国全土落下傘計画 7/8~上海にある日本食・DVD
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2014.09.04 ジャカルタ潜伏 1~KOST(アパート)の様子
2014.08.22 ジャカルタ潜伏 0 前哨戦
2014.08.14 バリに行ってきました 3/4~ウブド・大人のリゾートホテル
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2012.10.23 第二次ジャカルタ攻略 2/11 ~家賃1mil物件の見学
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2009.04.03: Singaporeの住宅の種類
2009.04.02: Singaporeの住宅と地理
2009.04.01: 賃貸にみるOptionality
2009.03.31: 新社会人の平均家賃額


聖書の常識 2/6~歴史書として

20世紀で最も進んでいる学問 聖書学
聖書学という学問があり、これは聖書考古学、聖書史学、聖書文献学、聖書語学、聖書釈義学という5つの分野に分けられる。聖書学はヨーロッパでも新しい学問で、1905年にダイスマンという古典学者が西洋古典学の方法を聖書の研究に持ち込んだのがはじまりといわれる。それ以来、今日では、20世紀で最も進んでいる学問は原子物理学と聖書学であるといわれるほどに発達した。
考古学が裏付ける聖書の記述
聖書に書かれていることは、ほとんどが神話で、たとえ史実によるとしても、粉飾されていると考える人も多いだろう。この問題に考古学者が発掘という実証的方法で取り組んだのは19世紀からで今日までに、着々とその成果が積み重ねられている。遺跡の発見や発掘の結果、これまで史実として疑問視されていた聖書の記述の、歴史的信憑性が証明された例は少なくない。だが、この逆、すなわちその記述が歴史的には事実でなく何らかの原因譚説話であることが明らかになった例もある。また直接ではないが、聖書の伝承がある事実を基にして形成されたことが明らかにされた例もある。その典型的なものは1929年にサー・レナード・ウーリイによって行われた大洪水の発掘である。彼は粘土層によって3500年前の大洪水を確認した。シュメール人やヘブライ人の洪水の話のもとになっている現実の大洪水があったこと、この発見はもちろん、2つの話のうちの、どちらの個々の事柄をも証明しない。もちろんこの大洪水は全世界的ではなく、チグリス・ユーフラテス川の下流の河谷に限られ、およそ長さ600km、幅150kmにわたる局所的な大災害だった。しかし河谷の住民にとっては、それは全世界と同じであった。
天文学と聖書の記述との関係
神話・伝説的な物語は新約聖書にもある。たとえば、イエス誕生を告げた有名なベツレヘムの星。この星についても、天文学者たちは架空のことではなく、事実であるという結論に達した。1603年のクリスマスの少し前、徹夜の観測で、土星と木星の異常接近がまるで1個の大きな星のようになることを発見したのは、ヨハンネス・ケプラーである。その後、天文学者たちの計算の結果、紀元前7年に、この土星と木星の以上接近が3度にわたって起きていることが発見された。大きな「一つの星」の度重なる出現に、バビロニアの学者たちが驚き、はるばるパレスチナへ旅し、エルサレムにヘロデ王を訪ねたとしても不思議ではない。星は彼らにとって占星術的に何か大きな予兆であり、同時にイスラエルでは「ヤコブから1つの星が出、イスラエルから一本の杖が起こり・・・」(民数記24章17節)という記述以来、救済者の出現の予兆と考えられていた。またヘロデ王が紀元前37年から4年までの間、在位したことは、歴史的な事実である。「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いていった。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東のほうでその星を見たので、その方を拝みに来ました・・・』」(マタイ福音書2章1~2節) マタイによる福音書は、こう書いている。ベツレヘムの星が紀元前7年に土星と木星の異常接近によって生じた大きな「一つの星」であることは、いまではほぼ間違いないとされている


しんがり 山一證券 最後の12人 5/5~JR売出価格高騰のため大蔵省の陰謀

『飛ばし』は、損害保険会社の頭のいい人が考えたアイデアなんだよ「と言い出したのである。そして、三木は損保業界大手の名前を挙げた。「その損保はね、決算の数字作りに困ることの無いように、決算期の違うファンドを最初から2つ作って、うちうちで操作できるようにした。最初はうちうちでやっていたものが、だんだん他者のフトコロも借りるように変形していったんだね」 飛ばしは投資家や株主の目をごまかす事実上の粉飾決算である。それを損保が考案し、証券会社だけでなく、銀行など金融界全体で重宝した、と三木は言った。
山一と東急百貨店の取引をめぐっては、大蔵省証券局長が飛ばしに関与していた」。問題の取引が始まったのは1990年2月のことだ。山一は東急百貨店に10%の利回りを保証すると約束していたが、直後のバブル崩壊で利回りどころか多額の損失を抱えてしまった。その損失は山一で引き取るのか、それとも東急百貨店が被るのか、はっきりさせないまま、山一は90年7月末、91年1月末、そして7月末と東急百貨店の決算期に合わせて、損失を抱えた有価証券を別の企業に飛ばして凌いでいた。両社が対立するのは、取引開始から1年半後の91年8月。山一が「損失は東急に属しており、引き取るわけにはいかない」と決めたからである。利回り保証を実行しなかったわけだから、その判断は誤りとはいえない。しかし両社の交渉は難航し、92年1月には、東急側から「利息分を含め318億円を返せ」という催促状が届く。「万一、返済されない時は、東京地検特捜部に詐欺の被害にあったものとして、行平社長らを告訴し、報道機関に全容を公表する」と催促状に記されていた。この問題について、
嘉本「三木さん、問題になった東急百貨店の催促状についてはどのように対応されたのですか」
三木「あの頃私は副社長でしたが、大蔵省の松野証券局長に呼ばれて大蔵省にお伺いしました。92年1月だったと思います。席上、局長から『東急百貨店から、飛ばしの依頼が来ているでしょう。どうするのですか』と聞かれました。私は担当で無いのでよくわからない、と答えたんです」
三木は企画室長のころ、忠実なMOF担と言われた。松野局長とはそのころからの旧知の間柄だった松野允彦のことである。お蔵小は当時、監督下にある証券会社に対して絶対的な指導権限を握り、箸の上げ下ろしに至るまで指図していた。局長の一言ひとことが事実上の行政指導である。三木の記憶では、その松野は意外な言葉を口にしたという。
大和(証券)は、海外に飛ばすそうですよ
「『海外は難しいのではないですか』と私が答えると松野局長は『うちの審議官が知っているから、聞いてください』と言ったんだよ」
驚いた三木は大蔵省から本社に戻り、副社長の延命の部屋で行平たちに、松野の言葉を伝えた。その場にいたものは一様に、「東急百貨店の件は、大蔵省から『飛ばしによって処理せよ』と示唆された」と理解したという。行平たちはその報告を受けて既定方針を覆し、東急とは争わずに損失を引き受ける方針に大転換した。「あのあとで松野証券局長にお会いしました。私が『(東急百貨店の件を海外に飛ばすことは)資金繰りなど自信がありませんので国内で処理することにいたしました』と述べたところ、松野局長から言葉をかけられましたね。『ありがとうございました』だったか、『ご苦労様でした』だったか。そんな言葉でした」。

なぜ大蔵省が見逃したのか。国鉄民営化、JRの93年の売り出しの際、少しでも売り出し価格を上げるために、その参考指標である「東急電鉄」の株価を上げる必要があった。東急百貨店は東急電鉄の完全子会社で、東急電鉄の決算に悪い影響を与える要素は東急電鉄の株価を下げ、従ってJRの売り出し価格が下げることになる。後に野村證券と稲川会、石井進による東急電鉄買占め事件も同様の理由で、大蔵省主導に利用された証券業界という噂がある・・・。


ロベスピエールとフランス革命 3/4~恐怖政治

ロベスピエールは生まれつき平和な人間で、暴力と流血を憎んでいた。彼は国王の処刑ののち、これ以上死刑はあるべきではないと言明した。しかもフランスを戦争に投げ込んだ人々に対する彼の憎悪、裏切者と反革命派に対する彼の恐怖のゆえに、そして-こう附言しうると思うが-※ギヨッタン博士の新しい首切り機による死は、極めて迅速で見たところ無痛であったので、彼は、彼の良心に彼の理性が、彼の理性に国家理性がうちかつことを許し、ついには彼のうちのピュリタンは宗教裁判官となり、「徳なくして威嚇は大いなる災厄を生み、威嚇なくしては徳は力を持ちえない」という語を説くことになった。
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※ギヨッタン(1738~1814) 革命前は医者で三部会の代表となり、彼の主唱した断頭台は、彼の名をとってギヨッティーヌと呼ばれ、恐怖の的となった。恐怖政治の下では獄中にあったが、ロベスピエールの没落後解放され、医者の職に戻った。
ジャコバン体制
両国民議会は、国王の大臣を信頼せず、支配したいと望んで、内閣の政策を監督し、必要ならばこれを覆すとめ、常任委員会を選出した。国民公会がこの伝統と決別するなどありそうもないことだった。公会もまた、平均24人の委員からなり、政府の各省を担当する21にものぼる委員会をもうけた。1793年4月6日の公安委員会は、もともと9人のジャコバン派からなり、このうち2人、バレールとランデはずっと後まで委員であった。5月末、委員は一時14人に増加されたが、ダントンが罷免された7月10日には再び9人に減員された。ロベスピエールは7月27日までは参加しなかった。カルノー含む4人の委員が付け加えられ、9月6日には委員数は総数12人にのぼった。そしてこの12人は、10か月後のジャコバン政府の没落まで、毎月再選された。なぜなら委員会は、名目上は国民公会の代表であり、いつでも公会によって罷免されえたからである。そして委員会は、恐怖させることによって支配したとしても成功することによって支配したのでもある。それは内閣であったが、首相のない内閣であった。
委員会の元来の職務は、「臨時行政会議、すなわち1792年8月10日に議会によって臨時に任命された大臣たちの担当している行政を監督し、スピードアップすること」であった。委員会は、「緊急情勢において、国内国外ともに総防衛の施策をとること」を認められていた。委員会は機密費を国庫から引き出せた。まもなく、「容疑をかけられた、または警告を受けたすべての人々」を逮捕する権限をもった。年末までに委員会は、大臣だけではなく、将軍および諸行政機関をも統御し、全国の地方自治機関、裁判官、軍司令部からのたえざる報告-これが規則正しく提出され、注意深く閲読されておれば、委員会は全能であると同時に全知になったことであろう-とを受け取った。その権限への唯一の制限は、委員が国民公会によって毎月再選されること、財政的に国庫に依存していること、議会の同意なくしては逮捕されないという議員の特権のみであった。


アメリカ覇権という信仰

ドル崩壊論、日本国債・日本円暴落論者とは基本的な考え方が合わないのかなー。超つまんねー本だったw
FRBが保有する資産に問題が生じなければ2009年度のFRBは大幅な増益を記録するだろう。FRBは市場を支えるために様々な証券を購入したが、それらの多くは底値に近いところで購入されている。また平時よりもFRBの資産は長期化しているため、平均的な利回りは高くなっている。しかし逆にFRBが持つ資産に大きなデフォルトが発生するような事があると、その損失は財務省、つまり米国民の税金で補填されることになる。現在の財務長官は1月までニューヨーク連銀総裁としてFRBのFOMCの副議長を務めていたT・ガイトナーだ。彼は約束どおり税金を使ってFRBを援助しようとするだろう。しかし、問題は米議会である。これまで議会はバーナンキ議長の積極的な信用緩和策を基本的に支持してきた。しかし、ひとたびFRBに損失が生じると、納税者負担が顕在化するだけに、FRB理事会が連邦準備法第13条3項を次々と発動してきたことが議会で問題視される恐れはある
第13条3項は、異常かつ切迫した事態(unusual and exigent circumstances)における例外規定として07年まで一度も実施されたことはなかった。しかし2008年来、FRBはそれを適用して、信用緩和策を推し進めてきた。第13条3項は、5人のFRB理事の賛成があれば適用できる。2009年2月10日の米下院金融サービス委員会では、その是非がテーマとして議論された。議会のチェックを経ずに(国民から選挙で選ばれたわけではない)5人のFRB理事の賛成票だけで納税者負担につながるかもしれない巨額の貸し出しなどを次々と実行してよいのか、という問題意識がフランク委員長(民主党)らにはある。
「為替レート=通貨の信任」ではない
フランスのサルコジ大統領は、11月15日に開催されたG20金融サミット直前に「ドルはもはや唯一の基軸通貨ではない」と述べて米国に揺さぶりをかけた。英国のブラウン首相も「新ブレトン・ウッズ体制」といった言葉をちらつかせて、米国に奪われた金融覇権への思いを募らせる。麻生首相は「ドルの基軸制を守る」と述べたが、中国はドルへの不信感を隠さない。ロシアのメドベージェフ大統領もドルの一極体制への批判を強めている。新興国の間では、ロシア・中国、或いはブラジル・アルゼンチンなど、ドル以外での交易決済への交渉を開始しているのが現状だ。


聖書の常識 1/6~聖書は一冊の本ではない

現在の日本聖書協会発行の「旧・新約聖書」の目次を見れば、旧約は創世記からはじまって39冊の本、新約はマタイによる福音書からはじまって27冊の本から成り立っていることがわかる。そしてそのおのおのが本(ブック)であって、章(チャプター)ではないことは英訳聖書を見れば明らかだろう。それらはそれぞれ独立した別々の本であり、聖書を一冊の本と考えるのは間違いと言わなければならない。ではそれらは互いに関連のない本かというと、そうではなく、一定の方針で編集された全書と考えたらいいであろう。
預言者は未来を占わない
「預言書」、「預言」という言葉も他の多くの聖書訳語と同じように中国語訳の流用である。最近では「予」という言葉も使うが、「予」はあらかじめ、「預」はあずかるで、意味が違う。預言者のことをナービーというが、これは元来、沸騰するという意味だという学者もいる。いずれにせよ、内心から沸騰するものが口をついて出てくるような状態を示す言葉で、入神状態で神の言葉を人に伝えるものの意味だったのであろう。したがってその歴史はきわめて古い。それは必ずしも未来予知を意味していない。未来を見るものとしては聖書に「見る者」(ローエー)「先見者」(ホーゼー)、という言葉があり、預言者(ナービー)にその能力がある場合があっても、その本質は神の言葉を預託された者という意味であろう。
唯一の神がなぜ複数形なのか
昔の文語約聖書を見ると神について、ただ「神」という場合と「エホバ神」という場合と二通りの言い方をしているのがわかる。では新しい口語訳はなぜ「エホバ」という言葉をやめたのであろうか。実をいうと、エホバとは誤読なのである。なぜ誤読が生じたかというと、ヘブライ語には母音表記がない。だから神の名を欧文表記に直すとYHWHとなるだけで、本当のところはどう発音していいかわからない。これを「神聖四文字」といい、学者によっては「YHWH」としか書かない人もいる。というのは言語学者たちが推理した「ヤハウェ」にしても、果たして正しい発音かどうか不明だからである。「エホバ」という読み方は16世紀になってキリスト教の神学者によってはじめられたにすぎない。
いずれにせよ、創世記その他で神名をYHWHと表記してある部分の資料をヤハウェ資料すなわちJ資料と呼ぶ。これに対して神を「エロヒム」-「エル」(神)という言葉の複数形を使っているのをE資料とする。聖書の唯一神がエルという単数でなく、エロヒムという複数で表されているのが興味深い。そのまま訳せば「神々」になってしまう。神自身、自分を呼ぶのにも「われわれ」といっており、創世記第3章22節には「主たる神は言われた『見よ、人はわれわれのひとりのようになり・・・』という言葉があり、これが複数形に訳されている点では、文語約聖書も口語訳聖書も同じである。古代東方世界では、尊貴の複数という言い方があって、王様などの絶対的権力者は単数を使わなかった。それは、王の意志は国民全体の意志だということを表すためで、現代でも国王などが自分のことを「われわれ」というのがこれである。しかし、聖書の加味の場合、たんに尊貴を意味する語法でなく、絶対を意味したのではないかという見方もある。
「現代の聖書」への道すじ
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旧約聖書がほぼ現代の形で成立したのは、紀元100年のヤブネの会議においてである。この聖典成立史はそれ自体が独立した学問で専門的な大著が出ている。だが簡単に要約すればもっとも古いのがJ資料の成立で、これは紀元前9~8世紀、成立の場所はエルサレムの南のヘブロンと思われる。ついでに約一世紀おくれて北でE資料が成立したと思われる。このあたりはあまりはっきりしない。これがD資料となると、聖書自体にその成立の経過が記されており、割合にはっきりとしている。それが記されているのは列王記下の第22章で、ユダ王国の王ヨシヤがエルサレム神殿を修復していたら「律法の書」が発見されたという記述がある。紀元前622/1年のことだ。ヨシアの宗教改革の支柱になったこの書は、申命記の中心資料をなすもので、これを申命記のギリシア語訳「デウテロノミオン」の頭文字を取ってD資料と呼ぶ。申命記にもいくらか他の資料も入っているが、ほとんどD資料イコール申命記といっていい。もう一つのP資料というのは、祭司(その頭文字がP)資料で、だいたいバビロン捕囚時代に編纂が進められたものと推定されるが、その一部をDと同時代とする学者もいる。その名のように神殿の祭司グループの手になるもので、その祭司たちはこの資料を書いただけでなく、J・E・D・Pの4つの資料を編集して、モーセの五書にまとめあげた人たちでもあった。
ではそのように編纂されていった旧約聖書が明確に聖典化されていなくても、全体として一つのものにまとめられたのはいつだろうか。おもしろいことにこれは、聖書の書かれている皮紙の質によって分かれる。羊皮紙とは元来は原皮1枚を2枚にはいで造るのが普通だが、尊いとされる聖書だけは一枚皮に書いてある。現在、聖典に入っているものは全部聖典化される前からそのような一枚皮の羊皮紙に記され、その区別ははっきりしている。死海写本として発見されたヘブライ語のイザヤ書写本は、現在のところ最古のヘブライ語完本本文で、紀元前1世紀にさかのぼるが、これも一枚皮に書いてある。同時に発見された多くの断片も、聖書に関する限りは一枚皮であり、すでにこのころ、聖典という概念が生まれていたと考えることもできる。


