マイヤリンク事件はたちまち、世界中の注目を集める大スキャンダルとなった。自殺説も千差万別で、前途に希望を失った二人が自殺で禁じられた恋の清算を図ったのだというものから、マリーの妊娠を知ったルドルフが別れ話を持ち出したが、それがこじれてやむなく無理心中を選んだというものや、モルヒネを常用していた皇太子が幻覚症状に襲われ、つい拳銃の引き金を引いてしまったとする事故説まである。情死説を採用する中で最も有名な著書はクロード・アネの「うたかたの恋」だが、史実と異なる点も多く、著しくロマンチックな脚色がほどこされている。
ルドルフは当時の最強国であるドイツと宰相ビスマルクに根強い不信を抱いていた。オーストリア=ハンガリー帝国はドイツと同盟を結んでいたが、それはあくまで政治的な必要に迫られていたからである。しかし、父皇帝と違ってルドルフは、いずれはドイツから離れて、フランスやロシアとの同盟に切り換えたいという考えを持っていた。彼はビスマルクがいずれはオーストリアを併合しようとたくらんでいることを見抜いていたのだ。1878年、ルドルフがベルリンを訪れた時、ビスマルクは彼に、万一オーストリアがロシアと戦った場合、必ずドイツはオーストリアに味方するだろうと言明した。そして翌年、ドイツとオーストリアの間に秘密同盟条約が交わされた。だが1887年、ロシアがフランスに近づくのを恐れたビスマルクは、ロシアと二重保障条約を結んだ。締結当事者が他の国と戦いになったとき、もう一方の国は中立を守ることを約束するものだったが実はその他に秘密条項があった。それはロシアがトルコの属国であるブルガリアに進出したり、トルコの領海であるポスホラス海峡やダーダヌルス海峡に進出する政策にドイツが支援を与えるというもの、そしてオーストリアがロシアを攻撃した場合、ドイツは中立を守るという条項だった。これは明らかにオーストリアに対する裏切りである。
自殺説の一つとして、ルドルフが当時、遺伝と育った環境から来る、重い躁鬱病とモルヒネ中毒にかかっていたとする説がある。遺伝説としては、ルドルフがハプスブルク家とヴィテルスバッハ家の従兄妹同士の近親結婚から生まれていることである。ハプスブルク家とヴィテルスバッハ家の間は、何世紀にもわたって近親結婚が行われ、ルドルフの両親の結婚は両家間の22回目の結婚だった。さらにヴィテルスバッハ家は代々、その家系から変人や狂人が何人も生まれているのである。環境説としては、ルドルフの両親の夫婦関係が円満でなかったことである。ルドルフの母エリザベート皇后は姑であるゾフィー大公妃との嫁姑争いに疲れて家庭をかえりみず、生活の大半を国から国への長期旅行に費やしていた。父皇帝はそんな母の欠如を補うどころか、政務に忙殺され息子と共に過ごす時間はなかった。父とは公的行事やパレードや狩猟の時に会うだけだった。狩猟の結果が報告された時だけ、皇帝はルドルフに関心を示した。まだ9歳足らずのとき、ルドルフが初めて鹿を射止めると皇帝からイシュルに電報が送られてきた。「シュク!シュリョウ。シカヲイトメテオメデトウ。タイヘンウレシイ。」 狩猟で何を射止めたかが、これ以来父子の主な話題となった。
父としての愛を感じるけどな・・・この電報。それでも家庭不和と言われちゃうんですね。ハープスブルク家の長として、ヨーロッパ一国一妻構想(ECAW?イーカウと発音するのか?)に翻弄していた皇帝フランツ・ヨーゼフが、皇太子である愛する我が息子に限られた時間の中で送った、短いが父の愛にあふれた電報に思えてならない。
さて人間インブリード、ハプスブルグ家とヴィテルスバッハ家の交配を血統表にしてみました。
おぅ!なんと父系表示で表現するならば、マクシミリアン1世の3×3とカール・ルートヴィヒ・フォン・バーデンの4×4のクロスです。さらに言うなら母母母母のアマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの父である 母母母母父 ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)の5×5も入ってます。しかし、こんなまどろこしい書き方をしなくても、父母両系表示なら、3×3が2本も入っている12.5%同一血量×2本なので、25%がクロスしているので、うーむ・・・ちょっとこれは危険な配合ですね・・・。5代目まで調べたので、これ以外には、4×4以上に濃いインブリードは入ってなさそうですが、それ未満のインブリードももっと調べれば入っていることでしょう。
