ロベスピエールは生まれつき平和な人間で、暴力と流血を憎んでいた。彼は国王の処刑ののち、これ以上死刑はあるべきではないと言明した。しかもフランスを戦争に投げ込んだ人々に対する彼の憎悪、裏切者と反革命派に対する彼の恐怖のゆえに、そして-こう附言しうると思うが-※ギヨッタン博士の新しい首切り機による死は、極めて迅速で見たところ無痛であったので、彼は、彼の良心に彼の理性が、彼の理性に国家理性がうちかつことを許し、ついには彼のうちのピュリタンは宗教裁判官となり、「徳なくして威嚇は大いなる災厄を生み、威嚇なくしては徳は力を持ちえない」という語を説くことになった。
※ギヨッタン(1738~1814) 革命前は医者で三部会の代表となり、彼の主唱した断頭台は、彼の名をとってギヨッティーヌと呼ばれ、恐怖の的となった。恐怖政治の下では獄中にあったが、ロベスピエールの没落後解放され、医者の職に戻った。
ジャコバン体制
両国民議会は、国王の大臣を信頼せず、支配したいと望んで、内閣の政策を監督し、必要ならばこれを覆すとめ、常任委員会を選出した。国民公会がこの伝統と決別するなどありそうもないことだった。公会もまた、平均24人の委員からなり、政府の各省を担当する21にものぼる委員会をもうけた。1793年4月6日の公安委員会は、もともと9人のジャコバン派からなり、このうち2人、バレールとランデはずっと後まで委員であった。5月末、委員は一時14人に増加されたが、ダントンが罷免された7月10日には再び9人に減員された。ロベスピエールは7月27日までは参加しなかった。カルノー含む4人の委員が付け加えられ、9月6日には委員数は総数12人にのぼった。そしてこの12人は、10か月後のジャコバン政府の没落まで、毎月再選された。なぜなら委員会は、名目上は国民公会の代表であり、いつでも公会によって罷免されえたからである。そして委員会は、恐怖させることによって支配したとしても成功することによって支配したのでもある。それは内閣であったが、首相のない内閣であった。
委員会の元来の職務は、「臨時行政会議、すなわち1792年8月10日に議会によって臨時に任命された大臣たちの担当している行政を監督し、スピードアップすること」であった。委員会は、「緊急情勢において、国内国外ともに総防衛の施策をとること」を認められていた。委員会は機密費を国庫から引き出せた。まもなく、「容疑をかけられた、または警告を受けたすべての人々」を逮捕する権限をもった。年末までに委員会は、大臣だけではなく、将軍および諸行政機関をも統御し、全国の地方自治機関、裁判官、軍司令部からのたえざる報告-これが規則正しく提出され、注意深く閲読されておれば、委員会は全能であると同時に全知になったことであろう-とを受け取った。その権限への唯一の制限は、委員が国民公会によって毎月再選されること、財政的に国庫に依存していること、議会の同意なくしては逮捕されないという議員の特権のみであった。
言論の問題を作り出したのは、革命そのものであった。1789年以前には、やっと6種ばかりの新聞がパリか地方で発行されていたにすぎず、その購読者も教育のあるエリットであった。ミラボーの『三部会』紙は、ヴェルサイユでの討議の記事を印刷しようとする最初の試みだが、直ちに禁止された。しかし禁止令は励行できなかった。二週間もたたぬうちに新しい新聞が許可され、まもなくカフェや街上にきわめて多くの新聞が現れ、ほとんどすべての有名政治家が彼自身の新聞を持っていると思われるほどになった。それらは大部分わずか2~4項で、1週に1回か2回、2~3の海外ニュース記事、議会の記事のゆがめられた叙述、編集者の政見を提出する論説をのせてあらわれた。現在なら、日刊紙を発刊し継続するには100万ポンド以上はかかる。当時はどんな議員-ロベスピエールもその一人だが-でも、1週5ポンドの議員俸給を節約すれば可能だった。そして検閲制度も、中傷処罰法もなく「勅命逮捕状」による簡易投獄の恐れももはやなかったので、これら新聞の曲筆と個人攻撃的な毒舌には何ら制限がなかった。議会に新聞記者席はちゃんととってあったが、速記はまだ発明されておらず、討論の正確な記事を作ることは容易ではなかった。重要な演説については、演説者の草稿をあとで借りることも稀ではなかった。
