p13 1815年に出現した復古体制下のヨーロッパの国家構造は、多くの点で人々を惑わすような外見を呈していたものの、ある程度まで肺炎として1815年の30年前のヨーロッパ大陸の住民たちにとってなじみのあるようなものだった。国家の権力と干渉力はまだかなり限られたものに過ぎなかった。フランス大革命というまだ記憶に新しい前例があったとはいえ、民衆の政治への参加は依然として最小限に限られていた。
ブランニングは、コミュニケーションが改善されるプロセスと経済成長のプロセスが結びついていることを描いているが、19世紀において両者の結びつきは18世紀には誰も想像できなかったような速度で加速した。1815年には、鉄道、電信、蒸気船、写真は歴史の地平線にまだほとんど姿を現していなかった。しかし1914年にはヨーロッパは電話、自動車、ラジオ、映画の時代に入りつつあった。1815年はまだ宇宙がニュートンに基づいて理解される時代、具象絵画と古典音楽の時代である。これに対して1914年は既に、アインシュタインが相対性理論を提唱し、ピカソがキュビスムの作品を描き、シェーンベルクが最初の無調音楽を作曲していた。

p52 17世紀や18世紀にはヨーロッパの大きな戦争の原因、君主が亡くなったことから生じた王家同士の争いであった。スペインの継承戦争やオーストリア継承戦争がそうである。主権の基盤は明らかに個人と家族から国民と国家に移っていた。1815年以前はすべての国際条約は君主が亡くなると無効になるとみなされていて、失効するのを避けるために直ちに新しい君主の署名を得て更新する必要があった。1814~15年に結ばれたような諸条約は個々の君主間ではなくて国家間で締結されたので、一方の側が廃棄する意思を通告するまでは効力を持ち続けた。

p38を中心に。 フランス革命を機に、ヨーロッパ全土が国民国家に一気に発展したわけではない。アンシャンレジーム、1814年以降、旧体制に戻した。だがナポレオン憲法が定めた改革を元に戻すことはできなかった。各国で様子は異なるが、選挙権は5%の人にしかなく、交戦権、立法権、司法権が部分的に王権から取り除かれた。教会権力が減少、聖職諸邦が地図から消え、出生・婚姻・死亡の届け出は世俗の当局が扱うようになった。修道院は解体され、宗教の自由、民事婚と民事離婚、世俗教育、国家による聖職者の任命が導入されたことで教会の権力はさらに削減。慣習や特権を合理性と画一性に置き換え、組織を改め、体系化し、標準化した。新しい世代の職業行政官が出現した。神聖ローマ帝国の何百という帝国騎士や教会や領主が行使していた地方の司法権は、司法官僚が管理する中央集権的な制度に代わっていった。機会の平等、才能に開かれたキャリア。国内関税の撤廃。農奴解放。ロンドンでは治安維持のために統一的な首都警察が創設された。著述家や思想家は自由主義的な見解に転じ始めた。ドラクロア「民衆を導く女神」。ベルギー革命のきっかけとなったオペラダニエル・オベール「ポルティチの唖娘」。

ナポレオンとの戦争から戻ってきた農民兵士たちがいまや自分の領主に武器を向けるのではないかと表明した。

p129 労働奉仕や農民が地代として払ってきた現物もしくはそのほかの賦課金の支払いが失われることに対する領主への補償については、合意を達成する必要があった。ハプスブルグ君主国では、隷属的労働の価値は雇われた賃労働の3分の1に設定された。ヴュルデンブルグ・バーデン・ルーマニア・ハプスブルグ君主国では農民が払う償却金を国家が補助した。ルーマニアでは分割払い期間が15年間、ザクセンでは25年間、ロシアでは49年間にわたり、したがってロシアの場合には1861年の農奴解放令の結果生じたツァーリ当局に対する償却金の支払いは1910年まで終了しないスケジュールになっていた。ドイツ諸邦を中心に、しばしば支払いを管理する特殊銀行が設立された。

p133 戦争と革命の変転を生き延びた大土地保有者たちは。しばしば農奴解放からおおいに利益を得た。彼らは穀物を市場向けに大規模に栽培できる地域では支配的な勢力であり続けた。かつての農奴は今や自分の土地の自由な所有者となり、すべての力を自分の土地を耕作して利益を上げることにそそぐことができ、一方、かつて彼が所有していた森林地はこれまでは荒れるに任せるままだったのが、今や守られて合理的に活用されている。しかしながら、実際には、そう言えるのは主として市場を志向する農民たちについてであった。多くの小規模な農民は、貨幣で取引する経験を欠き、自らの生存を支えるためだけの農業を続け、急速に債務を負うようになり、税金や償却金を支払うために再びかつての領主のために働く立場に戻らざるを得なかった。