しんがり 山一證券 最後の12人 4/5~三菱重工CB事件

木下はそのあと何度も嘉本のヒアリングに応じた。それだけでなく、自ら顛末を示した論文を調査委員会に提出した。その木下論文に、証券界と山一のバブルが詳細に描かれていた。彼はまず、日本中がバブル景気に沸いた1980年代前半に、山一にヘドロがあった、と書き始めている。
延命副社長から聞いたところによると、84年9月の人事異動で高木眞行氏が第一事業法人部長を任される際、「ヘドロ(大きな損失が生じており回復の見込みの無い一任ファンドのこと)を抱えたままの事業法人部は引き受けられない」と固辞した。だが、当時、事業法人本部管掌だった行平副社長が説得に乗り出して、渋々、部長職を引き受けたとのことである。とすれば当時、既に法人部門では「握り」に伴う大きな損失を抱えていたことになる。「握り」とは、法人顧客の資金運用に関して取引を事実上、一任させて貰い、その代わりに一定の運用利回りの獲得を強く匂わせる勧誘行為である。旧証券取引法の下でも売買一任勘定取引は禁止的制約を受け、また利回り保証は明確に禁止されていた。そのため現実の勧誘は、証券法に直接的に抵触することを避けるために、特定金銭信託ファンドを設定し、取引注文は顧客法人から発注されたように段取りを整え、利回り保証に代えて目標運用利回りを相互に確認するといった方法が取られるケースが多かったようである。このような「握り」は、証取法に違反する可能性が強いばかりでなく、経営上も大きな危険を内在していた。
「自信を持って投資を勧められるのは1年に1,2回」。嘉本はそんな仲間内の言葉を聞いている。むしろ予想が当たるのは稀で、外れることが多いのだ。しかし、証券業の本質はリピート営業である。顧客に繰り返し投資させることで利益を得ているのである。
> 自信を持って勧められるなら良いけど、「年に数回、相場が分かる時ある」発言、度々聞くけどムッとするね。予想が当たるのは稀なのは90年以降、80年代なら予想が外れるのが稀だったはずだよ。買いしかやってないだろうからね。
「ニギリによって巨額の一任運用ファンドを獲得した法人営業マンは、社内でスター視され、大きな顔ができた。それはずば抜けた手数料収入を稼ぎ出していたからだけではありません。一任ファンドの運用で高利益が生じても、顧客法人には当初約束の利回り相当分だけを渡せばよく、超過利益をどうするかは事実上、営業マンの裁量に任されていました。そこで仲間の運用ファンドで損失が生じているときは、そのファンドを簿価で引き取り、これを自分のファンドに生じている超過利益で相殺することが行われました。これは困ったときの仲間同士の相互扶助であり、しばしば『貸し借り関係』と呼ばれていました」
当然、借りては貸し手に恩義を感ずることになり、そこには特殊な人脈が発生しやすい。このような貸借関係は営業マンの間だけでなく、時には決算期末の損益調整のために商品部対法人営業部の間でも行われた、という。


ロベスピエールとフランス革命 2/4~ジャコバン派

1791年夏のロベスピエールの下宿移転は、彼の生き方に変化をもたらした。家主のモーリス・デュプレイは繁昌している大工兼建築家で、政治好きの妻、まだ学校を行っている少年、孤児の甥、3人の結婚適齢期の娘があった。最年長の娘、エレオノールはロベスピエールの心の友となり、全家族は賛美に満ちた聴衆となった。晩にはデュプレイ夫人は、政治上の友人と隣人に家を解放した。のちにパリ市長になるペティヨン、元僧侶でのちにテロリストとなりボナパルトの警視総監となるフーシェ、3年後ダントン派とともに刑死するデムーラン、エリザベトの婚約者ル・バ、ロベスピエール崇拝からジャコバン派となったサン=ジュスト、画家のダヴィット、不具の狂信者クートン、政府御用印刷人の二コラ、そのほか多くの人がやってきた。
> フランス革命、ジャコバン派のメンバーがそろった溜まり場だ。面白そう。
サンジュストでも絵でも載せようかぐぐったら、日本語と英語であまりにも違うのが面白かったので、
英語版 Saint-Just
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日本語版サンジュスト
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コミューヌと国民公会
1792年8月10日の事件は外国の観察者を途方に暮れさすと同時に恐怖におののかせた。これまでパリの地区と述べてきたものは、実は1790年の自治体法でパリ市を分割したところの48の地区であった。もとは60であった選挙区、もしくは市選挙区で、この再分割は、市参事会(ミニュシパリテまたはコミューヌと呼ばれる)に対する独立性を弱める意図で行われた。しかし人口平均12500、「能動市民」(有権者)の数平均1700を持つ各地区は、政治的クラブと同時に国民衛兵の代替の中核となり、これまで以上に1つの政治的単位となり、どんな党派であろうと地区議会の多数を握った党派によって制御され、その要求を武力によって裏付けることができた。これらの地区のあるもの、比較的上流の諸地区はまだ国王の味方であったが、他の地区、ことに市の東隅とセーヌ南岸の人口の密な区域は、猛烈な共和主義であった。多くの地区はこの2つの見解の間を動揺していた。戦争の勃発に続く敗北と国土侵入の4か月によって、1地区を除いてすべて国王の廃位を遂行するのに十分な多数が確保されえたのである。中央よりの指示に従う本能はなおきわめて強かったので、正式に選ばれた地区代表である市参事会の権利をはく奪し、「蜂起コミューヌ」の名で暴動を遂行することが必要であった。
8月10日、大臣たちは依然その官庁に出勤しているが、彼らの地位の基礎である行政権は存在しない。憲法はなお有効だが、憲法の根本をなす王政はなくなっている。軍隊はなお前線を守っているが、その将軍たちは忠誠を共和国へ移すであろうか。フランスは全体として革命にしがみついているが、国王なしにすまし、パリ・コミューヌの独裁を許す用意があるであろうか。これらの問題は、王権の没落(8月10日)から国民公会の招集(9月20日)までの6週間、全国を途方にくれさせた。ブラウンシュヴァイク公が国境を越え、プロシア軍がパリへ進軍中であるという報は、事態をはなはだしく悪化させた。
ロベスピエールは、ジャコバン、ジロンドいずれの王権攻撃にも積極的に参加することなく1792年の夏の事件を見守っていた。しかし彼は、これが人民の勝利に終わり彼の唯一の理想である正義と徳の共和国に新たな道を開くことをひそかに希望していた。彼は8月10日の攻撃を組織した連盟兵委員会、地区委員会のいずれのメンバーでもなかったが何が進行中か知っていた。議会におけるマルセーユの利害の選ばれた代弁者として彼はその連盟兵の進軍を賞賛し、蜂起における彼らの役割を宣伝した。8月10日が近付くにつれ『憲法の擁護者』は、蜂起の味方として公然と姿を現し、蜂起は国王と議会との双方の代わりに、真に人民を代表する国民公会を設立するのを目標とすべきだと述べた。しかしロベスピエールは、剣をよこたえたデムーランのように街に姿を現さず、また蜂起コミューヌに参加したダントンのように、市役所に姿を見せなかった。彼はすべてが終わるまで家に-政敵によれば地下室に-ひそんでいた。そして夕方例のごとくジャコバンクラブに姿を現して演説し、国民公会の選挙を力説し、この日についての公式の解説を地方全体に配布すべきことを示唆し、自由を確保するまで武器をおかぬよう人民に忠告した。
ジャコバン派とジロンド派は明確な政党ではなく、志を同じくする個人のグループであった。議員は大臣になれなかったから、両派の指導者たちは内閣を作らなかった。ジャコバン派とジロンド派とのあいだの争いは、政治の方法についての相対立する考え方、革命生活の相対するやり方の間の真の闘争であった。右翼の数が多いほうの少数派は、その最上の雄弁家がジロンド県選出の議員であったので、ジロンド派と呼ばれた。左翼の数が少ないほうの少数派は、その指導者たちがパリ選出の議員で、ジャコバン・クラブの幹部会員であったので、ジャコバン派と呼ばれた。ジロンド派は「89年の人々」を代表し、革命の諸目的は良い法律、理性への呼びかけ、経済的自由放任によって達成できると考えていたことである。一方ジャコバン派は全体として、1791~2年にもっと経験を積んだもっと現実的な考え方を代表し、中央統制のより偉大な施策の必要を信じていた。ジロンド派は、中産階級の利益と投資とが安全で、人生が快楽に満ちている国家を望んでおり、ジャコバン派のユートピアは、計画主義的な民主政治、福祉主義的な独裁政治であるべきであった。
【民族主義・革命・風雲児】
2015.01.19 偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実
2014.09.19 日本人へ 国家と歴史篇 1/6~賢者は歴史に学ぶ
2014.07.23 岸信介 -権勢の政治家- 1/3~帝大から農商務省
2014.05.26 世界の歴史 ギリシアとローマ 1/2~マケドニア王
2013.05.13 孫文 5/5 ~革命の情けない実態
2013.03.08 藤原氏の正体 1/4 ~鎌足と蘇我氏
2013.06.03 わが闘争 下 国家社会主義運動 3/7~演説と扇動
2013.05.16 わが闘争 下 国家社会主義運動 1/7~民主主義
2013.04.18 王城の護衛者
2011.10.25: インドネシア 多民族国家という宿命 1/3~歴代大統領
2011.08.31: マハティール アジアの世紀を作る男4/4 ~がんばれアジア
2011.08.26: マハティール アジアの世紀を作る男1/4 ~東南アジアの雄
2011.02.17: 田中角栄 その巨善と巨悪 ~議員立法
2010.12.06: 田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~カネの使い道
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道


シンガポールの公共インフラ~ジャカルタより愛をこめて

シンガポールの環境について書くには、ジャカルタはとても良いです。改めてシンガポール政府の努力と開発の成果を感じることができます。写真を撮ってから、ジャカルタに来るまで、時間的制約の都合もありましたが、基本的に私は暇なので、このくらい書ける時間は取れたはずなのです。でも、ジャカルタに来ると筆がよく進みます。道路など基本的な社会インフラ、大事なものは失ってみて初めてその大切さがわかる、ということだと思います。
ジャカルタとシンガポール? 俺には関係ねー、じゃ済まないですよ。私はいまだに回復しない被災地の石巻も、ジャカルタも見ています。仮に東京が地震で壊滅的な状態になったとき、東北地方とは比較にならない東京の人口過密状態が、ジャカルタ化を引き起こすこともありえます。人が多く住むということは、それだけ町は汚れるということです。
バス停。
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HDB群の任意の地点からバス停まで、アーケードの下を通って、雨でも濡れずにバス停まで移動できるように作ってある。はずですw 雨にぬれずに移動できる領域はかなり広く、私も実験的に歩いてみたことがありますが、3ブロック分、30分以上かかるくらいの領域です。(直線に直せば5~10分ですが、雨にぬれずの制約条件下)
バス停の上に屋根(アーケード)があって、それがマンション棟まで続いているのが伝わりますでしょうか? しかし、ジャカルタに居ると、車の数はシンガポールも多いですがバイクはほとんど走っておらず(ってこの写真で思いっきり目の前にいますがw)、片側2車線、時差式信号・右折レーンで整然とキューが進んでいる、大変ありがたい道路インフラですw 私は車に乗らないのですが、写真を撮りながら普通に歩ける広い歩道が確保されているのも大きな違いです。後に載せますが、ジャカルタの歩道、というか道路の脇ですが、マジで酷い。
公営プール。
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プールを撮影すると変態かと思われそう(ちなみに撮影したいような大人の女性は公営プールにはおらず、居るのはガキばかりですが、それを撮って警察呼ばれるのもあまりにも不本意)だったので、プールが見えない遠目の位置からの撮影ですいません。シンガポール自慢の公営プールで、50メートルが2面もあり、入場料は平日1SGD、休日1.3SGD、ロッカー代20セントです。横浜市営プールもありますが、350~450円くらいしていたはずなので、とても安いです。でもそれは横浜市がぼったくっているのではなく、横浜の貴重な土地を有効活用するために、1年のうち、7月~9月というわずか3か月のためだけにプールを作るわけにはいかないのです。なので、室内の温水プールにし、その熱はゴミ処理場の焼却から得るという、涙ぐましい節約と努力をしているのです。穴を掘って水を入れるだけのシンガポールのプールと値段が違うのは当然ですが、25mプール1面で4倍とは、地の利を生かしてシンガポールのプールで泳ぎたいものですね。これもまたアジア全域生活圏構想。わかるかね? 家からプールは歩いて5分強くらいです。
駅前。
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バス、電車が接合し、モールもついています。にしてもこのポリアンのだらしない体と歩き方が気になるわw お陰で、シンガポール来てから、姿勢が良くなった。なんか、嫌なんだモーン。あのガニマタ、ヨタヨタ歩き。シャンとしろシャンと! シンガポールに来たばかりのころ、どんなに綺麗な服を着ていてもあの姿勢と歩き方では、何の意味もない、とラッフルズプレイスの金融街で思っていました。
駅。
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電車が来るシャッターチャンスを5分ほど待ってしまいました。ジャカルタだと30分待った挙句に、「今日は電車来ない」とかありえるので、5分待てば必ず来るシャッターチャンスもありがたや、ありがたや。シンガポールのMRTです。香港はMTRです。マレーシアリンギットはMYRです。って、ん?
電車は、かならず高架線か地下鉄になっています。ここは郊外なので高架線ですが、中心部に行くと電車は地下に潜ります。なのでシンガポールでは踏切という概念がありません。これは日本とも違う、車至上主義。踏切という効率の悪い交通システムはここには存在しません。すべてのレールを地下か高架線上に敷くほどしか、面積がないのが、そうできる理由ですが・・・。
ついでに、この写真で偶然映っている、ゆとりある歩道。ジャカルタに居ると大変ありがたい、歩行者のための道路。これのお陰で、シンガポールの民は、前を見ずに、横を見ながらチンタラ歩いています。「キチンと前向いて歩かんか、このボケッ」と殺意を抱く日常ですが、ジャカルタとは違い、前と足元を見ずに、横の商業スペースを見ながら歩ける幸せを噛みしめているのだ、と思うことにしましょう。
貯水池
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海ではありません、貯水池です。海沿いも貯水池と同様に、歩くための道、走るための道、自転車の道など、運動する人のための道を周囲に作ってあります。私もそのうちの一人ですが、歩いたり走ったりしている人が多いです。この貯水池は、治水・水害対策という役割の遊水地だけではありません。シンガポールには水がないんです。川もない(リバーバレーとかあるので、本当はあるんですけどね)。日本の石油備蓄と同じで、水の備蓄の意味があります。マレーシアの気まぐれで水を止められたら、シンガポールは終わりです。水が無いというのは石油以上に深刻で、全員死亡してしまうという綱渡り状態です。なのでシンガポールは海水を飲料水に変える技術などがありますが、それで400~500万人の飲料を確保できるのかは不明です。マレーシアが長く水を止めれば止めるほど、シンガポールが苦しくなるのは間違いありません。インドネシアの一部の政治家が「シンガポールは都市であり、国としての体をなしていない」と発言するのも、うなずけますね。
立体交差
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ジャカルタにもありますよ。しかも、たくさんあります。でもねぇ、ジャカルタにはもっとたくさん立体交差が必要なんです。だってこれはシンガポールで貯水湖があるような端っこの側にも、立体交差があるということなのです。
筆:ジャカルタにて
【私の愛するシンガポール】
2015.04.22 バタムに学ぶ新都市建設の可能性 4/4~シンガポールの属国
2014.11.26 物語 シンガポールの歴史 3/3~嘘だらけ?
2014.05.30 私のシンガポール日常生活
2013.09.05 シンガポール6年目にしてジョホールバルに初めて行きました
2012.03.09|タイ旅行 11/11~在住国を見直す
2012.01.11: マクリッチーとスンガイブロウ
2011.10.04: Ubin島にサイクリングに行ってきました
2011.08.25: ブキティマ山に登ってきました
2011.04.21: Facebookのむかつく広告
2010.04.15: オラ日本さいくだ from SGP
2010.03.05: 何をやっても中途半端なシンガポール
2010.01.12: シンガポールスタイルの結婚式に行ってきました 
2009.06.10: 所得税不服申し立て成功 油断も隙もありゃしねぇ 
2009.04.29: ファーストフード店に見るシンガポールの社会構造 
2009.03.19: Noと言えない日本人、Yesとも言えないシンガポール人 
2009.01.27: Globalに通ずる現地化度Check試験設問 
2008.09.17: Singapore的美的感覚


第5次ジャカルタ攻略 Zero~必要な社会インフラを考える(重要)

