中国の労働運動をめぐる不可避的対立
中国の労働運動は、国民党員や共産党員たちにより、国共合作が成立する以前の1920年代初頭から別々に開始されていた。そして中国の民族産業の未発達という状況下に、当初の矛先は列強諸国の商業活動や工業活動に向けられ、貿易港であった広州や上海において、港湾労働者の荷揚げ拒否などを中心に大規模なストライキが展開される。ストライキにより列強諸国の商業活動や工業活動に打撃を与えることは民族産業の発展に寄与した。
1年以上も続いた広州と香港のストライキでは、国民党と共産党は全国からの経済支援の下に、イギリス資本に大打撃を与えていた。また上海のストライキでは、著名な民族資本家であり上海総商会会長であった虞洽卿が、イギリス資本や日本資本に対抗するため、共産党と協力していた。虞洽卿は上海総商会を指揮して募金を集め、共産党にストライキ資金を提供した。その結果、外国の汽船会社がストライキで業務を麻痺させる間に、虞洽卿の経営する汽船会社の山北輪埠公司は業務を拡大させ大きな利益を得た。この段階では、共産党と民族資本家は反帝国主義闘争で利害が一致し、両者の間に衝突が起こる可能性は少なかった。しかし結局は、武漢において民族産業まで敵に回す労働運動が共産党の指導により展開された。その結果、国民諸階層の協力により帝国主義の圧迫と封建的要素を払拭するという国民革命の枠組みは崩れ去り、国共合作を支えていた経済基盤も破壊されてしまう。
ゴロツキの軍事力
会党は全国各地に存在し、内部には種々の社会階層が存在したが、主力は遊民階層であった。遊民層はマルクス主義ではルンペンプロレタリアートと呼ばれ、定職を持たない不安定な階層であり、生産活動に従事する階級としての資格を持たない存在であった。そしてその不安定さゆえに、ときとしてプロレタリアートの敵対階級に加担する危険を指摘されていた。それゆえ遊民層を中心とする運動などは、従来の社会主義理論では、全く肯定されえない運動であった。しかし毛沢東は、その「湖南省農民運動視察報告」(1927年3月)に明らかなとおり、共産党中央の批判をものともせずに遊民の発揮する暴力を革命の破壊力として容認し、社会主義への新たな道を切り開こうとした。中華人民共和国成立後に公刊された『毛沢東選集』では、遊民層に対するマルクス主義の否定的観点への配慮からであろう、毛沢東の「湖南省農民運動視察報告」の原文にあった、農民協会員中の遊民を形容する「緑色の長い上着を着ている者」や「賭博や麻雀を打つ者」などの表現は削除されることになる。
> んー。この中国における被差別対象である「遊民」がなんなのか、今一つイメージわかないな・・・。
中国の歴史上では、衰退した王朝末期にしばしば発生する遊民層の反乱が社会のさらなる動揺を促進し、やがては大規模な農民反乱を出現させていた。毛沢東は1928年11月の共産党中央への報告において、自分たちの遊撃戦は伝統的な反乱である打江山(ダーヂアンシャン、山などに立てこもり、武装して反政府活動を行う)であるとし、全国的な革命の高まりと結合する必要を確認している。自分たちの運動と伝統的特質を熟知していたのである。共産党員の反乱より15年前の1912年には、辛亥革命後の混乱の中で兵士や遊民層が結合した白朗(指導者の名前)の乱が発生し、14年には鎮圧されたが一時的に広大な支配圏を作り上げていた。それゆえ共産党員たちの行動は当時としては特別な出来事ではなかった。かくして外来の新思想の実験であった中国の共産主義運動は変貌し、中国社会の実情に即した展開を開始した。
中華ソビエト共和国の成立
コミンテルンは、辺境地帯で行われたソビエト区建設に積極的意義を認めず、都市の労働運動に連動する補助的な存在としかみなさなかった。しかし共産党のソビエト区建設は急速な発展を示す。1930年初めには中国全土に十数個のソビエト区が成立し、中央ソビエト区と呼ばれた江西省と福建省にまたがる地域は南北200キロ、東西150キロ余りで300万人以上の人口を擁した。ソビエト区の急速な拡大には、蒋介石と国民党内の他の軍事指導者たちとの間で発生した、大規模な軍事衝突が幸いしていた。国民党はソビエト区攻撃に兵力を集中できなかったのである。1931年11月には中央ソビエト区の中心都市である江西省の瑞金に、毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政府が樹立され、全国のソビエト区を統括することになった。中華ソビエト共和国と地方が制定され、地主と富農(大規模経営の農民)の土地が没収され、土地を持たない貧農に分配された。
中華ソビエト共和国では地主制度が崩壊し、土地を得た貧農が共産党の支持基盤となった。しかし手作業を中心とする農業の生産手段には何の変化もなく、土地を得た貧農が生産力の増強を担う新興階級になりうる客観条件は全く整っていなかった。中華ソビエト共和国の生産力の要は、中農や富農と呼ばれた自作農民であった。彼らは商品作物などを通じて商業や小規模な工業を営んでおり、共産党を必ずしも支持しなかった。したがって共産党は、建前上は「富農への打撃」というスローガンを掲げていたが、富農や中農を敵に回しかねない農村社会の徹底的な「社会主義的変革」は実行されることはなかった。ソビエト区の社会体制は、中途半端な状況に置かれていた。貧農は土地を得て、小作料という地主の「搾取」からは解放されたが、小作料に代わる税金として、共産党に農産物を納めなければならなかった。農民の税負担は軽いものではなく、共産党による農民搾取であるとみなすことも可能であった。
各地のソビエト区は農業生産力の低い山間部に存在しており、中央ソビエト区の場合には10万人以上の紅軍兵士と数多くのソビエト政府人員を養った。そのため食料は不足し、共産党は「食料を借りる」という名目で徴発していた。この状況に国民政府の禁輸政策が加わり、1934年に中央ソビエト区が国民政府軍の包囲攻撃で崩壊する際には、防衛費を捻出しようとする共産党により、農民は国民政府時代より重い税金を徴収されていた。
軍事指導者のナンバー2であり、後に粛清を逃れてソビエト区を離脱した龔楚によれば、紅軍兵士に対する食糧や衣類などの補給は劣悪であった。兵士の20%以上が靴の不満による足の化膿に苦しみ、栄養不良が重なり多数の死亡者が出ていたという。過酷な状況にもかかわらずソビエト区が内部崩壊しなかったのは共産党の管理体制が徹底していたからであった。龔楚によれば、共産党は「人民の犠牲をいとうことなく、革命戦争を遂行した」のであり、ソ連の制度に倣った国家政治保衛局が存在し、民衆生活と軍事面の両方を厳しく監視していた。龔楚は、弾薬や装備の不十分さとは裏腹に、紅軍には無線通信設備が完備され、国民党軍の無線を傍受して暗号を解読し、相手側の動向をもれなく掌握していたと述べている。事実とすれば、これにより遊撃戦(ゲリラ戦)という迅速で闊達な戦術行動が可能となり、ソビエト地区の防衛に大きく寄与したのである。
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