1848年のドイツでの革命のためにマルクスが抱いていた戦略は「急進化したフランス革命」という表現に要約された。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』自体が、1789年革命との比較に基づいた著作だった。マルクスは1789年革命よりも前に築かれた理論的構成概念にもとらわれていた。この概念は最初に試す機会において、政治の実践にはあまり役立たないことが明らかになった。マルクスの理論は、プロレタリアートに対してその真の利益と歴史的役割について説くうえで、他の者たちよりも優位に立ち、凌ぎつづけるという説得力のあるナラティブを提示した。だが1848年には、数が少なく政治的に未熟なプロレタリアートがより広い層の一階級に過ぎず、何らかの形で進歩するには連携の必要があると考えるようになると、この理論は破たんした。マルクスの概念には4つの基本的な問題があった。

第一に、階級というものは、単なる社会的あるいは経済的区分ではなく、その構成員に快く受け入れられるだけのアイデンティティでなければならなかった。プロレタリアートはそれ自体が階級であるというだけでなく、政治上の一勢力という自覚を持った自分たちのための階級である必要があった。
第二に、一つの階級として意識を高めるには、対立する国や宗教の主張を覆す必要があったが、多くの労働者にとって社会主義者、愛国者、キリスト教徒であることは矛盾ではなかった。
第三に、「共産党宣言」で主張された階級の二極化と異なり、1848年の階級構造は極めて複雑だった。歴史的には消滅したとみなされうるが、当時ははっきりと存在していたグループがあった。こうした状況において、様々な政治構造や結末がもたらされる可能性が生じていた。マルクスは「小工業者や小商人、金利生活者、手工業者、農民、これらすべての階級はプロレタリアートに転落する」と考えていた。しかし、これらのグループは必ずしも都市部の労働者階級と同一視されるものではなく、それぞれに固有の利害があった。
第四に、最大の混乱は、「共産党宣言」が、プロレタリア革命の前に必ずブルジョワ革命が起きることを前提としている点にあった。ブルジョワ革命は、プロレタリアートの発展と、工業化社会で主導権を握ることへのプロレタリアートの意識を促す条件を整えるだろう。だが、その実現には時間がかかる。ブルジョワには、その企業家的創造性を通じて既存の秩序を転覆したり、回避したりすることが可能だった。やがて政治情勢が追いつき、この活力に満ちた階級の居場所ができる。そうなれば民主主義の拡大という形でプロレタリアートも恩恵を受ける。しかし、もし理論が正しいのだとすれば、ブルジョワ革命がもたらすのは労働者階級の漸進的な発展ではなく、一層の搾取と窮乏化であった。

フランスの社会学者 ガブリエル・タルドは1890年代に起きたドレフュス事件(ユダヤ系フランス軍大尉アルフレド・ドレフュスがドイツのスパイだったとの容疑で有罪になったことを巡る議論)を振り返り、個人が結集しなくても総意は形成されると気づいた。ここから、公衆を「精神的な集合体であり、物理的に隔たりあった個人が、心理的なつながりだけで結合した存在」とするタルドの考えが生まれた。したがってタルドは「現代は群衆の時代だと説く健筆家ル・ボン博士」に賛同できなかった。現代は「公衆あるいは公衆たちの時代である。この差はきわめて大きい」。個人は一つの群衆にしか属せないが、多くの公衆の一員となることができる。群衆は興奮しやすい場合があるが、公衆においてはより冷静な意見が交わされ、群衆ほど感情的にならない、とタルドはといた。ロバート・E・パークは同質で単純で衝撃的で、出来事を認識すると感情的に反応する群衆と、異質で批判的で事実に向き合い、複雑さを快く受け入れる、より称賛に値する公衆とに二分するこの考え方を発展させた。秩序だった進歩的社会は「異なる意見を持つ個人で構成されるからこそ、慎重さと合理的な思案に従う」公衆に依存する。ひとたび公衆が批判的でなくなれば、あらゆる感情が同一の方向に揺れ動くようになり群衆同然になってしまう。

ゲイリー・ハメル 不運にもハメルが一推し企業として挙げたのはエンロンだった。「リーディング・ザ・レボリューション」の第二版刊行に際しては、エンロンに関する記述が削除された。

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