木下はそのあと何度も嘉本のヒアリングに応じた。それだけでなく、自ら顛末を示した論文を調査委員会に提出した。その木下論文に、証券界と山一のバブルが詳細に描かれていた。彼はまず、日本中がバブル景気に沸いた1980年代前半に、山一にヘドロがあった、と書き始めている。
延命副社長から聞いたところによると、84年9月の人事異動で高木眞行氏が第一事業法人部長を任される際、「ヘドロ(大きな損失が生じており回復の見込みの無い一任ファンドのこと)を抱えたままの事業法人部は引き受けられない」と固辞した。だが、当時、事業法人本部管掌だった行平副社長が説得に乗り出して、渋々、部長職を引き受けたとのことである。とすれば当時、既に法人部門では「握り」に伴う大きな損失を抱えていたことになる。「握り」とは、法人顧客の資金運用に関して取引を事実上、一任させて貰い、その代わりに一定の運用利回りの獲得を強く匂わせる勧誘行為である。旧証券取引法の下でも売買一任勘定取引は禁止的制約を受け、また利回り保証は明確に禁止されていた。そのため現実の勧誘は、証券法に直接的に抵触することを避けるために、特定金銭信託ファンドを設定し、取引注文は顧客法人から発注されたように段取りを整え、利回り保証に代えて目標運用利回りを相互に確認するといった方法が取られるケースが多かったようである。このような「握り」は、証取法に違反する可能性が強いばかりでなく、経営上も大きな危険を内在していた。
「自信を持って投資を勧められるのは1年に1,2回」。嘉本はそんな仲間内の言葉を聞いている。むしろ予想が当たるのは稀で、外れることが多いのだ。しかし、証券業の本質はリピート営業である。顧客に繰り返し投資させることで利益を得ているのである。
> 自信を持って勧められるなら良いけど、「年に数回、相場が分かる時ある」発言、度々聞くけどムッとするね。予想が当たるのは稀なのは90年以降、80年代なら予想が外れるのが稀だったはずだよ。買いしかやってないだろうからね。
「ニギリによって巨額の一任運用ファンドを獲得した法人営業マンは、社内でスター視され、大きな顔ができた。それはずば抜けた手数料収入を稼ぎ出していたからだけではありません。一任ファンドの運用で高利益が生じても、顧客法人には当初約束の利回り相当分だけを渡せばよく、超過利益をどうするかは事実上、営業マンの裁量に任されていました。そこで仲間の運用ファンドで損失が生じているときは、そのファンドを簿価で引き取り、これを自分のファンドに生じている超過利益で相殺することが行われました。これは困ったときの仲間同士の相互扶助であり、しばしば『貸し借り関係』と呼ばれていました」
当然、借りては貸し手に恩義を感ずることになり、そこには特殊な人脈が発生しやすい。このような貸借関係は営業マンの間だけでなく、時には決算期末の損益調整のために商品部対法人営業部の間でも行われた、という。


行平会長
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行平や高木たちはなぜこれほどの無理を重ねなければならなかったのだろうか? 確かに、顧客からもニギリを迫られる時代ではあった。だが、それは最前線の社員や平取までの話で、経営責任を背負う社長や代表権を持つ役員クラスには必ずしも当てはまらない。普通なら、トップの座に就いた者は、違法行為や無理な営業にブレーキをかけたがるものである。ところが行平が社長になった1988年の後も、彼の腹心たちが事業法人本部の営業マンを強引なニギリ営業に駆り立て、権力を握った行平はそれを止めようとはしなかった。その理由は、元副本部長らの証言から約1ヵ月後、山一最大の事件と共に嘉本たちの前に浮上してくる。
行平の下で専務法人営業本部長にまで出世した小西正純は、10年以上も封印されていた事件を口にした。
「甘くなった原因は、三菱重工業CB事件にその端緒があると思う」
「三菱重工業CB事件」は、1986年、山一を含む四大証券が三菱重工業から依頼され、値上がり確実なCB(転換社債)を政財界や総会屋にばらまいたと言われた事件だ。バブル期に濡れ手に粟の金融商品としてもてはやされ、企業が幹事役の証券会社を通じて発行すればたちどころに値上がりした。当時、行平は三菱担当の事業法人本部長だったが、ばらまきの噂が広がり、個人営業を重視する反行平派との社内抗争に発展した。行平はロンドンが本拠の山一インターナショナル会長に左遷され、行平に対抗した筆頭副社長の成田芳穂がそのさなか、自殺に追い込まれている。東京地検特捜部の検事が事件解明に乗り出しながら、成田が自殺したことでうやむやになっていた。その疑惑が山一の経営にどう関わったというのか?
小西の告白は続いた。
「三菱重工CB事件は平事業法人部長、永田副本部長の時代に起きたことだ。この事件で三菱重工との実務を行ったのは永田さんだよ。ところが親分である行平さんの首を差し出すことになり、永田さんや高木さんは非常な義理と負い目を感じた。従って行平さんを本社に復帰させる努力をすることが、自分たちの役目であると強く意識していたと思いますよ」
行平は実際にはロンドンに赴かず、山一社長室の並びのインターナショナル会長室で、永田たちの「まつりごと」を見守っている。きわめて甘い処置であった。行平が代表取締役副社長として復帰するのは、ほとぼりが冷めた1年後のことだ。まつりごとは成功したのである。「たった1年で復活させるとは筋が通らない」と復帰人事に反対した役員は遠ざけられ、関連会社に追いやられた。そして、行平は副社長就任から9ヵ月後の88年9月には、ついに念願の社長の座に就いた。
「だから行平さんはジホウに対する負い目を感じていた。『自分を復帰させ、社長に押し上げてくれたのは事業法人本部だ』と、ずーっと引っ張っていた。このことが・・・日紀平さんが事業法人本部に対して甘くなった理由だ。行平氏を何としても社長に、という永田、高木さんの主流派に対し、成田副社長を社長に据えようという勢力がぶつかっていました。それまで横田社長と成田副社長は仲が良かったのですが、横田社長や植谷会長から成田副社長は『三菱重工の親引け(配分先)リストを外部に漏らしたのは君だろう』と怒られていました。成田副社長が自殺したのはその直後です。あの時、ジホウを改革しておけば良かったのです」
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