中国破綻論
現実の中国経済はまるで2つに仕切られた中華四川風の火鍋のようである。唐芥子の赤に染まる辣スープの部には膨大な余剰人員と赤字を抱えた国有企業、GDPの5割にも達するかもしれない巨額の不良債権問題を抱えた金融機関が、白いスープの部では外資や私営企業がひしめき、別々に煮えたぎる。高度成長を続けているのに、膨大な数の潜在失業者は減らず、貸し出しが増えるたびに新たに不良債権が発生する。一人当たりGDPは最も豊かな上海(2002年4911ドル)と農村部平均(299ドル)とでは16倍以上もある。平等を原則とする社会主義イデオロギーの看板の元に荒っぽい資本主義が幅を利かせる。金融当局を引き締めようとしても企業も銀行も言うこともきかない。人民と国家を指導するはずの共産党幹部が汚職・腐敗にまみれる。


中国政治思想の原点である韓非子は「ム(わたくし)に背く、これを公と請う」と定義している。「私」の禾は稲で、ムは耕作者である。「公」が耕作者の上に大きくのしかかり、搾取する。中国共産党が私有制を保護することで、「私」を重視する本来の中国に回帰させた。中国語は古来、政治的な柔軟性に飛んでいる。鄧小平は、「社会主義」「市場経済」という、2つの相異なる凝縮した概念をそのままつなぎ合わせた「一国二制度」で香港を飲み込んだ。社会主義経済の根幹である改革開放路線とは、人民元で表される国内での生産物やサービスをアメリカ・ドルと交換し、そのドルを再び人民元に還元して中国国内経済に流通させて生産と投資を拡大させる。また日米欧や華僑が運んでくるドル資産を確保するのと引き換えに人民元で価値が表される労働・役務、土地を提供し、より多くの人民元を創出しドルに転換する仕組みのことである。94年以降、「管理変動相場制」をとった人民元をアメリカ・ドルと安定した交換レートで結びつけることで外国から直接投資は年々順調に増え、同時に13億人の市場の価値を高める。無限にも見える8億人の労働の源泉から生み出される製品を地球全体にいきわたらせる。
こうした中国の好循環は人民元をドル相場に連動させ、対ドル交換レートを一定の水準に固定しているからこそ安定する。もしも人民元が短期間で大きく変動するようなことがあると、外国企業は中国への長期投資に慎重にならざるを得ない。人民元の対ドル・レートが大幅に上昇すれば、ドル建ての輸出価格は上昇し、輸出企業は打撃を受ける。国有企業は不良債務を増やし、国有銀行の不良債権処理が難しくなる。現行の対ドル・ペッグ方式は中国成功の方程式なのである。
元の「顔」はなぜ毛沢東なのか 人民元の歴史
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人民元は中国共産党による中国統一プロセスを体現する通貨である。抗日戦争期の解放区紙幣を前身とし、国民党との内戦期に誕生した。20年間にもわたる戦乱期に乱立・乱発されていた通貨を統合し、通貨価値、つまり物価を安定させた共産党の誇りである。
国民党による通貨統合と日本の侵略
1928年、国民党は北伐を一段落させ、経済再建のため全国経済会議、財政会議を開いてまとまった政策を打ち出した。ところが翌年の29年10月24日、ニューヨーク市場の「暗黒の木曜日」をきっかけに大恐慌が勃発し、世界の金本位制の崩壊とともに、国民党政府が受け継いだ中国伝統の銀本位制は崩壊の危機にさらされた。銀が大量にアメリカに流出し、中国はデフレに見舞われた。35年11月に財政責任者の宋子文らは銀貨流通停止と全国統一通貨「法幣」発行に踏み切った。中国銀行、中央銀行、交通銀行と中国農民銀行の政府系4銀行が発行券を法定通貨、法幣とした。法幣は銀との交換を禁じたが、外かとの自由無制限な兌換を保障した紙幣である。いわゆる管理通貨制に移行したわけだが、中国史上では初めて紙幣による統一通貨制度をスタートさせた。この通貨改革を後押ししたのは英米である。英国人財政専門家リース・ロスが国民政府の顧問となって実現した。中国の通貨改革に日本政府は協力を拒んだ。32年に「満州国」を建国した日本は、満州と地続きの華北を国民党支配から切り離す北支分離工作を展開しており、中国の通貨統一事業は邪魔だった。蒋介石に会う前に日本に立ち寄ったリース・ロスは、日本と共同で対中借款供与し通貨改革を支援する英国政府案を提示したが、日本は拒否した。
