P94.キッチュの真正なモデルはボルディーニである。
ピエロマンゾーニ 芸術家の糞
偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース

醜いものが美術史に登場するのは、キリスト教ありきのことであると、ヘーゲルが私たちに思い出させてくれる。理由はこうである。「ギリシア的な美の様式では、磔刑のキリストを表現することはできない。茨の冠をかぶり、十字架を背負って、体刑の場所まで自らの体を引きずり歩くキリストを表現することはできないのだ。そこで苦しみに満ちた、醜いキリストが登場するのである。」さらにヘーゲルはこうも言っている。「神と対立する敵たちは、彼を断罪し、愚弄し、拷問し、十字架にかける、徹底的に邪悪な者として表現されている。内的な邪悪さや神に対する敵意の表現は、醜さや、無作法、蛮行、怒り、また外見の歪みとして外部に現れる。」。つなづね極端なニーチェは「キリスト教が世界を醜く、邪悪にしようと決断したことで、実際に世界が醜く邪悪になった」とまで言い放った。

教皇ヨハネ・パウロ二世が、回勅「信仰と理性」(1998年9月14日)でこう断言していた。
近代哲学はその探求を存在に向けることを忘れ、自らの研究を人間の知識に集中した。人間の心理を知る能力に働きかけるのではなく、限界や条件付けを強調することの方を好んだのだ。そこからさまざまな形の不可知論や相対主義が生まれ、哲学的探究を、総体的な懐疑主義の流砂のなかで迷子にしてしまった。さらにラッツィンガー(枢機卿)は2003年の説法でこう話した。「なに一つ確固としたものを認めず、各人の自我と欲求だけを唯一の尺度とする相対主義の専制政治ができあがろうとしている。しかし私たちにはもう一つの尺度がある、しれは神の子、すなわち真実のひとである。」ここでは真理の二つの概念が矛盾し合っている。ひとつは、発言の意味論的属性であり、もうひとつは、神性の属性である。これはカトリックの聖典、少なくとも私たちが翻訳を通して知っているもの、においてすでにどちらも真理の概念として現れているという事実による。真実をなにかと、ものごとの状態のあり方の間の一致として用いる時、(「本当に言う」という意味で「あなたたちに真実のことを言う」)と真理を神性に固有のものの意味で用いる時、(「私は道であり、真理であり、いのちである」)がわかるのである。これがもとで多くのカトリック教会の神父たちは、今日ラッツィンガーが相対主義と定義するところの立場を取った。なぜならそれは、救済のメッセージという、この名にふさわしい唯一の真実にさえ関心を払っていれば、世界に対する主張が実際の状況と一致していなくても心配することはないという立場だったからである。聖アウグスティヌスは、地球が球形か平らかという議論に際し、球形の方に傾いていたようだが、それが事実かどうか知ることは魂を救うのに役に立たないことを思い出し、したがって実際どの理論も同じことだと判断した。

不誠実の最も素晴らしい描写は、ジャン=ポール・サルトルの「存在と無」(1943年)のなかにある。ある女性が男性の家に行く場面で、女性は男性が自分を手に入れたいと望んでいることを知っている。男性のアパートに入った時点で自分の運命は決まることを彼女は理解しているはずである。<中略>この一節は少し男性主義的なところがあるかもしれない。しかし、サルトルの外見を思い出してみると、むしろサルトルが哀れに思えてくる。相手の方は一体どんな女性だったのだろうか。

他人の陰謀に思いを巡らせればめぐらすほど、自分の理解の無さを正当化するためにますます陰謀にのめり込み、他の陰謀に釣り合うだけの自分の陰謀を考え出すことになる。陰謀が本当の陰謀であるならば、秘められたものでなければならない。内容を知ることで欲求不満が解消される類の秘密は確かに存在する。その場合、秘密が救いをもたらしてくれるか、あるいては秘密を知っていること自体が救いを意味するかのどちらかだ。そんなに輝かしい秘密など存在するのだろうか。もちろん存在する。ただし、その秘密を知ることはあり得ない。暴かれた暁にはがっかりするしかないのだから。アッリエがローマ帝政期を騒がせた神秘にまつわる熱狂について聞かせてくれたのではなかったか。

カール・ポパーは1940年代の時点で「開かれた社会とその敵」にこう書いていた。社会における陰謀説とは、ある思い込みから成っている。それはある社会的現象を説明するためには、そのような現象の実現に関心を持ち、それを企て、促進するために結束した個人や団体をあぶりだせばいいという思い込みである。