1.エリザベート暗殺事件
1848年の3月革命で義兄である前皇帝フェルディナント1世が、子の無いまま退位を迫られた後、王位を継いだのはゾフィーの頼りない夫フランツ・カールではなく、理知と生気にあふれた18歳になるゾフィーの長男、フランツ・ヨーゼフだった。我が子の即位と共に、ゾフィーは皇帝の母后として宮廷の絶対権力者にのし上がった。実家のヴィテルスバッハ家の姪ヘレーネを妃に迎えるつもりでヘレーネの母である実妹ルドヴィカと話をつけていたのである。ところが当日になってフランツが当のヘレーネではなくて、彼女と一緒に来ていた16歳の妹、エリザベートのほうに引きつられていることに気付いた。二人ともそろって美人だが、その個性は正反対なまでに違っていた。しとやかでお行儀の良いヘレーネに比べて、お転婆で自由奔放でいつもいたずらっぽく笑いさざめいているエリザベート・・・。
そもそもヴィテルスバッハ家には変人が多かった。エリザベートの兄ルートヴィヒ(ルートヴィヒ2世とは別人)は、王家の一員としての権利を放棄して身分違いの恋に走った。次兄カール・テオドーアは兄の代わりに王位を継いだが、政治には関与せず、医学に専念して眼科医になった。エリザベート自身もそうした自由奔放な家風を受けついでいた。常識化のゾフィーには、それが理解できなかったのだろう。意外な成り行きにゾフィーは驚き、姪でありながらエリザベートに対して激しい憎悪を抱いた。すでに50歳に手が届こうとしていた彼女は、とっくに失った若さと美貌ではとてもかなわない姪に、年甲斐も無く嫉妬すら感じたのかも知れない。お転婆なエリザベートが、厳格なハプスブルク家の家風に合うはずは無いとゾフィーは反対したが、あくまで母に逆らって頑張り続ける息子に、とうとう根負けしてしまったのである。
世界中に、時代超えて存在する、嫁姑問題フラグが立ちましたよ・・・
欧州最古の歴史を誇るウィーン宮廷は、エリザベートが夢見ていたものとはかけ離れていた。16世紀スペインの重厚な儀典をそのまま受けついだ宮廷の儀礼は、厳格一点張り。朝起きてから夜床に入るまで、ことごとく行動が規定されていたのである。そしてこのハプスブルク帝国の中心がフランツの母ゾフィー大公妃である。エリザベートの苦悩をよそに、宮廷では日夜豪華な舞踏会が催され、彼女はその美貌でたちまち人々を魅了してしまった。澄んだ瞳、きめ細やかな肌とつややかな栗色の髪、すらりとした長身。そして何よりも全身に漂う汚れや虚飾を知らぬ凛として清冽さ・・・。それはどこの王妃にも王女にもなに彼女だけの魅力だった。だが、人々に注目されればされるほど、エリザベートの心は暗く沈んだ。義母ゾフィーの目はあくまで冷たい。一方、夫は何の疑問も感じないで、規律ずくめの無味乾燥な日々に甘んじている。毎朝4時に起床、5時から執務。正午にわずか30分の昼食をとり、5時まで公務を続け、それから長時間の謁見・・・。何の息抜きも無く、全てが細密な時間表にしたがって動くのだ。
翌年長女が生まれたが、早々に赤ん坊は彼女の手から取り上げられて、姑に手渡された。名前も姑が勝手にゾフィーと名づけ、エリザベートは自由に子供と会わせてもらえなかったのである。そして次の出産も女の子が続き、四つ木を埋めない嫁に姑の非難の目がつきささった。だがついに1858年8月21日王子が誕生した。しかしそう思ったのもつかの間、皇太子ルドルフは生まれ落ちるや否や、またも母の手から奪われて祖母に引き渡されてしまった。母に頭の上がらないフランツ・ヨーゼフも、皇太子の教育をゾフィーに一任することに同意した。こうしてルドルフは母親の愛情を知らずに育ち、エリザベートのほうも長い間息子に対して母親らしい感情を抱くことができなかった。マイヤリンクで謎の自殺を遂げるルドルフの悲劇はこのときから始まったといえよう。
夫にカタリナ・シュラットという愛人ができたときも、エリザベートは来るべき時が来たと、静かに受け入れただけだった。カタリナは夫より30歳も若い王室劇場のプリマドンナである。カタリナに嫉妬心を燃やすどころかエリザベートはむしろ二人の恋がやすかれと祈ったという。夫はよい人間だ、むしろその良き妻になれないほうがいけないのだと、自分を責めていただろう。しかし自由を求め、放浪を求めるこの心だけは自分でどうすることもできないのだった。
ここでエリザベートの放浪の生涯に深くかかわるもう一人の男性について述べておかねばならない。この男性こそはエリザベートと長く激しい愛情を交わしながら彼女が秘して他に語ることの無かった人物である。その名はバイエルン国王ルートヴィヒ2世。ともにヴィテルスバッハ家出身で曽祖父が同じ従姉弟同士だった。エリザベートはルートヴィヒ2世より8歳年上である。ごく幼い頃からルートヴィヒ2世は、居城ホーエンシュヴァンガウの城から、しばしばエリザベートの住むボッセンホーフェンの城を訪れた。そこにはルートヴィヒ2世の城にはない、家庭的な温かい雰囲気があったのである。
民とは違うのぅ・・・貴族は。家に住んでないらしいです。城に住んでるみたいです。