法幣は精巧にできていた。印刷は英国とアメリカがそれぞれ請け負った。英国政府は国王命令を出して在中国英国人居住者に対して法幣改革への全面協力を義務付け、香港上海銀行など英国系銀行にも銀の引渡しを命令した。これを見て他の米系金融機関も追随、協力するようになった。アメリカは35年11月、米中銀協定を締結し、中国は回収した銀をアメリカに売却して、米ドル、英ポンドなど外貨による通貨安定基金の原資を得た。つまり通貨面でのアメリカ、ブリテン、チャイナのABC連合がここに成立した。世界の流れが中国法幣改革を支持し、法幣が定着してきたので、やむなく中国で営業する日経金融機関も銀の提供と法幣の受け入れの検討をしていた矢先の37年7月7日、北京郊外の盧溝橋での一発の銃声をきっかけに日中が全面戦争に突入した。中国側の国民党、共産党、日本の3つ巴の通貨戦争の始まりでもあった。
37年7月以降、日本軍が占領した華北には「華北連合銀行」を、上海でも「中華民国維新政府」が「華興商業銀行」を設立し、法幣を排除し、独自通貨を発行した。華中・華南の占領地には、「軍用手票」を発行して、流した。ところが華北連合銀行券は資本力が弱くて、投じしっかりと英ポンドと米ドルのサポートを受けていた国民党の法幣にはかなわない。華興商業銀行券も上海の一部でしか使えない。法幣駆逐は挫折した。このときは悪貨が良貨に駆逐されたのである。
一方、蒋介石国民党から分かれた対日和平派の南京の汪兆銘政権は、39年5月に「儲備銀行」を設立して「儲備券」を発行し、連合銀行券とともに普及を図り、法幣の排除に努めたが、苦戦した。儲備券は乱発され、価値は下落し、荒縄で1メートルほどの厚さに束ねて使われていたという。日本軍は結局、より手っ取り早い手段である軍票による現地からの食糧や資材の強制調達、富の収奪に走った。軍票や儲備券は、広大な中国の占領地点、つまり占領した都市と鉄道沿線以外では見向きもされない。一方、黄土高原の奥深い、侠西省延安に拠点を置く中国共産党は、着実に解放区を広げていた。解放区ごとに辺区銀行と呼ばれる発券銀行を設立して辺区券(辺幣)を発行。解放区の名前を取って「華中銀行」「東北銀行」「北海銀行」「冀南銀行」「晋祭冀辺区銀行」などの名の銀行がお札を出した。辺区は日本軍占領地の広大な後背地につくられた抗日根拠地で日本系の通貨の普及を阻んだ。共産党は辺幣により日本系通貨を回収し、その使用を禁じ、解放区内の通貨を統一し、物資の移動を制限した。共産党は日本軍よりも高い値段をつけて購入するので、日本軍支配地域で共産党嫌いだった富裕層を含め、次第にシンパを増やせた。日本は通貨戦争で苦戦が続き、物資調達のために軍部は前線をさらに拡大していく。アメリカによる中国援助ルート切断のための雲南ビルマルート作戦、さらにインドシナ進駐、最後には対米開戦に突き進んだ。真珠湾攻撃や対米開戦の原因についての見方は様々あるが、もともとは中国大陸へ侵略がすべてだった。その大陸でのもう一つの戦争、つまり対中英米の通貨戦争で日本が勝てなかったことも大きな要因なのである。日本軍は軍票や儲備券の大量増刷でインフレ要因をばらまき、「大東亜共栄圏」内の住民生活も言語に絶するような苦境に追い込んだ。もう一つの犯罪行為は、法幣や辺区券(辺幣)の偽造である。しかし国民党政府も法幣を大量発行しており、通貨価値は下がり続けていた。インフレにより、法幣の忙しかった国民政府は、本物そっくりの偽札をあえて取り締まらなかったとも言われる。偽札による経済謀略の効果については疑問視する向きも多いが、法幣の乱発と重なって日中戦争後の中国経済を大混乱に落としいれ、国民党から民心を離反させる一因となったのである。共産党と国民党の競合地域では、辺幣と国民党政府発行の通貨「国幣」の両方が使われるようになった。そのどちらかがより広い範囲で使われ、価値が高いかは国共の勢力と人々の信頼度を示すバロメーターだった。その実力を競い合う最大の場は市である。
【国家創設の野望】
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