夫と実子を亡くした北白川宮能久親王妃富子
能久親王は戊辰戦争において輪王寺宮公現親王と称し、旧幕府側に担がれたことがある。結局敗北し、以後、屈折した生涯を送った。維新後、能久王となって伏見宮家に復するが1870年にベルリンに留学し、ドイツ貴族の娘と婚約する騒ぎまで起こす。これも叶わず帰国し、陸軍軍人として日清戦争に従軍、講和後に台湾接収に出征する。しかし、悪天候の悪路などもあってマラリアに感染、軍医は静養を進言したが、親王はこれを聞かずさらに進軍し台南を占領するも、明治28年10月に病死した。そして大正12年(1923年)、実子の成久王をパリの自動車事故で亡くしてしまうのである。成久王37歳、富子大妃62歳であった。
明治19年10月、小松宮彰仁親王が、およそ1年の予定で軍事視察のため頼子妃とともに欧州に派遣され、アメリカを経て、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、イタリア諸国を訪問した。これが近代皇族の妃はじめての洋行であった。しかし、この妃殿下の海外での行状は明治天皇の顰蹙を買う。西洋文明に眩惑されて宝石や衣類を漁りまくったからである。このため、明治22年に有栖川宮威仁親王が慰子妃を同伴して、訪欧の旅に出ようと許可を申請した時、明治天皇は皇族妃の渡航に首肯せず、有栖川宮夫妻は自費で出港することとなった。慰子妃の実家で資産家の加賀前田家が旅費を出し、前田利嗣侯爵と朗子夫人も同行したのである。頼子妃が悪しき前例を残してしまった結果であった。明治42年、梨本宮伊都子が単身で欧州に向かう。資金は宮内省から5万円、実家の鍋島家から3万円、梨本宮家から2万円が提供された。長い船旅を経て、ようやく3月にフランスに着いた伊都子は「いなかもの」のように西洋文明に驚いてばかりいた。「はじめて欧州に足を踏み入れた嬉しさ。キョロキョロしてをる」「アーーこれが巴里であるかと目をパチパチしてながめる」などと旅の日記に書いている。伊都子がパリで最初にしたことは、デパートめぐりと買い物であった。日本では何でもあるデパートは三越だけであったから、巴里にきてみるとルーブル・ボンマルシェー等、大きなもので、毎日の様にかよひ、色々買い物する。又、仕立屋はレッドフェルムがいきな上等の仕立屋で、コスチュームを誂へる。又、ワレス・ウォルト等にも仕立物をたのむ。パレーロワイヤルといふ所は中店の様な店がならんでをる所で、昔から名高いと見え、巴里に行った人々はよくここのはなしをしてをったから、一度みて置度、見物に行く。なるほど、ほしいものばかりで、ハンカチ・指輪など買ってかへる。
加賀前田家、鍋島家のお嬢様でも民なのか…。
皇太子裕仁親王の妃選びには、皇后美子(昭憲皇太后)が熱心で久邇宮良子女王を意中においていたといわれる。しかし、大正3年(1914年)に美子が亡くなると、皇后節子(貞明皇后)が改めてお妃選びに乗り出し、学習院女学部に足繁く行啓し、年頃の娘たちの立居振舞などをつぶさに観察していたのである。結局、最終には一条朝子、梨本宮方子、久邇宮良子の3人に絞られたと言われるのであるが、従来五摂家から妃を迎えることが多く、当初は一条家の朝子が有力と見られていた。朝子が候補から外れた理由には、「血縁的に近すぎる」ことが指摘されている。しかし、確かに朝子の叔母は皇后美子(昭憲皇太后)であるが、美子には実子がなく裕仁親王との血縁関係はないのでいささか不思議な気はする。むしろ九条家出身の節子が同じ五摂家の一条家を敬遠したという理由の方が納得できそうである。梨本宮方子については「石女」という中傷がされたが、後に2人の男の子を生んでいるし、結婚前に「石女」と判ることは当時の医学では考えられないので、これも不思議な理由である。
華族女学校 学習院の変遷
学習院の名称は幕末に京都御所内にもうけられた公卿の学校が由来であるが、同校は後に大学寮と名を改め、皇学所を合併して京都府立中学校となっており、1877年に開校した華族学校としての学習院とは系統を異にする。明治10年開校の学習院は、イギリスの貴族学校を規範として、華族子弟のため、新時代の教育機関として設置されたのであった。学習院は当初は華族同族結社とも言える華族会館が管轄する華族の勉強会から発展し、のちに文部省に移管され、明治17年には宮内省所轄の官立学校となる。
琴を売る
戦争が終わっても梨本宮伊都子妃の受難は終わらなかった。東京にいると嫌な思いをするであろうとの判断で、伊豆山の別荘に避難したが、不在中の荷物の盗難が心配で、詰所の縁の下に隠したりした。その後連合国総司令部から宮内省を通して全財産の調査が命ぜられ、土地や家屋の坪数や価格を書き出した。また宝石類なども調べ、三井信託に預けた物は宮内省に保管することとなった。ところが宮内省に預けても総司令部に取られてしまう恐れがあるので、全部は渡さないこととした。昭和21年、宝石、別邸、軸物、屏風などが売られていった。闇などで成金となった人々が買いたたいていったようで、伊都子はあまり好意的な感じを抱かなかった。「あれは私は大嫌い」「癪にさわる。いまにバチがあたる」などと記している。子供の頃からの愛用の琴が3000円の根がつき、伊都子は「あまり安くつけたらやめる」と意地を見せている。
皇籍離脱
新憲法が公布されようとするさなかの1946年、梨本宮家はじめ直宮以外の11家の皇族たちは参内し、天皇から皇籍離脱を伝えられた。11宮家とは、東伏見宮、伏見宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮、閑院宮、山階宮であり、これらの宮家はもともと華族に列するはずであったが、特例で宮家を設置し、皇族となっていたのである。