ふー、もう5回目か…。ジャカルタのKOST(アパート)暮らしも3回目だ。私が何度もジャカルタに足を運んでいるため、よく発生する勘違いなので最初に言っておくが、ジャカルタは面白いところではない。楽しさならマニラやバンコクの方が上である。ではなぜジャカルタなのか?
1.必要な社会インフラがないと、民の生活はどうなるのか? を見ることができる。
2.新興国の将来 を見ることができる。
順序を逆に、2の新興国の将来とは何かをまず説明する。例えば「カンボジア、ミャンマー、バングラ、もっといえばアフリカ諸国が今貧乏なんで、絶対発展する」という極めて楽観的な新興国への投資話をよく聞く。これらのフロンティアは、農業依存を脱し、軽工業・重工業という道を歩むことになるが、インドネシア・ジャワ島は工業化を終えた段階でも、まだまだ先進国には程遠く、豊かとも言えない状態である。ジャカルタのこの状態を見て、やっと軽工業化し始めた国に対して、「今貧乏だから将来絶対伸びる」と言えるだろうか?
ジャカルタの状態とは? ここで1に戻る。国民生活に必要な社会インフラが無い。先進国では空気のように当たり前に存在する基本インフラなので、気が付かないが、ジャカルタが、その必要性を教えてくれる。繰り返し述べていることなのでヘビーユーザーな読者には申し訳ないが、先進国住民はこの意識がない。(まぁ、空気のように存在するのだから当然なのだが)
1-1.通貨の信用
1-2.道路
1-3.地方都市
1-1.
悪性のインフレが発生しており、インドネシアルピアの価値はこの2年、対ドルで40%下落している。1997年通貨危機並みの水準である。年に一度ジャカルタに来ているが、同じコンビニのタバコやビールの値段が本当に毎年10%値上がりしている。毎年取ってきたエキゾ・ジャカルタ物価指数だが、今年はなんとコンビニビールの販売禁止。コラーーーッ、政府の勝手な都合で、統計の邪魔をするな!
ビンタンビール 330ml標準モノ Blok M コンビニ価格
2015年9月 パパヤ 18,500
2014年8月 セブン 18,500 サークルK 18,500 ファミマ 18,200
2013年6月 セブンイレブン 16,500 サークルK 15,800
2012年10月 セブンイレブン 14,000 サークルK 16,000
サンポルナメンソールマイルド
2015年9月 セブン 18,000
2014年8月 セブン 15,500 サークルK 15,500 ファミマ 15,200
マールボロ赤
2015年9月 セブン 19,500 アルファマート 19,100
2014年8月 セブン 17,500 サークルK 16,800
う~ん、ビールは上がってないように思えるが、スーパーで6本セットで買ったからちょっと安くなったのかもしれない。タバコは激しく値上がりしているのが分かる。ちなみに年率10%のインフレが何を引き起こすか、日本人諸君らは想像もできないだろうから、もう一度言及するが、コンビニの値札は信用できない。インフレに値札がついてきてないのだ。だからレジを通すと値札と違うことがある。買わないと実際の価格が分からない。経済だ金融だ株だ全く関係ない国民生活に影響が出てるだろ?
そんなインフレ下に置かれたジャカルタの一般市民たちのセリフだが、
 「銀行に預けても金利は、月に1%しか付かない」 
年間金利で12%だぞ。信じられないだろ? キャリートレードとか毎月分配とかやってる連中には。実際、現在の銀行預金で10%を超えるところはあまりないが、7~8%の金利は普通に期待できる。だが、民は銀行に金を置くことを嫌っているのだ。銀行の信用ではなく、通貨の信用がないからだ。給料はすぐにモノに変えないと、カネそのものの価値が落ちていくということを肌感覚で知っているのだ。
「自動車ローンで車買いたい」
普通預金金利がこの状態なので、ローンの金利はさらに高い。でもなぜそう思うのか。インフレで給与そのものが確実に来年上がるから、借金して車にした方が得だという考えなのである。これを高度経済成長慣性系、インドネシア慣性系と私は呼んでいる。日本だって1960年代はそうだったのだ。インドネシアルピア預金をしている日本人の先輩がいるのだが、彼は、「こんなに高い自動車ローン金利を払ってまで車を買うのは理解できない」と言っていた。
1-2.
ジャカルタ市内には自動車が走れる道路はある。空港から市内への高速道路もある。じゃあ何が問題なんだ!と思うかもしれないが、都市人口に見合う道路がない・都市設計ができていないのだ。人口2億を超えるインドネシアにおいて、ジャワ島・ジャカルタ市内1000万、首都圏内3000万人と、工業化と都市化の成功により、凄まじい人口集中が起きてしまった
3000万人の人口を養うには道路が必要なのだ。ジャカルタの地図を見てみよう。
オレンジ色が高速道路だが、ジャカルタ市内を中心に環状道路にもなっていて、ちゃんとしているじゃないか。と思うだろう?
Jakarta-Road_c.jpg
では、諸君らがよくご存じ、首都圏人口4000万都市の東京の地図を同じ縮尺でご覧に入れよう
Tokyo-Road_c.jpg
地図で見るとわかるね? 網の目のように高速道路が走り、何重にも環状線があり、東京を中心に放射線状に各都市に分散していく様が綺麗に出ている。それでも「東京は渋滞がひどい」とか文句を言ったことがあるだろう? ジャカルタと東京は首都圏人口としてはほぼ同じ。3000~4000万人が車で移動するのに必要な道路は、どんなものか知っている諸君らは、もう一度ジャカルタの地図を見返してみたまえ。「ジャカルタは道路がない」 このセリフもあながちウソだと思えなくなってきただろ?
地図だと観測できないが、高速道路、高架線道路、鉄道、立体交差、地下道、信号、こういったものがあるにはあるが決定的に不足している。信号もひどい。時差式、右折のみ、右折レーンなど、様々な工夫をして、渋滞緩和に努めている東京と比べれば、交差点で4つある道路のうち、一つだけの道路から3方向にしか動いていないような信号もある。これも急速な工業化と経済発展で、都市の人口爆発に都市機能が追い付いていない現象の一つだ。こうしたジャカルタの状況を見ると、東京の道路インフラは、空気ではない。政府や東京都が時間と莫大な金をかけて、作り上げてきた一大インフラだと意識が生まれてくるはずだ。
1-3.
少し細かくて見落としてしまうが、ジャカルタから地方都市へ向かう道路が、各方向1本しか伸びていない。東西を走るのが国道1号線、Cikampek道路である。この長い高速道路のほんの100mを労働者によるデモ隊数千人が塞ぐだけで、ジャカルタ経済は一日ストップしてしまうのだ。そして、この道路しかないようでは、地方都市の開発もうまくいっていないことが推測できる。
「誰も使わないような道路に国費を投じてけしからん。田舎の役所は立派すぎる。」 私もそんなことを思ったこともある。しかし、インドネシアを見ていると、そうでもしないと地方都市は発展しないことがよくわかる。
どうだ? 東京の道路インフラに感謝の気持ちなんて抱いたことないだろ? 日本の行政に文句しか言ったことないだろ? ジャカルタに学べ。さすれば日本の行政に感謝することになる。それが私がジャカルタを訪れる理由なのだ。日本の小学校の修学旅行は、ジャカルタにしたら、納税や行政の意義が理解できるかもしれないな。
ジャカルタに訪れる理由を述べるだけで1日使ってしまった・・・。
【アジア国際関係・国際都市】
2015.07.10 日本全土落下傘計画2015年 横浜編 2/2~みなとみらい開発計画
2015.04.03 タイ全土落下傘計画2015 9/15~タイ南部ハートヤイの街
2015.02.16 タイ全土落下傘計画2015 1/15~日曜休日の店が多い
2015.01.29 海道の社会史 1/4~ジャワ以西の地、スラウェシ
2014.11.28 第二次フィリピン遠征 4/10~一人で遊べるセブ
2014.09.22 中国の地下経済 3/3~国は頼りになる?
2014.06.03 中国全土落下傘計画 湖南省編 2/10~長沙の規模
2013.07.03 インドネシアがシンガポールを挑発(爆笑動画付)~ヘイズ問題が教える一人当たりGDPの虚しさ
2013.10.02 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 14/16 ~ジャカルタの電車
2013.09.12 初フィリピン・マニラ編 1/14 ~空港・周辺ホテル
2012.02.21: タイ旅行 5/11~タニヤのキャバ
2011.02.23: アジア発展の構図 ~アジア地域の特徴 1/4
2010.02.19: マラッカ(マレーシア)旅行 ~KL、マラッカ観光編
2009.11.30: アジア情勢を読む地図
2008.11.14: 国際観光動向考察による人民誘致戦略
2008.08.21: 東南アジア横断 ~総括 アジア覇者への道


しんがり 山一證券 最後の12人 3/5~飛ばしの管理人

2600億円の簿外債務を、実際には誰が管理しているのか、という根本的な疑問である。「簿外債務」という塊がポンと存在するわけではなく、損失を抱えた有価証券類や売買取引書類がどこかに隠されているはずだ。そして、その有価証券類の日々の値動きをチェックし、管理している人間がどこかにいるはずだ。それは事業法人本部か、経理部か、それとも経営企画室か。その人物は数字に明るく、几帳面で、上司の信頼が厚い人間だろう。もし、簿外債務の管理が6年前の1991年ごろからひとりの手で続いているとすれば、その人物は部長か、それに近い地位に就いているのではないか。そして、その人物は絶対的に口が固い人間のはずだ。そのうちに竹内の脳裏に、社内の誰もがその私生活を知らない、ある幹部の顔が浮かんできた。
もしかしたら、あの「異才」なら何かを知っているかもしれない。それが、企画室関連事業課長だった大槻益生であった。今は関連企業部担当理事である。山一の国内関連会社の管理を統括し、関係会社の方針を立案したり、会計処理に当たったりしていた。なんとなく思い浮かんできただけで、それは直感としか言いようが無かった。経営企画室は、簿外債務の秘密を握っていた。とすれば、その手足のひとりとして大槻が選ばれていても不思議は無いと竹内は考えた。
「ギョウカンで簿外債務のことを調べているんです。大槻さんほどの人ならわかっているはずです。教えてください。わかっていることだけでいいんです」 すると大槻は眼鏡の奥から竹内をじっと見つめた。
「何が知りたいの?」
「簿外債務がどこで管理されているのか。いや、簿外債務について大槻さんがご存知のことを全部お話願えませんか。お願いします」
「うーん」 ためらいを見せたあと、隣の応接室に大槻は竹内を連れて行った。同室の事務の女性に聞かせたくなかったのだろう。ソファで向かい合うと淡々とした調子で切り出した。
僕が毎日、管理して書き入れているんだよ。株価も


ロベスピエールとフランス革命 1/4~王政と憲法

まもなく革命によって解体されようとしていたフランス社会の古臭い構成において、僧族および貴族の二特権身分と、特権は持たないが、財政的、職業的には重要なブルジョワジー-イギリスの中産階級にあたる-とは、勤労者の表面を覆う薄皮にすぎなかった。概数でいって50万の二特権身分と100万のブルジョワに対して2500万の勤労者がおり、その9/10は農民であった。しかし少数の大都市、パリは人口約60万で、6つばかりの海港や工業中心地は各10万に近かった。多くの地方都市とでもいえるものでは、大寺院のお偉方たち、教区の僧侶たち、地方自治体の役人たち、司法官、弁護士、その他民生機構および宗政機構のすべての小役人たちは、自己の立場を維持する以上のことを望んでいた。
アラスはそんな地方都市の1つであり、ロベスピエール家はそんな家の1つであった。この一家はこの地方に300年来住んでおり、もしマクシミリアンがその性格のうちに何か外国風なところを遺伝していた、彼はしばしばアイルランド系だと告発された、としてもそれはずっと遠い祖先から来たものに違いなかった。


シンガポールの引きこもりが勇気を出して部屋を出る(写真付)

と言っても、今、ジャカルタに居るんだけどね。俺、住所不定だからなぁ。そう言うとかっこ悪いから「アジア全域生活圏構想」と呼ぶようにしているんだがね。日本を含むアジア各国を移動しながら、その領域の中でも最も割安な商品とサービスに消費するというシンプルな考え方だ。一番簡単なのは、食事。現地のものは現地で買うのが最も安い。日本酒は日本で、タイ料理はタイで。そして、高付加価値商品は日本で買うのが最も安い。
普段はシンガポールの部屋でほとんどの時間を過ごすという「引きこもり」なんです。最近購入したSurface Pro3というタブレットを持って、写真でも撮りに部屋の外に出てみよう。と思って、ジョギングを散歩に切り替えて撮影してきました。100SGDもするジョギングシューズで贅沢ウォーキング。ジャカルタに比べればシンガポールの道路は遥かに安全なのですが、走る時は交通上注意が必要なので、周りを見ながら走ることはできません。歩きながら、立ち止まったり、周りを見渡してみるというのも、ありなのかなと思い、歩いてみることにしました。
※インドネシアの名誉のために言うと、ジャカルタの道路が危険なのは治安ではなく交通上の問題です。キチンと足元を見て歩かないとケガをするようなボコボコな道路状態に加え、明らかに信号が必要な交通量があるのに信号はなく、バイクと人体の当たり判定の小ささを利用して、かわすように横断する必要があります。う~ん、逆にインドネシアの不名誉?
部屋に戻ってから、その写真を見返してみると・・・、出るわ出るわ、引きこもり固有の悪態が…。というわけで普通のブログっぽく、写真を載せて言葉が少ない記事を書くまでに3回も悪態ついてしまいました。いずれの記事もシンガポールに対する愛に溢れています。
2015.08.27 ナショナルデーパレードを見て思う民の国家貢献
2015.09.02 シンガポールの真実、経済成長の傍らにて
2015.09.08 シンガポールの公共住宅HDB
さ~ぁ~で~かけ~よう~♪
では早速、玄関。
Double-Door-HDB.jpg
ドアは外扉と内扉の二重になっているのがHDBの基本です。コンドは普通はドアは一つです。コンドのセキュリティーの代わりでしょうか? 鍵をなくしたときにプロを呼ぶと、5秒くらいで開けてくれるので、二重ドアに何の意味があるのか意味不明ですが、誰でも通してくれるコンドのセキュリティーと同程度の意味はきっとあるのでしょう。ちょっと細かいですが、写真から、内装も少しわかります。床はタイル調、配電盤はむきだし、そして壁の塗装もなんだかこだわりがありません。ここは、たぶん、築20年くらいですが、築10年以内のHDBだと、この内装も「経済成長」していまして、グッと綺麗になります。


孔子 日本人にとって論語とは何か 2/2~宗教と慣習の違い

孔子が最も具体的に偉いところは「子は怪・力・乱・神を語らず」に要約されると教えていただいた。紀元前500年という孔子の時代に「怪・力・乱・神を語らず」と言えるのは、大変な理性だからです。そういうと各宗派の人に怒られるかもしれませんが、釈迦、キリスト、マホメットなど宗教はみな教祖のオカルト的伝説で人心を収攬していく。キリスト教の中でもカトリックはキリストは神の子として処女懐妊をしたと信ずる。どの宗教も「怪・力・乱・神」を話して布教するわけです。今の新興宗教も同じです。
魑魅魍魎や百鬼夜行の世界は存在するかもしれないが、明瞭な日常生活の中で説明できるものではない。したがって理性の対象にはならない、と学問上の理性の枠組みをきちんと整える。学問とは理性で証明し、かつ理性で反駁できるもの以外はないというわけです。孔子の死後、儒教は何度も仏教の影響を受けるが、宗教にならず、啓蒙の学問、人倫の道として発達し定着するのも、こうした理性が働いていたからです
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カーネギーは大金持ちになって、これ以上お金を儲けても仕方がないと思ったのかどうか、慈善事業を始めたら、金儲けに努力していたときより、ずっと品性の卑しい人間と多く会わなければならなくなったと述懐しているんです。商売の場合は、お互いに信用し合い、契約書を取り交わし、守らなければ社会的なペナルティーを受ける。ところが慈善事業を行う人は自分の正義感ばかりが先走りして、他人がそれに従うのが当然だと思うから品性が卑しくなることがある。


しんがり 山一證券 最後の12人 2/5~黒幕の行平会長

三木「次の会長は君に頼みたいんだよ」
五月女「え、こんなところで突然、言われましても・・・」
三木「わが社の状態は君が一番わかっているはずだ。誠実な君なら社員の信頼もある。ぜひお願いしたいんだ」
五月女「新社長はどうするんですか」
三木「野澤君に頼んであるんだ。この話はまだ、私と行平会長しか知らない。よろしく頼みますよ。」
三木はその直前に野澤にも電話を入れていた。
三木「僕の後任は君がやってくれないか。いろいろあって君しかいないんだ」
野澤「えーっ!私はその器じゃありませんよ」。そういう野澤の答えの中に、僥倖の喜びがにじみでている。行平も野澤に電話を入れていた。じっとり粘るような口調であった。
行平「頼むな。逃げないで仕事に向かってくれ。いろいろあるんだよ」
二人のトップが言う「いろいろ」とは、緊急副社長会で明らかにされた「指三本」の簿外債務のことだったのだろうが、野澤が深く聞くことは無かった。本心をめったに口にしない三木が、側近にポツリと漏らした。
三木「野澤が社長になっちゃったよ
「取引で儲ければ自分の才覚、損をすれば証券会社のせいだ」。苦情客の中にはそう考えるものもいる。
> いつの時代もいるねぇ。でもそうである限り、証券業のブローカレッジビジネスはなくならねぇな。


アメリカ・フロリダに行ってきました 4/4~毎日ロケット発射が見れる

アメリカ飯の定番、ステーキを食べに行きました。
Charley’s Steak House
8255 International Drive Orlando, FL
サイドを頼むなら、4人で肉2人前で十分です。典型的なアメリカンステーキですが、味は比較的スモーキー。なかなかおいしいです。最近は日本でも霜降りだけでなく、赤味の肉も流行っていると聞いていますが、4人、実質2人分でワイン一本頼んで、120USD程度です。一人5,000~10,000円の価格帯でそれほど高くないのはアメリカの良いところなのではないでしょうか。アメリカンステーキは私にとっては、アメリカに行ったら必ず食べるようにしている一品です。しかし、子供にとっては、「筋があり固い」という予想通りの反応です。
Wall Green
民スーパー。ウォールマートよりは店舗が小型のイメージでしょうか。ホテルがあるInternational Driveにいくつかあり、ホテルから徒歩圏だったので、利用しました。主としてビールやワイン、水などを買いました。25 FL oz(約750ml)の特大缶バドワイザーがお気に入りです。私は味の薄いアジアビールが好きなので、アメリカだとバドは定番になります。アメリカらしいビッグサイズの25oz缶がなかなかお洒落です。ワインも1ボトル1000円台(10ドル台)で買えるので、日本より若干高いですが、シンガポール基準で考えれば安い安い。タバコは一箱6ドル台なので、とても高すぎて買うことはできません。まま、シンガポールは10ドルなので、それよりは安いですが、グローバルアービトラージャーとして高いタバコは買ってはならないのです。フロリダなので、ディズニーグッズ、キーホルダーなどが2ドルくらいで売っています。お土産はディズニーランドで買わず、こちらで買うと割安でしょう。


シンガポールの公共住宅HDB

タブレットを買ったので、写真が取れるようになりました。ノートPCを持ち歩いて、バッテリー気にしながら、カメラとして重すぎて手元グラグラしながら写真を撮るのも嫌なので。タブレットとはいえ、PC代わりなので、シムも入らなければ12インチもあり、常時持ち歩くには不便な大きさです。
底辺の生活に触れる前に、シンガポール在住の一般的な日本人の居住区に触れておこう。私の経験上、最も日本人と遭遇率が高いところはマリーナベイサンズだが、ほとんどが宿泊者=観光客と思われるので、これは除外する。シンガポールのリトルトーキョーは、ロバートソンキーと呼ばれるところとなる。最寄り駅のクラークキーまでは歩いて15分ほどで、あまり便利ではないが、そこからさらに徒歩で10~20分のリババレ(リバーバレー)・グレワ(グレートワールドシティ)までのコンドミニアムが、標準的な日本人居住区といえよう。
日本人学校が、島の東部・西部にあるので、子育て世帯は、日本人学校近傍のコンドミニアムに住んでいることもある。独身世帯だと逆にオフィスまでの立地だけを重要視したラッフルズプレイスにあるコンド、Sail(セール)もよく聞く。裕福な世帯は、オーチャード近郊やセントーサのコンドミニアムに住んでいるが、数はあまり多くない。一方、中華系・インドネシア系の富裕層が住んでいる一軒家地域は、日本人が住んでいるというのは聞いたことがないほど珍しい。
お待たせいたしました、ここからが底辺の世界になるが、シンガポール人の8割が住んでいるHDB(公共住宅)を底辺と呼んでしまうと、ほぼ全員底辺になってしまい、真の貧困層がほとんど皆無のシンガポールの記述として不適切な気もする。繰り返すが、中国やインドネシアの貧困層に値する層は、シンガポールにはいない、と言ってしまってよいだろう。日本にもいないのだが、「日本の貧困層」と同じ感覚でとらえるならば、底辺と解釈してもよいだろう。
底辺という言葉を使っておきながら言うのもなんだが、実はHDB(公共住宅)とコンドミニアムは、大して変わらないw ここからはシンガポール賛美=HDB賛美だw
家賃:HDBが2500~3500SGDに対し、コンドミニアムは3500~5000SGD程度である。もちろん、上記の富裕層の住むコンドミニアムは10,000SGD以上も普通に存在する。家賃20万円と40万円の違いなので、違うといえば違うが、20万円の物件に住んでいて底辺というのも…厳しいだろ?
セキュリティ:コンドミニアムには、ゲートにガードマンが居る。が…、「フレンド、インサーイド」とか適当言えば誰でも入れるのでほとんど意味のないセキュリティレベルであるw
内装:HDBの分譲はハコのみの状態で売り出されるので、内装はオーナーによる。内装の質は時代によっての流行りや改善が見られ、最近建設されたHDBならば、コンドミニアムと遜色ない内装と言ってよいだろう。ポンゴールというシンガポール北部にある新興HDB群(とはいえ、Punggol21という開発プロジェクトは1996年、Punggol21 Plusが2007年なので超最新ではない)に遊びに行った時は、あまりの綺麗さに驚いた。住んでいた日本人が几帳面で、彼の家はいつも綺麗にお洒落に保たれているというバイアスがちょっとある。


