エキゾ予想。日本における電力自由化、電力の市場化は、日本に第二のエンロンを生むきっかけになるだろう。というわけで、今は亡きエンロンを振り返ることにしましょう。
ガス事業はかつてはかつては石油事業の継子だった。オイルマンたちは当初、天然ガスは石油を得るために廃棄しなければならない厄介者と見なしていた。天然ガスが急にもてはやされるようになったのは、二度の大戦の間だった。連邦政府は天然ガス業界の発展を公益を考えた。クリーンな燃料であり、増大する輸入石油への依存を低下させるからだ。当初、ガス市場は他の規制公益事業と変わるところがなかった。採掘業者は州間パイプライン業者に天然ガスを適正価格で販売し、それをパイプライン会社が各地域の配ガス会社に適正価格で転売する。パイプライン会社にとってはうまみのある安定した事業で、年間収入は確定的だった
ガス輸送を値付けするのは簡単だが、しかしガス田を見つけるのは簡単ではなかった。試掘は今も昔も酷く金がかかり、成功率も低かったので採掘業者のその損失をついぞ適切に埋められなかった。やがて採掘業者はガス田の開発をやめてしまい、すると市場は停滞し、学校や病院などではガス不足をきたすようになった。1970年代には、政策決定者達はガス市場の分割に躍起になった。競争原理による市場の活性化を図るためである。これは基本的に、ガス開発と売買の方法を一から作り直すことを意味していた。ここにケン・レイがいた。政府ではなく市場がガスの値段を決定すれば機会が開け、誰にとっても大きなメリットがあると、彼は信じていた。
ケン・レイ
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1984年には、規制緩和されたガス市場は乱戦に陥っていた。当時コースタル・コーポレーションという名の石油とガスのコングロマリットを率いていたオスカー・ワイアットは、人望の厚かったロバート・へリングを亡くして混乱に陥っていたヒューストン天然ガス(HNG)に13億ドルの買収攻勢をかけた。HNGはワイアットに4200万ドル払って買収を退けたが、取締役会は危うく会社を失いかけた老社長に不満を持った。規制緩和がもたらした新たな経営環境では、またぞろ買収攻勢をかけられる恐れがあった。それだけに彼らは若くてアグレッシブな、会社を守れるリーダーシップを求めていた。そこでケン・レイに白羽の矢が立った。トランスコ社がワイアットの買収を交わす際に、八面六臂の活躍を見せたからである。


当時、HNGはインターノースと言うオマハの会社と国内最大のパイプライン会社の座を競っていた。インターノースもまた、乗っ取り屋のアーウィン・ジェイコブスの買収攻勢を受けていた。同社のCEOサム・セグナーはHNGと合併して騒ぎに終止符を打とうとし、1株71ドルを提示した。HNGの経営陣は驚いた。当時HNGの株価は25ドル程度だったからである。会社の本拠地もヒューストンではなくオマハに移すと約束した。取締役会はレイを支持した。6ヶ月の間に、HNGはインターノースに売却され、レイの誓いとは裏腹に、ヒューストンに新会社エンロンが誕生した。
エンロンは多額の負債を背負って生まれた。インターノースがHNG株に払った高額のプレミアムのためでもあったし、レイがHNGの拡張政策のために借金を増やしていたためもあった。会社の年金基金も、(乗っ取り屋の)アーウィン・ジェイコブスを厄介払いするために2億3000万ドルも支払っていた。まもなくレイは、ドレクセル・バーナムのジャンクボンドの帝王マイケル・ミルケンのもとに行き、会社を存続させるための資金を調達するようになった。問題はこれに留まらなかった。1984年、FERC(連邦エネルギー規制委員会)は一連の命令を出して、パイプライン会社間の競争を促すようになった。パイプライン会社の顧客は主に大規模な配ガス会社だったが、彼らは古い契約から解放された。今や配ガス会社は誰からガスを買ってもよく、買い付けたガスを、サプライヤーとしてお払い箱にした当のパイプライン会社の施設を使って選べるようになった。ほどなくして1982年に10%~20%の自己資本利益率を上げていた主要パイプライン会社は、こぞってわずかな利益もしくは赤字決算という憂き目を見るようになった。パイプライン会社の格付けはジャンク債扱いになった。
レイはうまくいっていたガスや石油関連の子会社を売って現金を調達しようとしたが、1987年の証券市場暴落に足を取られた。またこの頃、ニューヨーク州ワルハラにあった原油トレーディングの問題も発覚した。ワルハラのトレーディング・グループはインターノースから受け継いだものだった。贅沢なオフィスを構えてはいたが多額の収益を上げていたので、合併後もそれまでどおり事業を続けていた。確かにいくつか問題の徴候が見えていた-アーサー・アンダーセンは1985年の時点で問題を指摘し、社内監査からも指摘があった-が、会社はなおざりにしていた。ある監査人はこう記している。「ワルハラの事業はすべて架空である。ここには高給取りがたくさんいて、一見立派に仕事をしているように見えるが、これはまっとうな事業ではない。すべて見せかけであり、ここは芝居小屋である。」
テキサス州テキサスシティでの、会社の初めての大型発電所稼動に漕ぎ着けたのはウィングの力によるところが大きかったし、英国ティーサイドでのもっと大きな建設計画をまとめ上げたのも彼だった。80年代後半、マーガレット・サッチャーは、英国の電力市場の規制緩和を試みた。全く実績の無いヒューストンの自社を、規模も内容も前例が無い発電所計画に踏み切らせた。それは世界最大の天然ガス火力発電所だった。蒸気と電力の両方を生み出すこの発電所は、英国の発電量の4%を担った。ティーサイドはエンロンにとって社運をかけた計画だった。もし1875メガワットという巨大規模のこの発電所の建設に失敗したら、世界的に信用を失う。成功したら一夜にして世界的プレーヤーになれる。ティーサイドを実現させるために、エンロンは膨大な量の北海ガスを買い付ける契約を結ばなければならなかったが、これは当時、小さなコストに思われたし、実際その時にはそのとおりだった。開発費10億ドルのティーサイドは、歓喜の声で迎えられ、エンロンに2億ドル以上の利益をもたらし、大胆で革新的な会社という評価を世界中に浸透させた。ウィングは革新的な男だったが、なかでも建設業界から「建設集収益の計上」という概念を導入したことは特筆に価する。それまで標準的だった発電所の稼動後にではなく、契約締結の時点で利益を計上する会計処理方法である。ウィングはさらにレイを説得し、開発プロジェクトの契約締結の時点で、関わった幹部達が報酬を得られるようにした。ティーサイドの順現在価値に基づいて1100万ドルの報酬をせしめたのである。また、この報酬の支払いも、発電所の稼動時ではなく、契約締結の段階で行われた。
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