悪ってまた随分なタイトルだが、彼等の年を確認しておこう。
スターリン(1878-1953)
毛沢東(1893-1976)
金日成(1912-1994)
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1950年6月25日早朝午前4時。北朝鮮軍は甕津(オンチン)半島、開城(ケソン)方面、議政府(ウイチョンプ)方面、春川方面、江陵(カンルン)方面の5方面から一斉に進撃し、その30分後には東西250kmにおよぶ38度線全線を越えて侵攻を開始した。兵力約111,000人、火砲1610門、戦車130台、自走砲28台・・・。攻撃はほぼ完全な奇襲である。「敵は赤旗を振り、軍歌を歌い、自動小銃を乱射しながら攻撃してきた」 韓国軍の将校はこのように「敵軍」の攻撃の凄まじさを形容している。韓国軍の統帥権者である李承晩(イスンマン)大統領が朝鮮戦争の勃発を知ったのは北朝鮮軍の攻撃開始から6時間も経過した午前10時ごろであった。 「すでに開城は陥落し、戦車を先頭にした共産軍が春川近郊に到達しました。」 その後も韓国軍は北朝鮮軍に押され続け、27日には李大統領らはソウルから脱出。さらにその後も敗退を続け、9月15日の米軍主導による仁川上陸作戦まで防戦を強いられた。
中国では革命のための内戦もようやく終結して平和なムードが横溢しており、すでに540万人の軍隊を半数に削減することが決まっていたばかりだった。それだけに朝鮮半島で戦火があがったとはいえ、政治局会議では、どことはなしに厭戦気分が漂っていた。しかし、27日に米大統領トルーマンが朝鮮戦争に米軍が出兵することを決めたため、事態は急転することになる。さらにトルーマンは中国軍がこの機に乗じて、台湾侵攻作戦を決行するのではないかと警戒していた。このため、台湾海峡への米空母艦隊の派遣も併せて決定していた。中国指導部も「もう戦争は嫌だ」とのうのうとするわけにもいかない状況になっていた。
周恩来・外相はロシア大使のローシチンに対し「我々は中朝国境に9個師団を派遣し、米軍が38度線を渡った時には北朝鮮領内に入って、北朝鮮軍を支援する用意があります。ただ、その際には、貴国から空軍の援軍をお願いしたい。これについてスターリン同志の意見を伺いたい。」スターリンは中国側の決定を歓迎した。というのは台湾侵攻を見込んで毛沢東がスターリンに空軍支援を要請しており、すでに上海にソ連航空部隊が待機していたからだ。この時点で毛沢東ら中国指導部は朝鮮戦争への参戦に積極的だったといってよい。しかしこれからわずか3ヶ月も経たない9月下旬、スターリンが毛沢東に中国軍の援軍を要請すると、毛沢東は「米軍を挑発することになる」などして、支援に消極的な態度を取った。この時期には、米軍を主力とした国連軍が韓国の仁川に上陸して、北朝鮮優位の戦況が逆転し、米韓軍が大攻勢をかけていた。そのころ毛沢東は、戦況について連絡をよこさない金日成の態度に極めて強い不快感を抱く様になっていたのである。「中国軍の支援など不要」 毛沢東ら中国指導部が北朝鮮への支援を決めたものの、肝心の金日成は緒戦の勝ち戦に酔いしれていたのか、中国側の好意を跳ねつけていたのだ。戦いは当初韓国軍と米軍を中心とする国連軍を半島南端の釜山付近にまで追いつめ、北が朝鮮半島を統一するかのような勢いだった。ところがその後、国連軍の仁川上陸作戦が成功し、北は背後を突かれて、総崩れとなる。
「金日成」とは朝鮮半島が旧日本軍支配下にあった際、「白頭山の虎」と異名を取る伝説的な独立運動の将軍として、その名が広まっていた人物であった。その金日成は1937年6月、中朝国境の恵山郊外の日本の警察署を襲った後、、満州で死んだはずだった。ところがその8年後の1945年10月14日平壌のモランボン山麓の運動場で催された「朝鮮解放祝賀集会」で死んだはずの「金日成」がソ連軍軍事評議会(最高政治指導部)のメンバーから「朝鮮人民の英雄」として紹介され、壇上に登場、短い挨拶をしたのである。「あれは金日成じゃない。金日成があんなに若いはずがない」 会場の人々から、口々に疑念の声が噴出した。このとき、本物(死んだはず)の金日成将軍は45歳くらいだったが、この会場に現れた金日成は1912年生まれの33歳、身長も前者は170cm足らずだが、後者は176cmあった。両者は明らかに別人である。このとき現れた金日成は、1941年から45年までソ連・極東ハバロフスク郊外のビャツコエ村を中心に、朝鮮人と中国人の混成部隊であるソ連極東方面軍歩兵第88旅団の大尉として、日本との戦闘に備えた偵察活動に従事していた「金聖柱」(キムソンジュ)という男だったと今日では伝えられている。金聖柱は実際は「対日スパイ要員」であり、必要とあれば暗殺活動までしていたという。いわば「ソ連の手先」だった。だから若き金日成がソ連軍幹部にこびへつらうのも当然と言えば当然である。1946年7月、北朝鮮の臨時人民委員会の委員長になっていた金日成はモスクワに飛び、スターリンと会っている。このとき韓国で共産活動を行っていた朴憲永(パクホニヨン、戦争当時、副首相兼外相)が同行した。スターリンの狙いはこの2人のうちどちらか1人を将来の北朝鮮の最高指導者にしようと自ら品定めをすることだったのではないか。スターリンのお墨付きを得た金日成は1ヵ月後の1946年8月28日、朝鮮共産党と新民党が合併して発足した北朝鮮労働党の副委員長となり1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の建国に伴い、首相に就任する。このような順調な昇格も背後にスターリンの威光が存在したからであろう。

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