孔子 日本人にとって論語とは何か 1/2~本場中国と解釈の違い

論語が決定的な影響力を持つようになったのは、言うまでもなく江戸時代です。当事は四書(大学、中庸、論語、孟子)、五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)と朱子の「近思録」を読んでいないと一人前の知識人として認めてもらえなかった。幕末の武士、たとえば西郷隆盛や大久保利通の青年期の読書を見ても、まず四書五経を読んでいる。また、渋沢栄一の父親は武州血洗島の農民に過ぎなかったけれども、四書五経はよく読んでいて、それを引用しながら息子の渋沢を訓戒したそうです。つまり、武士に限らず当事のちょっとした知識的な農民や商人なら「論語」を暗記しているのが当たり前だったのです。仏教のお経は読んでも意味がわからない。読んで聞かされてもわかりません。しかし「論語」なら字なりに読めるし、読んだとおり理解できます。解釈の上で非常に難しいところはあるけれども、お経のように、音声だけ聞こえてきて意味は全くわからない、というようなことはない。
ただ、日本人の論語の受け取り方は、中国人とは非常に違うそうです。すべて日本的に-日本の実情に都合のいいように解釈している。もっともこれは、ヨーロッパの聖書に対する考え方についても言えます。「新約聖書」のうち「ルカ伝」以外はすべてユダヤ人が書いたと言われ、またルカにしてもユダヤ教に改宗したギリシャ系の人間だから、「新約聖書」はすべてユダヤ教徒によって関われたわけで、そこには当然、伝統的なユダヤ人の考え方がある。ところがヨーロッパに入ってくるとそうしたものとは違った解釈が生まれ、それが一つの文化を作っていくようなところがあるのです。ローマ帝国がキリスト教を公認したのは、紀元325年ですが、そのとき小アジア西北部のニカエアで開かれた「ニカエア公会議」でキリスト教の基本信条が決定された。「ニカエア信条」と呼ばれるものですが、それと同時にその信条案を提出したエウセビオスという人物が、初めての教会史を書いたのです。それを見ると、いわゆる「旧約の歴史」はイエス・キリストが出現するのを準備していた期間だということになっており、それがそのままキリスト教徒の理解になっているのです。ところが、ユダヤ教徒には最初からそういう理解は全くない。「聖書」に対する受け取り方が基本的に違っているわけです。そしてこれと同じことが日本人と「論語」についても言えると思います。
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長い間「論語」に親しみ、その影響を強く受けながらも、中国のものの基本は輸入しなかった。日本人の法意識に最も強い影響を与えているのは、鎌倉時代に制定された「貞永式目」ですが、それを唐律と比較すると日本と中国の違いがわかります。中国は伝統的に「父子制血縁集団」の社会ですから、例えば処罰についても「縁座」ということが非常にはっきりしていた。反乱を起こした場合、本人の父親と16歳以上の男子は死刑、15歳以下の男子と妻妾子女は奴隷に落とされ、伯父と叔父は流3000里-流刑に処せられるのが通例でした。しかし、貞永式目には原則として縁座がない。共同謀議をしないかぎり、血縁者だからという理由だけで処罰されることはありません。ただ正妻は夫に協力したに決まっているということで、領地を没収される。中国の法律とは明確に違うわけです。財産相続法も非常に対照的です。中国は均分相続で、家督は一人が継ぎ、家産は均分に相続する。ところが貞永式目はそうなっていず、父親がこれと思った人間に譲り状を渡して相続させるのです。


しんがり 山一證券 最後の12人 1/5~小池隆一

「なぜ自主的に廃業しなくてはいけないんですか!どうして会社更生法はだめなんですか。営業権譲渡など、他に生き残り方法もあるでしょう」五月女は野沢に代わって、社員の前でいきなり告白した。「山一には約2600億円の帳簿外の債務があります」それは長年にわたって社員たちに隠されてきた秘密であり、名門企業を瀕死の淵に追いやっているものの正体であった。執行役員たちは息を飲んだ。「ふざけるな!」という罵声の代わりに「ううう」という低い唸りのような声が漏れた。「大蔵省証券局は山一がそれを隠していたのは許せない、というのです。会社更生法で立て直すという方法は無いのか、と私たちも動きましたが、東京地裁は『簿外債務のような法令違反行為があると、更生法の適用は難しい』という判断です。さらに更正法を適用するには会社が大きすぎるし、財務体力も銀行の支援も無い、ということなんです」
> そういえば、会社更生法ではなくて自主廃業でしたね。
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「総会屋との取引関係」とは、総会屋・小池隆一に対する利益供与事件を指している。始まりは、野村證券の内部監査を担当していた若手社員がその不正に気付き、1996年に東京地検特捜部やSESC(Securities and Exchange Surveilance Commission)にひそかに内部告発したことであった。「野村證券が自己売買部門で稼いだ利益を小池のダミー会社である『小甚ビルディング』に付け替えてやっていた」というのである。それが年末ごろから少しずつ利益供与疑惑として新聞で騒がれ始め、翌97年3月25日には東京・日本橋の野村證券本社が特捜部やトクチョウ(SESCの特別調査課)の捜索を受けていた。不正のきっかけを作ったのは、第一勧業銀行である。1989年2月に小池に約32億円の無担保融資を実行し、小池はそれを元手に、野村、大和、日興、そして山一という四大証券の株を30万株ずつ取得していった。これで得た株主提案権を楯に、小池は株主総会めがけて各社に揺さぶりをかけつつ利益供与を求めていたのだ。
> 株主をナメ腐った日本企業の経営陣に、株主兼総会屋として噛み付いたのは悪いことではないと思うが、89年に証券株を買ってるあたりは、相場師として劇的にセンスが無いよなぁ・・・。株を買いつつ、その後ろでForwardを2倍ショートしてたとしたら、神様並みに崇めてやっても良いけど、店頭デリバティブ解禁は残念ながら1998年だ。


アメリカ・フロリダに行ってきました 3/4~ユニバーサルスタジオ

ディズニーランドと似たようなものだ。アメリカの物質文明の極み。良く言えば、アメリカの豊かさとエンターテイメントの象徴だ。子供向けの施設ではあるのものの、大人の場合は、映画オタク(アメリカ映画だがw)、アメコミ・オタクが喜びそうな環境で、スパイダーマンとかベティちゃんなど(後はあまり知らないので認知できない)の専門ショップがあるようだ。ディズニーランドと比較すると、若干、雰囲気がマシで、それを定量的に表すのが、やはり、「喫煙所」の数だ。実質上使えるのが一箇所しかないディズニーランドに対して、ユニバーサルスタジオでは、吸おうと思った任意の地点から、徒歩圏内に喫煙所が存在する。
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それにしても高い! 2Park Ticketで一人147USD+で156USD。×4で600USDを越える。1USD=125円とすると、75000円! 俺、生活地味だから、一日で75000円も使ったこと、この何年でないんじゃないかな。しかもだよ、「絶叫系のジェットコースターは怖い」とか言いやがる。行けばわかることだが、1回2500円はしそうな巨大なジェットコースターがいくつかあるのに、それに乗らず。俺なら高そうな豪華ジェットコースターから機械的に制覇していく(しかしそれは本当に楽しんでいるのか?と自分でも疑問だ)。ジュラシックパーク・エリアによる、円形ボートでの川下りも雨天で、いつ再開するかわからず、並んでいる間にあきらめる。お目当ては、ハリーポッターの城とDiagon Alleyでのショッピング。城はけっこうすごいです。映画を真面目に見たことはないのですが、様々なところに映画さながらの演出がしてあるようです。それはさておき、城の中をゴンドラに乗って回るのですが、ゴンドラの動きと周辺の風景と映像の組み合わせで、本当にほうきに乗って?空を飛んでいるような高次元なバーチャルリアリティでした。これは納得の2500円級アトラクション。さて、これと同等のアトラクションを7個乗らないと元が取れないぞっ! 目の前にあるグリフォンライダー?、ジェットコースター、これもすごいぞ! どうだ! 拒否だ。怖いそうだ・・・むぅ・・・。
本日の主目的であるDiagon Alleyでハリポタグッズの買い物だ。ユニバーサルスタジオは2つのパークが並列しており、ハリポタの「城とDiagon Alley」は別々のパークに設置されているというなんとも嫌らしい構成になっている。ハリポタ両方に行きたければ、2パーク料金を払えということなのだ。すさまじい商魂だ。2パーク間はハリポタ電車で移動可能。本物の電車に乗りながら、窓はハリポタスクリーンになっている。ゴンドラで上下しながら移動する城といい、電車といい、実際の体感と映像を組み合わせた演出は同じだ。
Diagon Alleyの買い物の予算、お友だちのお土産にいくらお小遣いが出るのかでモメている。しかも金額は2000円、16ドル程度で、買える物はここにはほとんどないぞ。少ない予算、すなわち強い制限がある中での買い物は面白くないだろう、よしお前に選択肢を与えよう。「ユニバーサルスタジオがお前にとっての第一希望であり、ディズニーランドは違うな・・・。ならばディズニーランド行きを1日諦めて、俺とホテルでゴロゴロしているだけなら、1日分諦める毎に80ドルをプレゼントしよう。」 4回行く予定だったディズニーランドだが、私は初日で嫌気が指してしまい、残りは彼等3人で行ってもらい、私はひとりでホテルで待つように変更した。待つ人数が一人増えるたびに、100ドル以上が浮くので、その一部を還元してやろう、という提案だ。


シンガポールの真実、経済成長の傍らにて

日本で(特にテレビ)見るシンガポールといえば、マリーナベイサンズ、オーチャードばかりだが、「NYだけ見ても、ブッシュJrがなぜ当選したのか?が理解できない」ように、シンガポールも同様の事情がある。
オーチャードなどのCBD(Central Business District) Areaと呼ばれる中心地は、労働生産世代ばかり、シンガポールの高度経済成長後の世界で育ってきた若者が多い。平均所得も当然上がっていることと思うが、マナーや話方など立ち振る舞いは改善し、英語のアクセントも、年寄り世代とは異なる。若年層が話すシングリッシュは、若干改善されているものの、シングリッシュはシングリッシュなので、心配しなくても、中央エリアで観測可能であるw 私は普段、シングリッシュに接することがほとんどないが、一番、耳にするのは意外なことに、部屋に引きこもっているときである。私の趣味のYoutubeだが、Youtubeの広告は、ローカル(接続国)によって提供される。私が日本語のYoutubeを見ていても広告は、シンガポールのものになる。突然、不快なアクセントでシンガポールの政府広告、CPFの説明を、リー・シェンロン首相の動画と供に流されたりする。(動画検索してみたが、見つからなかった)
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しかし、ポリアンと話していて、一番イライラするのは、不快なアクセントではない。よく聞くのは、「カネの話ばかりしている」というが、私もカネの話は好きなのだが、彼らとは話は合わない。なぜならば、どうでもよい給与の話や、シンガポールの不動産価格、そして株=シングテルだw S&P500のImplied Volatilityとか言っても全く通じないのは間違いない。ましてやもっと難しい概念であるアジア一国一愛人構想、「中国・インドネシアを震源地とするアジアの動乱が起きた時に、アジアの地図が変わる。そしてその時、シンガポールなどという国は存在しない。」という考え方はまったく理解できないと思ってよいだろう。
また、これも会話の内容になるのだが、独特の「3文字熟語」を知らないと全く何を言っているのかわからない。先ほどから出している、CBD、CPF(年金)に代表されるが、HDB(公共住宅)、MAS(金融監督庁)、PIE・CTE(道路の名前)、ERP(Electronic Road Pricing、自動課金ゲート)など、うーん、他にもいっぱいあるはずだが、これらの3文字熟語を全部知らないと会話についていけないことは間違いない。3文字熟語と言っても、これらは英語ではなく、シンガポールでしか通じないシングリッシュなので、覚えても、ポリアン以外にはまったく通じない意味の無い熟語である。


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 5/5~日本郵政社長の苦闘

郵便貯金の預入限度額は金融自由化への対応を理由に、なし崩し的に拡大され、1988年には300万円だったのが3年後の91年には1000万円になった。90年代に入るとバブル経済時代の行動やバブル崩壊後に相次いで発覚したスキャンダルなどから金融業界への不信が強まり、国民の資金は政府保証のある郵便や簡易保険に集中するようになる。2004年度末の郵貯残高は214兆円の巨額に達し、当事、最大の民間銀行であったみずほフィナンシャルグループの預金量80兆円の2.5倍を誇っていた。また簡保の総資産は121兆円で、日本生命・第一生命・住友生命・明治安田生命の大手生保4社の総資産の合計額に匹敵するものであった。
郵貯に預け入れられた国民の資金は2000年までは大蔵省の資金運用部に全額を預託する義務があった。預託期間は7年間で金利は10年物国債の利回りに0.2%程度が上乗せされた
> これが西川頭取が「民間では絶対真似できない金融商品」と吠えたアメリカンスワップション付き10年固定利回り定期預金を、郵便局が提供できた理由である。
2008.04.30 定期預金は金利デリバティブ
2008.03.17 一族家における投資教育 ~貯金と金利
民営化された日本郵政では、運用ノウハウの確立と運用担当者の育成に苦労させられることになるのだが、いきさつを振り返れば、それも至極当然ことなのだった。郵貯は、市中よりも有利な金利で自動的に”運用”でき、資金を集めることだけに専念していればよかったのである。言うまでもなく、預託された資金は財政投融資などの資金となり、これがまた特殊法人のずさんな経営を生む一因にもなっていた。郵政事業は独立採算だったが、預託金には上乗せ金利が適用されたり、法人税や事業税、預金保険料が免除されたりするなどの「隠れた補助金」「見えない補助金」がたくさんあった。こうした「官業ゆえの特典」ともいうべき民間よりも有利な競争条件が市場を歪め、公的金融の肥大化を招いていた。簡保を合算すると郵貯は家計の金融資産1400兆円の1/4を占めるまでになっていた。財政投融資制度の改革により2001年度からは資金運用部への預託義務は廃止された。つまり全額を自主運用しなければならないのだが、郵貯は政府保証付であるのだからリスクの高い運用はできず、国債や地方債に偏重した運用がなされ、巨額の資金が官に流れる構図は全く変わらなかった。財政当局にすれば、巨大な買い手がいるのだから国債発行の規律も乱れがちになるのは当然だ。
ある商社の会長さんから聞いた話、1000万円を渋谷郵便局から引き出し、神田の某銀行の支店に送金しなければならない用事ができたという。郵便局と銀行間の決済ネットワークがつながっておらず、「近くの銀行に現金をお持ちになって、そこから送っていただくといいと思います」。渋谷の街中で1000万円を持ち歩くのは危険なことであり、そもそも郵便局から送金できないこと自体が理解できなかった。銀行に持ち込んだものの今度は不正なマネーロンダリングをチェックする入金ルールがあり、所定額以上の送金には厳しいチェックがある。
全銀システムと郵政のシステムがつながっていない根本的な問題は、大いに技術面にあった。銀行と郵貯では口座データのうちの「店番号」と「口座番号」の桁数が違い、それがネットワークとの接続を難しくしていたのだ。銀行がそれぞれ3桁と7桁であるのに対して、郵貯は5桁と8桁。全銀システムとつながるようにするために桁数を共通化する必要があった。民営化後に全銀システムとの接続が実現したが、これは全銀システム側が、郵貯の5桁と8桁を全銀側の3桁と7桁に”翻訳”して処理してくれたことで実現した。
ファミリー企業との関係を見直す
調達コストの削減と調達戦略一元化、顧客接点の一元化を徹底し、さらにグループの一体化により総合力を発揮していく上で、避けて通れない問題が、いわゆる「ファミリー企業」と呼ばれる関連会社との関係の見直しだった。その実態を知れば知るほど、実に手回しよく作ってあるものだと驚いた。たとえば「かんぽの宿」。かんぽの宿自身はいわば管理会社で、その周りに営繕や清掃の会社を作ってかんぽの宿から仕事を得ている。ユニフォームの調達でも郵政公社と民間事業者の間に挟まる形でファミリー企業があり、コストを膨らませる一因になっていた。とにかく年賀状の印刷にしてもハガキの作成にしても、切手にしても、郵貯や簡保の帳票類にしても、ゆうパックの箱にしても、調達規模が大きいだけにファミリー企業が介在するうまみがあるのだ。情報システムの構築でも緊密な関係にある会社が4社あった。このそれぞれに大手電機メーカーやシステム会社が出資していた。これらは事実上のトンネル会社で、開発の主導権を持っているわけではなかった。そこに何人かのOBが天下り、入札をするとその会社が応札するし、ベンダーが応札してもその会社を通して納入するので、どっちにしてもお金が落ちるような仕組みになっている。ATMを全郵便局に1台ずつ納入したとしても24,000台だり、こんな大規模な調達案件は無い。しかも特殊使用なのでコストが増えるのも当然と考えられていた。こうした関連会社との関係の見直しとコスト削減の連動は民営化したからできることだった。ただ、なかには財団法人など公益法人となっているものも多くあった。公益法人は主務大臣の認可を得て設立されている団体だから、私たちの手で解散したり廃止したりできるものではない。
第一次報告が公表されたのが8月7日のことだったが、この段階ですでに「郵政福祉」という財団法人との関係見直しについての検討結果が明らかにされていた。郵政福祉は郵政弘済会・郵政互助会・郵政福祉協会の3つが統合してできた公益法人で、職員の退職給付の3階建て部分の拠出金を、毎月の給与からの天引きで集めて運用していた。しかし、加入は任意で、加入率は84.6%であった。外部の任意団体に職員の旧都に関する情報を提供するのは個人情報保護の観点からも許されるべきことではない。報告を受けて日本郵政は、直ちに給与天引きを廃止した。そもそもこの団体は特定郵便局の局舎を約1500ほど所有し、公社が家賃を支払う形になっていた。賃料は結構高く、利回りにすると10%で回っていた。しかも財団法人は公益法人なので税金がかからない。その団体が局舎を郵政に貸し出して賃料を得、それを運用して職員の退職金に上乗せするという構造はどう考えてもおかしい。
もう1つ、大きな組織で財団法人「郵貯振興会」があった。ここはメルパルク(郵便貯金会館)の運営をやっている法人でメルパルクは全国に11箇所あり、コンサート会場や結婚式会場として利用されている。ここの経営形態も妙なものであった。メルパルクは「郵便貯金の周知徹底のための宣伝施設」と位置づけられていて、土地や建物は公社が所有しているものの、売上収入はすべて郵貯振興会に入る。賃料なし、税金なしなので利益率は高い。初めて説明を受けた時は、賃料も取らずによくやっているものだと驚き、呆れたが、周知徹底のための宣伝施設なので施設を所有していること自体が宣伝広告費として扱われている理屈にはあんぐりとしてしまった。郵政民営化法では2012年9月までに譲渡または廃止すべきとされている。