幼いルートヴィヒにとってエリザベートの結婚は、仲のよい姉のような彼女と、引き裂かれてしまうことに他ならなかった。残されたルートヴィヒ2世は1863年、19歳で即位すると、オペラ作曲家ワーグナーを居城近くに呼び寄せて寵愛して国内を驚かせた。が、国庫窮迫を憂慮した政府に、国家とワーグナーのどちらを選ぶかと迫られ、ついにワーグナーと袂を分かったのである。その後のルートヴィヒ2世の人生は、虚ろだった。恋に破れ、友情を失い、後は心の穴を埋めようとするかのように、美青年から美青年へと、禁じられた恋を求め続けた。一方、楽しい子供時代から牢獄のよう境遇に追われたエリザベートも、心の傷を癒すために放浪の旅に明け暮れていた。孤独な心と心が寄り添い、ひかれ合うのは当然の成り行きかもしれない。二人が密かに交わした書簡集「かもめと鷲の通信」で、かもめは当のエリザベート、そして鷲はルートヴィヒ2世を指している。又従姉弟同士の燃えるような恋心が、それらの文面にはあふれていた。
シュタルンベルクの湖沼地帯の中ほどにある離れ島に、瀟洒な離宮が建っていた。その周囲を数万のバラが彩っている。ここはルードヴィヒ2世が時折傷ついた心を癒しに訪れる、現実からの逃避場だった。満天の星を仰ぎながら、露台にたたずむルートヴィヒ2世のもとに水面を音無く滑って一隻の小船が近づく。静かに降り立つのはベールに顔を隠した一人の女性。月明かりの中に浮かぶ一羽の白鳥のようだが、これこそがエリザベートだった。湖から2キロのボッセンホーフェンにある故郷の城かあら、彼女は毎夜、人目を避けてこのバラの島に通い始めたのだ。しかし、エリザベートは人妻である。どんなに愛し合っても、長くは彼の腕に留まらず、また何かに追われるように旅に出てしまう。そこでルートヴィヒ2世はせめてもの慰めにと、エリザベートの妹ゾフィーに求婚する。彼女の中にエリザベートの面影を求めたのだ。ルートヴィヒの唐突な結婚宣言で重臣らがほっと安心したのもつかの間、どういうわけかルートヴィヒは、突然この結婚を破棄してしまうのである。
昔の女の面影を求めちゃ駄目。でも男って未練がましいからあるよね。無意識の選択は怖いわ。ある女が「メガネを貸せ」と言って私からメガネから取り上げて、私のメガネをかけた時、近視でぼやけていたのはあるが、あまりにも昔の女に酷似していて、絶句した記憶がある。昔の女の面影を求めていたというと失礼なので、好みの顔と思うことにしよう。好みの顔なのだから、多少、似ている傾向がある!といえば、万が一バレた場合でも相手も悪い気しないだろう。
1898年 エリザベート暗殺 ジュネーブ モン・ブラン埠頭
犯人の名はルイジ・ルケーニで年は25歳。イタリア人を母にパリで生まれ、父の顔を知らない。左官、工員などを経て、ある貴族の従者をつとめたという経歴の持ち主である。凶器はルケーニが逃げる途中で投げ捨てたらしく、アルプス街の門番によって発見された。手製で木の柄に10センチの長さの細身のやすりがついていた。予審判事シャルル・レシェ氏の訊問を受けるルケーニの答えは、悪びれるところもなく堂々としたものだった。
「9月5日にジュネーヴに来た。その前はローザンヌの中央郵便局の現場で働いていた。はじめはジュネーヴ滞在中のオレルアン公を狙ったが、公はヴァレー州に帰ってしまった。誰でもいいから高位高官の人を殺そうと誓ったんだ。貴族、王、大統領、誰だって同じだ・・・」
レシェ予審判事がルケーニにエリザベートの死亡を知らせると、ルケーニは緑色の瞳をきらりと輝かせてこう叫んだという。「アナーキー万歳!」
スイスには政治亡命者が多く、ルケーニの背後に秘密結社のようなものがある可能性もあった。が、結局、共謀の線は証明できず、一応ルケーニの単独反抗という結論になった。事件当時エリザベートの警護が手薄だったことについて国の内外で激しい議論が沸き起こった。しかし、身軽に旅することを好んだエリザベートは、厳重な身辺警護は受け入れられなかった。凶行の前日、ヴォー州警察署長ヴィリユは警備の警官を全部引き上げてしまったのである。また皇后滞在を新聞が公表したのは凶行の朝のことだった。ホテルからでも漏れたのか、心ない新聞報道が要因になったとも考えられる。
ルイジ・ルケーニはジュネーヴの法廷で裁判を受けた。ジュネーヴ共和国領土で死刑が廃止されたのに怒った彼は、スイス連邦大統領に死刑が存続しているルツェルン州で裁判を受けた。しかし結局ルケーニは彼の意に反して政治犯としてではなく、一般法の刑事犯で裁かれた。終身禁固を宣言されルケーニは1910年10月16日夜、独房で首を吊る。その脳は、ジュネーヴの法医学院に保存されている。
暗殺犯ルケーニは暴君を殺したつもりでいたが、皮肉にも彼が殺したのは、王座をただの重荷としか感じていなかった女性。虚飾や名誉になんの関心もない女性だったのだ。エリザベートは生前、こんなことを書いている。「笏も王冠も王妃のマントもどうでもいい、とるに足りないボロだ。色とりどりのくず布、馬鹿げた玩具・・・。そんなもので私たちの魂を装おうと、無駄な努力を重ねている。私たちは自分の命と心の内なる思いこそ大切にしなければならないのに・・・」
ポール・モランの著書『ハプスブルクの白い貴婦人』には「彼女は長所も短所もあわせて、まさに今日の女性である。それが入り口を間違えたかのように、1世紀前の19世紀に登場してしまったのだ。ルケーニは真のエリザベートを知らなかったのだ。当時の身分制度や陋習に満ちた宮廷社会を疎ましく思うという意味ではエリザベートのほうがはるかに革命的だった。
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