戦況は一瞬にして変化した。1950年9月15日、米軍を中心とする国連軍がソウルの西方約20kmに位置する海辺の街、仁川への上陸作戦を敢行したからだ。マッカーサー将軍が乗る指令船「マウント・マッキンレー」をはじめ、上陸作戦部隊は総計261隻。北朝鮮軍にソウルはおろか、朝鮮半島の90%の都市を占拠され、朝鮮半島南端の釜山にまで追い込まれ、日本に司令部を移すことも検討されていた国連軍にとって、起死回生をかけた乾坤一擲の大勝負だった。結果的に仁川上陸の奇襲作戦は国連軍の大勝利となった。背後から虚を衝かれた北朝鮮軍は、それまでの連戦の疲れと武器弾薬や食糧などの補給が途絶えていたこともあって敗走に次ぐ敗走を重ねる。戦況は大きく変化した。


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 スターリンは形勢の逆転に焦りを禁じえなかった。劣勢を伝えられると間髪いれずに様々な手を打った。仁川上陸作戦から3日後の9月18日、スターリンは平壌に秘密の電報を打ち、
-金日成に、洛東江前線から北朝鮮人民軍4個師団をソウル近郊に回すように伝えろ。
平壌の防空計画のためにソ連空軍部隊を組織せよ。このため、ソ連極東部の沿岸地区及び港湾都市のウラジオストクから数機の空軍戦闘機とレーダー・防空部隊を平壌の飛行場に派遣せよ。
9月下旬には、ソ連軍総参謀本部長代理のM・V・ザハロフを長とするソ連軍特別軍事代表団を平壌に派遣、特別任務につかせた。特別任務とは「釜山防衛線を攻撃するのを止め、洛東江前線から数部隊を撤退させ、それらの部隊にソウルの東及び東北面を守備させること」 ザハロフはスターリンが最も信頼するソ連軍最高指導者の1人で、大祖国戦争(第二次世界大戦)における激戦カリーニングラード攻防戦やステップ、第二ウクライナ、ザバイカル戦線で前線部隊の参謀長を務めた切れ者だ。しかし、思ったように戦況が好転しないことに業を煮やしたスターリンは9月27日、平壌駐在のシェトコフ大使の作戦のミスを責めた。実はこのようなソ連軍事顧問団の作戦ミスを導き出すような指示を出したのはスターリン自身だった。スターリンは開戦直後、ただちに軍事顧問団の活動を制限する命令を出している。「ソ連軍の顧問団が前線に行ってはならない」などというものだ。これは北朝鮮軍の背後にソ連軍がいることを分からせないためだ。スターリンはソ連の関与が露見して米軍と直接対決するような状況は避けたかったのである。
中国側の資料によると国連軍の仁川上陸作戦について、事前に中国人民解放軍の参謀・雷英夫が予期していた。しかし、スターリンは中国側の注意喚起にはまったく敬意を払っていなかった。
1.米軍、韓国軍の第13師団が釜山三角州の狭い陣地に配置されているが、陣地を固守したまま、撤退も増援もしていない。戦略的に見れば、それは朝鮮人民軍の全主力部隊を引き付けるためである。
2.米国は日本に高い戦闘力を有する陸軍第1師団と第7師団を終結しているが、それを挑戦戦場に増援する気配はなく、戦闘訓練を行い続けている。これは新しい戦場を切り開くことの兆しだと考えられる。
3.地中海、太平洋に配備していた米・英の多数の艦船が朝鮮海峡(対馬海峡)に集結中である。これも上陸作戦を行い、戦争を拡大しようとする兆候である。
4.朝鮮半島は南北に長く、東西は一番狭いところでは100kmあまりしかない。元山、南浦、仁川、郡山港など上陸する地点も多い。そのなかで仁川に上陸することは敵にとって戦略価値が大きい。米軍が仁川上陸作戦を行えば、朝鮮人民軍の輸送と後退の道を切断し、人民軍を包囲することができるからだ。
5.マッカーサーと彼の第8軍は敵後方上陸作戦に慣れており、太平洋戦争中、対日戦で実績がある。また、上陸作戦は特にその海軍、空軍の優勢を発揮できる。たとえ、それに失敗したとしても大きな損害は受けない
6.人民軍が(釜山付近の)洛東江まで前進したのは勝利であるが、補給線が延長され兵力が分散し、特に後方ががら空になっている。それに対して敵軍は集中防禦で反撃する余裕が出てきており、戦場での主導権を握り始めている。
朱博士は「以上の6か条の根拠はあまりにも論理的にまとまっているため、かえってあとで若干補足されたのではないかという印象を与える」との率直な感想を述べている。
1948年時点で、スターリンは中国国民党の蒋介石と毛沢東を両天秤にかけていた。まだ、国共内戦の帰趨が決まっていなかったからだ。スターリンは米英と同盟関係にあった戦時中、蒋介石政権を支持しており、日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日に中ソ有効同盟条約を締結、内戦不介入を約束していたのである。戦後、中国共産党と中国国民党による国共内戦が激化すると、ソ連軍は勝機が見え始めた共産軍に対して、侵攻した満州で日本軍から奪った武器をたんまりと提供した。蒋介石への裏切りである。だがスターリンは、中国共産党が米軍の後押しを受けた国民党を打破し、最終的に中国革命を達成できるかどうかについては懐疑的で、毛沢東にはあくまで国共妥協による内戦解決を促し続けてきた。毛沢東の直接会見の再三の申し出を拒んできた裏にはこうした思惑があった。ところが共産党軍が揚子江を渡って国府軍を殲滅する可能性が高くなった1949年初頭までに状況は一変する。スターリンは、「中国を米国の支配下に引き入れない唯一の方策は、中国共産党の軍事的勝利のためにソ連がテコ入れすることだ」との戦略的判断から共産党軍への武器供与を急激に増大させた。このおかげで、毛沢東の中国共産党軍は1949年1月末までには全満州と北京、天津などを占拠、政権奪取と中国全土支配を射程圏内に収めるに至る。
できたばかりの「中華人民共和国」をソ連から認めてもらえば、経済援助も期待できない。建国したはいいが、経済的に破綻することは必至だったからである。毛沢東は中華人民共和国の建国を1950年1月1日にしようとしていた。これをスターリンに相談したところ、「できるだけ早く建国したほうがよい」との返事だったので、1949年10月1日を建国記念日に定めたのである。またその建国を承認する最初の電報は、当時スターリンと反目していたチトーが率いるユーゴスラビアだった。電報は建国当日の10月1日に到着していた。ソ連の電報は翌日の10月2日だった。しかし、毛沢東はユーゴスラビアの電報を無視して「中国の最初の承認国はソ連である」と発表したのである。

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