論語が決定的な影響力を持つようになったのは、言うまでもなく江戸時代です。当事は四書(大学、中庸、論語、孟子)、五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)と朱子の「近思録」を読んでいないと一人前の知識人として認めてもらえなかった。幕末の武士、たとえば西郷隆盛や大久保利通の青年期の読書を見ても、まず四書五経を読んでいる。また、渋沢栄一の父親は武州血洗島の農民に過ぎなかったけれども、四書五経はよく読んでいて、それを引用しながら息子の渋沢を訓戒したそうです。つまり、武士に限らず当事のちょっとした知識的な農民や商人なら「論語」を暗記しているのが当たり前だったのです。仏教のお経は読んでも意味がわからない。読んで聞かされてもわかりません。しかし「論語」なら字なりに読めるし、読んだとおり理解できます。解釈の上で非常に難しいところはあるけれども、お経のように、音声だけ聞こえてきて意味は全くわからない、というようなことはない。
ただ、日本人の論語の受け取り方は、中国人とは非常に違うそうです。すべて日本的に-日本の実情に都合のいいように解釈している。もっともこれは、ヨーロッパの聖書に対する考え方についても言えます。「新約聖書」のうち「ルカ伝」以外はすべてユダヤ人が書いたと言われ、またルカにしてもユダヤ教に改宗したギリシャ系の人間だから、「新約聖書」はすべてユダヤ教徒によって関われたわけで、そこには当然、伝統的なユダヤ人の考え方がある。ところがヨーロッパに入ってくるとそうしたものとは違った解釈が生まれ、それが一つの文化を作っていくようなところがあるのです。ローマ帝国がキリスト教を公認したのは、紀元325年ですが、そのとき小アジア西北部のニカエアで開かれた「ニカエア公会議」でキリスト教の基本信条が決定された。「ニカエア信条」と呼ばれるものですが、それと同時にその信条案を提出したエウセビオスという人物が、初めての教会史を書いたのです。それを見ると、いわゆる「旧約の歴史」はイエス・キリストが出現するのを準備していた期間だということになっており、それがそのままキリスト教徒の理解になっているのです。ところが、ユダヤ教徒には最初からそういう理解は全くない。「聖書」に対する受け取り方が基本的に違っているわけです。そしてこれと同じことが日本人と「論語」についても言えると思います。
長い間「論語」に親しみ、その影響を強く受けながらも、中国のものの基本は輸入しなかった。日本人の法意識に最も強い影響を与えているのは、鎌倉時代に制定された「貞永式目」ですが、それを唐律と比較すると日本と中国の違いがわかります。中国は伝統的に「父子制血縁集団」の社会ですから、例えば処罰についても「縁座」ということが非常にはっきりしていた。反乱を起こした場合、本人の父親と16歳以上の男子は死刑、15歳以下の男子と妻妾子女は奴隷に落とされ、伯父と叔父は流3000里-流刑に処せられるのが通例でした。しかし、貞永式目には原則として縁座がない。共同謀議をしないかぎり、血縁者だからという理由だけで処罰されることはありません。ただ正妻は夫に協力したに決まっているということで、領地を没収される。中国の法律とは明確に違うわけです。財産相続法も非常に対照的です。中国は均分相続で、家督は一人が継ぎ、家産は均分に相続する。ところが貞永式目はそうなっていず、父親がこれと思った人間に譲り状を渡して相続させるのです。
皮肉な言い方をすると、政治制度だけを見れば、今、アメリカに近いのがイランです。大統領や国会議員は選挙で選ばれるし、司法権は独立しているし、憲法もある。しかし制度は似ていてもイランをアメリカと同じに見る人は居ません。法律一つとっても両者は全く違う。アメリカと同じ政治制度でありながら、イランの法律はイスラム法ですからよく考えれば少しも不思議な現象じゃない。政治制度ではなく、個人の規範に関わる問題だからです。国民がみんな真面目なイスラム教徒で何かあったらウラマーのところへ相談に行くイスラム教の伝統を大切だと思っていたら、選挙に際しても誰に投票すべきかを聞くでしょう。