キモ面対決、さすがの私もコイツにだけは負けた。
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※プーチン大統領とラスプーチンは一切関係がありません。
ロシア皇帝(ツァーリ)一家と親密だった聖者グリゴーリー・ラスプーチンは、1916年にサンクト・ペテルブルクのある宮殿の地下室で殺害された。大勢いた彼の敵にとって、彼は邪悪の権化だった。殺されたのは彼が宮廷の影の実力者で、その悪影響が帝政の崩壊につながるとみなされていたからである。それから数週間のうちに300年続いたロマノフ王朝は消滅し、それとともに帝政下の生活様式も一掃された。ラスプーチンの全盛時代には、彼のことを公に取り沙汰することは検閲によって禁じられていたが、新聞の編集者たちは、ラスプーチンのことを書けば確実に販売部数が伸びたから、高い罰金を喜んで払った。彼の死後、著名政治家、法衣を剥がされた聖職者、秘密警察の役人、女性信奉者など、彼を知っていた人たちが書いた回想録はちょっとしたブームになった。彼を殺害したユスーポフ公は、事件の詳細を描いたベストセラー本と、ラスプーチンの映画を製作したハリウッドのプロディーサーを名誉毀損で訴えたことで、ボリシェヴィキに没収された財産の一部をとり戻すことができた。彼が死んだ地下室は観光名所にもなっている。


その殺人事件の数時間前、ペトログラードは激しい雪だった。1916年の秋が深まるにつれ、荒涼として果てしのない戦争を反映するかのような灰色の空が、日の短さも手伝って、首都の活気を奪っていた。軍需工場から出る鼻を突く薬品の匂いの充満した風が、ネヴァ川沿いの埠頭を吹き抜けていく。ドイツ軍占領地から逃げてきた家族はそちこちの駅のそばの仮設住宅に大勢ひしめきあっていた。彼等の悲嘆の声が空に舞った。チフスや単なる過労で、彼の生命は「風花のように散った」。街灯の3個に2個は明かりが灯っていなかった。歩道は久しく清掃されていない。塵芥のあふれるその歩道には、朝の4時から貧しい身なりの男、おしゃべりに余念のない女地がパンを求めて長い行列を作っていた。食糧を求める人たちの行列、貴族のサロン、庶民の下宿屋など、いたるところで「ラスプーチン、ラスプーチン、ラスプーチン」という名ばかりが、岸辺に砕け散る波の音のようにはじけては消えた。
グリゴーリー・ラスプーチンは、遠いシベリアの湿原からやってきた色の浅黒い農夫(ムジーク)だった。少年時代の彼は動物のように野糞を垂れ、成人してからもスープは椀からすすり、魚は手づかみで食べ、強烈な鼻を突く体臭を発散させていた。彼は自分の名前すら書けなかった。それなのに皇后に顔がきき、彼女と性的関係まであるというもっぱらの噂だった。その皇后と組んで、最有力の国家官僚を任命したり、媚びへつらう「公爵夫人や伯爵夫人、有名女優、上流社会の人たち」を下男下女よりぞんざいに扱った。
「街中では皇帝一家の卑猥なゴシップで持ちきりだった」と秘密警察(オフラーナ)のある密偵は書いている。裸の皇后の乳首から飛び出したラスプーチンが黒雲のような髪の毛と髭の間から狂気じみた目つきでロシアを上からにらんでいるどぎつい漫画が出回った。賭博場では、スペードの王様の皇帝の顔をラスプーチンと入れ替えたトランプが使われた。片手にウォトカの瓶、もう一方の手には幼児期リスト風の裸の皇帝を抱えたラスプーチンが描かれ、ブーツをはいた彼の足元には地獄の火がめらめらと燃え、頭上には黒い絹のストッキングをはいた天子の羽根を持つ裸女を配したイコン風の漫画もあった。社交界の女性の一団に囲まれた彼の写真は何千枚も焼き増しされた。有力政治家ミハイール・ロジャンコは「そのなかに上流社会出身の信奉者が大勢いることに気がつき」、ぞっとしたという。彼の手許には「この厚かましい放蕩者に娘が辱めを受けたという母親からの手紙が山積みしていた」 この国ではもはや嘘と真実の区別がつかなくなっていた。