スミスの言う「見えざる手」とは、市場における価格の需給調整作用のことであるのは言うまでもない。スミスの文章を現代的に言い換えるならば、市場に参加している売り手も書いても市場で成立している価格を与件としながら、自分の利益のみを考慮して商品の供給量あるいは需要量を決定している限り、価格の需給調整作用によって市場は自動的に需給を等しくする均衡状態に到達し、しかもその均衡状態においては経済全体の資源の効率的配分が達成されていると言うのである。実際、「見えざる手」の働きの発見こそ、経済学を経済学として成立させたのであり、その後の経済学の「発展」と言われているものの多くの部分は、この「見えざる手」の働きに関する分析を、あるいは一般化し、あるいは精緻化することにあったといっても言い過ぎではなかろう。
「不均衡動学」の試みは、「見えざる手」を「見る」ことから出発する。「見えざる手」という比喩によって描かれているのは市場における価格の需給調整機構である。しかし一体価格そのものはどのように形成されるのであろうか。いわゆる需給の法則は超過需要があれば価格が上昇し、超過供給があれば価格が下落すると主張している。しかし、こういう価格の動きは一体誰の行動の結果なのであろうか。実際完全競争といわれる伝統的な仮定の下では、売り手も買い手も価格を与件として行動しているから、結局市場には価格を上下させる人間は誰もいないと言う逆説が生じる。しかし、市場で価格が実際に上下するならばそれは市場において実際に取引に携わっている誰かが上下させているのである。市場は従って完全競争的ではありえず、不完全競争的な様相を帯びざるを得ない。そして、ひとたび不完全競争の世界に入ると、経済の中で市場行動を行っている人々の間の相互連関は、より密接にそしてより複雑になる。我々の生きている貨幣経済では、供給は自ら需要を作り出すというセイの法則は成立しえず、総需要と総供給は常に乖離する可能性を持っている。いや、市場経済の発展そのものが、貨幣が可能とする売りと買いの時間的、空間的ずれによって可能となったのである。したがって、もはや「見えざる手」は働いていない。いや、そもそもはじめから「見えざる手」など存在していなかったのだ。逆に、伸縮的な価格および賃金の下では、貨幣経済は絶えず累積的デフレあるいはインフレの危機にさらされた不安定な性格を持っているのである。


個人が自らの利益の向上をはかって、それぞれ目的合理的に行動することが、社会全体にとっても合理的な結果をもたらすと言うこの命題は、アダム・スミス以来の伝統的な経済学における基本原理をなしている。私の「不均衡動学」という本の一つの目的は、アダム・スミスから合理的期待形成学派までの伝統的経済学を支配してきた、個人「合理性」即社会「合理性」というこの基本原理が、実はすべての価格調整が市場のせり人によって中央集権的になされていると言う暗黙の仮定、いや虚構に全面的に依存していることを示すことにあった。代わりに、市場せり人を追放して、価格が現実に市場に参加している企業によって分権的に決定されていると言う理論的枠組みを組み立てると、その中では、個人「合理性」の全面的な展開は逆に社会「非合理性」に多くの場合帰結すること、さらには、社会「合理性」を一定程度確保するためには個人「合理性」が全面的には展開しないような何らかの経済「外」的要因の存在が必要となることが明らかになった。そのために格好に材料を提供してくれるのが、ゲームの理論において「囚人のジレンマ」と呼ばれている社会的状況である。
「どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはりえない」という有名な文章ではじまる『資本論』の中のマルクスのセイ法則批判は、貨幣経済における商品の流通は、貨幣を単なる媒介とする生産物同士の間の交換には単純に還元できないという認識に基づいていた。たしかに物々交換においては、ある生産物を売ることは他の生産物を同時に買うことであり、したがってそこではセイの法則が成立する。だが、貨幣経済では、商品は貨幣によって買われ、貨幣と引き換えに売られる。しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということではない。貨幣とは再び市場に現れるのが早かろうが遅かろうが流通可能な形態を保持している「商品」なのである。したがって供給は必ずしも自らの需要を作り出さず、セイの法則は成立しえない。それゆえ、貨幣経済では、市場間・産業間の相対的過不足だけでなく、貨幣以外のすべての商品の市場において同時に供給過剰(あるいは供給不足)が発生してしまうことを妨げるものは何も無い。マルクスはまさにこの事実に「恐慌の可能性」を見出したのである。貨幣によるこのような売りと買いの分解こそ、物々交換の「時間的、場所的、個人的制限を破る」ものであることをマルクスは指摘する。すなわち、恐慌の可能性とは、同時に貨幣経済その者の全般的展開の可能性にほかならない。貨幣経済とはその生誕から、恐慌の可能性を内に宿していたと言うわけである。
我々が関心を持っているのは、まずはじめに、貨幣による財の需要と貨幣に対する財の供給とで構成される財同士の窮極的な交換の中間の連鎖において何が起こるかなのである。貨幣理論がその名にふさわしいものであがるならば、それは、与えられた条件の下で、財に対する貨幣的あるいは金銭的需要が、なぜそしてどのように財の供給を上回ったり下回ったりするのか明らかにしなければならない。
 ベーム=バヴェルクの強い影響下にあったヴィクセルが、財に対する貨幣的需要全体と財の供給全体との間の相対関係を説明する変数として選んだのは、当然、利子率であった。常によき新古典派経済学者であろうとしたヴィクセルは、アダム・スミスにならって、利子率に関して一組の対立概念を導入した。自然利子率と市場利子率である。自然利子率とは、投資と貯蓄を事前的な意味で均衡させる利子率の水準で、新しく生産された資本財の予想収益率にほぼ対応するものである。一方、市場利子率とは日々の貸付資金市場で成立する利子率のことであるのはいうまでもない。
市場利子率が自然利子率を上回っている状況を考えよう。それは銀行の信用創造の緊縮化やその他の形態での金融引締めによる市場利子率の上昇によるものか、サプライショックや企業家の単なる悲観による自然利子率の下落によるものかはこの際問わない。重要なのは、貨幣経済においては2つの利子率は常に乖離する可能性を持っていることである。さて、市場利子率が自然利子率より相対的に高くなると、当然、企業の投資意欲は削減され、資本財市場に供給過剰が生じ、資本財の価格が下落をはじめる。これはまず資本財産業における労働その他の生産要素の需要を減少させ、産業間の波及効果を通じて、生産要素市場全般に供給過剰を生み出すことによって、貨幣賃金をはじめとする生産要素価格をも下落させる。このような生産要素価格の下落は、人々は名目所得の下落を意味し、それは消費財に対する貨幣的需要を削減する。消費財の市場にも供給過剰が発生し、その価格も下落をはじめる。このような資本財、生産要素、消費財の市場すべてに供給過剰をもたらし、それらの価格を順繰りに下落させる過程は、1回限りではなく「累積的」だとヴィクセルは言う。なぜならば、市場利子率が自然利子率を上回っている限り、この仮定が一巡すると経済は価格の名目水準の全般的下落意外は出発点とほぼ同じ状況に置かれていることになり、再び、資本財、生産要素、消費財と、価格をさらに下落させることになる。
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