幹部と呼ばれている共産党員たちは、1980年代半ばまでは、一級を最高位とし24級を最下位とする等級制度に区分されていた。そして人口の0.01%にすぎない13級以上の幹部が高級幹部と位置付けられ、古代の貴族同様にきわめて大きな社会的特権が与えられていた。建国当初の最高位は、毛沢東、ダライラマ、サイフジン(新疆ウイグル自治区指導者)の3名に与えられた3級であり、さしずめ正二位である。鄧小平は五級で正三位であった。現在の日本でも、等級制に基づく給料体系が存在するが、等級間に極端な格差はない。ところが中国での等級間の格差は極端であり、高級幹部になると国家から古代貴族さながらの大きな物質的特権が与えられる。
サイフジン、サイプーディンなのか色々書き方はある
伝統的な封建王朝の清朝は、1911年に勃発した辛亥革命により崩壊し、1912年には中華民国が成立する。さらに9年後の1921年には中国共産党が出現した。しかし当時、北京の紫禁城の奥には中華民国政府から歳費を支給された清朝最後の皇帝の溥儀が生活しており、溥儀がクーデターを起こした軍閥の馮玉祥により紫禁城を追い出されるのは、1924年である。これらの事実から、中国近現代史が「伝統」と「封建」、さらには「社会主義」を混在させながら進展しなければならなかった状況が理解される。
清朝の皇帝は二つの顔を持っていたのである。清朝は満州人の樹立した王朝である。満州人の皇帝は、漢民族に対して中国の伝統的皇帝として君臨したが、モンゴル人やチベット人に対しては、ジンギスカン以来の遊牧民族の大ハーンとして臨み(ジンギスカンの子孫から正統の証としての印綬を引き継いでいた)、支配・被支配の関係ではなく藩部の名のもとでの一種の同盟関係にあった。そしてモンゴル人もチベット人も、民族固有の法による自治を許されていた。さらに、満州人もモンゴル人もチベット人もチベット仏教徒であり、ダライラマを崇める人々であった。
1911年の辛亥革命で清朝が崩壊し、漢民族の大統領を中心とする共和制の中華民国が出現すると、モンゴル人もチベット人も漢民族が支配する中華民国に留まるのを望まず、離脱しようとした。その結果、チベットにはダライラマ政権が、モンゴルにはボグド・ハン政権が成立した。そして両者は連携して民族政権の国際的承認を求めた。しかしチベットの民族政権の後ろ盾となったイギリスと、モンゴルの民族政権の後ろ盾となったロシアは、自国と中華民国との対立を危惧した。その結果、イギリスとロシアが別箇に仲介して、1913年から1915年にかけて、チベット問題を検討するシムラ会議とモンゴル問題を検討するキャフタ会議が開催され、チベットとモンゴルの民族政権は中国の宗主権下での自治へと後退する。
このような状況に直面していた中華民国の初代大統領の袁世凱は、チベット人とモンゴル人を中華民国に引き留めるための象徴的権威として、満州皇帝を紫禁城内にとどめ置いた。このあと1924年になり、溥儀は軍閥の馮玉祥により紫禁城から追放される。この事態は、ソ連の差し金によると考えられる。1924年は、外モンゴルにソ連の衛星国家としてのモンゴル人民共和国が成立した年であり、溥儀をそのままにしておけばモンゴル人支配層の溥儀への忠誠心が存続し、ソ連の衛星国支配に対する負の遺産となるからである。
1912年4月、臨時約法(暫定憲法)に基づく中華民国が、北京を首都に正式に樹立した。そして翌年には初代の大統領に袁世凱が就任するが、孫文の率いる同盟会も諸政党を吸収して国民党に再編され、12年末から13年にかけて行われた衆議院と参議院選挙により、議会の過半数を制する最大政党となっていた。国民党は議会での多数を頼み、憲法に規定される国務総理(首相)を中心に議院内閣制を樹立し、大統領に就任する袁世凱の権力を無力化しようとした。しかし計画の急先鋒であり事実上の党首であった宋教仁は、1913年3月に袁世凱の密命で暗殺される。これに対し国民党は、7月になり袁世凱打倒の軍事行動を挙行したが、袁世凱はたちまちこれを鎮圧し、11月には国民党の解散を命じた。袁世凱は14年1月に議会を停止する。
袁世凱は軍事力を背景に強権を発動したが、現実を見据えた政治家でありその政治ビジョンは中国の近代化であった。清朝時代からの袁世凱の腹心である周学熙が、15年には実業銀行や農工銀行の設立を提起し、袁世凱の承認のもとに株式制度による大規模な紡績工場を設立する。袁世凱は、共和制に代わる立憲君主制を実現しようとして、1915年末には皇帝に即位すると宣言する。袁世凱の幕僚の一人であった楊度が、政権の交代劇による混乱を防ぎ国家を安定させるためには共和体制よりも君主制が良策だと主張し、袁世凱はこの権限を受け入れる形で皇帝即位を決意したのである。しかし袁世凱の皇帝即位宣言は部下の軍人たちの離反を招き、翌1916年3月に即位宣言は取り下げられる。そして6月、袁世凱は失意のうちに死去した。
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