日本の農民と同じ??w

p149 農業の姿を最も劇的に変えたと言えるのはー比較的大規模な農場が比較的大きな市場のために生産し、したがって投資することが可能だったところでだがー、疲弊した土壌を回復させ、生産量を増やすために資料が使用されるようになったことであった。19世紀前半に最も重要だった肥料はグアノ、すなわち海鳥の糞である。グアノはペルー沖のチンチャ諸島に何千年もかかって巨大な山となって積み重なっており、それが含む硝酸塩が、乾燥した気候のために雨で流されないで保たれていた。アレクサンダー・フォン・フンボルトがグアノは肥料として効果があることを確証し、ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リーヒヒ(1803-1873)も使用を推奨した。この結果ペルーではグアノ時代と呼ばれた一種の経済ブームが起こり、それは1870年代に合成肥料に取って代わられるまで続いた。

p228 ホイッグ党が1841年の総選挙でついに政権を失うと新たなタイプのトーリーが首相として政権の座に就いた-有能で勤勉なサー・ロバート・ピールである。彼はリヴァプール卿とウェリントン公の下で内相を務め、刑法を簡素化し、青い制服のロンドン警視庁を創設した。ピール政権は、イングランド銀行が発行する紙幣を伴う統一通貨制度を確立。1844年の会社法は登記して貸借対照表を公表することを求めたが、それは鉄道投機熱に浮かされていた時代には必要な措置だった。ピールはまた所得税を導入して国家財政を立て直し、政治を支配する人は不承不承それを受け入れた。

p266 1852年11月のもう一度の国民投票が「フランス人の皇帝、ナポレオン三世」の即位を承認した(彼が3世を名乗ったのは、ナポレオン1世の死後、その子息が1832年に早すぎる死を迎えるまで統治していたという虚構を反映したものだった)。ヴィクトル
・ユゴーは、彼を皮肉って「小ナポレオン」と呼んだ。1851年の出来事を1799年にナポレオン1世が第一共和政に対して挙行したクーデターと比較して、カール・マルクスは、歴史は繰り返す、「最初は悲劇として、二度目は茶番として」と辛辣な評言を述べた。

p407 農村社会における正義の執行は、19世紀の大半を通じてまた一部地域では第一次世界大戦期まで、あるいはそれ以後でさえも多くの点で自足的であった。村の掟に背いた者は、フランスでは「シャリヴァリ」、イングランドで「ラフ・ミュージック」または「スキミントン」、ドイツで「ハーバーフェルトトライベン」、イタリアで「スカンパテーナ」と呼ばれる制裁行為の対象となった。

p417 住民の大量移動はヨーロッパのほぼすべての地域において発生していた。1890年から1914年の間にギリシャの全人口の1/6近くがアメリカまたはエジプトに移住した。イギリス、フランスからポルトガル、オランダに至るまで、海外植民地を有するヨーロッパの国々もまた、広範囲に及ぶ移民の波を経験した。主要な例外はフランスで、そこでは低い出生率と土地所有権の保証のおかげで、人々は母国に引き留められた。1815年から1914年の間に総計およそ6000万人がヨーロッパを去ったと考えられている。

力の追求 下

p32 メートルはフランス大革命の産物であり、パリから派遣された科学的調査隊が北極と南極を結んだ線に沿って地球の円周を測定しようとした。もちろん、彼らは実際に極地に行ったわけではなく、ただダンケルクからバルセロナまでの距離を測定して、それを引き延ばしただけだったが。案に違わず、この線はパリを通っていた。地球の円周の1000万分の1が1メートルとなった。地球全体に対する計測が完全に正確ではなかったことを後世の科学者たちが発見したものの、この単位は定着した。大陸の大部分でメートル法が採用されたのは、19世紀後半が鉄道建設の時代であり、当時鉄道会社が標準的な距離測定法を必要としていたという事実から生じた様々な結果の一つであった。

*地球の円周は40,000㎞です。どう考えても説明が間違ってる。正確には赤道から北極までの1000万分の1。

p39 1903年、50万人を超える人々が最初のツールド・フランスが走り抜けるのを見るためにフランスの町々に集まった。主催者たちは1871年にドイツに併合されたアルザス=ロレーヌを通過するようにコースを設定し、彼らの愛国心を喧伝したのである。自転車は、とりわけ女性解放の媒体としても重要であった。オーストリアのフェミニスト、ローザ・マイレーダー(1858-1938)は、自転車は女性を解放するためにフェミニスト達が払った努力のすべてを合わせた以上のことを成し遂げたと明言している。自転車は彼女たちを同伴者なしで外出することを許し、非実用的な膨れ上がった衣服から足の分かれたスカートである「合理的ドレス」に着替えるように求め、行動的かつ健康的でスポーティーなイメージを付与し、そうしたイメージは社会的同権を要求する彼女たちの支えとなった。

p135 ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(1808-74)「イエスの生涯ー批判的考察」は近代的な文献学のテキスト批判の手法を用いて、福音書の中の奇跡の要素を想像上のものとして切り捨て、歴史的存在としてのイエスに関する確実な証拠が実際にはいかに少ないのかを明らかにした。

p157 フロラ・トリスタン(フランス人)工業化の悲惨や圧迫をもたらすイギリス風の未来を望んでいるのか確信が持てなかった。「ロンドンはローマになるだろう。しかし、間違いなくアテネにはならないだろう。アテネになる定めはパリのために取っておかれている」