それはこの国全体が大きな精神病院のようなものになってしまっていたからだと赤毛の詩人ジナイダ・ギッピウスは思った。第一次世界大戦が始まるとすぐ、首都の名はサンクト・ペテルブルクからドイツ風ではないペトログラードに帰られていたが、ギッピウスはそれを「悪魔の街(チェルトグラード)」と呼んだ。ロシア軍は対オーストリア戦では善戦したものの、ドイツ軍との戦いでは、同盟国フランスや英国以上に血を流していた。人々は戦争を忘れようとして、「放置された死体でいっぱいの塹壕の脇で『ラスト・タンゴ』を踊っていた。胸を引き裂くような官能的なタンゴは「ワインと金と愛なき性向によって麻痺させられ、無感覚のまま迎えた眠れない夜によってかき乱された」年への市の行進曲に変わっていたとアレクセイ・トルストイは書いている。
元鞭身派の信者から大きなかがり火の炎が天を衝き、そのまわりをツバメが飛び交う祭儀の模様を聞いた教会関係者たちはゾッとした。祭儀がたけなわになると「舵取り」が女性達を「芳香が立ちこめる煙の中で」襲った。それは罪にならなかった。祭儀は歌で始まり、はじめは1人の男性が歌に合わせて足をリズミカルに踏み鳴らす。女性がそれに加わる。2人が性的に興奮してくると、ほかの者は、長衣にまとった腕を奇妙な白い鳥のように波打たせる。すると、「ダビデの情熱」が喚起される。彼らは「肉欲を克服せよ!」と叫びながら互いに鞭でたたき始める。全員がヒステリー状態になったところで、「舵取り」が1人の女を襲う。すると「全員が年齢や血縁にお構い無しに乱交に及ぶ」。真面目で徹底したプロの警察官だったスピリドーヴィチはラスプーチンが放浪生活をしていた当時、少なくともロシアの30の県に鞭身派の共同体があったと推定していた。
上流階級や金持ちはラスプーチンを爪弾きしなかった。彼のほうも放浪時代と同様、権威というものに無関心だった。彼らは貧乏人よりずっと扱いやすかった。とりわけ宗教心が厚かったり、彼の働きかけを必要とする憂鬱症にかかっている人たちはそうだった。彼らはめったに女性達はほとんど一度も農民とゆっくり話をしたことなどなかった。心の問題を話題にしたこともなかった。だがロシア人の10人に9人は農民であった。上流階級の人たちにとって、信心深いロシア農民のイメージは、愛国的と行っても良いくらいセンチメンタルなもので、慈悲心を持って暖かく保護してやれば文句を言わない、目下の者だった。自分の出自に大変な誇りを持ち、生涯農民服のままで、立ち振る舞いも農民そのものだったラスプーチンは、その理想に肉付けした。「彼の生来粗野な性格を、彼等のそのような下層階級に属する人間の素朴さにすぎないと感じた。彼らはこうした素朴な人間の『純粋さ』にすっかり心を惹かれたのである」と皇室の家庭教師ジリャールは書いている。ラスプーチンは、救済を求めずに入られない衝動、神の啓示を受けるに至る葛藤など、放浪の途上、自分の心に浮かんだことを聖職者達に話した。商家の奥さん達は、彼を魅惑的、官能的な人物と感じた。「人目を引く態度、素朴だが想像力を書き立てる話し方、射るような目つき、強烈な個性、それより何より、、この長老は周りの人間に催眠術をかける天賦の才を持っているように見えた」。ラスプーチンは鞭身派の「舵取り」がもつ、巧みに演出されたカリスマ性を彼女達に上手に利用した。20歳と16歳の娘を持つカザンの身分のある婦人から『スヴォボーダ』誌にこんな手紙が寄せられている。「グリゴーリー・ラスプーチンが公衆浴場から私の二人の娘と一緒に出てきたのです。母親なら私が恐怖で気が狂いそうになった気持ちを分かっていただけるはずです。私はその場に立ち止まり、言葉もありませんでした。黙って立っているだけで精一杯でした。『救済の真の光がもう、輝きだしている』と長老は言われました」。公衆浴場での救済、それは口説き落としだった。
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