ハプスブルク家の皇太子に対して平民であるこの私が意見を申し上げるのは多少気がひけるのですが、ルドルフの写真はいささか、インブリードのバグっ子独特の線の細さ(書けないですがどこかの国の数代前もこんな感じ)が出てますよね。日本のルドルフこと三冠馬シンボリルドルフはFairway・Pharos4×5=9.38% Tourbillon5×5=6.25%程度の”薄い”インブリードですからね。あっ、関係無いですね。でもルドルフ皇太子が持つインブリードは、私の娘と私の妹の息子が交配してできた子供ということだから、考えるだけでも強烈なインブリードだ。かつてダビスタ3の時代によくやった外道配合、ノーアテンション×ノーアテンションw すなわち、私と私の娘で、私の1×2、血量75%のスーパー・インブリードは、ルドルフの顔写真を見る限り恐ろしくてできないっ! ってか気持ち的にもできないっ!(笑 恐ろしい想像をさらに懐疑的に発展させると、勇気を出して似てない娘とスーパー・インブリードに挑んだら、娘があっさり、「聞いてないの?私たちアウトブリードだよ。(私は母の子ではあるがお前の子供ではない!顔見れば分かるだろ!似てないだろ!)知らなかった?」なーんて洒落にならないことが発生する可能性もある。将来、投資一族のインブリードは、あっても4×4くらいまででとどめる家訓でも作ろうかな。
実はこの事件が、政治的暗殺だったという、ショッキングな新説がある。1983年3月11日、63年間の亡命からウィーンに帰国したオーストリア最後の皇后チタの衝撃的な声明が、ウィーンの新聞に発表された。「ルドルフ大公は自殺ではありません。実は暗殺されたのです。」 マイヤリンク事件から初めて、ハプスブルク家の一員が、公式に自殺説をくつがえしたのである。チタ皇后の声明は一躍世界にセンセーションをまきおこした。チタ皇后はマイヤリンク事件の3年後の1892年生まれ、フランツ・ヨーゼフの次代皇帝であるカールに嫁いだ。「1916年にフランツ・ヨーゼフを継いだカール皇帝は前帝からルドルフ暗殺の証拠を見せられ、彼の復権をはかるように依頼されていたのですが、戦争でそれどころではなくなってしまいました。今になって私がこんな発言をしたのは、亡き夫の遺言を果たすためなのです。」 こうしてチタ皇后は、これまでの心中説や自殺説はみな誤りだとして、次のようなルドルフ暗殺の根拠を挙げた。
第1に、事件の直後フランツ・ヨーゼフ皇帝が厳重なかん口令をしいたこと。ただの自殺でここまで慎重になるはずはないし、暗殺と知りつつ皇帝があくまで自殺説を貫いたのは、事件に政府要人がからんでおり、政治的波及を恐れたからである。マイヤリンク事件は反対派による、いわゆる不安定化計画の第一歩で、サラエボのオーストリア皇太子夫妻暗殺事件が第二歩だったのである。
第2に、ルドルフの葬式を行う許しを、皇族がローマ法王に電報で乞うた時、はじめ法王は拒否したのに、2回目に皇帝が2000語もの暗号電報で事情を詳しく説明すると、すぐ許可が下りたこと。教会法では自殺の場合、カトリックの葬式は許されないのである。
第3に、マイヤリンク近くの家具職人ヴォルフが事件の2日後に狩猟小屋に呼ばれ、室内の整理整頓を命じられた時、室内はあちこち家具がひっくりかえって激しく争った跡があり、壁に弾痕や血痕が残っていたと証言したこと。
第4に、柩に安置されたルドルフの遺骸を見た皇帝の義妹カール・ルートヴィヒ大公妃が、のちにチタ皇后に「軍服なら白手袋のはずなのに、黒い手袋をはめていて、何か綿が詰まっていました。ルドルフの手は破壊されていたようです。」と語り、エリザベート皇后の兄のド・ブルボン・パルム公も、「現場に駆けつけた当局の人が、ルドルフの右手が手首からサーベルで切り落とされていたと言っていた。」と述べたことである。
ルドルフは晩年に、ハンガリーの不満分子や帝国の一部軍人と結託した、いとこのヨハン・サルバドール大公の、クーデター計画に耳を貸していたという話もある。その仲間たちから、あまりに知りすぎた彼が、口封じのために殺されたとも、考えられないこともない。これらの説が本当なら、心中伝説をくつがえすショッキングな事実となるところなのだが・・・すべてはまだ推測の域を出ない。
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