そのとき、ウラマーが「私に投票しなさい」と言ったら国会議員はすべてウラマー、つまりイスラム法学者になり、当然のことながら彼らが作る法律はイスラム法になってしまうわけです。いくら政治制度を変えても、個人の伝統的規範が変わらない限り同じ状態が続くでしょう。日本も同じで確かにデモクラシーという制度を新しく輸入したけれど、伝統的な規範は今なお強固に存続している。アメリカを見てもわかるようにデモクラシーは法律と契約の社会で、それを知らないと生活できないほどです。ところが日本人ほど法律や契約というものに無知な国民も珍しい。知らなくとも、伝統的な規範に従っていれば困らないからです。そして、そうした伝統的規範-個人的規範であれ、あるいはその共通の基礎である社会的規範であれ-の多くが「論語」の影響を非常に強く受けているのです。
> そう政治制度や法律の問題じゃないの。民族性の問題w
欧米の企業では克明な社規・社則があって各ポストの権限もはっきり決まっており、それに応じてマニュアルが作られている。そして社員は、このマニュアルどおりに仕事をするという契約を結んで入社し、賃金をもらうわけです。日本の企業も制度的には同じです。しかし、社規・社則など誰も読まないし、マニュアルは最初から存在していない企業のほうが多い。それに会社と契約したという意識を持っている社員もまずいないでしょう。彼らにとって大切なのはあくまでも「礼楽」なのです。たとえ社規・社則に違反しなくとも、また命じられた仕事をきちんとやっていても、社員旅行や運動会に参加しなかったり、上司に無礼な口の聞き方をしたりすると、受け入れてもらえなくなる。それが日本企業のきわめて大きな特徴です。欧米の企業なら、契約どおりの仕事をしていれば別に問題はないのですが、日本の企業にそれは通用しない。礼楽を無視すると絶対に信用してもらえません。あいつは人間性に問題がある、というようなわけのわからない言い方で追い出されてしまう。ともかく、日本の企業-というよりもあらゆる組織が、きわめて”論語的”です。孔子の場合も一番基本にあるのは「信頼できる人間であれ」という考え方です。
周の文王の祖父大王の例、当時周は大王が徳をもって善政を布いたので、国は豊かに平和に暮らしていた。それを見て西北方の蛮族薫育が攻めてきた。大王はこれに種種の財物を与えて撤退してもらった、が、蛮族はこれに味を占めて今度は土地をよこせと脅してきた。領民たちは一戦してこれを撃退しようと言ったが、大王は反対した。「蛮族が要求しているのは土地である。つまり領主の私さえ出ていけば平和におさまるのだ。それを戦争すれば人々が苦しまなければならない。そんなことは流民の幸福を願う私としてはできない」 そういって土地を去った。領民たちは大王の徳を慕って、故地を捨てて王とともに新しい国を建国した、というのである。二は、先祖伝来の国土を死守することだが、それには人民に文公とともに死ぬという気概がなければならない。それには仁政を行って、人民が死んでも悔いぬというほど主君を慕っていなければならない。いずれにせよ、仁政を行うことが大切だということになるが、この2つの中からどちらかを選択せよというのが孟子の答えである。
大王は殷の末の人である。周の初めに諸侯国は1000あまりあったというが、いずれも方千里か百里(一里は約500メートル)といった程度のもので、これが黄河流域を中心に散在していた。国都とその郊外といった、都市国家的なものに過ぎなかった。殷でもこの状況は大差ないはずだ。だから国を奪われても、他国を侵さずに引っ越す余地があったわけである。が、その後、強国は小国を侵略併呑して国土を広め、戦国になると中国全体が7つの大国といくつかの小国という状態になっていた。つまり都市国家的規模から領土国家に発展していたのである。こうなると、逃げるといっても、斉の領土か楚の領土に行くしかないことになる。孟子はこの歴史の変化を全然勘定に入れていないのである。
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