皇族に嫁いだ女性たち 4/4~皇室スキャンダル

醜聞 宮家の古着
敗戦後、天皇家は温存されたがその権限は縮小された。直宮ではない宮家皇族や家族なども多くの特権を剥奪され、経済的苦境に陥ったりした。そして、太宰治が戦後の華族没落を描いた小説「斜陽」から、斜陽族という言葉が流行し、斜陽にともなう旧特権勢力の数々の庶民的言動は時に醜聞として広まることもあった。
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こうした世相にあって、雑誌「真相」の1948年6月号は「カメラ探訪 宮様商売告知板」を掲載し、皇籍離脱した東久邇宮稔彦の「東久邇商店」、閑院春仁の「無料結婚媒介所」、久邇朝融のダンスホールなどを揶揄まじりに紹介した。元妃たちの商魂ぶりも伝えられ、旧朝鮮公族妃であった桃山佳子などはふくよかな顔立ちの写真入りで「渋谷なる喫茶店『桃屋』の営業不振に鑑み、まずは銀座への進出の桃山家、銀六百貨店に御開業(ただし売品は全部ヤミだよ」、「銀六百貨店菓子部主任、李鍵公改め桃山虔一夫人佳子の君」と皮肉たっぷりに描かれた。「閑院夫人がチョクチョク古着を売りにくるナツメ衣裳部、大福帳に具出を取るは松平親子」の記事もあり、「ナツメ」は久邇朝融がはじめた久邇香水の直売所であった。「ナツメ」は美術部、食料品部、高級喫茶部の3部門に分けられた間口三間、奥行十間の小店で久邇の血縁の元妃殿下たちが数人の男女店員に交じって働いたりしていたのであった。「松平の奥様」や皇族たちが衣類を売りに持ち込み、「徳川のアオイの紋のとなりに菊の紋章がならんでいる」といわれたのであった。
貞明皇后記念館建設をめぐる詐欺事件
皇太后節子は貞明皇后と諡号され、その古風な気品と格調高さが後世に伝えられることとなった。しかし良妻賢母教育は戦後の風潮には必ずしもなじまず、その名声は衰えた。そして崩御7年後の昭和33年1958年に受難が訪れた。貞明皇后記念館建設募金をめぐる詐欺事件の発覚である。事件の発端は昭和29年7月頃御用邸のある静岡県沼津市の日蓮宗の住職と国際文化協会沼津支局長とが、貞明皇后を偲ぶ記念館建設を計画したが、両者の意見が対立したため支局長は国際文化協会理事長に話を持ちかけ、昭和30年9月に理事長が記念館建設の意思を持たないまま東京都知事に募金を申請したことにある。申請が許可されたことにより、理事長は無断で元公爵の一条実孝、元貞明皇后侍医の山川一郎、静岡県知事斎藤寿夫ら有名人約40名の名を賛同人として連ねたパンフレットを作成して、八幡製鉄、日本鋼管、味の素など都内一流企業に配布したのであった。その結果、およそ100社から八百万円を集めたのである。当時大卒の事務系の初任給が15000円ほどであったから、1社当たり新人社員の5カ月分の給料に相応する寄付を出したことになる。
募金活動は一年と限定されていたため、理事長はその後も延期申請をして3度目は貞明会と名を改め、日比谷公会堂で募金の芸能会を開き、その収入を得ながらも税金を滞納して脱税容疑で追及されたりした。また蔵前国技館で花相撲を開き、相撲茶屋の寄付金40万円をふくむ450万円の収益を上げたりしていた。さらに福島県など各地の小学校の生徒から10円、20円の額を集めていた。この総額は2000万円以上と推定されるが、昭和33年になっても記念館建設予定地とされる沼津市には何の動きもなかった。そもそも沼津市では昭和31年夏になされた国際文化協会支局長の土地借入申請に不審の点があるため却下していたのである。こうした事情を受けて、警視庁捜査2課は貞明会理事長宅などを詐欺の疑いで家宅捜査して取締りをはじめたのであった。貞明会の中心人物であった国際文化協会理事長は過去に詐欺や賭博の前科があり、暴力や恐喝の前科者を集めて資金を調達させていたというのが実態であったようだ。
官中魔女事件
昭和41年から46年にかけて皇后良子をめぐる新たな問題が発生する。入江日記によえば、当時、官中祭祀にうるさく、誰かが大晦日に剣璽の間に入ったとか、皇后良子をしてどうして旬祭は年に2回になったのかと言わせるなど、官中行事の運営に口をさしはさんでいた「魔女」と称された女官がおり、昭和天皇の高齢を考慮して祭祀の簡略化をすすめていた入江ら官中官僚の妨げとなっていた。しかし、「魔女」は皇后良子の信認篤く、皇后から保科武子女官長の後任を推されていたほどであった。「魔女」の女官長就任はなかったが、天皇と皇后が欧州旅行に出かける際の準備段階で、皇后は「魔女」の同行を主張し「魔女」が同行しないのなら自分も行かないとまで言いだし、一時は天皇単独の旅行案も考えられたのであった。
河原敏明によれば「魔女」は公家の羽林家である旧今城子爵家から皇后宮女官となった今城誼子のことであり、今城は旧来の官中祭祀の伝統を守ろうとしたが、入江ら改革派の官僚たちに阻止されたというのが真相であったという。今城家は花山院家の支流中山家の分家であり、維新後の当主である今城定徳が子爵となり、その正妻の竹子は橋本実梁三女であった。橋本実梁といえば明治天皇の夭折した長女である稚高依姫尊を産んで同日に死去した権典侍橋本夏子の兄(夏子の出生には不明な点があり、実梁の妹麗子と東坊城夏長の長女説がある)として知られる。また定徳子爵を嗣いだのは定徳長女の友子と結婚した中山孝麿侯爵の長男定政であった。中山高麿は皇太子嘉仁親王の東宮大夫をつとめ、孝麿の叔母は明治天皇生母の中山慶子である。そうした家系の今城定政の長女が誼子であり、代々の伝統的な宮中儀式を尊重する性癖もうなずけなくはなかった。
一方、皇后良子のほうは昭和35年1960年の長女照宮成子の容体悪化のころから精神状態が乱れ始めた。治療のかいなく成子は早世した。その後、皇后良子は新興宗教に凝った「魔女」の意見に従うことが増え、熱があっても「魔女」の一言で侍医に身体をみせることをしなくなった。「魔女」の皇后への影響力は、天皇裕仁の心の負担ともなり、天皇は口をパクパクする症状を見せるようになった。戦後の新時代に対応しようとする天皇裕仁と入江ら改革派の官中官僚たちと、旧来の伝統を維持しようとする皇后良子や今城ら守旧派の女官たちとの間の確執が「官中魔女事件」の背景にあった。皇后良子はめまぐるしく変わる皇室環境に息切れし、孤立感を深めていた。その心の隙間を埋めていたのが「魔女」であった。


アメリカ・フロリダに行ってきました 2/4~ディズニーランド

香港・シンガポールとアジアに住み始めてはや10年。アジア住みになってからアメリカとの距離が開いてしまい、すっかり行かなくなってしまいました。日本に住んでいた頃はNYやカリフォルニア、ラスベガスなど遊びに行ったものですが、シンガポールからアメリカだと直行便は異様に少なく、乗り継ぎで24時間超になってしまいます。なので10年ぶりくらいのアメリカ。
インターナショナル・ドライブというフロリダ州オーランド市中の道路沿いのホテルに泊まりました。車社会+土地が無駄に余っているので、ホテルと言ってもモーテルのような形で、2~4階建て程度の低層で、広い駐車場、ファミリー向けに4人でも泊まれるようなホテルが多いです。道路は片側5車線あるので、空がとても広い光景で、まるで中国のような風景です。中国っぽく見えるのは、右側通行だからですかね?「全然、違うだろ」ってのはごもっともなのですが、建物と道路と空の配分比率という観点では似ています。
マンハッタンとは一味違うアメリカの地方都市はとにかく広い、無駄に土地が余ってる感、満載です。この風景を見ながら生まれたウォルマート(ウォルマートは本来アーカンソー州からスタートなので表現が的確ではないが、地方都市で発展した小売の意)の発想では、日本の西友では成功できないわな。中国ではウォルマートが散見されますが、発想そのまま、中身を替えればなんとかいけそうな気がしてきます。おそらく、日本だったら北海道(行ったことはない)が、この土地余り感ある風景なのでしょう。
ディズニーランド
ディズニーランドは大きく4つ、日本と全く同じのマジックキングダム、アニマルキングダム、エプコット、ハリウッドスタジオとある。まったく似合わない場所に行ってみた俺の愚痴オンパレード、開始w
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ディズニーランドの客層は最低だ。バカ・ガキの巣窟。悪ふざけで3兄弟でつつきあった挙句、サラダを床にぶちまけ、それを母親にばれないように皿に戻して食ってる奴とか、意味不明なまでに肥満なやつが超ちんたらレジで会計していたり。「なんのために事前にメニューを渡しているんだ!何にするか位決めておけ、おら、意味不明なことブツブツ言ってないで、5秒でオーダーせんか!」何をするにでも行列と待ち。アトラクションも飯も男子トイレまで行列だw
水は1ボトル3.75USD、入場料も税込みで約110USDと殺人的な値段。水はペットボトルを持ち込めば、給水所で補充すれば、3.75USDの水は買う必要がない。給水所の数は少なく、見かけたらすぐに補充するといいだろう。さもなくば、3.75USDの水が諸君らに買われるのを待っている。


ナショナルデーパレードを見て思う民の国家貢献

シンガポールの生活について、書こうと思って書き出したら、最初から最後まで悪意ある偏見に満ちた文が出来上がってしまった。偏見とはいえ、シンガポール政府発表の数値に基づく、シンガポール市民99.9%は該当する偏見だ。なので全くの嘘ではないw しかも、内容が結局、税金の話で、生活にほとんど触れていない。ごめんごめん、別に隠してるわけじゃないのだが、生活に関心がないから、どうしても内容が・・・。
自分はシンガポールに対する「愛」が無い、と「アジアに対する愛に満ちた後輩」と行動を供にすると改めて思いました。8月9日はシンガポールの独立記念日でしたが、シンガポールにかれこれ、8年も住んでいるのに、独立記念パレードなど、見に行ったこともありません。今年も8月9日は特に用事もなく暇なくせに「パレード見に行きましょう」と言われても、「う~ん、どーせ人混みだし・・・」と消極的。
「せっかく自分が住んでいる国なのだから、高い関心を持って、積極的な生活を」
という彼の主張も、もっともなので、初めてNational Dayのイベントを見に行きました。シティホールの駅は赤い服を着て、ちんたら歩く民に溢れ、私は居るだけで嫌悪感でいっぱいでしたが。国としての権威を示すための軍事パレードは、「俺の会社」、この「の」は所有格の「の」だからね、ロッキードマーチン製のF16がいっぱい飛ぶので、いささか機嫌が良くなりました。シンガポールは国家予算の歳出のうち、3割教育、3割不動産開発、3割が軍事費です。日本の国家予算と比べると鼻毛のような金額、ざっくり5兆円と思ってもらってよいです。なけなしの国家予算の3割を、俺の会社の製品の購入にあてていると思えば(実際には軍事費のうち、F16の購入代金はかなり少ないはずだがw)、シンガポールの納税者の皆さん、俺のためにどうもありがとう、これからも労働と納税にいそしんでくれたまえ。と思える。
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しかしながら、パレードを見学している、赤いTシャツを着たシンガポールの民は、シンガポールの国家予算にはほとんど貢献していない。「シンガポールの世帯収入のメジアン(中央値)は月額7000SGD程度」である。「月収63万円か、けっこう良いじゃん」と思うかもしれないが、これには誤解しやすい単語が2つ含まれていて、1つは、中央値なので、平均値にすれば実は月収はもっと高い。2つ目は、「世帯収入」で、シンガポールは共働きが基本なので、個人収入に直すと、月収は半分の32万円程度になる。またボーナスはダブルペイ、ある月に2倍払う、というのが標準的だから年収=月収×13で、416万円(45,000SGD)ほどとなる。
年収45,000SGDの民の国家貢献、すなわち所得税だが、まず基礎控除が20,000SGD、配偶者控除が2000SGD、子供控除が一人につき4000SGD、給与所得者控除2000SGD、年金控除が8000SGD程度で、独身であっても、課税所得は15,000SGD、子供が二人居れば5,000SGDとなる。なので、独身者のグロス所得税額400SGD、子供二人世帯はなんと100SGD、しかも税額控除で半額なので、
所得税額の中央値は、独身者は200SGDと子供二人世帯は50SGDとなる。所得税率に直すとそれぞれ0.4%と0.11%だ
しかも、所得控除は他にもあり、シンガポール人が対象になりそうなのは、両親控除で、この驚愕の所得税額より、さらに下がる。ふざけてるよなぁ・・・。シンガポール人400万人のうち、高めに見積もって6割が労働しているとして、100ドルの所得税を払っているとしたら、大体、約200億円。国家歳入の5兆円の1%にも満たない。な、コイツら税金納めてないって言っただろ?


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 4/5~銀行再編

1998年には大和銀行から難題が持ち込まれた。しかし私は内心期待に胸を膨らませた。発端は大和銀行の救済だった。会長の巽さんのもとに大和の安倍川澄夫会長から「住友銀行の力を貸してもらえないか」という内々の打診があったのだ。大和銀行はニューヨーク支店のナンバー2がアメリカ国債の簿外取引を行って11億ドル(当時、1ドル87円換算で957億円)の損失を出す事件を起こしていた。この巨額損失を大和銀行は大蔵省には報告したもののアメリカの金融当局に報告しなかったため、大和は3億4000万ドルの罰金を支払いアメリカでの業務を撤退させられることが決まっていた
> 大蔵省に報告して、現地でだんまりって馬鹿なのかね? FBIまで動いたんだよな。ちなみに大和銀行事件についても当ブログはちゃんと扱っていてw
2012.02.27 告白 元大和銀行NY支店2/2 ~トレーディング
2012.02.24 告白 元大和銀行NY支店1/2 ~米国の公務員
巽会長から話を聞いた私は「ただ力を貸すだけではなく、大蔵省の意向通り、どうせやるなら合併含みでやりましょう」ということで動き始めた。まず大和銀行がニューヨークからスムーズに撤退できるように手配し、ニューヨーク連邦銀行首脳が東京に来た折にはこの件を報告しておいた。当時、住友銀行の名は表に出ていないが、大和銀行のニューヨーク撤退を住友は縁の下で支えていたのだ。この時期、大和に限らず西の銀行は、近畿銀行、なにわ銀行、福徳銀行などどこも経営状態が非常に悪く、火薬庫とまで呼ばれていた。私も大蔵省の担当官に赤坂にある日銀の接待施設・氷川寮に呼ばれ「○○銀行はもう破綻している。西川さん、住友で大阪を何とかしてくださいよ」といわれたことがあるほどだ。なんとかしろといわれてもとてもではないが荷が重すぎる。そのたびに「私たちの力では及びませんよ」と断っていたのだが、大和銀行には信託兼営という魅力があった。
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2002年5月、私はニューヨークにいた。ゴールドマン・サックス(GS)のヘンリー・ポールソン会長と面談するためだ。実はGSと住友銀行の関係は1986年から続いていた。当事住友銀行の国際部門は証券やM&Aなど企業金融に関わるインベストメント・バンキング業務を柱にして収益力の強化を図るのが急務だった。住友独自で人やノウハウ、組織を築き上げてインベストメント・バンキング業務を推進するには時間がかかりすぎる。また海外にも資本調達の窓口があったほうがいい。そんな折、ニューヨークの国際本部が「いいパートナーがいる」といって紹介してきたのがGSだった。GSは1869年に設立されたアメリカ最有力の投資銀行だ。住友銀行と企業風土や経営の行き方が似ているところもパートナーの条件として最良だった。住友銀行は1986年に議決権の無い有限責任出資者として4億2500万ドルを出資する契約を交わした。調印したのは小松康頭取とGSの当事の会長、ジョン・ワインバーグ氏だった。具体的には住友銀行が全額出資によりニューヨークに住友銀行キャピタル・マーケット(SBCM)を設立し、そのSBCMが住友銀行の代わりにGSに対して出資をする形をとった。残念ながら不良債権処理の原資を得るために2000年には住友銀行はGSの1200万株を売却して6億ドルを手にしたが、持ち株比率は3.6%にまで低下してしまった。
> う~ん、「時間を買う?企業風土が似てる?」という理由とか出資の仕方とか…ちょっとがっかり…。
2003年度から04年度を不良債権の集中処理機関とし、04年度末までに不良債権比率を半減することを強く求め、そのために資本不足に陥るのであれば、公的資金を投入することにしている点である。「半減」という不良債権処理の数値目標と公的資金投入を一体とした政策が打ち出されたのは、初めてのことであった。不良債権処理は文字通り待ったなしの状態となった。その結果、自己資本比率が8%を割ればBIS規制のルールに従って海外営業から撤退を強いられる。より深刻な資本不足となれば国有化が視野に入る。それだけは絶対に回避しなければならなかった。結果的に三井住友に限らず、大手の銀行グループは優先株(普通株式よりも配当や残余財産を優先的に受け取れる代わりに株主総会の議決権に制限がある株式)の発行や第三者割当などにより大幅な増資を行い、自己資本の増強に奔走した。三井住友は総額約5000億円だったが、みずほ銀行グループは約1兆1000億円の巨額に達し、東京三菱銀行グループは約3600億円、UFJグループは約3500億円という規模であったと記憶している。
GSからの資本調達を耳にしたJPモルガンからも増資に応じたいという申し出があった。GSよりも少し条件が良かった。しかし私はそれにはあまり期待しなかった。GSとは5月から協議を始めて、直接投資1500億円に加えて欧米のマーケットから3000億円余りを調達する話にまでこぎつけたのだ。それをあとからやってきて、もっと良い条件でやりますといっても、本当にできるのか。すでに資本調達前の2002年12月には株式移転により親会社である三井住友フィナンシャルグループを設立して持ち株会社制度を導入することになっており、資本調達は翌03年3月には完了していなければいけない。そうした一連のタイトなスケジュールの中で、いまさら増資先を変更したり、ふやしたりするような危ない橋は渡れないというのが私の結論だった。
しかし行内では、よく討議したほうが良いという声が次第に大きくなってきた。JPモルガンをもっとも強く推すのは奥正之副頭取だった。理由はGSに集中させずバランスをとるべきだというのである。余りに主張するのでGSとの打ち合わせのためにニューヨークに滞在していた奥副頭取とのテレビ会議で私は「では、もうやめようか」と持ちかけた。
「やめる必要は無いではないですか。少し待ってみたらいかがでしょうかと申し上げているだけです。
「何を言っているんだ。これだけの増資をまとめてやってくれるところがどこにあるんだ。何が問題なんだ」
「ですから分散したほうが良いと申し上げているのです」
「分散して何の効果がある?そうしたほうが金額が増えるのか」
「金額の問題ではありません。JPモルガンがせっかく言ってきているのですから可能性を探るべきではないかと」
今振り返れば、住友出身の奥さんがここまで強くJPモルガンを推すのは旧さくら側からのプッシュがあるためという面があり、GSがいけないというよりも旧さくらの顔を立てる意味合いもあった。奥さんがそうした事情を汲んでJPモルガンを推すのは、私だって分かる。条件が良いことも百も承知だ。しかしこのとき何より優先しなくてはならなかったのは、旧さくらのメンツではなく、期日までに約束どおりの資金を手に入れることだった。完全に信頼できたのはあの時点ではGSをおいて他になかった。結局、JPモルガンの申し出はお断りした。
そして当初の予定通り2003年1月15日GSが三井住友銀行に1500億円の直接投資を行うことが決まった。三井住友銀行はGSに対して優先配当を受けられる優先株を優先配当率4.5%で発行する。
2回目の増資として3450億円の優先株発行をGSの主幹事でお願いした。海外の投資家にこれを販売してもらって、海外マーケットから資金調達するのだ。実はこの3450億円という数字も二度にわたって増やしてもらった結果だった。当初の金額はすでに触れたように3000億円弱だったが、もう少し上積みしてもらう必要があり、最後の交渉は深夜、テレビによる最終会議までずれ込んだ。GSの持田昌則日本法人社長が携帯電話を持ち、会議室の外の廊下を行ったり来たりしながらポールソン会長と直接協議する。「SMBCはいくらほしいんだ」「あと500億ほどです、西川さんがそういっているのですから、やりましょう」そんなやり取りが交わされているのを壁越しに聞きながら私は会議室でじっと待つ。
> コラー、三井住友の優先株をこの説明で終わらせるな~!転換価格修正条項付、国内初、今で言うMoving Strike型の超大型増資の歴史がここに幕を開けたのだ。JPモルガンがどうのというより、高い資本コストのファイナンスではなかったのか、GSに対する利益供与の可能性の否定をキチンとして欲しい。ただ逆に、対応が遅れたみずほは3月末に1兆円もの優先株を発行したことを思えば、迅速に対応し、発行コストを抑えたという自己弁護の材料にして欲しかった。
住友銀行の法人格消滅
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増資の協議と並行して決断したのが、旧さくら銀行の子会社だった参加の第二地銀、わかしお銀行を存続会社とする逆さ合併だ。2002年の12月に発表し、正式に合併したのは03年3月17日のことだ。わかしお銀行は、経営破綻した第二地方銀行の太平洋銀行の営業を引き継いで1996年に設立された、いわゆる受け皿銀行だ。ここと合併して三井住友銀行を消滅会社にすれば、三井住友銀行の資本準備金を取り崩すことができる。その額がおよそ2兆円あった。これを不良債権処理の引当に使うのが狙いだった。存続会社の事業規模のほうが小さいこの逆さ合併はは、たしかに当事マスコミが書きたてたように奇策であるかもしれない。平成創業のわかしお銀行の法人格を残すことで、明治28年創業の歴史と伝統のある住友銀行の法人格が消滅してしまったのだ。しかもこの手法は一度きりしか使えない。銀行が生き残るための”切り札”であり、文字通り名より実を取るやり方であった。
> 現在のシャープと同様、いやシャープ以上にひどいやり方である。三井住友ここまでやるのかと驚愕の奇策でしたね、私はよく覚えています。マスコミが書きたてた? 瞬間的にこの逆さ合併は無かったことになっていたような・・・。三井住友銀行はわかしお銀行なんてしつこく言ってるのは俺くらい?w


