中国の中にあるソ連邦
毛沢東は1949年12月初めから、モスクワへの旅に出た。北京からシベリア鉄道での旅である。その途中、毛沢東一行は東北地方の拠点都市である遼寧省瀋陽市に立ち寄った。瀋陽は「東北王」といわれた高崗東北地区自治政府主席の本拠地だった。毛沢東らはそこで不思議な光景を目にする。中国のどこでも見られるはずの毛沢東の像や画がないのである。その代わりにスターリンの像や画が街のそこかしこに飾られていたり、立てられていたのである。スターリンの肖像画とともに多かったのは、何と高崗の像であった。「ここはどこの国だ」 毛沢東は思わずつぶやいた。不快な気持ちだった。高崗は毛沢東とは違いスターリンのお気に入りであったのだ。高崗は単身で「スターリンの代理人」としてのソ連高官と会っていたほどである。会議の内容は毛沢東ら中国共産党指導部の対ソ方針であり、党の内部情報あるいは対米方針であり、国共内戦に関する軍事作戦といった、いずれも当時の中国における最高機密情報といってよいだろう。いわば、高崗は中国共産党指導部内における「隠されたスターリンの代理人」「スターリンのスパイ」と言えるかもしれない。スターリンに会いに行くのに、スターリンのお気に入りである高崗を批判するわけには行かないだろう。当時東北における中国軍の最高責任者であった林虎将軍の2人は、のちに毛沢東の追い落としを図ったとして失脚する。高崗が粛清されたのはスターリンの死後だったこともあり、スターリンという重石がとれたことで毛沢東が意趣返しをしたとの見方もできよう。
期限30年の「中ソ友好同盟相互援助条約」は1950年2月14日、クレムリンで調印された。旧条約によりソ連が租借してきた旅順と大連の返還が決まった。旅順についてはソ連が日本と「平和条約」を締結するまで現状を維持し、ソ連軍部隊を残すことで秘密合意が成った。「歴史は我々に毛沢東主席のような傑出したマルキシストを送ってくれた。歴史に感謝しなければなりませんな。」 用心深いスターリンは、毛沢東を喜ばせたこの言葉の持つ重い意味を熟知し、公表させなかったのだろう。スターリンが毛沢東に対する祝辞を公開させなかったのは、スターリンの心の中で、中国との間で新条約を結んだことを悔やんでいたからである。なぜならば、ソ連がヤルタ会談や蒋介石の国民政府との間で結んだ中ソ条約によって実現した「太平洋への進出のための不凍港の獲得」が泡のように消えたからである。それが旅順、大連、そして長春鉄道の権益だ。中ソ条約の締結は、ソ連の対中政策のほか、ソ連の朝鮮半島政策にも大きな影響を与えた。スターリンは旅順、大連を手放したことで、それに代わる不凍港を手に入れる必要性にかられたからだ。スターリンはそれを朝鮮半島に求めた。結局この思惑が北朝鮮軍南侵という朝鮮戦争勃発の引き金を引くことに通じるのである。
金日成の具体的な韓国侵攻計画について、毛沢東は知らなかったばかりか、知ろうともしなかった。毛沢東は朝鮮半島で起こっていることについて、気にも留めていなかったのだ。中国と北朝鮮は1949年10月6日に外交関係を樹立した。10月1日の建国から5日目のことである。にもかかわらず、それから戦争が勃発した翌年の6月25日まで中国は平壌に大使館すら置いていなかった。毛沢東は北朝鮮が侵犯された場合には支援をすると約束したが、金日成はまったく当てにしていなかった。このように両国の関係はまったく外交関係の体をなしていなかった。
米国務省、米中央情報局(CIA)など米国政府機関の当時の報告によると、前線となる台湾の対岸の福建省には、40ミリ砲を積んでいた4000艘の木製のジャンクが「艦隊」を形成しており、中国人民解放軍将士約4万人から15万6千人が終結していたと予測。日本軍の零戦や米軍のC47輸送機、ミグなどソ連製の戦闘機なども約200機が配備されており、そのうち、ロシア人パイロットが操縦しているのは20機とみていた。毛沢東がスターリンに要請した戦闘機などは全部1214機で、上海や南京、蘇州などに空軍数個連隊を配置し、国民党軍に反撃を加えていた。