これらの新聞の発行部数は、2000~5000部をこえることはあまりなかった。しかし、8月10日の勝利者たちが、王党派の新聞社を襲い、その活字を没収するだけの値打ちはあったのである。そして同じ運命が1793年の6月にジロンド派の新聞社をみまった。エベールが出している人気物の『デュシェーヌ親父』に補助金を与え、これを前線の軍隊に配布することが、ジャコバン派お気に入りのプロパガンダ方法となった。これを回読した人が100万人にも達したといわれる。
立法議会でロベスピエールは一度ならず、軍隊訓練を信用していないこと、旧軍隊の手荒い懲罰に反感を持っていることを明らかにした。国民衛兵の形成についての討論で彼はできるだけこの「新軍隊」が旧軍隊に似ないことを要求した。それは士官というエリットをもち、いつも軍服を着て、別の階級をなしている職業軍人ではなく、義勇兵の軍隊、武装した国民でなければならない。彼は「王党派」の士官を恐れ、彼らを全部免職したいと思っていた。しかし彼はそれ以上に、どんな指導者に率いられるかにかかわりなく軍国主義を恐れた。「我々の兵士を機械に変えてしまう、いかなる企ても存在してはならない」 1791年立法議会でのブリソの戦争政策に対する彼の反対は軍人独裁についての彼の恐れ-この恐れが正しかったことは、デュムーリエとラ・ファイエットの歴史によって部分的に、そしてついでボナパルトの歴史によって全面的に証明された-に基づいていた。
民法および刑法の事件を裁く正規の裁判所制度とならんで1972年8月10日以来、特に政治犯罪をつかさどる「特別裁判所」、後に改称して「革命裁判所」が存在していた。この革命裁判所はパリにだけ存在した。もっともその犠牲者は、首府の牢獄に逮捕中の人々の他に、ときどき地方から送られてくるほかの人々も含んでおり、結局はすべての政治犯に対する司法権を与えられた。裁判官は国家によって任命され、検事は政府に代わって告発し、陪審員は終身の官吏であった。被告は自分自身を弁護するために発言することを許されたが、がいして彼らの代弁をする弁護士を見つけることができなかった。
それでも釈放された囚人がほとんどなかった考えるのは間違いである。1793年から94年にかけての冬の5か月の間に、約750人が有罪となり、500人ほどが解放された。また犠牲者はすべて「僧侶または貴族」であったと考えるのも誤りである。おそらくパリの牢獄のはじめの収監者の大部分を占め、最初に裁判にかけられたのは、僧侶と貴族であっただろう。処刑された僧侶および貴族の数は225人、将校と官吏は262人、中流および下層階級の市民-店員、店商人、宿屋の亭主、勤労者等々-の数は617人であった。この数値が意味しているのは、もともと緊急事態に対処し、政治上の裏切者を粛清するために設立された裁判所が、通常の裁判形式を通さずに政府の意志を全国に施行するための政府の便利な方法として、使用されるようになったということである。
ロベスピエールは、この政府の一員でありその方法を容認していた。1793年1月にもまだ、彼は死刑に対する嫌悪の情を表明し、国王の処刑が最後の死刑であるのを希望するといっていたが、二か月後、デュムーリエの危機の間、彼は死刑が「国家の安全、または自由・平等・統一そして共和国の不可分性に対するすべての犯罪」に対する刑でなければならないと言明した。数か月後ふたたび彼は、「貴族」キュスティーヌおよび他の敗戦将軍を革命裁判所で裁くことに賛成した。
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