皇族に嫁いだ女性たち 3/4~華族から平民へ

夫と実子を亡くした北白川宮能久親王妃富子
能久親王は戊辰戦争において輪王寺宮公現親王と称し、旧幕府側に担がれたことがある。結局敗北し、以後、屈折した生涯を送った。維新後、能久王となって伏見宮家に復するが1870年にベルリンに留学し、ドイツ貴族の娘と婚約する騒ぎまで起こす。これも叶わず帰国し、陸軍軍人として日清戦争に従軍、講和後に台湾接収に出征する。しかし、悪天候の悪路などもあってマラリアに感染、軍医は静養を進言したが、親王はこれを聞かずさらに進軍し台南を占領するも、明治28年10月に病死した。そして大正12年(1923年)、実子の成久王をパリの自動車事故で亡くしてしまうのである。成久王37歳、富子大妃62歳であった。
明治19年10月、小松宮彰仁親王が、およそ1年の予定で軍事視察のため頼子妃とともに欧州に派遣され、アメリカを経て、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、イタリア諸国を訪問した。これが近代皇族の妃はじめての洋行であった。しかし、この妃殿下の海外での行状は明治天皇の顰蹙を買う。西洋文明に眩惑されて宝石や衣類を漁りまくったからである。このため、明治22年に有栖川宮威仁親王が慰子妃を同伴して、訪欧の旅に出ようと許可を申請した時、明治天皇は皇族妃の渡航に首肯せず、有栖川宮夫妻は自費で出港することとなった。慰子妃の実家で資産家の加賀前田家が旅費を出し、前田利嗣侯爵と朗子夫人も同行したのである。頼子妃が悪しき前例を残してしまった結果であった。明治42年、梨本宮伊都子が単身で欧州に向かう。資金は宮内省から5万円、実家の鍋島家から3万円、梨本宮家から2万円が提供された。長い船旅を経て、ようやく3月にフランスに着いた伊都子は「いなかもの」のように西洋文明に驚いてばかりいた。「はじめて欧州に足を踏み入れた嬉しさ。キョロキョロしてをる」「アーーこれが巴里であるかと目をパチパチしてながめる」などと旅の日記に書いている。伊都子がパリで最初にしたことは、デパートめぐりと買い物であった。日本では何でもあるデパートは三越だけであったから、巴里にきてみるとルーブル・ボンマルシェー等、大きなもので、毎日の様にかよひ、色々買い物する。又、仕立屋はレッドフェルムがいきな上等の仕立屋で、コスチュームを誂へる。又、ワレス・ウォルト等にも仕立物をたのむ。パレーロワイヤルといふ所は中店の様な店がならんでをる所で、昔から名高いと見え、巴里に行った人々はよくここのはなしをしてをったから、一度みて置度、見物に行く。なるほど、ほしいものばかりで、ハンカチ・指輪など買ってかへる。
加賀前田家、鍋島家のお嬢様でも民なのか…。


アメリカ・フロリダに行ってきました 1/4~アナ雪と微分方程式

2年前・・・
「アナと雪の女王のDVDを買ってもらった」
「ああ、そう。じゃあ、最初は日本語で見て、次に英語の日本語字幕で見て、内容覚えたら字幕を消してみると良い。」
3ヶ月前
「今でもアナと雪の女王が好きだ」
「おお、随分、持つねぇ。だいぶ古いだろう?英語で見れるようになったかな?」
「当然、だって声が違うから、英語で見ないと駄目でしょ」
「そうかね、英語で理解できるということは、アメリカのディズニーランドでも行く?
「アナと雪」も追求すれば深い。アンデルセンへの回帰という文学的側面、ディズニー音楽というミュージカルの要素もある。ただ、私が誘導したいのはコンピューターグラフィックス技術だ。氷の透明感は、光の入射角と反射角を入力し、コンピューター上で実際に光を当てることで、リアルな質感が実現することまでは、前から知っていた。それにしても、私がCGを語るのはあまりに薄っぺらく自信が無いので、後ろ盾として、このブログの管理者であるut氏、ゲームクリエイターの先輩などに、色々聞いていたのだが、今回、新たにシンガポールで、グラフィックスの研究をしている学者先生まで見つけてしまった。昔からだが、俺も学者の後ろ盾大好きだねぇw 先生によると「アナ雪の雪は、最新鋭のテクノロジーを駆使しており、実際の粒子レベルの運動を微分方程式で制御している。」らしい。それが載っているのが、グラフィック界の権威であるSiggraphのMPM(material point method)論文だ。

クリックしてSSCTS13.pdfにアクセス


画像や微分方程式も載っているので、英語部分をあまり真面目に読まなくても、論文の骨子は理解できる。またYoutubeの動画もSiggraphが義務付けているようで、動画まで見ることができてしまう。論文内では10^7個の粒子を使った動画の開発なのだが、「アナ雪」本番ではもっとカネをかけて、数が多いのだろう。CGの学者の先生方は「アナとエルサ」ではなく、「雪」を見るために映画を見るそうだ。MPM論文の発表が2013年7月、「アナ雪」の公開が2013年11月。そして、MPM論文のすべての画像に○C Disneyと書いてある。総資産100兆円のディズニーがお抱え学者を擁して、2013年当初、最新の論文をフロントランニングで入手した上での映画の開発だったことが伺える。
「お前らと話をする時は常に、大学レベルの数学にまで通ずることを意識しているが、今回の『アナ雪』は大学レベルを超えている。俺が大学で勉強したのは100年前の学問だが、このMPM論文は2013年、ほぼ最新鋭の研究と言えよう。例えば、この微分方程式 ρDv/Dt = ∇ · σ + ρg が雪の挙動を示していて、全体を密度ρで割れば、右辺第1項の抵抗に対して1/ρがかかる。すなわち、軽いものほど、重力の影響が弱くなり、ふわーっと落ちるということを意味している。」
「エルサとアナは好きだけど、コンピューターグラフィックス、あんま興味ないんだけど・・・」
なにーーーーーーーー! ちょっとハリキリすぎたか? 数学で俺を越えるには少なくとも数年はかかるが、CGの世界ならば、3日も勉強すれば、俺を超える。その際は、俺の後ろ盾である・・・、まで用意していたのに! ララポート富士見にあるチームラボの見学も御破算だ。「子供にCGを語るのはちょっと難しいのではないか」というut氏の懸念通りになってしまった。


ヴェニスの商人の資本論 3/3~「見えざる手」を「見る」

スミスの言う「見えざる手」とは、市場における価格の需給調整作用のことであるのは言うまでもない。スミスの文章を現代的に言い換えるならば、市場に参加している売り手も書いても市場で成立している価格を与件としながら、自分の利益のみを考慮して商品の供給量あるいは需要量を決定している限り、価格の需給調整作用によって市場は自動的に需給を等しくする均衡状態に到達し、しかもその均衡状態においては経済全体の資源の効率的配分が達成されていると言うのである。実際、「見えざる手」の働きの発見こそ、経済学を経済学として成立させたのであり、その後の経済学の「発展」と言われているものの多くの部分は、この「見えざる手」の働きに関する分析を、あるいは一般化し、あるいは精緻化することにあったといっても言い過ぎではなかろう。
「不均衡動学」の試みは、「見えざる手」を「見る」ことから出発する。「見えざる手」という比喩によって描かれているのは市場における価格の需給調整機構である。しかし一体価格そのものはどのように形成されるのであろうか。いわゆる需給の法則は超過需要があれば価格が上昇し、超過供給があれば価格が下落すると主張している。しかし、こういう価格の動きは一体誰の行動の結果なのであろうか。実際完全競争といわれる伝統的な仮定の下では、売り手も買い手も価格を与件として行動しているから、結局市場には価格を上下させる人間は誰もいないと言う逆説が生じる。しかし、市場で価格が実際に上下するならばそれは市場において実際に取引に携わっている誰かが上下させているのである。市場は従って完全競争的ではありえず、不完全競争的な様相を帯びざるを得ない。そして、ひとたび不完全競争の世界に入ると、経済の中で市場行動を行っている人々の間の相互連関は、より密接にそしてより複雑になる。我々の生きている貨幣経済では、供給は自ら需要を作り出すというセイの法則は成立しえず、総需要と総供給は常に乖離する可能性を持っている。いや、市場経済の発展そのものが、貨幣が可能とする売りと買いの時間的、空間的ずれによって可能となったのである。したがって、もはや「見えざる手」は働いていない。いや、そもそもはじめから「見えざる手」など存在していなかったのだ。逆に、伸縮的な価格および賃金の下では、貨幣経済は絶えず累積的デフレあるいはインフレの危機にさらされた不安定な性格を持っているのである。


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 3/5~住専と赤字決算

1994年になると、株価や不動産価格が下がる一方で、住専の危機が社会問題化していた。そんな切迫した状況になっても益出しと買戻しを繰り返して保有株式の簿価を挙げるのはリスクが大きすぎた。来年も再来年も株価が下がり続ければ、今度は逆に株式評価損を計上することになり、これまでせっかく益出しをしてきたのに元の木阿弥にもどってしまう。こんなことを続けていたらいつか必ず大変なことになると私は考えた。実際この株式評価損は当時だけでなく2000年代に入っても銀行や一般企業の自己資本を毀損して経営を苦しめることになった。もちろん赤字分を株式の益出しで埋めなければ自己資本は食われる。しかし保有株式の簿価は変わらずにすむから、今後の株価下落による評価損増大リスクを避けることができる。将来の株価下落リスクに耐えられる。そこで私はこの際、益出しをやめて、赤字決算するしかない判断した。今でこそ銀行の赤字決算は珍しいことではないが、当時は市場に与える影響がどれほどのものになるのか想像もできず、タブー中のタブーだった。過去の例を見ても日本の銀行が赤字決算をしたのは1946年、終戦直後の混乱期の一度だけで80年頃の「ロクイチ国債問題」のときですら赤字決算は出していなかったのだ。
> 赤字決算禁止の習慣。すごすぎ。
ロクイチの由来となる6.1%の10年物国債は、今から見れば高利回りに感じると思うが、当時としては極めて低金利であり、それはつまり高価格の国債を意味する。大蔵省は大手銀行団を統合したいわゆるシンジケート団にこれを引き受けさせたため、住友銀行を含め、大手銀行のすべてが高い値段の国債を大量に保有することになった。そこに第2次オイルショックと金融引締めが襲いかかり、ロクイチ国債は暴落し、大手銀行のすべてが巨大な含み損を抱えてしまった。額面100円の国債の価格が74円まで下落したのだから、銀行にとっては大きな痛手だ。その頃の国債は時価評価で決算するのが常であったが、この時ばかりは大蔵省も取得原価で評価することを認めると通達してきた。半強制的に国債を引き受けさせたという負い目があったためだろう。しかし、住友銀行はちょっとへそ曲がりなところがあり、「今まで時価評価でやってきたのにちょっと損が出たからといっていまさら取得原価で評価できるか」ということで、それまでと同様に時価評価していた。このときでさえ、住友銀行は赤字決算をせず株式を売って損失を埋めていたのだ。
> なんか国際会計基準とか、国際金融業務とかと縁遠い世界だなぁ~。中国の銀行もこんな感じなんだろうなぁ…。
1995年の正月明け早々、私は巽会長と森川敏雄頭取のもとに向かい、「こんな状態を続けているとダメージが大きくなってしまいます。思い切って赤字決算しましょう」と進言した。すると、お二人とも即座に了承してくれた。頭取と会長、企画担当者と専務の私の4人だけで極秘に会議を行い、1月17日に業績修正の発表をしようと決まった。ところが、その日の早朝、阪神・淡路大震災が起きた。19,000円台になんとか足をかけていた株価は震災の影響で見る見る下落していき、17,000円台に入ってしまった。「こんなときに銀行が赤字決算を出したらどんなことになるか?」 それでなくても滅多に無い銀行の赤字の発表だ。市場にこれ以上余計な心理的な影響を及ぼすことはすべきではないと判断した私たちは、その日の発表を見合わせることにした。そして10日後の27日、株式市場が多少落ち着いたところで、3月期決算の業績予想の修正を発表し、都銀初の3354億円の赤字(当初予想は600億円の黒字)になると表明した。赤字決算の結果として発生する当期の未処理損失については準備金の取り崩しで対応して来期に繰り越さない方針も示した。具体的には関連会社とイトマン関連の不良債権、大蔵省の意向を受けて都市銀行など民間金融機関162社が出資して設立した共同債権買取機構への不良債権の売却損、さらに債権償却特別勘定への引当金繰入などで総額8265億円にのぼる不良債権を償却する計画だ。そしてさらに予想外のことが起きた。私たちが赤字決算を出した途端、投資家が銀行株を買い始めたのだ。住友だけでなく他行まで軒並み買われ、金融関連株が高騰を始めたのである。マーケットは赤字決算によって不良債権処理が進むとプラスに捉えてくれた。ところが私自身は値上がりする株価を横目で見ながら、内心「しまった!」と思っていた。発表を見合わせた10日間で少しでもマーケットへの影響を少なくしようと、有税償却を減らし、益出しもして赤字額をかなり削っていたからだ。発表した業績予想の修正では赤字幅は3300億円であるけれども、実のところは5000億円程度の赤字があったのである。できればその額で業績予想を修正したかった。
> 西川さんのご英断は理解できるが、即時開示義務違反、5000億円の赤字と認識していながらも3300億円発表とは粉飾ですよ…。市場健全化とは程遠いな。
住専(住宅金融専門会社)は、1970年代に住宅ローン需要が伸び続ける一方で、銀行は融資の審査が厳しく個人向けローンのノウハウが無かったことに対応した大蔵省の強い主導で設立されたノンバンクだ。民間銀行は出資を求められ、1971年から79年までに8つの住専が設立された。住専各社は当初こそ個人向け住宅ローンを扱っていたが、バブル時代になって銀行が個人向け住宅ローンに進出してきたため、新たにニーズが強かった法人向け不動産担保融資にのめり込んでいった。これらが大量に焦げ付き、1995年8月に行われた大蔵省の調査で、住専の不良債権額は後述する農林系1社を除き、全体で6兆4000億円にものぼるとされた。融資された額が突出して多い末野興産の末野謙一氏、桃源社の佐々木吉之助氏といった「住専借金王」たちがマスコミで話題になったもこの頃だ。政府内で問題になったのは政府系金融機関である農林中央金庫、および各県の信用農業組合連合会、全国共済農業協同組合連合会のいわゆる「農林系金融機関」が47の信農連と農林中金の出資によって系列に共同住宅ローンを設立したのをはじめ、住専に巨額の貸し込みを行っていたことだ。それらが損失となり、5300億円とされた農林系の負担能力を超える部分を誰が負担するかを巡って農林系と民間金融機関との間で激しい対立が起き、世論を巻き込んでの大騒動になった。その結果連立与党プロジェクトチームは、農林系を除く7住専の損失額6兆4000億円の穴埋めのために、住専各社に出資した住友銀行を含む、いわゆる「母体行」に合計で3兆5000億円、一般行に1兆7000億円の債権放棄を求め、農林系の負担能力5300億円を超える6850億円については公的資金注入で賄うことで議論をまとめ、12月に村山内閣が閣議決定した。当時大蔵省は危機感を持って機敏に動いていた。住専国会が終わるとすぐに発足間もない橋本龍太郎内閣のもとで不良債権処理の障害の除去に本腰を入れ始め、翌97年6月に不良債権償却証明制度を廃止し、銀行による自己査定に基づく債権処理が導入された。債権を「正常先」「要注意先」「破綻懸念先」「破綻先」の4つに分け、区分ごとに引当金を積んで、繰延税金資産として決算上の税負担をなくすことができるようになったのだ。これは非常にありがたい制度変更であった。もちろん、日本では税務当局の意向が強く、銀行に債権償却を勝手にやらせることには抵抗がある。
> 有限責任の原則もへったくれもねーなあ。
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住管機構の主張は住専の融資が焦げ付いたのは母体行の1つである住友銀行が質の悪い融資先を紹介したからだという。紹介責任があるはずだ、というのがあちらの言い分だった。しかしこれはずいぶん無茶な話である。母体行とは、住専に出資した銀行のことをいう。銀行の出資比率は会社法の規定で5%以内と決められていた。いわゆる5%ルールだ。その先駆的存在が、1971年6月に設立された「日本住宅金融」で、三和銀行をはじめとする金融機関が出資している。社長には大蔵省OBの庭山慶一郎氏が就任した。住友銀行が出資したのは、その次の同年9月に設立された「住宅ローンサービス」だった。住友以外に第一勧業、富士、三菱や長信銀、信託銀行など大手金融機関が大株主にずらりと顔を揃えた。その後も、銀行、証券会社、生保などの金融機関が、1979年までに6つの住専会社を相次いで設立したわけだ。ところが住専各社は店舗網が十分ではない。したがってバブル時代に住専がのめりこんだ法人向け不動産担保融資の案件を銀行側から紹介しなければいけなかったのだ。だから、住管機構の主張を銀行側から見れば、大蔵省主導で出資させられ、融資先まで紹介したのに、焦げ付いた筋の悪い案件を紹介した銀行のせいだ、といわれていることになる。ところが住専にはすでに公的資金が注入され、世論は銀行側にとても厳しくなっていた。そこに拍車をかけたのが住管機構社長の中坊公平弁護士とマスコミの存在だった。国民の税金を取り戻そうと奮闘する中坊さんと、それを応援するマスコミの報道によって、住友銀行はすっかり悪役になってしまった。しかし、問題は何の審査もしないで融資をした住専にある。結局、1999年住友が30億円の損害賠償に応じて和解することで決着がついた。
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皇族に嫁いだ女性たち 2/4~女王の婚家 女王の嫁ぎ先