周恩来とブルガーニンとの会談では中国に派遣されるソ連某空軍は「約3400人」とされていたが、実際に配備されたソ連軍のパイロットや地上の整備員など、ロシア人の数はざっと1500人だった。当時の状況としては、もはや台湾侵攻作戦の決行は目前だった。1950年は、結果として中国共産党と中国国民党の最後の決戦の年となり、毛沢東に朝鮮半島のことを考える時間は無かったのである。しかし6月25日に朝鮮戦争が勃発し、米軍は台湾海峡に空母を主力とする米太平洋艦隊を派遣した。もし、中国軍が台湾海峡を横断して台湾を攻撃しようとすれば、米太平洋艦隊の攻撃を受けることは必至だ。このため、中国軍は台湾海峡に侵攻できなくなった。つまり、毛沢東らが長時間かけて計画していた台湾侵攻作戦は事実上不可能となったのである。
> 私も毛沢東と立場を同じく、中国の半島のことを考えたりする時間が無い。日本では不思議なくらい”人気”wがある北朝鮮と韓国は、ソ連と中国と米国の都合による産物と分割統治であり、貴重な時間を使って考えたり、論じる前に、半島国家の創生主である国家について着眼するのが妥当と言えよう。
1950年10月、周恩来と林虎将軍をソ連に派遣した。ところが北朝鮮の危急存亡の時期にスターリンはモスクワを留守にしていた。ソ連有数の保養地、黒海沿岸のソチの別荘で休養していたのである。周恩来は11日早朝、国防省のブルガーニンらに付き添われて、モスクワから数百キロ離れたソチまで、空路ではるばるスターリンに会いにいったのである。その場でスターリンは毛沢東に再提案を行った。「金日成の中国への亡命及び、中国東北部における北朝鮮の亡命政権樹立構想」である。
1.スターリンはソ連が出兵できない理由として、ソ連は元々北朝鮮を支援する気は無かったと語った。ソ連軍はすでに北朝鮮から撤退したと発表しており、戦場にソ連軍が現れるわけにはいかないからだ。また米軍と直接対決することはできないからである。
2.スターリンは中国軍の参戦を主張した。中国が出兵すればソ連は武器と装備を提供する用意があると述べた。
3.周恩来は中国が出兵することの困難さを説いた。ようやく戦争が終わり、国家の再建が始まったばかりだ。このような時期に、再び戦争を始めるわけにはいかない。
4.周恩来は逆に提案した。もし中国が出兵しないのならば金日成に鴨緑江まで早く撤退するように伝え、主力部隊を中国領内で休養させて、再起を期させたらどうだろう。
毛沢東はこの提案に反対した。その理由として、
1.米軍が東北地区に攻め入る可能性と危険性が大きくなる。
2.ソ連が中ソ友好同盟相互援助条約をたてに、「中国の軍事作戦を支援する」として、ソ連の極東地区に駐留する80万人の軍隊を中国東北地区に派兵する口実にもなる。いったんソ連軍が中国領内に入れば撤退するまで、極めて煩わしいことになる。
3.同条約締結時に基本的に解決している東北部の長春鉄道の租借問題や、旅順、大連という中国内の2港の主権問題も白紙撤回される可能性もある。
毛沢東の脳裏には、東北地区自治政府主席だった高崗が、かつて「東北地区をソ連の17番目の共和国にして欲しい」と提案したことも警戒すべき材料として残っていた。
林虎は公の場で、「中国人民志願軍の総帥になりたくない。数百万の人口の朝鮮を助けるために、5億の人口を持つ中国を滅茶苦茶にしてしまうのは割に合わない。我が軍が蒋介石国民党軍と戦ったのは勝てるという自信があったからだが、米軍を打ち負かせるかどうかはなんともいえない。彼らには膨大な陸海空軍があり、原子爆弾を保有しており、強大な工業基盤を有している。追いつめると、相手は原子爆弾を落とすかもしれない。空軍機による大規模で狂気じみた爆撃を加えられたら我々はたまったものではない。したがって私は出兵に賛成しない。中国人民志願軍は参戦しないほうが良い。どうしても出兵したいなら朝鮮北部に兵を駐屯させ、情勢を見て戦わずにすむなら戦わないようにする。これが上策である。
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