「維新以後の女王」71人の女王すべてが結婚したわけではない。夭折・早世して適齢期までその生涯を全うできなかった女王が10人おり、また出家したり結婚をしなかった女王も居るし、現在、結婚前の女王も居る。こうした未婚の女王を除くと結婚したのは54人となる。54人の出身宮家の内訳は伏見宮11人、有栖川宮3人、閑院宮3人、久邇宮15人、山階宮1人、北白川宮8人、梨本宮2人、賀陽宮3人、竹田宮3人、朝香宮4人、東久邇宮1人である。皇后になったのは久邇宮良子女王1人である。また梨本宮方子女王は朝鮮王族の李琨妃となっている。皇族妃となったのは、伏見宮知子(久邇宮朝融王妃)、有栖川宮利子(伏見宮貞愛親王妃)、賀陽宮佐紀子(山階宮武彦王妃)の3女王であった。これらの5人は結婚後も皇族(王族は準皇族的存在)としての地位と身分を得ていたのであった。皇族に次ぐ華族家に嫁いだ女王は42人、公爵家が7人、侯爵家が8人、伯爵家が15人、子爵家が10人、男爵家が2人、そして爵位がない家に嫁いだ女王は7人であった。
特徴的なのは爵位の無い家に嫁いだ7人の女王である。みな1929年~1945年にかけて生まれており、結婚したのは新典範制定以降の者たちばかりである。いわば戦後の新時代に結婚した女王たちであり、かつての身分関係による婚姻制度から自由になっていたことがうかがえる。これら7人の女王の結婚相手のうち歴史的な著名人は、伏見光子が嫁いだ尾崎行良で、「憲政の神様」と称された尾崎行雄の孫であり、日本航空取締役であった。とはいえ、名門ではあるが勲功華族でもなく、むしろ大衆勢力側の代表的な人物の家柄であった。そのほか、伏見章子はサッポロビール勤務の草刈広、久邇英子は本州製紙会長の三男で木下経営事務所の木下雄三、竹田素子は三友食品取締役の佐藤博、竹田紀子はレイケムカンパニーの渡辺宣彦、朝香美乃子は日新製糖常務の坂本善春と結婚した。
女王の離婚
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閑院宮華子
伏見宮貴子、閑院宮華子、久邇宮正子、賀陽宮美智子、東久邇宮文子の5女王が離婚を経験している。旧典範時代に離婚したのは伏見宮貴子である。貴子女王は松平直応伯爵と1877年に離婚後、同じ諸侯家の松平忠敬子爵と再婚している。美智子は旧典節時代の1943年に徳大寺実厚公爵の二男である斉定の夫人となるが1945年9月に李琨。その後、皇籍離脱で賀陽美智子となり、学習院大学フランス文学科を卒業、財団法人国際教育情報センター理事、菊医会名誉会長、煎茶道「永晈流」副総裁などを務めている。なかでも閑院宮華子の離婚は当時の世上の話題となり、かなり醜聞的なものであった。華子は賜姓華族の華頂博信侯爵家に嫁いでいたが1951年に離婚する。華子は満42歳、博信は46歳であった。戦前には海軍軍人であった博信との間に2男1女をもうけていたが、戦後になって読書好きの学者肌で養鶏場などを作ったりする博信と、社交好きでダンス教授などをする華子との関係に亀裂が生じたのであった。華子には工業クラブ嘱託の戸田豊太郎という愛人がおり、華子の実兄の閑院宮春仁王がこれに怒り、戸田との再婚を封じるために華子を軟禁して教会などに通わせた。ところが純仁夫人の直子(一条実輝公爵4女、閑院宮春仁王妃)が、純仁に同性愛癖があると暴露し1966年に離婚した。この間、華子は戸田と結ばれ、博信も再婚したのであった。


お釈迦さまの脳科学 4/4~日本で浄土教は念仏を唱える宗教に

すべてのお経は漢語訳されたときに道教や儒教の思想が混入しています。特に奈良時代や平安時代に中国から輸入された浄土教には、その傾向が強く表れています。日本で浄土教と言うと、鎌倉時代に成立した法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗を思い浮かべると思いますが、すでに飛鳥・奈良時代には入ってきているのです。天台宗にも、重要視されていなかっただけで浄土信仰はありました。ただし一般民数への浄土教が流行るのは鎌倉時代以降です。中国から来た浄土信仰では、浄土へ行くために臨終の床に阿弥陀如来の木像を置いて、赤い糸で手首をつなぐという儀式がありました。ほとんど道教の思想なのですが、赤い糸で阿弥陀如来の像と結ばれていると阿弥陀様と縁ができたので極楽浄土へ行けますよ、という理屈です。当時の仏像というのは、多くが宋から輸入されており非常に高価なものです。臨終の際に木像が必要となると、ごく一部の王侯貴族しか極楽浄土へは行けないことになってしまいます。浄土宗を開いた法然は、この矛盾に気が付きます。法然は「観無量寿経疏」を根拠に仏の名を唱えればよいと解釈しました。そして「誰でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土へ往生できますよ」と説き、日本で浄土教は大衆化したのです。
日本では寺が差別を進めた
日本に儒教が伝来するのは仏教伝来の少し前、5世紀あたりです。その後、日本は儒教は純粋な学問として重んじられるようになります。儒教は、先祖崇拝をベースとした差別的な思想ですが、江戸時代に差別的な「穢れ」思想を流行らせたのは、言いにくいことですが仏教だったのです。その象徴のひとつが「差別戒名」です。当時は被差別部落の人が亡くなったとき「寺が穢れる」という理由で墓にも入れないことがありました。墓を作ったとしても戒名は授けない。付ける場合には、「蓄男」「蓄女」といったように一般に戒名には用いない文字を使い、人目で被差別部落の人の墓だとわかるようにしていたのです。「穢」の文字そのものが戒名として付けられていたこともあります。しかも差別戒名は戦後になっても続けられていたことが、最近の調査によって明らかになっています。
なぜ、こうした差別が社会に根付いてしまうのでしょうか。穢れの思想は、「うつる」という概念から始まっています。「病気がうつる」「災いがうつる」というように、目に見えないものが自分に降りかかってくるイメージです。恐怖感を伴う情動は、非常に社会的洗脳に利用しやすいのです。そして、動物の死体を扱う仕事を「穢れ」と見ることから差別が始まります。もともと、死体が腐っていく様を見て汚いと思う感情から、それが「うつる」という常道を生じさせたのでしょう。衛生状態が悪く、病原菌に感染するというような科学的な根拠があるのであればまだ許せますが、人に対する差別感情は理由が異なります。衛星について全く知識のない、大昔の人々ならまだしも、現代人が「穢れ」を理由に差別することは絶対にあってはなりません。いずれにせよ、穢れの思想は仏教とは相容れない論理であり、釈迦はこうした差別を徹底的に否定していました。
『般若心経』を添削
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般若心経には形式だけでなく、言っている内容にも問題があります。最も顕著なのは、「色即是空、空即是色」という有名な一節です。これは中国語の倒置法で、色と空がまったく同じであると強調されているのです。「色」とは物質(有)のことです。物質に対応する概念は「無」です。「空」とは既に説明したとおり、有と無の両方を含む上位概念です。ですから、「色即是空」は、「物質とは空である」という意味になり間違いはありません。しかし、その次に続く「空即是色」は「空とは物質である」という意味なり問題があります。「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。
すべては「縁」によって「起」こる
これまで釈迦は神を否定したと何度も書いてきました。一神教で考えられている神とは、「それだけで絶対的なもの」です。カントの言葉で言う「アプリオリな存在」です。バラモン教のブラフマン(神)、道教のタオ(道)もアプリオリだと考えれていたものです。カントの時代には、時間と空間はアプリオリだと考えられていました。しかし、相対論以降、アプリオリなものはなくなりました。アプリオリなものは何もないということは、釈迦は「縁起」という概念をつかって説明しました。縁起とは「縁」によって「起」こると書きますが、それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。川の水で考えてみましょう。川からコップで水をすくったとします。この水が存在するためには、上流から流れてくる水も下流へと流れていった水も必要でした。コップの水だけではここに存在しえません。コップいっぱいの水がそこに存在するために宇宙がすべて必要です。これが縁起です。それを釈迦は「生じることもなく、滅することもない」と言っています。コップの水は無から生じたわけでもないし、消滅してしまうこともありません。水をコップから流しても水を構成する水素や酸素といった原子が消えてなくなることはないからです。





ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 2/5~磯田一郎の時代

イトマン事件については既に当ブログで取り上げているのでこちら↓
2011.01.11 http://www.ichizoku.net/2011/01/kaiga.html”>イトマン・住銀事件 ~イトマンをめぐる様々な疑惑
2011.01.06 イトマン・住銀事件 ~主役のお二人
磯田一郎
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イトマンがのめり込んでいたのは不動産だけではない。数々の美術品を買い込んでいた。モディリアーニの絵画を16億円で購入しているほか、加山又造や平山郁夫、佐伯祐三など巨匠の絵を気前よく億単位で何点も買っていた。関西の闇の紳士、許永中氏の関連会社3社から絵画・骨董品を総額676億円も買い取ったことが後に判明している。私はこのとき常務企画部長の任に就いていたが、だんだんわかってきた事態の中でも特に困ったことだと思ったのは、こうした絵画取引に磯田さんの長女である磯田園子さんが勤務していたセゾングループの宝飾販売会社でピサという会社が間に入っていたことだ。今まで私を含めて誰も住友銀行関係者は語ってこなかったことがある。この機会にあえて申し上げよう。イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う。磯田さんの溺愛ぶりを示すこんなことを耳にしたことがあった。後に結婚することになるアパレル会社社長の黒川洋氏と磯田園子さんがロサンゼルスに駆け落ちした。それを認めるわけにいかず困っていた磯田さんは、秘書を派遣して2人を連れ戻させたのだ。磯田さんの秘書は園子さんに振り回されて本当に苦労したようだ。そういう磯田さんに父親として娘の事業を後押ししたい気持ちが無かったわけがない。磯田さんが溺愛していることを知って、イトマンの川村社長も伊藤常務も彼女の面倒をよく見ていたようだ。人間としてあるいはバンカーとしての磯田さんは素晴らしいと思う。しかし長女の存在が磯田さんの判断を決定的に狂わせた。平和相銀を手に入れるときに大活躍した河村社長に引導を渡し自分の手でクビを切ることができなかった。河村社長が伊藤寿永光氏を追放するどころか常務にすることを阻止しなかった。住友銀行の誰もが河村社長を辞任させないとイトマン問題は解決しないと思っていたし、伊藤氏や許氏が闇世界とつながりがあることはこの時点では分かっていたはずにもかかわらず。だから私はこの問題の始末をつけるには磯田会長の退任が不可欠だと考えた。
> あちゃー、結局、頭取のご家族問題で3000億円溶かしちゃったか


ヴェニスの商人の資本論 2/3~中央銀行券発行は富の形成

英語のどの受験参考書にも例文として載っているように、”The proof of the pudding is in the eating” すなわち、プディングであることの証明はそれを食べてみることである。だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、プディングは普通お金で買わなければ食べられない。プディングがプディングであることの証明、いや、プディングがおいしいプディングであることの証明はお金と交換にしかえられない。たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを買おうかと考えているとき、あるいは喫茶店でプディングを注文しようかどうか考えているとき、人はプディングそのものを比較しているのではない。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの中のプディングの外見であり、メニューの中のプディングの写真であり、さらには新聞・雑誌・ラジオ・テレビ等におけるプディングのコマーシャルである。これはいずれも広い意味でプディングの「広告」にほかならない。すなわち、資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との際について広告しているように見える。だが、人が例えばある洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、あるいはある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社の寄りも迫力に乏しいと思うとき、それは広告されているプディング同士の差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に「広告の巨大なる集合」のなかにおける広告それ自体の間の差異を問題にしているのである。広告と広告との間の差異-それは、広告が本来媒介すべき商品と商品の間の際に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動によって立つ基盤なのである。


皇族に嫁いだ女性たち 1/4~皇室典範改正

男系男子による皇位継承問題は、過去に小泉純一郎内閣において皇室典範改正の動きがあり、男女に関わらず出生順位により皇位継承者を決め、結果として女系天皇の存在を容認する可能性が高まった。多くの国民も時代の女帝として推定される敬宮愛子内親王への共感から、こうした典範改正を期待した。しかし、一方には男系男子へのこだわりがあり、神武天皇以外の男系子孫であることが行為の証であるとして譲歩することがなかった。その後も典範改正の動きは秘密裏に進んでいると聞くが、その改正案の一つは、女系を排除するために、天皇家の男系を保持しているとされる旧皇族を復活させようとするものであるとも言われる。こうした旧皇族復活論には反対意見も多く、その理由の
第一は、男系と言っても遠い室町時代までも遡るためである。明治期に皇族として存在してはいたがその多くは政治的理由によるものであり、現在の皇室とは血統上はかけ離れすぎた存在で、かつその数の多さに減らしていくことが当時からの課題であったからである。
第二は、旧皇族家には皇籍離脱以来、現皇室に対する少なからぬ複雑な感情があり、そのことは皇后美智子以後の民間出身皇族妃の出現で増幅され、男系問題にかこつけて現皇室の皇統を変えようという意図が見え隠れするからである。
第三は実際に旧皇族家を復活するにしてもどの家が該当するかは難しい。
第四に旧皇族を復活してもそこに男子が生まれなければ意味がないことである。現皇室は秋篠宮家はじめ常陸、秩父、高松、寛仁親王、桂、高円の八宮家がある。しかし、平成18年2006年悠仁親王が誕生するまで男子は生まれなかったのである。
変遷する皇族の定義
古代から現代までの皇族の定義や範囲の法的な変遷を考えると、大宝元年(701年)の大宝令の継嗣令、明治22年の旧典範、昭和22年の新典範が大きな基準となっていたと言える。継嗣令以前は、皇族の呼称やこれを明確に定義する法令はなく、「天皇の後胤」という漠然とした範囲で把握されていたと考えられる。皇族を示す呼称も何世までを皇族とするかの明確な規定もなかったのである。継嗣令により「およそ天皇の兄弟、皇子は、みな親王となす。女帝の子もまた同じ。それ以外はいずれも諸王となす。新王より5世は、王の名を得ても皇親ではない」とはじめて皇族の概念が定められ、皇族は皇親と称されたのであった。
明治維新を迎えると、慶応4年(1868年)に、継嗣令に基づき、改めて皇兄弟と皇子を親王、それ以外を諸王とし、5世王は王名を称するが皇族の範囲に入らないと定め、大宝令制定以後、長年にわたり混乱してきた皇族の定義を再調整したのであった。そして明治22年の旧典範制定で近代法治国家に適合した近代皇族が誕生するのであるが幕末維新期における親王らの功績もあって四親王家や還俗した皇族などに設けた制限や特例が、かならずしも旧典範の条文と一致せず、いくつかの矛盾と問題を残すこととなった。その典型的な例が、旧典範にある「五世」の概念の問題である。旧典範は「五世」までを親王・内親王、「五世以下」を王、女王としたのであるが、この「五世」とは実系であり、法規上は明治天皇あるいはその先代である孝明天皇(121代)、仁孝天皇(120代)の実系でなければならなくなる。


お釈迦さまの脳科学 3/4~大乗仏教には大天才が生まれた

当時の口語であるパーリ語で経を残した上座部仏教は正しいと言いました。しかし、上座部が忘れている事があります。それは釈迦は「誰にでも理解できるよう、そのときの言葉で語り継ぎなさい」という意味で弟子に指示したということです。今、パーリ語を日常の言葉として使用している人はいません。ですから、パーリ語のお経で布教活動をしている上座部は、釈迦の言いつけを半分しか守っていないことになります。もちろん、お経をはじめからサンスクリット語で書いてしまった大乗は最初から失格です
しかし大乗仏教は釈迦のオリジナルの教えから逸脱した、もしくは反する教義を取り入れてしまった反面、釈迦の教えをより理解し発展させた大天才が登場したのです。それが、釈迦の縁起説を「空」という概念で説明したナーガールジュナ(龍樹・150年~250年ごろ)であり、チベット仏教を完成させたツォンカパ(1357年~1419年)です。ツォンカパはダライ・ラマが所属するゲルク派の開祖でもあります。ナーガールジュナは正確な伝記が残されていないため、実在の人物かどうかわかりませんが、少なくとも彼の著作とされる『中論』を読む限り、釈迦の思想を一つの形で表すことに成功しています。ただ、ナーガールジュナの他の著作には、「浄土」といった「空」の概念とは矛盾した記述も多く、すべてを評価できるわけではありません。もしかするとナーガールジュナはひとりではなく、複数の人物の書き残したものがナーガールジュナの作として後世に伝えられた可能性があります。
「空」とはもっとも抽象度の高い概念
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人間は概念によって物事を認識しています。例えば、犬という概念について考えてみましょう。人は「チワワ」も「プードル」も同じ「犬」として認識することができます。「犬」に対して「チワワ」「プードル」はより対象が限定された具体的な概念です。これを抽象度が低くなったと表現します。もっと具体的に「隣の山田さんが飼っているポチ」になるとさらに抽象度が下がります。具体的であるほど、抽象度は低くなるのです。反対に、「ペット」は、「犬」より抽象度が高い概念です。さらに、「ほ乳類」「動物」「生物」・・・と抽象度を高めていくと、どんどん具体性が低くなっていきます。抽象度が高い概念は、具体性という情報量は少なくなりますが、より多くの概念を含むことができます。


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 1/5~預金集めの毎日

日本経済は高度経済成長期とはいえ、戦後間もない時期で経済に厚みが無く、常に外貨が不足していて、すぐに「国際収支の天井」になってしまい、その度に金融引き締めが行われていた。銀行は日銀の窓口規制が厳しい一方で、民間の資金需要に応えなければならなかった。それまで、預金集めと言えば富裕層を主体にしていた。一般のお宅にお伺いしてまで預金を集めるようなことはやっていなかった。そのため旺盛な資金需要に応える原資が慢性的に不足していた。そこで大手の銀行は金融市場というマーケットで資金を調達することになるが、当時は銀行が振り出した手形やコールローンなどで資金調達していた。これらの資金は、例えば地方銀行や信用金庫、年金などが市場に放出したお金だ。その資金を大手銀行が調達するのだがこれが預金金利よりはるかに高い金利なのだ。その金利水準が最高16~17%といったこともあった。しかし、そんな高い金利では誰も借りない。貸出金利は公定歩合と連動した水準で、長期プライムレートでは8%程度、短期ではもっと低く設定されていた。高い金利で調達した資金を低い金利で貸し出せば、逆ザヤも極まって銀行はたちまち大赤字になってしまう。
「国際収支の天井」:当時の日本企業は、設備投資を行うためのさまざまの機材を輸入に頼っていた。一方で、輸出は安価な繊維製品が主流である。国内が好景気に沸けば輸入が増えるので、貿易収支が悪化する。外貨準備が底をつき、設備機材や原材料が輸入できなくなる


ヴェニスの商人の資本論 1/3~利潤とは価値体系の間にある差異

サレーニオとサリーリオ、あるいはサリーリオとサレーニオ-お互いに取替え可能な名前を持ち、お互いに取り替え可能しか台詞しか述べることの無いこの二人の友人は、まさにその取り替え可能なことゆえに、アントーニオの友人の中で最も取るに足りない人物であることを象徴している。そして、実は、この取るに足りない二人の男たちの取るに足りない台詞によって、『ヴェニスの商人』のテキストはそれ自身をめぐってその後なされた数限りない批評の取るに足りなさを先取りしているのである。たとえば、アントーニオの憂鬱とは一体どのような内面における原因に基づくものであるかを検索したり、かれと対立するユダヤ人シャイロックの性格が滑稽な悪役として描かれているのかそれとも悲劇の主人公として描かれているのかを決定しようとしたり、『ヴェニスの商人』という劇において作者シェイクスピアは一体何を言わんとしたのかを吟味すると言った類の批評を。
利潤とは、詐欺、ペテン、泥棒、掠奪といったまさに不等価交換が行われているところでしか生み出されえないものなのであろうか?利潤とは、等価交換からは決して生み出されないものなのであろうか?この問いに対する答えは、しかし、否である。実は、あくまでも等価交換の原則にもとづきながらも利潤を生み出すことのできる場所が、いわば場所ならぬ場所において存在するのである。二つの異なった価値体系の狭間-それが、そのような場所、いや非場所である。すなわち、お互いに異なった二つの価値体系の間を媒介して、一方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る-それが、等価交換のもとで利潤を生み出す唯一の方式である。利潤とは、価値体系と価値体系の間にある差異から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。


野村證券 グローバルハウスの火種 2/2~証券化は魔法のつえ

この本は、どの話も中身が無いので極めて抜粋が難しいのだが、何も書かないと分からないと思うので、

P83~85
ガイ・ハンズ、94年11月、プリンシパル・ファイナンス・グループ(PFG)設立の責任者として、ノムラインターに入社
「ガイ、君のアイデアについては、ある程度知っているつもりだが、今日は直接聞いてみたいと思う。初心者に話すつもりで分かりやすく頼む」
「わかりました。やってみましょう。途中で何でも質問してください。まず投資銀行が、企業や資産を自己資金で買収します。次に買収した企業や資産が生むキャッシュフローを証券化します。つまりキャッシュフローを元利金の支払いに充てる債券を作るのです。この債券を投資家に売って資金を調達して、最初の買収資金をできるだけ回収します。全額回収で切ればその時点で買い手の野村はリスクが無くなり、いわゆる「リスクフリー」となります」
「この手法は以前からあったのかなあ」
「米国では前からありますが、欧州ではこれからです。また「証券化」を本格的に活用した例は米国でもなく、通常は銀行借り入れで買収資金を賄っています」
「証券化する方が銀行から借りるより有利なのかな」
「キャッシュフローを利用した債券と格付け機関へ持ち込んで格付けしてもらいます。キャッシュフローの内容が安定していれば、当然高い格付けが取れますから借入コストも銀行借入よりも安くなります」
「証券化に成功すれば野村は買収資金のリスクはもう考えなくてよいのですから、次は企業価値の向上に専念します。将来の売却に備えて、エクイティバリューを高めるのです。買収した企業は色々な理由で効率的な経営を行っていないケースが多いので、積極的に経営に参加して、経営の体質改善や必要があればリストラを実施します」
「経営参加といってもガイ一人では大変ではないの」
「私はもちろん買収企業のボードに入りますが、PFGからも何人かのスタッフを常駐させます。経営トップに問題があれば、すぐほかの信頼できる人材と入れ替えますし、その他の専門家も必要に応じて採用します」
「企業価値の向上がうまくいったとして最終ステップの利益の実現にはどんなやり方があるのか、また売却までにどのぐらいの期間を見ておけば良いのか聞かせてくれないか」
「利益の実現は大きく分けて3通り。買収企業の株式の上場を通じて証券市場に売却するか、特定の買い手に企業を丸ごと売却するか、あるいは資産のばら売りです。期間は個々の案件によって異なりひとくくりにはいえませんが、まあ2年から5年というところでしょうか」
ガイとのやりとりは以上のとおり。

って、えーーーっ。ほとんど何も話していないに等しい。キャッシュフロー、証券化という単語だけ聞いておしまい? それを後押しするのが

p170
証券化はキャッシュフローが生まれるものなら何にでも適用する魔法のつえだ

この発言キテるなw こういう人間が自分の上に決定権を持って座っていると思うと頭に来る従業員の気持ちもわからなくない。証券化やデリバティブは魔法の杖ではなく、単なる分解と合成に過ぎず、それ自身が価値の向上を産みだすことはない。確かにNは「証券化、キャッシュフロー、儲かる? よっしゃよっしゃ売ろう売ろう」というような何にもわかってない役員が居るが、キチンとしたブレーンが下にいるものだ。多分、この人の下にもブレーンがいたのが分かるのが、
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お釈迦さまの脳科学 2/4~最先端の物理学、数学では神は否定された

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1980年代以降、科学の世界では大きなパラダイム転換を迎えます。不完全性定理は、クルト・ゲーデルによって1931年に発表された定理ですが、簡単に説明すると不完全性定理とは「一つの系が完全であることを、その系において証明することはできない」ということです。これが数学全般にわたって証明されたのは1980年代に入ってからです。また、同じ時期に物理学の世界でも「すべての物理現象に不確実性がある」という量子論が証明されました。神を「それだけで完全なもの」もしくは「すべてを決定するもの」と定義するなら、神は1980年代に科学によって完全に否定されたのです。世界の知のトップレベルでは「この世に完全性はない」ことは、当たり前です。今、唯一絶対の神を信じる科学者がいるとすれば、数学や物理学を知らないということになります。ところで、この現代の科学者が何十年もかけて証明した結論を、2500年前に語っている人がいました。それが釈迦です。釈迦は数学も物理学も用いず、瞑想という思考実験でそれを解明してみせました。宗教で量子論と同じ結論に至ったのは、仏教しかありません。
インドに墓はない
実際に行ってみるとわかりますが、インドには日本にあるような墓や霊園はありません。キリスト教の墓はありますが、ヒンドゥー教や仏教の墓は存在しないのです。ちなみに、世界遺産として知られるタージ・マハルは、王妃の墓として建てられましたが、イスラム文化の時代に作られたものです。現在でもインドでは人が亡くなると、その遺体をそのままガンジス川に流す風習が残っています。インドでも儀式としての葬儀は行われています。釈迦はそれも弟子に禁じました。なぜならば、宗教は生きている人間のためにあるべきであり、死んだらただの物質である、というのが仏教の考え方だからです。ただし、釈迦は一般の人が死者を弔うことまでを禁じたわけではありません。


フェイスブック若き天才の野望 4/4~ライバルと協力者

ザッカーバーグの長期的枠組みと確実に議論の余地なく一致するビジネス戦略をまとめるために、サンドバーグ会議の参加者たちは、ただ広告が重要だという議論にとどまらなかった。彼らは、フェイスブックの持つ機会を明確化し、差別化するための重要な特質にたどり着いた。グーグル-サンドバーグの古巣であり、紛れもなくインターネット広告の王者-は、ユーザーが欲しいかを決めているものを探す手助けをする。これに対してフェイスブックはユーザーが何が欲しいかを決める手助けをする。グーグルで何かを探すと、検索ボックスに打ち込んだ単語に応じた広告が表示される。その広告がユーザーにとって的を得ていることが非常に多いため、このプロセスはグーグルに何十億ドルという金をもたらす。しかし、ふつうユーザーがそこでクリックするのは、自分が探しているとわかっているものに応じた広告だ。広告用語で言えば、グーグルのアドワーズ検索広告は「要求を満たす」。対照的に、フェイスブックは要求を生み出す。グループはそう結論を出した。それが長年テレビを支配してきたブランド広告のしていることであり、広告宣伝費の大半が費やされている場面でもある。ブランド広告は人の脳に新しいアイデアを注入する-ほら、あなたはこれにお金を使いたいはずですよ。しかし、その種の広告がグーグルで上手く働いたためしはない。ユーザーが検索フィールドに「デジタルカメラ」というキーワードを打ち込めば、グーグルの検索を通じてキャノンのカメラが見つかるかもしれない。しかし、ユーザーにデジタルカメラが欲しくなるよう説得する上手い方法をグーグルを見つけたことがない。そのような方法を探究するグーグルの取り組みの結果、同社はソフトウェアがメール中の単語を監視して、ユーザーが反応すると思われる広告を表示するというGメールサービスに力を入れている。グーグルがあれだけ成功していても、その事業のほぼすべてが、広告業界全体から見て比較的小さな領域内で展開されている。全世界で年間6000億ドル使われる広告宣伝費のうち、わずか20%がすでに何が欲しいかわかっている人たちに向けた広告に費やされていることを、サンドバーグの調査員たちは発見した。残りの80%、すなわち年間4800億ドルは、今後の広告出費が次々とインターネットにシフトするにつれ、容易にフェイスブックの手の届くところに来る。インターネットは、テレビ、新聞、さらには雑誌からも消費者をもぎ取っていく。そして、そのインターネットの利用時間のうち、不釣合いな量をフェイスブックが取っている。いまやフェイスブックは、米国内およびほとんどの国で、ネットユーザーの費やす時間が圧倒的に多い場所である。


解任 マイケル・ウッドフォード オリンパス元CEO 4/4~改革失敗

結局のところ、ジャイラスおよび国内3社買収に関する巨額の支払いは、以前の経営陣から引き継がれてきたバブル期前後の財テクの損失を隠蔽するために使われていたのです。
アメリカ時間の11月30日(日本では12月1日)、私はニューヨークで会見を開きオリンパスの取締役からの辞任を発表しました。事前に宮田に電話した際に「オリンパスを見捨てるのか?」と言われましたが、もちろんそんなつもりはありません。その逆です。結局、先日の取締役会を経て、私が会社に残っていても、内部からオリンパスを改革するのは不可能だと確信したのです。社内の一取締役として私はいまだ完全に孤立していましたし、今の立場では外部の投資家、株主などと連携して再建の道を模索することも許されません。その前日に会社が発表した「経営体制の刷新と将来ビジョンの提示の検討体制の構築について」という声明に危機感を覚えたのも辞任のきっかけになりました。新たなコーポレート・ガバナンスの仕組みを作り、経営陣を一新するというその発表の方向性の評価できましたが、その検討チームの責任者を社長の高山が務めるというのです。旧経営陣を擁護してきた彼が、ガバナンス強化の責任者になるなど悪い冗談にしか思えませんでした。責任を問われ一新される経営陣が次の経営陣を選ぶ、などということが許されるのでしょうか?
オリンパスに真に必要なのは、現経営陣から完全に独立した新しい経営陣です。新しい経営陣なくしては傷ついた会社の評判を回復することはできません。そこで私は仲間たちと相談のうえ、取締役を辞任してプロキシーファイトに持ち込むことにしたのです。つまり、私を含んだ新経営陣案を提案し、株主による多数の賛同を得て、臨時株主総会で可決させようと言うプランです。私はそれがオリンパスにとってベストの選択だと考えました。会社の重要な意思決定は株主によってなされるべきです
> 日本人の世界は、会社の重要な意思決定は取締役会という密室で決められるべきってのが、日本の常識だから、それは違うんだわ。


野村證券 グローバルハウスの火種 1/2~新日鉄1000万株の成行のペロ

読んでもまったくためにはならないし、面白い内容でもないですが、これを読んでどう感想を抱くか、には価値がある本です。意味わかりますか? ちなみに僕の感想は、アロガントで自慢タラタラとは思いませんでしたが「よくいる古いオヤジだなぁ。」という印象です。皆さん、どうお感じになるのでしょうか?では早速抜き出していきましょう。
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このシステムでコンピューターに入力できるのは1件当り発注株数7桁まで。つまり1件1000万株を超える注文は想定外だ。ある日、産油国から新日鉄2000万株の買い注文を受注したが、コンピューターに入らない。結局、900万株2件と200万株に分割して発注したと当時の営業マンは回顧している。

でたーっw新日鉄1000万株の成行のペロ。よく聞く話です。でも途中でね、「産油国から」って言い方が随分他人事だなと思ったら、最後に、「当時の営業マンは」と正直に書いているじゃない。別に「俺が1000万株受注した」って自慢話ではないと思うの。2014年にもなっても、まだ「新日鉄1000万株」とか言ってる取り残されているオヤジだよ。よく居るじゃん、ってもう居ないかw
15年前だから2000年、その時代に、東大卒の若手軍団で構成された株の自己売買部門とはちょっと毛色が違う安定操作などを担当するおじさんばかり居る自己売買部門があって、いわゆる裁定取引やデリバティブのガンマトレードといった話ではなく、売買制度、「この場合はいくらで寄り付くのか?」などの質問に答えてくれる人たちです。質問しに行くといつも丁寧に、「例えば…」と言っておもむろに6501か5401と打つ。「銘柄が古いなぁ」と思っていましたが、おじさんに質問するといつも出てくるのは、この2つでした。当時の時価総額1位はNTT Docomoでしたw カネボウとかJALとかに比べて、新日鉄も日立も、今でも立派な一流企業ですが、株式市場の中心銘柄とはとても思えず、「いつの時代だよ」感w 新日鉄は、ちょっとだけ、名前変わったかw


お釈迦さまの脳科学 1/4 ~日本には仏教は伝わっていない

実は歴史を振り返ってみると、控えめに言っても、日本に「本当の仏教」が伝えられたことはなかったのです。ご存知のように、日本の仏教は中国を経由して伝えられました。仏教を日本に持ち込んだ人物として有名なのは、遣唐使船で中国に渡った最澄や空海です。空海は密教を日本に伝え真言仏教を完成させ、最澄は日本天台宗を開くことで後の日本仏教の礎を築きました。しかし、彼らが中国にいった時代には、すでに中国の仏教は道教から強い影響を受けていました。空海の場合はインド人の高僧(般若三蔵)から直接にサンスクリット語や密教を学んでいますし、最澄の学んだ天台教学は、天才・天台智顗(ちぎ)により一つの完成された仏教でありましたが、それでも釈迦の時代の仏教とはだいぶ異なっているのです。
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いずれにせよ、日本の仏教は道教・儒教と習合した中国仏教をベースに発展しています。その証拠は、あらゆるところで見ることができます。例えば、葬儀です。仏教式のお葬式は、中国の先祖崇拝の文化とともに作られました。戒名が書かれる位牌は、儒教の葬式に用いられていた「神主」(しんしゅ)が元になっています。死者の官位を書くための札なので、位牌と呼ばれているのです。また、日本でありがたがられているお経の中にも、インドではなく中国で作られたと推測されるものがあります。釈迦にもっとも近いとされる禅宗も、その起源は中国にあります。また、インドにおいても仏教は釈迦の死後、バラモン教や後のヒンドゥー教の影響を受けてかなり内容は変わっています。
仏教がバラモン教などの宗教と信徒を奪い合うことになり、呪文(マントラ)や法具、護摩焚きなどバラモン教の要素を取り入れるのです。それらは現世利益を与えるので、信者の獲得に有利でした。これが中期密教と呼ばれるもので、中国でも広まり、日本に伝えられます。これまで日本人が仏教として学んだものは、バラモン教や中国文化の影響を強く受けたもので、仏説つまり釈迦の教えからだいぶ変化しています。誤解して欲しくないのですが、私は日本仏教が劣った宗教だといっているわけではありません。空海は全く新しい宗教を作った大天才でしたし、浄土真宗の親鸞もキリスト教に匹敵する、世界宗教になりえる思想を生み出したと考えています。しかし優れた宗教ではあっても、それをそのまま釈迦の教えということはできないのです。
釈迦のオリジナルの教えに日本人が触れられるようになったのは、仏教学者でも昭和に入ってから、一般の人たちには21世紀に入ってからです。近年、より釈迦のオリジナルな教えに近い、スリランカなどで伝えられる上座部仏教(テーラワーダ仏教)が日本でも紹介されるようになり、興味を持つ人が増えてきました。日本で積極的に著作活動や瞑想指導をおこなっているアルボムッレ・スマナサーラ長老がその代表でしょう。大乗仏教の国とされる日本では、彼らの上座部は長い間「小乗仏教」と貶められてきましたが、上座部仏教では、釈迦の原型に近い教えや修行方法が伝統として受け継がれています。
また、ダライ・ラマ法王の世界的な活動によって、インドの後期密教の姿を色濃く残しているチベット仏教も注目を集めています。チベット仏教は、インドの後期密教がベースになっています。中期密教ではバラモン教は現世利益の思想が導入されましたが、さらに時間が経ち、後期密教になるともう1度、瞑想を中心とした修行に戻っていきます。チベット仏教にもマントラや法具は残っていますが、その数は少なく、しかも瞑想のために使われる道具にすぎません。後期密教では、釈迦の教えに立ち返っているのです。
オウム事件以降の約10年間、オカルトを題材にした番組が全く放映されなかったことで、オカルトに免疫のない人がたくさん育ちました。そして皮肉なことに、再びテレビがスピリチュアルなど、オカルト的な番組を流すと、免疫のない世代、またオウムの記憶が薄まってしまった人は、これらを批判なく受け入れるようになってしまいます。特に若い世代には、それ以前にオカルトについて知識を得る経験がなかったために、簡単にバカな論理にはまってしまったのです。こうして2005年から2007年にかけて、細木数子氏の占いブーム、江原氏によるスピリチュアルブームが起こりました。スピリチュアルと言うと、ソフトなイメージがありますが、魂や生まれ変わりを認める心霊主義でありオカルトの一種に違いありません。かつてのオウム真理教の信者なら、簡単にスピリチュアルブームにはまることはなかったでしょう。彼らの中には、天理教や阿含宗、場合によっては統一教会といった新宗教を一通り経験して、最後の行き先がオウムというような信者が珍しくありませんでした。彼らは、宗教やオカルトについてに知識をそれなりに得てはいたので、そこの浅いスピリチュアルブームなど歯牙にもかけなかったことでしょう。
「あの世」を説く宗教の論理は、ときとして「この世」に様々な問題を引き起こします。日本ではオウム事件であり、海外ではイスラム原理主義者によるテロです。もちろん、イスラム教自体が悪いのではなく、信仰心を利用して人を殺すように仕向けている一部のイスラム原理主義の勢力に問題があるのは言うまでもありません。経典が絶対の存在であるという原理主義は戦争やテロに利用されやすいです。前アメリカ大統領のジョージ・ブッシュがイラク戦争を始めたときもそうだったように、いまだに戦争には神の名が使われているのです。実はアメリカはキリスト教原理主義の影響力がきわめて強い国です
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これには歴史的な理由があります。アメリカの建国神話は、「1620年、イギリスで迫害されていた清教徒(ピューリタン)たちがメイフラワー1号で新天地を求めて新大陸に渡ってきた」というものです。清教徒はプロテスタンティズムの中でも、カルヴァン派の思想を受け継いでいるといわれています。プロテスタンティズムは16世紀の宗教改革によって生まれて宗教思想ですが、特にカルヴァン派は、当時世俗化し堕落したカトリック教会に対して、聖書を唯一のよりどころにすべきだ、という一種の原理主義運動なのです。正教徒によってアメリカが建国されたという歴史的根拠は実は怪しいのですが、こうした建国神話があるために、アメリカではプロテスタントの力が強く、様々な政策に影響を与えています。神の為なら自爆テロもいとわない一部のイスラム原理主義と、キリスト教原理主義が政治を動かすアメリカ、どちらも自分が信じる神こそが唯一絶対の神であるという考えを捨てない限り、今後も戦争がなくなることはないでしょう。